補聴器は早めがお得
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「聞こえにくい」がつづくと、脳機能が低下する
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雑音の中から「聴きたい音」を選ぶ機能
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見えにくくなると眼鏡をかけるのが当たり前の時代だけど、耳が遠くなっても補聴器を嫌がる人間が多い。「年寄り臭い」と敬遠されるらしいのだ。
どうしようもなくなってから補聴器を使って、「ガーガーとうるさいだけ」となり、結局は使わずに終わってしまうという話をよく聞いた。
20年ぐらい前にオリヴァー・サックス博士の「火星の人類学者」(→本のコーナーで紹介)に出会った。
白内障の手術で視力を回復した盲人の話、< 「見えて」いても「見えない」> を読んで、聴覚も視覚と同じく、使われないでいると廃用性萎縮を起こすのでは?という仮説を立てた。(→末尾で紹介)
「だから補聴器は早いほうがいいよ」と患者さんたちに話したけど、ほとんど無視(=聞き流し)されてきた。でも事は重大なのである。
大脳にはフォーカスの機能がある。知覚、痛覚、温冷覚など、感覚受容器が全身に張り巡らされて情報収集する。それらのすべてが神経線維を伝わって大脳に到達する。
大脳はそれらを解析し、最重要の情報を選び出すという働きがあるのだ。
同じように、聴覚細胞によって収集された音の中から、大脳が「聴きたい音」をクローズアップする。視覚も同じく、目で見えるものの中から「見たいもの」をクローズアップする。
身体のあちこちに痛みがあっても、一番痛いところがクローズアップされる。神経痛の激痛がお風呂に入っている間だけやわらぐのは、洪水のように押し寄せる「温」の情報のために、痛覚が無視されるからである。
そうやって大脳は情報処理をしているのだ。<→FAQ13&14「大脳の機能:コントロールの仕組み」
長い間「聞こえにくい」状態でいると、耳に入って来る音を識別する脳の聴覚野の能力が低下する。そうなってから補聴器を使うと、あらゆる音が同レベルで聞こえてしまう。つまり雑音だらけの騒音になるのだ。補聴器にはフォーカスの機能がないのである。
「聴きたい音」をフォーカスする能力を維持するためには、まだ聞こえているうちに、できるだけ早く補聴器を使ったほうがいいのである。 |
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「聞こえない」ことに気づかない!
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耳の遠い患者さんたちにそんな話をしつづけたのだけど、「まだまだ大丈夫」とか「値段が高い」とかで、補聴器を使う人はほとんど皆無だった。
今年になって補聴器を買った患者さんがいる。1対1での会話には何の支障もない程度なのだが、奥さんが「会話が通じない」と困っていたのである。
彼も会議のときに困るという。目の前の人になら集中できるけど、視野の外から聞こえてくる音を拾うのが難しいのだそうだ。
なかなか重い腰を上げなかった彼に転機が訪れた。娘さんが補聴器を片方プレゼントしてくれたのだそうだ。
「もう片方は自分で」と言われ、聴覚検査に行った。聞こえにくい音域に合わせて個別に調整する、両耳で30万円ぐらいする高性能な補聴器を買った。
脳機能の低下を心配して、治療に来るたびに「補聴器つけてます?」と聞くのだけど、「今日はつけていない」という答えがつづいた。
「歯磨きのあととか、朝ごはんの前とか、習慣づけたほうがいいですよ」と言ったら、「聞こえていないことに気づかないので、忘れてしまう」と言うのである。
「なるほど!」と合点がいった。
「見えない」と不便なので、眼鏡をかけるしかない。でも「聞こえない」音は「ない」と同じなので、聞こえていないことに本人が気づかないのだ。 |
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会話の機会が減る→孤独になる
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耳が遠くなっても、本人は聞こえが悪いことに気づかないので、さほど困らないらしい。
