母のリハビリカルテ 18
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2016年11月22日~12月 |
中4日で再入院、マイコプラズマ型肺炎と判明
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3人目の医師がマイコプラズマの検査をした
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新潟で植物状態寸前になってから7年目の8月、母は一気に激瘦せして、しわくちゃのお婆ちゃんになった。どんどん食べられなくなっていき、どんどん具合が悪くなっていった。
11月3日に調布病院に「誤嚥性肺炎」で入院。延命治療を避けるために自宅で看取ることを決めた。
2週間後(17日)に退院して、いったんちょうふの里に戻れたのだけど、中4日で肺炎が再発した。 |
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あん摩とROM訓練 |
特記事項 |
いいニュース |
悪いニュース |
緊急入院 |
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  11月22日、朝、ちょうふの里から電話があった。母がゼロゼロしていてご飯も食べられない。血中の酸素濃度が低いので、呼吸困難になっている様子。調布病院に連れていくけど、酸素吸入が必要だろうからそのまま入院になるだろう、とのことだった。
つかの間の安泰は露と消え、不安に駆られて病院に急いだ。
診察室の中で、母はストレッチャーの上に寝かされたまま点滴を受けていた。前回と違って、母の表情はゾンビのようでなく、赤味がさして顔色もよく、健康そうだった。
今回の医師はまた別の人、3人目の医師がパソコンの画面を私に見せてくれ、肺の炎症のかたまりが、前回と同じ部位で、同じぐらいの大きさであると説明してくれた。
血液検査の結果は、なんと「マイコプラズマ型肺炎」だったと言うのである。
「え、ということは、誤嚥性肺炎じゃないんですね?」と驚き、「じゃあ、前回も誤嚥じゃなくて、マイコプラズマだった可能性がありますよね?」と聞いた。
医師はパソコンの中の前回の検査結果を開いた。検査の項目に「マイコプラズマ」はなかった。
「じゃあ、その前は?」とパソコンをのぞき込む私に、その前の検査結果、その前の検査結果と、次々に開いてくれたのだけど、医師の手はどんどんのろくなっていき、気が進まない様子はあきらかだった。
初回を含めて、5回分ぐらいを確認したのだけど、マイコプラズマの検査項目はなかった。つまり、2人の医師は、母を見て老人性の「誤嚥」と思い込み、他の可能性の検査をしていなかったのだ。
「誤嚥じゃなかったんだから、ご飯を食べられますよね?胃漏も中心静脈もやるつもりはありませんから、食べる能力がなくなったら飢え死にしてしまいます。食べさせてくださいね」と、たたみかけるようにお願いをした。
医師はなんとなく煮え切らない態度で、曖昧な応答だった。
待合室に戻って、ちょうふの里から付き添ってきてくれた看護師さんに話した。ホームでは風邪が流行っていて、みなさんがなかなか治らないでいるのだそうだ。そのうえ16人も入院中とのことだった。
「もしかしたら、全員マイコかもしれないね」と言うと、「ホームに報告します」と言って帰っていった。(結果、マイコは母だけだった)
病室で、母は酸素マスクとバルーン(尿道カテーテル)をつけられてすやすやと眠っていた。点滴されている腕をのぞき、ベッドに寝たままの母にあん摩とROM訓練をやった。母はほんとうにいい表情をしていた。
前回の入院のとき、母は自分が愛され必要とされていることを知り、延命治療なしで娘の家で死ねることを知った。安心感が母の心を元気にしたのである。
駆けつけてくれたあんずの話にも反応して、一生懸命に答えようとしたのだけど、酸素マスクのせいで、言葉がまったく聞き取れなかった。
