doseiみづ鍼灸室 by 未津良子(リョーコのブログ) 
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リョーコの手作りブログへようこそ!
4/8(金) 原発をめぐって、あれこれ・・・
昨日の夜中の地震、またまたひどかったね。被災者の人は度重なる災難で、本当にお気の毒だ。

私はとりあえず、原発と六ヶ所村の停電が一番心配だった。今回もなんとか、電源喪失は免れたらしい。

私たちは、たぶん、被爆する。福島原発は、うまく行っても、あと数年間は放射能を撒き散らしつづけるのだもの。
やっぱり、原発は、いますぐ全部止めなくてはならない。どんなに貧乏になろうと、どんなに不自由になろうと。今の時代で終わりにしなくてはならない。

地球上の生物を根絶やしにする放射能。
ある意味、宇宙人の来襲のようなものだ。地球生命とは異なるシステムに基づいて「行動」し、DNAを書き替え、個体としてだけではなく、命のつながりも、やがてはすべて破壊される。

車のメカニックの患者さんのところに、やくざがベンツの修理に来たそうだ。「急いで、直してくれよ。明日も福島に行かなくちゃならないから」と言ったんだって。
えっ、ヤクザがボランティア???
話は逆で、そこで荒稼ぎをしているとのこと。

退避命令が出て、取るものもとりあえず住民が逃げだし、ゴーストタウンになったところに、悪い奴らが押し寄せて、「なんだって、盗み放題」なのだそうだ。
日本人はみないい人と外国で報道されているらしいが、カメラが映していないだけのことだったらしい。

原発事故で、ずっとうつ状態だった。仕事がヒマだったので、この機会に症例集の更新を、と思っても、何もやる気になれなかった。不安に駆られているので、集中力に欠けてしまう。
テニスをやることにも、熱心になれなくなってしまった。

でも、柏崎の友達に電話をして、元気をもらった。

彼女のだんなさんは東電で働いている。彼女も家族も原発反対派だったけど、東電の社員と恋に落ち、結婚した。
原発のすぐそばに住み、原発の中で働くだんなと暮らし、恐怖と隣り合わせに生きてきた。2度の地震もあった。
とっくの昔に、すでに「覚悟」を決め、地元でふんばって生きてきた。前向きで明るい彼女と話して、私も元気が出た。

「おたくのだんなも、福島に行くんじゃないの?」と聞いたら、「来週、1週間、福島に行くよ~。人海戦術で、みんな駆りだされるんだって」と言う。
昔、社宅で一緒だった人のだんなさんは、hukushima 50 のひとりだそうだ。

「福島の人たちがインタビューで、『原発は安全だと信じていたのに』と言うのを聞いて驚いた。人間がやっていることなんだから、完全なんてありえないのに、なんで信じちゃったんだろう?」、と笑いながら言う。

福島原発を作ったときの東電の社長が、「そして今日、私は、悪魔と手を結んだ」と、スピーチの最後に言ったらしい。
東京電力だって、自らすすんで原発を作りたかったわけじゃない。仕事をする自分たちが、一番被爆の危険があるんだもの。国の政策に逆らえなかったのだ。

日本人は、みんなと違う意見を言う人を恐れ、排除しようとする性癖がある。それに、人は誰でも、「安全だと信じたい」気持ちがある。

みんながみんな、原発推進の圧力に押されていった。
RCサクセションのレコードが、反原発を唄っていたからと発売禁止になった。区の消費者展で反原発の展示をやると言ったら、「絶対出させない」と圧力がかかった。反原発を訴える人の電話は盗聴されていた。

かつての戦争と似てるよね。言論の自由がなくなり、マスコミも操作され、反対意見が封じ込まれた。
今は、「自粛」で、「欲しがりません、勝つまでは」の時代にますます似てきた。アメリカ人は、ダンスパーティやりながら戦争したけど、日本では、楽しいことはすべて「非国民」と言われた。

だから、みんなも日常生活を取り戻そうよ。楽しいことをたくさんやって、好きなようにしゃべって、大笑いして、そんでやるべきことをこなしていこうよ。
絶体絶命のその瞬間まで、前向きに生きていこうよ!
3/30(火) 広瀬隆さんの原発の話
ちの患者さんから、広瀬隆の講演会に行ってきた話をきいた。

広瀬隆は、反原発を訴える人たちの中で、一番好きだった人だ。25年ぐらい前の講演会で彼を見た時、「こいつも精悍な男だな」と思った。
(ちなみに、もうひとり、「はじめて精悍な男を見た」と思った相手は、医師の山田真さんである)

