dosei みづ鍼灸室 by 未津良子(リハビリカルテ)
母のリハビリカルテ・2
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母のリハビリカルテ 2 
2010年9月
1ヶ月後、混沌の中ときどき自分を取り戻す
目次
ROM訓練
レビー小体型認知症
介護のプロがアドバイザー
9月1日はサクラさんが私の鍼灸治療に来てくれた。10年以上ほぼ隔週でという長い付き合いで、彼女の本業は特養(特別養護老人ホーム)でのリハビリなのである。
彼女は「尿意があるのにオムツなんてもったいない!トイレに連れて行くべきよ!」と言い、「ストレッチャーは手抜きよ!」と怒っていた。松浜病院ではもう取り組んでくれていたのだけど、サクラさんは熱血漢なのである。
認知症の患者さんひとりひとりとコミュニケーションを取り、家族の人たちともとことん話し合って、鉄道の好きな人には鉄道の絵、花が好きな人には花の絵と、塗り絵ひとつにも一生懸命だった。認知症の患者さんたちに楽器を弾かせていたら、いつの間にかみなさんが楽譜を読めるようになっていた、というエピソードも聞いたことがある。

サクラさんは「歩くのはあとからでも大丈夫。リハビリすればいくらでも歩けるようになるのよ。でも認知症がすすんでしまったら、もう取り返しがつかないの。ほんとにあっという間で、1ヶ月もたたないうちに手遅れになってしまうのよ!」と危機感をみなぎらせていた。
しょっちゅう声かけをして、とにかく放っておかないこと、日記を書かせるのが効果的とか、いろんなことを教えてくれた。

実は「新潟通い」はサクラさんがお手本なのだ。
彼女のお父さんが80代のときに、駐車場で転んで頭を打って脳挫傷を起こしたことがあった。そのまま意識が戻らないので、医師に「回復の見込みはない」と胃漏をすすめられたそうだ。お母さんが「お父さんは打ち出の小槌」と言ったことがあるそうだが、年金額が多いので、「胃漏にして長生きしてもらえば家族が助かるのに」と言った親戚もいたそうだ。もちろん誰にも悪意はない。

彼女は「眠っているようでも父はなんでもわかっている。胃漏なんてとんでもない!」と、口腔リハビリのある病院に転院させた。毎週、週末に高崎の病院に通ったのである。
リハの女の子に「どうしても食べさせることができません」と言われたそうだ。若くて未経験だから仕方がない。マニュアルに従ってプリンとかばかり食べさせるのじゃなく、お年寄りには茶碗蒸しとか卵豆腐のほうが口に合う。「愛」と「熱意」がいろいろなアイデアを生む。食べ慣れたもののほうが食欲が出るからと、毎回いろんな食べ物を運んで行った。
お父さんが大好きだったアイスクリームを持っていったら、「アイスクリームはすぐ溶けてしまうので、リハビリにならない」と非協力的な対応をされた。でもサクラさんは「好きなものが一番なのよ。食べたい、という気持ちになることが一番のリハビリになるのよ」と、看護師さんの冷凍庫にアイスクリームを保管してもらえるように必死で交渉した。
そしてお父さんは長いこん睡状態から目覚めた。食べられるようになって退院することができたのだ。すっかり元気になって、デイサービスに通いながら、掃除洗濯をこなし、ついには自伝を書きはじめた・・・というスーパーおじいさんになったのである。

2010年はうちの治療室は大盛況だった。休日はぐったり疲れてテニスにもほとんど行けないぐらい、死ぬほど働いた年だった。でも子どもたちがみんな独立して出て行ったあとだったし、ヴェルは落ち着きある壮年犬だったので、休日の時間を自由に使えた。
ゾンビになる数年前、「私の目の黒いうちに、いざというときのためにお前に100万預けとくわ」と母がお金を送ってきた。そのお金を使うのは「今」である。足りなくなったら自分で出そう。とにかく時間が一番貴重だった。