弟に「母が再入院した」というメールを送ったのだけど、返信もなく、電話もかかって来なかった。(亡くなるときまで、これが最後のやり取りになった) |
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マイコプラズマ型肺炎とは
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この間、たまたまテレビのワイドショーで、「マイコプラズマ型肺炎が大流行中」という特集を見たばかりだった。
しつこい風邪のような症状で、咳や微熱、倦怠感がある。普通の肺炎では、空気の通り道である気管支や肺胞が侵害されるため、ゼロゼロした痰がからむような音が聞こえてくる。
「肺炎マイコプラズマ」という細菌は「間質」という組織で炎症を起こすので、はじめは聴診器でもゼロゼロ音が聞こえない。経過が長引くと、炎症が気管支や肺胞にも広がってゼロゼロ音が聞こえるようになる。
マイコプラズマには普通に使われる抗生物質が効かないのだが、効果のある抗生物質が存在する。
私にとっては馴染みの病気である。
うちの長男が小学生のときに罹ったことがあるのだ。そのとき山田真先生がおっしゃったことをよく覚えている。
「しつこい咳と微熱。風邪が長引いてなかなか治らない。こういうときにマイコプラズマ型肺炎を疑って、レントゲンを撮ってみると分かるんです。マイコプラズマには普通に使われる抗生物質が効かず、エリスロマイシンなどのマイナーな弱い抗生物質が効果があるんです。
たいていはマイコプラズマと気づかず、しつこい風邪に罹ったと思っているうちに自然に治るんです。なにかでレントゲンを撮ってみたときに、『ああ、昔、肺炎をやったことがありますね』ということになるんですよ」
と教えてくれた。山田先生のおかげで長男はあっさり治ってしまった。
2004年、なかなか風邪が治らずにしつこい咳に悩まされていた患者さんがいた。彼女に、「もしかしたらマイコプラズマかもしれないよ。お医者さんにそう言ってみれば?」とアドバイスをした。ついでに「鍼灸師に言われたことは内緒にしてね」と付け加えた。
彼女の話では、それを聞いた医師がびっくりして、分厚い本を調べはじめ、薬局に電話して薬があるかどうかを確認したりして、大騒ぎになったそうだ。
「薬を飲んだら、1日ぐらい、ものすごく気分が悪くてつらかったけど、翌日には熱が下がって、すっかり良くなったのよ」と報告してくれた。
アルバイトの女性に何人か同じ症状の人がいて、同じアドバイスをしてみなさんが治ったという手柄話もしてくれた。
昔はレントゲンで確認するしか診断できなかったけど、血液検査で判明するようになったのである。
「簡単な抗生物質で、簡単に治る病気」というイメージだったので、心底ホッとした。
最近は耐性菌が増えているそうだ。もしも母が感染したのが耐性菌だったら、合う薬を見つけるのが大変になるだろう。そう心配していたのだけど、ミノマイシンの投与の翌日にはゼロゼロ音が消えて、痰がからまなくなった。
2週間以上続いていたゼロゼロが、1日で消えたのである。
7月31日に母をスシローに連れて行った。日曜日の昼時なので待合室にも人があふれ、ものすごく混んでいた。子どももたくさんいて、マイコプラズマがうようよしている環境にいたのだ。ここで感染し、体調を崩して食べられなくなったのだろう。10日後に会った母は激痩せしていた。
マイコプラズマが肺胞に達して、ゼロゼロ音が聞こえてきたのは10月4日である。10月11日に微熱が出た。高熱を出して入院したのが11月3日である。
マイコプラズマ型肺炎の進行のパターンと一致する。しかも、対マイコの抗生物質ですぐに効果が出たのである。
たいていは子どもや若い人が罹る病気なのだそうだ。ホームの看護師さんが他の入所者の検査をしたところ、母以外は全員がマイコではなかったそうだ。
前述の患者さんは55歳だった。母は誰よりも若くて丈夫で頑健な身体を誇っていた。損傷したのは脳なのである。
私だって10歳以上若く見られたというのに、「お母さんは若い。まるでお母さんが娘さんで、娘さんがお母さんのようですね」と、母が70代目前で言われたほどだったのである。