世の中には聞きたい話ばかりがあるわけじゃない。聞こえないほうが楽なこともあるから、静かな世界で平和に過ごせるのかもしれない。
困っているのはまわりの人間だ。
うっかり普通に話すと、何度も何度も聞き返される。大きな声を出しつづけるのは疲れる。話したはずなのに「聞いてない」と言われてしまう。
会話に苦労するので大事な話も面倒になって、だんだん蚊帳の外に置くようになる。ちょっとした雑談は人間関係を潤滑にするけど、それすら面倒になる。会話の機会が減るとトンチンカンになって、ますます話が通じにくくなる。
そしてついに本人が困り果てる。誰も話しかけてくれなくなって、無音の世界にひとりポツンと置かれることになってしまうのだ。
開業したての頃、チラシを見て来たおじいさんに、「まさか、あんたが治療するんじゃないよね。奥に本物の男の先生がいるんでしょ」と言われたことがある。
そのたぐいの扱いには慣れっこなので単なる笑い話だけど、彼はとんでもなく耳が遠かったのである。
大金持ちだったけど、「耳が遠くなったら、若い人たちが話してくれなくなって淋しい」と、孤独に悩んでいたのである。
彼の「孤独感」を目の当たりにして、調布病院でリハビリをしていたときのことを思い出した。
ある患者さんに、「もし再発するとしたら、歩けなくなるのと、喋れなくなるのと、どっちがいい?」と聞いたとき、彼は「歩けなくなっても車椅子がある。喋れなくなったら死んだほうがマシだ」と答えたのだった。
たしかに身体が不自由な患者さんより、言語障害のある患者さんのほうが不幸そうだった。喋ることは自己表現でもある。周囲の人たちと普通に会話ができなくなるのは、本人にとってさぞかし辛いのだろう。
脳を損傷したのならあきらめるしかないけど、「耳が遠い」だけなら、補聴器を使うだけで会話の機会が増えるのである。 |
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脳の機能局在;側頭葉の聴覚野
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友人のだんなさんの話である。自営業だったのだけど、だんだん仕事に支障をきたすようになった。彼が64歳のときに病院に連れて行き、「アルツハイマー型認知症」と診断されたそうだ。
そこからどんどん悪化して、半年後、別の病院で「前頭側頭型認知症」と診断された。彼は医師の説明を「あ、そうですか」「そうですか」とにこにこ笑いながらうなづいていたそうだ。営業マンなので愛想がいいのである。
家に帰って診断書を読んではじめて、「自分は認知症になったのか!」と驚き、さめざめと泣いたのだそうだ。
「聞いた」ときには理解できなくても、「読んだ」ときには理解ができたのである。
大脳の機能は局在している。分野に分かれ、それぞれが別の役割を担っているのだ。側頭葉にある聴覚野が聞こえてくる音を解析し、聞こえた言葉を記憶する働きをしているのだそうだ。
彼の耳は聞こえていたが、聴覚野の障害のために、耳から入る情報を理解できなくなったのである。
耳が遠くなると「聞こえない」ことに気づかない。文字を読めば理解できるから、「自分はまだまだ大丈夫」と思う。でも、もしかしたら耳が聞こえない状態が長くつづくと、聴覚野の機能低下を招くかもしれない。
「聞こえるようになっても理解できない」という状態になる前に、出来るだけ早く補聴器を使用したほうがいいのではないだろうか? |
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そして認知症との関連は? |
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「形あるものは必ず壊れる」ということわざ通り、脳も老化を免れない。あちこちがちょっとずつほころびていくのだ。
年を取るにつれて一度に一つのことしか注意を払えなくなる。同時進行で複数の事を考えることができなくなる。あることに集中すると、他のことがすっぽり抜けてしまう。頭が「飛び石連休」になるのだ。
四方八方にアンテナが張れずに「独りよがり」になる。情報量が減るため「思い込み」が激しくなる。当然、周囲の人への「気配り」ができなくなる。