まだまだ元気でがんばっているのを知り、とても嬉しかった。
≪どうしてるのかな?≫と時々思い出していたんだけど、その世界から遠ざかっていたからね。

広瀬さんによると・・・(youtubeへのリンク
火力と水力で電気は充分に足りている。計画停電の必要は全くない。
『原発がないと、こんなに困るんだ』というアピールのために、不安をあおっているとしか考えられない。
福島の原発は、5mの津波を想定して作られていた。「想定外の津波」と言い訳しているが、1896年(明治29年)6月15日、明治三陸地震津波では、38.2mの大津波が起こっている。たったの100年前のことである。
東電は原発を作ったのではなく、使っているだけ。故障をしたら、メーカーでなければ修理ができない。
福島第一原発の1号機と2号機は、日本にまだ技術がなかった時代に、アメリカのGE(ジェネラル・エレクトリック)のものを、東芝が設計図を見て組み立てたものだ。つまり、アメリカのものを、そっくりそのまま日本に設置したもの。(電圧も400V、1600Vと、アメリカ仕様のままだから、日本の電源が使えず、電源を引くのに苦労した、という・・・)
GEが修理に来るというのを、日本政府が断ったらしい。
テレビに出ているのは、原発推進派の御用学者ばかり。特に、NHKがひどい。住民の被爆を推し進めるようなことを平気で言っている。100キロ圏内の人間をいそいで避難させるべきだ。
テレビで言っている事はすべてウソと思っていたほうがいい。
原発を止めても、核燃料は半永久的に崩壊熱を出しつづける。
発電に使えるだけの熱量を出さなくなったものは、使用済み核燃料となる。今回、プールに入っているものがそれで、ずっと冷やしつづけなければならない危険なモノであることが、みなさんにも分かったと思う。
技術者や自衛官を修理に当たらせるために、放射線の基準を、一時的に上げた。それはなんと、通常の許容量の200万倍という、とてつもない数値である。被爆は確実だ。
水素爆発を起こすことは、私でも予測できた。スリーマイル島ではあらかじめ予測して、爆発を防いだ。日本はみすみす爆発させてしまった。建屋が壊れ、燃料棒が破壊された。
今、立ち昇っているのは、水蒸気ではなく、放射性物質の混じった煙である。
青森県六ヶ所村に、3000トンの使用済み核燃料が集められて、プールに入れられている。核物質は、集めれば集めるほど危険性が高くなる。
もしも、地震や津波で電源がだめになったら、日本どころか、地球が終わるだろう。
なぜ、国が原発を作りたかったのかというと、それは核兵器を持ちたいからである。そのために、ものすごい勢いで原発を推進したのである。
今回の福島原発が、うまく収束したとしても、日本にある54基の原発を、今すぐ止めないといけない。この先も、大地震はかならず来る。
広瀬さんの言うように、原発をすべて止めるべきと、私も思う。
それは可能なのだろうか?
昔、必死で反原発運動をやって、奇人、変人、あるいは宗教、共産党と、危険人物のように扱われ、すっかり疲れ果ててしまった私である。
人々は聞く耳持たず、お上の圧力はそうとうなものだった。

今すぐ原発を止めても、半永久的に、使用済み核燃料のプールを冷やしつづけなければならない。放射能汚染されないように、半永久的に監視しつづけなければならない。
それは、私たちの子孫に押し付けられた、とてつもない課題である。

100年後、500年後、2000年後の人類は、原発の恩恵も受けず、なんで放射能があるのかも知らないまま、後始末を引き受ける羽目になっている。
恥ずべき負の遺産を残したものである。
3/27(日) ・・・& スペイン旅行記⑨ 王の広場
なんだか、平常心を失っていて、うつになりそうだ。
地震の後遺症で、いつも揺れているような感覚がある。無意識のうちに、小さな物音にも気を配っていて、『もしや地震?』とまわりを確かめている自分。
常に神経が緊張しているようで、ものすごく疲れる。

その上、原発事故の恐怖がある。昔、原発のことはそうとう勉強したから、ある意味、普通の人よりも怖さを知っている。
じたばたしてもしょうがない。逃げようがないし、防ぎようもないのだ。
『いっそ、スペインに逃げようか』などと思ってもみたが、もう充分生きた私。家族や友人を残して、自分だけ逃げても何の意味もない。

去年、マジョルカ島に行っといてよかった~。もう行けなくなってしまうかもしれないのだもの。
というところで、書きかけのスペイン旅行記のつづき。
(平常心、平常心、とつぶやく)