うちの母はさすが、「若い!」とあんずとふたりで喝采した。
・・・とはいえ、自然に治るほど若くはなかった。。。
血液検査の結果、症状の推移、そして抗生物質の効果から、母が罹ったのがマイコプラズマ型肺炎だったことは明らかである。これが「科学」というものなのだ。
でも前回の主治医がそれを認めたがらず、厄介なことになった。 |
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「誤嚥性肺炎」と診断した主治医に変わっていた
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11月23日、昼食時に病院に行ってROM訓練をした。酸素マスクが取れていた。母はとても落ち着いてすやすやと眠っていた。食事はまたもやゼリー食だったけど、どちらにしても食べられそうな様子ではなかった。
もしも感染したのが耐性菌だったら楽観はできないのだが、ゼロゼロ音がなく、痰がからんでいる様子もなく、抗生物質が効いたようである。
夕方またのぞきに行ったのだけど、ゼロゼロ音は聞こえなかった。
24日、ポプラと一緒に病院へ。母がボーッとしていたので、歌いながらROMをやった。歌を聞いて、母の目がキラキラと輝いた。
夜、従妹のトモちゃんに電話して、再入院のこと、マイコプラズマだったことなどを伝えた。
25日、ROM訓練。母に「ご飯、食べられた?」ときいたら、「ご飯食べた」と小さな声で返事をしてくれた。
「明日はテニスクラブの親睦会なんだよ。試合をやって、夜もパーティがあってお酒を飲むの。自転車で行くから、ここには来ないよ。あんずに頼んでおいたからね。あんずが来てくれるよ~」と母に話したら、返事はしなかったけど、目でうなづいた。
26日、あんずが病院に行ってくれた。
27日、夕食は完食だった。ROMのあと、「なにか食べたいものある?」ときいたら、母が「アンパン」と答えた。
29日、母は目がうつろでボーッとしていて、口をきかなかった。歌いながらROMをした。
病院にいるとずっとベッドで寝かされているので、レベルダウンが心配だ。母の症状が落ち着いたので、看護師さんに「いつ退院できるんですか?」と聞いた。
「清水のほうからは、まだ何も言われていないので」との答えなので、「え、主治医は別の先生ですよね?」と言いながら、ベッドにぶら下げられている主治医の名札を指さした。
看護師さんは「えっ?」と驚いて、「ちょっと聞いてきます」と出て行った。
マイコプラズマの診断をした3人目の医師がやってきて、「すみません」と頭を下げ、「清水が、自分がやるからと言うので、主治医を交代したんです」と言った。
最初の主治医、清水先生は内科の部長である。病院内部でいろいろあるんだろうな・・・と複雑な気持ちになった。
30日、仕事の途中で主治医の清水先生から電話があった。
いきなり、「お母さんはあまり食べられないようなので、ホームに戻るのは無理だから、長期療養型の病院に転院してもらいます」からはじまった。
やれやれ、また最初からやり直しである。
「長期療養型には行きません。このまま自宅に連れて帰ります。このまま自宅、ではなく、いったんホームに戻してもらって、ホームで手に負えなくなったら自宅、というのが希望です」と、同じ話をくり返した。
主治医は母がマイコプラズマだったと、どうしても認めたくないらしく、「誤嚥も多少はありました」「前にもマイコの治療もちょっとしたけど、あまり効果がなかったようで」と言うのである。
私が「病院にいるとレベルダウンが心配だから、早く退院させてほしいんです」と言ったら、「お母さんはかなりレベルダウンしてますからね~」と言った。
どっか~ん、と頭に来た。
主治医は母のことを認知しているのだろうか?
母に話しかけて、母の状態を把握しているのだろうか?
似たようなお婆さんを10人並べて、その中から母を見つけられるのだろうか?
「自宅介護の予定」はカルテに記載されていないのだろうか?