これらの老化現象は「認知症」への初期症状なのだが、耳の遠い人も同じドツボにはまってしまう。
ずいぶん前から「だんなの認知症が進んでいる」とこぼしていた患者さんがいる。たしかに10年前に電話したとき、話がまったく通じなかった。彼の耳がものすごく遠かったせいもあるが、会話がトンチンカンだったのだ。
補聴器をすすめつづけていたんだけど、彼のお母さんも娘さんも耳が遠いので、「遺伝だからしょうがない」と放っておいたのである。
上述の患者さんが補聴器を買った話を聞いて、近所の専門店に彼を連れて行った。日本製で、やはり30万ぐらいする高性能なタイプだそうだ。
聴覚検査のあと、お試しで補聴器をつけた帰り道、自転車に乗って「風の音が聞こえる!」と驚いていたそうだ。
車の方向指示器のカチカチ音も聞こえるようになった。呼び出し音が聞こえずに役立たずだった携帯電話も使えるようになった。補聴器が電話と連動しているのだそうだ。
「でも私の話は聞こえないみたい」と言うが、言語解析能力が低下しているのか、面倒な話は聞きたくないという思いなのか、まだ定かではない。
「音」を聞き取る能力と、「言葉」を聞き取る能力は、別物なのだそうだ。 |
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危険と隣り合わせになる
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「聞こえない」と、ときには事故を誘発することもある。無意識のうちに人間は「耳」から多くの情報を得ている。「耳」で危険を感知できないと、事故に遭う確率が高まるのだ。
バイクで走っているときに、道路の真ん中にボーっと立っているお年寄りが見えることがある。遠目でもお年寄りと分かるので、『バイクの音が聞こえていないかも』と用心する。
スピードを落として近づくのだけど、実際にそばを通っても気づいている気配もないのだ。
お年寄りなら用心するけど、若い人たちと衝突しそうになったこともある。バイクに気づかず、いきなり方向転換をする。若いので動きも素早い。
あわててブレーキをかけて衝突を回避するのだけど、本人はそれすら気づいていない。通りすがりに耳を見ると、補聴器ならぬイヤホンを付けているのだ。
周囲の音から遮断された世界を選ぶのなら、せめて目視で安全確認をしてほしいものである。危険回避に思い至らないのだろうか? 事故に遭ったら当事者はもちろん、双方の家族や友人たちまでが大変な思いをする。
想像力が欠如しているのは認知症の予備群だろうか? 年寄りになる前に死んでしまうかもしれないね。 |
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「耳が遠い⇔話を聞かない」の関連は?
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FAQ21「ストレッチの効果は?」で紹介したHさんは70代後半からの来院だった。すでに耳は遠かったけど、四方八方にアンテナを張って、状況判断も気配りもできる人だった。
向かい合っての会話には何の問題もなかったけど、うつ伏せの治療中には話しかけても返事がなかった。
あるとき「補聴器を買った」という話をしてくれた。私がすすめたわけではない。
聴覚野の機能が維持されていたのだろう。集音程度の補聴器でうつ伏せのときも聞こえるようになった。
「聞きたい」気持ちがある人は、聞こえないことに不便を感じて、自分から補聴器を求めるのだ。
「耳が遠い」と「人の話を聞かない」には相関性がある気がする。
たいてい思い込みが強い。一方的に話す人もいるけど、聞いているふりをしながら聞き流す相槌上手な人もいる。「話」だけなら問題はないけど、勘違いから独善的な行動に出られて困ってしまったりする。
もしかしたら遺伝的に聴覚能力が低くて、「聞こえにくい」のが普通の状態なので、何の問題も感じずに生きてきたのかもしれない。
「会話」はコミュニケーションの手段というより、「音楽」を聞いているようなものなのだろうか?「心地よい」とか「不快」とか、内容よりも雰囲気を味わっているのかもしれない。
「聞かず」にいる間に、言葉を解析し会話を記憶する能力が低下して、「聞く力」がますます落ちていくのだろう。 |