私にとってはいつものことだが、はじめて貧乏旅行につきあった先輩は、途中でパニック状態になった。
バルセロナの空港から、バスでカタルニア広場へ。そこから地下鉄でホテルに向かったのだが、途中、2回も乗換えがあった。
エレベーターもエスカレーターもなく、大荷物を持っての階段の昇り降り。小さいトランクの私と違って、先輩のトランクは巨大で重い。

「手伝ってあげるから、待ってて」と声をかけたのだが、ふと見ると、重いトランクを1段1段持ち上げて昇ってくる。か細い私に迷惑をかけまいと必死だったらしい。
外人の男性は親切。トランクを運んでくれた人が2人もいたよ。

ホテルについて、ぐったりしている先輩に、「とりあえず、出かけて、ビール飲もうよ」と、ふたりで出かけた。
ビールは美味しかったけど、料理はメチャまずい。そのまま、地下鉄で、モンジュイックの丘に行った。

前回は工事中で乗れなかったのだが、新しくなったゴンドラに乗ることができた。
4人乗りののゴンドラを見て、つい日本人的発想で、オランダ人の夫婦と相乗りをした。1台1グループでよかったのにね。
彼らは、週末の休暇を利用して、飛行機で遊びに来たんだって。しどろもどろの英語でおしゃべり。

ゴンドラとモンジュイックの丘からは、バルセロナ全体が見渡せる。すばらしい景色を見て元気になってもらおうと連れて行ったのだ。

「あそこがサグラダ・ファミリア教会だよ」などと説明しながら、「写真を撮ったら?」と言うと、「カメラ持ってきてないわよ」と先輩。
軽く食事をして、あとはホテルで休もうと思っていたらしい。まさか、こんなに遠出するなんて、「あなた、言わなかったじゃな~い」だって。(^-^;

だから、この日の写真は1枚もない。残念。私はデジカメを持っていないので、先輩が唯一の写真係なのである。

そのあと、また地下鉄で、ランブラス通りへ行った。原宿みたいなところで、ものすごい人ごみ。
少しばかり買い物をし、カテドラルをざっと見た。コロンブスの塔へも行ったが、時間が遅くてもう入れなかった。
ついでに王の広場を探したが、聞いた人、聞いた人が、みな間違ったことを言うので、どうしても行き着けなかった。
これらの写真は翌日のもの。次の日、別の場所に行く途中、いきなり目の前に現れたのである。
いつものことながら、何気にひょいと行けてしまう、不思議な場所なのである。

王の広場(Plaça del Rei)は、コロンブスがスペイン女王イサベルに謁見した場所だそうだ。
あまりのちっぽけさに、ちょっと驚くが、すいているので、ひと休みにちょうどいいよ。
夜、ランブラス通りを中心にあちこち歩きまわって、2軒もはしごをしたが、どの店も美味しくなかった。
バルセロナも変ってしまった。白人の観光客だらけで、どこもものすごい人、人、人だ。都会になってしまうと、食べ物がまずくなるらしい。ひょいと入った店で美味しいものを期待するのは無理だということに気がついた。

次からは、あらかじめガイドブックを調べて、地下鉄を使ってでも、地図を見ながらお店に直行しようね、と話し合った。
3/16(水) 放射線と放射能(放射性物質)の違い
福島原発のトラブルは、ほんとうに恐ろしい。
テレビで、専門家が、放射能と放射線をすりかえて説明しているのを聞いて、そうとうヤバイなと思った。イライラするなあ。

昔、反原発運動をしていた頃、いろいろ勉強した。30年以上前から警告されていたことが、実際に起こったわけだ。
反原発の学者は、本当に頭がいい人たちだ。自分ができる人は、無知な人間に教えるのが苦手なのかもしれない。一生懸命に勉強しても、どうしてもピタリと理解できなかった。
でも、あるとき推進派の本を読んで、とても分かりやすいのに驚いた。
(つまり、四則の計算を理解できないで、因数分解や不等式を習っていたようなものだったらしい)

みなさん、放射線と放射能(放射性物質)の違いを知ってる?
レントゲンで○○ミリ、飛行機で○○ミリ、といっても、それはすべて放射線の数値である。
でも、原発事故で放出されるのは、放射性物質だ。

放射線は、放射性物質が出す「光」のようなものだ。つまり、どのぐらい「光」を浴びたかという問題と、「光源」の問題を、一緒くたにして、数字のトリックで目くらましをしているのだ。