そんな疑問が頭の中をぐるぐる駆け回った。
夜8時過ぎに病院へ。母はゼロゼロしていたけれど、あん摩とROM訓練をしているうちに、ゼロゼロが取れた。
目をつぶっていたので、会話はあきらめて歌いながらリハビリをした。 |
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調布病院の相談員に「誤診?」とつぶやいたら・・・
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12月1日、ROMのあと、夕食介助。半量ぐらい食べられた。
2日、ROMのあと、夕食を食べさせようとしたけど、あくびばかりしていて食べられなかった。
3日、朝、調布病院の相談員から電話があり、面談の予約をした。母にあん摩とROM。目を開けていたけど、ゆっくり話す時間がなかった。
4日、ROMのあと、夕食を全量と、モンブランを3分の2食べられた。
5日、朝、調布病院の相談員から電話で、面談がキャンセルになった。
6日、3時から調布病院の相談員と面談。前回、親身になって話を聞いてくれた人とはまるで別人だった。
怖い顔で、「ホームに戻るのは無理ですね」と強気である。パソコンの画面を私に見せながら、「ほら、あまり食べられていないでしょう」と言った。
また、同じ話のくり返しである。
「ホームにいるときから、この数カ月、食事を全量取れるのは、2日に1回か、3日に1回で、今もそれは変わっていないんですよ。だから、ホームで受け入れられない食事量ではないんです」と説明した。
相談員は「前回の入院から、えーっと3日でしたっけ。すぐに再入院になったということは、お母さまの状態が良くないという証拠ですよね。だからホームに戻っても、すぐにまた入院ということになりますよ」とあくまでも強気である。
私は「4日です。前回は誤嚥性肺炎の治療しかしなかったからなんですよ。だから、治っていなくて、4日で再入院になったんです。今回の入院時の検査で、先生がマイコプラズマを発見してくれたおかげで、再入院の翌日からは、ぜんぜんゼロゼロしなくなったんです」と言った。
つづけて、「8月に一気に痩せてからずっと調子が悪くて、身体が硬くなっていて、9月10月ぐらいには死相が出ていて、こっちも『年内かな・・・』と覚悟をしていたんです。でもマイコプラズマの治療をしたら、死相も消えて、おかげさまですっかり元気になったんですよ」と、私は半ば戦闘モードだった。
「つまり・・・前回は『誤診』?」と小さくつぶやいた。
相談員はびっくりして、「医学的なことは医師に聞かないと分からないので、主治医を呼んできますね」と、いったん出て行ったのだけど、すぐに戻ってきて、「清水は現場を離れられないそうです。今、研修生の指導をしているところなんですよ」と言った。
「ホームのほうで受け入れ可能かどうか、もう一度、ちょうふの里さんに話を聞きに行って、むこうの相談員の方に、私に連絡するように言ってください」と言われた。
病室に行って、うわの空で母のリハビリをした。ワナワナしながら仕事場に戻ったところで、主治医から電話があった。
「マイコプラズマは若い人がかかる病気だし、血液検査では擬陽性になることも多く、間違いが多いんです。痰の培養検査では、マイコプラズマは出ていなくて、肺炎球菌や大腸菌、緑膿菌なども検出されていますから、誤嚥はあります。今回の抗生物質、ミノマイシンは大腸菌にかなり有効なので、それが効いたのだと思いますよ」と、医学用語を並べ立てながら、私を丸め込もうとしている(?)と感じた。
昔英語の勉強をしていたとき、「1ページに3つ以上分からない単語があったら、辞書なしでは読めない」という話を聞いたことがある。
医学用語を並べ立てられたら、たいていの人は途中で頭がパンクしてしまうだろう。でも私にとって知らない単語はひとつもないので、簡単には騙されない。結核だって、痰を培養して、結核菌が発見されることはめったにないし、マイコプラズマが培養で見つかることもあまりないのである。
そもそも本当に培養検査をしたのだろうか?痰の培養に何週間もかかったという記憶がある。菌を育てるのに日にちがかかるからだ。
ミノマイシンは、マイコプラズマの治療で使われる抗生物質である。抗生物質を変えて効果があった、ということは、母がマイコプラズマに罹っていたという証明にもなる。
でも医師と議論してもしょうがない。へそを曲げられたら困る。私の目的は退院許可なのである。
主治医に、「いったんホームを出たら、もうなかなか入れないんですよ」と言い、「ちょうふの里では受け入れOKと言ってくださっているんです。入院が長引くとどんどんレベルダウンしていくので、早くホームに戻してください」としつこくお願いした、