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聴覚能力の維持、そして向上も可能かも? |
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私は会話でコミュニケーションを取り、積み重ねた会話の記憶で人を識別する人間である。
聴覚能力は高い。40歳までは話したこと、聞いたことのほとんどを記憶して、いつでも巻き戻して再生することができた。
年齢とともに記憶容量が低下しているので、重要でないことは忘れることにしている。(笑)
ついでに言えば、読んだ本の内容も覚えられる。このホームページは頭の中の図書館の本を開いて書いているのだ。
スポーツが得意な人は視覚能力が高い人が多い。絵を描く人は、見たものを葉っぱ一枚まで記憶して、キャンパスに描くことができる。生まれつき得意なことは楽しいので、得意なことはどんどん得意になっていく。
私の視覚能力は低い。「見る力」が低いのだ。人の顔を覚えられない。人のテニスも見れない。ネットの向こうの相手が見れず、ボールだけを追いかけて、反射神経でテニスをしている。
目で見たものは、見た瞬間に失われ、巻き戻しも再生もできない。「さっきのポイント」と言われても、すでに消去されていて思い出せない。
でも・・・苦手なことでも鍛えつづければ向上できるかもしれないと思った。
テニスをはじめた理由のひとつは「視覚能力の向上」で、プロのテニスを見はじめたのは「見る力」をつけるためでもあった。
努力の甲斐あって、ちょっとずつ「見れる」ようになっているのである。
「耳が遠い」の始まりは集音機能の低下である。「値段が高い」と敬遠するけど、初期の段階なら集音器程度で十分なのだ。
みんなが気軽に補聴器を使うようになれば、眼鏡と同じように値段が下がっていくはずである。
聴覚能力が低下すればするほど、高性能で高額な補聴器が必要になっていく。でも、認知症になってからかかる費用を考えれば、そうなる前に自分で自分に投資をするほうがお得なのではないだろうか?「費用対効果」である。
「聞こえる」ようになれば、今の「聞く力」を維持できる。もしかしたら向上していく可能性だってあるかもしれないのだ。 |
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補足:サックス博士の考察 |
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オリヴァー・サックス博士の<「見えて」いても「見えない」>では、盲人から晴眼者になった人々の混乱が詳細に綴られてある。その一部を紹介しよう。
白内障の手術のあとで視力を回復した男性の話である。
網膜も視神経も正常で、視覚検査では「見える」のに、見えているものが何なのかが分からない。「触る」ほうが理解できるのだ。
晴眼者の暮らしに適応するのは困難を極めた。家族に「盲人のような振る舞いは止めてほしい」と言われることもプレッシャーだった。
彼は混沌と混乱に追い込まれた。盲人だった時代にはYMCAで働き、完璧に自立した人間だった。
「見える」ようになったあと、普通に仕事をこなすことができなくなって、退職せざるを得なくなった。
ついに身体にも変調をきたして、本物の「障害者」になってしまった。
脳細胞はフレキシブルで、損傷した機能をカバーしようとするのである。
大脳皮質の2分の1が視覚情報の処理に関連している。盲人になると、脳細胞が改変されて、別の働きを担うようになる。
視覚は触覚に置き換えられ、指先で点字が読めるようになる。聴覚機能が向上し、ノートを取らずに記憶できるようになる。
晴眼者は目の前の光景を(奥行まで含めて)一瞬で認識できる。盲人は触って認識する。しばらく歩くとスイッチが現れ、しばらく歩くと階段が現れる。「空間認知」が「時間」に置き換えられるのではないか?という推測もしている。
・・・これを読んで、もしかしたら聴覚も視覚と同じような現象が起こるのではないだろうか?と思った。あまりに長い間「聞こえない」状態がつづくと、聴覚野の能力が衰退するのではないだろうか?という仮説を立てたのである。 |
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Updated: 2024/9/1 |