放射線が懐中電灯の光だとすると、レントゲンは、一瞬光を浴びること。
放射性物質は、懐中電灯そのものだ。何年、何百年にわたって、えんえんと放射線を出しつづける懐中電灯を、大量に放出しているようなものなのだ。

放射性物質が人体に入れば、体内でずっと放射線を出しつづける。それを内部被爆と言う。
魚や植物が被爆すれば、それを食べる人間もまた被爆する。

原発は停止できない。それが今回はっきりと立証されたわけだ。いきなり止めることはできないし、たとえ今、原発を廃止しても、放射性廃棄物の処理に、この先何百年もかかる。

原発は(まだ)爆発はしていないけど、圧力を下げるために、放射能を大気中や海中に放出しているのかもしれない・・・?という気もする。

自分なりに、けっこう熱心に反原発運動をやったが、世の中の動きは止められないとあきらめてから、もう20年以上がたつかなあ。
ここから逃げ出しても、生活できるかどうかはわからないし、狭い日本に、そこら中に原発が建っているし。
やれるだけはやったから、しょうがない。ヴェルと一緒に死ぬのもいいかもなあ・・・、などと考えながら、今日は仕事に来た。

調布市の計画停電の間も、治療室は大丈夫だった。線路に近いところは停電しないらしい、という情報もあったけど・・・。
もし、停電になったら、その間は仕事ができないね~。ろうそく立てて、おしゃべりするのもいいかもね。
3/12(土) 地震の報告
昨日の地震は、ほんとうに怖かったね~~

私は、ちょうど患者さんをひとり、うつ伏せで治療中だった。「あ、地震!とりあえず、鍼を抜かなきゃ!」と駆けつける途中、ガタン!と音が。壁に立てかけてあった鏡が、ヴェルの坐っている椅子に倒れていった。
「こっちが先だ!」と見に行ったら、幸い、ガラスは割れておらず、ヴェルは無事。

患者のYさんは、きわめて冷静で、「その前に、まず、ガスを止めないと」と落ち着いている。
ガスストーブを止め、パソコンのテレビをつけ、玄関のドアにスポンジをはさんで、ドアを少し開けたままにした。脱出口の確保だ。

鍼を抜くためにベッドに近づいていったけど、ぐらぐら揺れて、歩きにくい。鍼を抜く間も、ぐらぐら揺れるので、仕事に難航をきたす。
そっか、地震のときって、こんなふうに、あらゆる動作が困難になるのか・・・
「余震がほんとうに怖かったよ~」という、柏崎で地震にあった友人の言葉を、あらためて思い出した。

とりあえず、揺れがおさまったので、仕上げの治療をした。
ふたりでコーヒーを飲みながらテレビを見たのだが、想像を絶する津波の映像を見て、心底驚いた。
治療室の外には、人がゾロゾロ歩いている。歩いて帰宅する人たちだ。

Yさんは、蒲田から来ている人。治療室に泊まってもいいし、道路がすいたら車で送っていってあげるからと説得をしたのだが、飴を3個持って、「歩いて行くから」と帰ってしまった。
5年前の彼なら無理だっただろうけど、今はかなり元気で、歩くのも早くなった。しかも治療のすぐあとなので、なおさら調子がいいのだと思う。
調布から蒲田まで、6時間かかって無事に歩いてたどり着いたんだって!ほっ。

患者さんがすべてキャンセルになったので、この機会にと、たまっている事務仕事を始めた。帰りはバイクなので何とでもなる。

でも、娘から何度も何度も、留守番着信通知が届いたので、呑気な私もさすがに心配になった。自宅が無事かどうかを早く確認した方がいいのかも。もしかしたら、電話は安否の確認ではなく、SOSかもしれない・・・。

仕事を切り上げ、帰宅。道路はメチャ渋滞しているので、すべて裏道を通った。家に帰ってみると、あんずとヨッティが待機していた。

結局、うちが避難所状態になって、ヨッティの妹もやってきた。あんずの彼氏も、渋谷から歩いてやってきた。
家族、親戚の安否を確認しながら、みんなで飲んだり食ったり。テレビをつけっぱなしで、「怖いね~」とわいわいおしゃべりして、だいぶ気がまぎれた。

これから、なんかあったら、ここを避難所にしようとみんなが期待をしている。そのつもりで準備をしておく必要があるんだなあ。
今までにも、人生の変わり目が数多くあったけど、これもそのひとつかもしれない。人と人のつながりの拠点になる役目が回ってきたらしい。

被害にあわれた方々には本当にお気の毒です。ご無事をお祈りしています。原発の事故もあるし、まだまだ終わったわけではないけれど・・・
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