とりあえず、退院許可が出そうなので、ちょうふの里に電話をした。母の担当のUさんが電話に出たので、面談の結果を報告した。
実家の世話をしてくれているHさんが笹団子を送ってくれたので、夜、お礼の電話をした。
7日、ROM。母は何かを言おうとしていたけど、声にならなかった。
8日、あんずと一緒に病院に行き、ROM。夕食をぜんぶ食べられた。 |
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退院したものの、ホームの職員さんはビビっていた |
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 9日、調布病院で会計をし、母を退院させた。ホームの看護師さんが母を送り届けてくれた。
夕方ちょうふの里に行った。久しぶりに坐位でのROMをしたら、グラグラしていた。1カ月もベッドに寝たきりだったので、坐位を保持する筋肉が落ちてしまったのだ。
母の背中に手を当てて軽く支えながら、ベッドの端っこにしばらくの間腰かけさせた。背もたれなしで坐位を維持するリハビリである。
車椅子にのせて、食堂へ連れて行った。
職員さんたちに今回の顛末を話した。「誤嚥性肺炎ではなく、マイコプラズマ型肺炎だった」と言ったのだけど、みなさん再入院にビビっていた。「誤嚥もあった」という主治医の話を真に受けてしまったのだ。
前回の退院のときはみなさんが大喜びで華やいでいたのに、今回は暗い表情をしていた。
「食事はミキサー食で様子を見る」と言われた。ご飯もお粥ではなく「糊」だった。妙な甘味があって、とても食べられた物ではない・・・と思った。
母がかわいそうだけど、もうどうしようもない。
10日、母に「ご飯、食べられた?」ときいたら、「食べられなかった」と答えた。坐位でのROMのとき、「まわる」と母。めまいがしていたらしく、ベッドに寝かせたあとも「まわる」と言う。
脳下垂体に憑りついたレビー小体はパーキンソン症状を起こすだけでなく、自律神経の働きにも悪影響を及ぼす。寝ている状態から立ち上がるときに起こる「立ちくらみ」は、重力に逆らって脳に血液も送る機能が低下するのが原因だ。
母は坐位への適応すら難しくなってしまったのだ。
母が目を開けていたので写真を撮った。安らかなかわいい笑顔だった。ヒロコ叔母に写真を送ってほしいと頼まれていたのである。
プライドの高い母は、ときどき鏡の中の自分を見て「こんなにお婆ちゃんになっちゃって」と嘆いていたので、写真を撮られるのはイヤだろうと思っていたのだ。
叔母に「痩せちゃったので、ものすごいお婆ちゃんだよ」と言ったら、「トシなんだから、お婆ちゃんでいいのよ。もうお見舞いに行けないから、せめて写真を見たいのよ」と言われたのだった。
11日、夜7時半にホームに行った。母はちょっとゼロゼロしていた。 |
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ちょうふの里で退所のタイミングについて面談
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12月13日、あんずとヨーコを駅で拾って、一緒にちょうふの里へ行った。相談員のSさんだけでなく、青樹に面接に来てくれたNさんも同席しての面談になった。
今後のこと、在宅介護のことなど、1時間半もの長い話し合いになった。2人とも、在宅介護は無理と思っているようだった。
「ご家族の方の『最後』と、こちらの思う『最後』と、どうやら認識の違いがあるようです」からはじまった。
ホームとしては、母に余力が残っている状態で退所させたい考えだそうである。そうなると、在宅介護の期間が長くなる。半年、1年、それ以上つづく場合もあるので、「本当に大丈夫ですか?」と心配そうだった。
お年寄りの余命を推定するのは不可能に近い。「危篤」と家族が呼ばれたあと、また持ち直し、また「危篤」になってまた持ち直し、それが何年もつづいたという話は私も見聞きしてきた。中にはお父さんが97歳で最初の「危篤」になったあと、亡くなったのが102歳だったという患者さんもいたのである。
退所が早すぎると在宅が長くなって、家族が潰れてしまう。遅すぎるとホームで亡くなってしまう。退所のタイミングが難しいのだそうだ。
私が、「いろんな人に話を聞いたんですが、寝たきりになるとオムツを替えるだけでいいから楽よ、とみなさんが言ってます」と言うと、「それは、ずっと在宅介護をしていた人の話で、そちらは初体験なんですから」と言われた。
「でも、延命治療はされたくないというのが母の願いですし、家族としても同じ気持ちなんです。胃漏や点滴をしないで自然に逝かせてあげるためには、家で看取るしかないんです。
「とにかく、母を連れて帰るためには、家の模様替えをしなくちゃなりません。不要な家具を捨てて、母の部屋を用意しないと。親戚がうちにお見舞いに来るようになるので、家をきれいにしなくちゃならない。そのほうが私にとっては苦痛です」と言った。
2人で顔を見合わせて、「介護より模様替えが大変だなんて、介護の過酷さを知らなすぎる」とあきれられた。
「1・2カ月で準備を終わらせるつもりですので、それまでの間、母をよろしくお願いします」と言うと、「お母さんは今のところ落ち着いていますから、大丈夫と思いますよ」とのことだった。
自宅の近所の地域包括センターを教えてもらい、相談に行くように言われて、面談を終了した。
ROMのあと母に柿を食べさせた。あんずとヨーコが食事介助に残ってくれ、私は仕事に戻った。 |
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自分がぎっくり腰になった
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12月18日、母は柿とケーキを5口しか食べずに寝ていた。母の身体が硬くなっていたことに驚いた。入院中は毎日あん摩とROMをやっていたので、どんどん柔らかくなっていったのである。
坐位を保持する訓練も必要だし、リハビリの回数を増やさなくちゃと思った。
19日、従兄(父方の本家の三男)の未亡人がお見舞いに来てくれた。ROMをしながら話をした。母は目を開けていて、とても嬉しそうだった。
母を車椅子にのせて一緒に食堂に行った。
糊のようなご飯と、ミキサーの食事を味見した彼女は、「これじゃあ、おばさんがかわいそう過ぎる。料理が上手で、美味しいものを食べてきたんだもの。どう見ても、放っとかれてる感じだし。大変だろうけど、早く家に連れて帰ってあげてね」と小声でささやいた。
彼女はもと美容師で、そのときはヘルパーの資格を取って介護の仕事をしていた。「在宅になったら手伝いに来てくれる?」ときいたら、「はい、ぜひ」と返事をしてくれた。
22日、モンブランを持って行ったのだけど、母は一口食べただけで眠ってしまった。ちょうどやって来た職員さんに言ったら、その日はクリスマス会で、母はケーキをまるまる1個食べたのだそうだ。
25日、パンを買ってホームに行った。中2日空けたけど、ROMのとき身体が柔らかいと感じた。母はボーッとしていて、アンパンを3口しか食べられなかった。夕食のときも眠りこけていて食べられなかった。
26日、私がぎっくり腰になったので、母のリハビリは簡単にすませた。お正月の準備もしなくちゃならない。母が普通の料理を「食べられるのかどうか?」を確かめなくてはならないのである。 |
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入院で得たものもあった
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入院すると、お年寄りはどうしてもレベルダウンしてしまう。ROM訓練で可動域は維持できたけど、坐位に対応する自律神経の働きが悪くなり、坐位を保持する筋肉も低下した。
でも母のメンタルには素晴らしくプラスの効果をもたらした。医師と私のやり取りを見聞きして、自分が守られているという安心感。延命治療なしで、娘の家で死ねるという安心感。それが母に「希望」をもたらした。
11月13日、前回の入院のとき、苦しんでいた母に「まだ死なないでね。もうちょっとがんばってね」と言ったことで、母はまだ自分が愛され必要とされていることを知った。「愛」が母の心を元気にした。
私自身にも得るものがあった。毎日病院に通って母と話したことで、母の頭がまったくボケていなかったことを知ったのである。
家族の状況もしっかり把握していた。お見舞いに来てくれた親戚のこともすべて覚えていて、口数は少ないながらも感謝の気持ちを伝えることもできた。
会話が通じ、心が通い合った。母がどんなふうな死に方を望んでいるか、お互いの思いが一致していることも分かった。
最後の最後、やっと母娘らしい関係を取り戻せたのである。 |
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19ページ目へつづく |
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Updated: 2024/1/31 |
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