休日の朝、目が覚めたらまず携帯で新幹線の時刻表を調べる。ヴェルの散歩をすませて出かける。新幹線の中で駅弁を食べて眠り、新潟駅から在来線に乗り換えて一駅、新崎駅からはタクシーで病院に直行した。
母のそばにいられるだけいて、帰りもほとんどタクシーを使った。帰りの新幹線でまた眠って睡眠をおぎなった。「東京⇔新潟」は「始発⇔終点」なのでぐっすり眠れた。
松浜病院の看護師さんたちも一生懸命協力してくれるようになったけど、週2の新潟通いは体力の限界との闘いだった。
箸を使ってご飯を食べる
2日、母は「オムツにおしっこをしたので取り替えてほしいと頼んだら、もうすぐ交換の時間だからそれまで我慢してと言われた」と言い、「臭いとみんなに嫌われる」と嘆いていた。
看護師さんにその話をしたら、とても驚いていた。自分の身の回りに関してはかなりの認知ができるようになった。
車椅子から立たせてすこし歩かせてみたら、1歩2歩で限界だった。でもサクラさんに「歩けるようにするのは簡単」と聞いていたので、ちょっと試してみただけである。
自分で着替えをさせてみたら、上半身が固まっていてボタンのかけ外しができなかった。
ホールのテーブルで入院患者さんたちが集まっておしゃべりしていたので、母も連れて行って仲間入りさせてもらった。母は目を閉じて眠っていたけど、みなさんに母に話しかけてくれるようにお願いした。
帰りにナースステーションで、「お母さんの着替えが足りないんです。ここの洗濯は週に2回なので、間に合わないんですよ」と言われた。弟が病院に洗濯をお任せしていたのだが、来ないので私に言ってきたのだ。その日から母の洗濯物も運ぶようになった。

3日、青木病院から「14日に転院」と電話があった。早い対応に感謝である。

6日、病院に行くとちょうど昼食時間だった。母の前にあるお盆を見てびっくり。おかゆからご飯に出世していたうえに、箸までついていた。母は自分でお箸を使って食べたのである。前回のストレッチャーの男性看護師さんが母のそばに立っていて、誇らしげな表情で、『どうです!』と言うようににっこり笑って私にうなづいた。天にも昇る心地であった。

酒田から親戚の人がお見舞いに来てくれた。父のすぐ下の弟夫婦で、酒田の土地の草取りなどの世話を何十年もしてくれていた。父が亡くなったあとも仲良く付き合ってきて、母のことをとても心配してくれていた。
江風苑にお見舞いに行ったときは母は口もきかなかったそうだ。ときどき電話でやり取りをして事情を話し、脳を活性化するためにお見舞いにきてほしいとお願いした。東京までは行かれないから、「新潟にいるうちに」と息子の運転で3人で来てくれたのである。

残念ながら母は車椅子の上で頭をのけぞって、口を半開きにしてこんこんと眠りつづけていて、会話の仲間入りができなかった。
話の内容はとてもストレスだった。パーキンソンは誤診だったこと。「レビー小体型認知症」のコピーを渡して説明し、母がゾンビになった経過を話した。
その年代の素朴な田舎の人々は「長男意識」が高い。弟の了解は得たのか、弟ともっとよく話し合ったほうがいい、とか、3人で口をそろえて同じことをえんえんとくり返した。
睡眠不足で頭がズキズキ痛んでいたうえ、母のためには弟夫婦の悪口を言うわけにはいかない。リハビリの必要性を事細かに説明したのだけど、まるで自分が誘拐犯であるかのような居心地の悪さを感じた。

ご近所さんはすぐそばでいろんなことを見聞きしているので、説明も説得も必要がない。何も言わなくても状況を理解してくれた。でも、遠くに住んで法事で会うだけの親戚の人に、事情を分かってもらうのはほんとうに難しい。事実の積み重ねがいろんなことを証明してくれるのを待つしかないのである。
結局息子(私の従弟)が「良子ちゃんに任せるしかないだろう」と話を終わらせてくれた。母も最後には目を開けて、泣きながら「ありがとう」とお礼を言った。弟夫婦のこと抜きで終わらせたので、内心ホッとしたのだと思う。

この日弟に電話をして転院が14日に決まったことを伝えた。転出届を出してくれるように頼んだら、「住民票なんか、急がなくていいだろう」と断られた。
弟に「これからは私が母のお金を管理するから、母の通帳と年金手帳を渡してね」と言ったら、「お前の勝手にはさせん!」とわんわん怒鳴りはじめた。
リハビリの中心は「好きな食べ物」と決まる
その頃、市役所の職員が治療に来るようになった。以前に市民課にいたことがあるので、住民票や転出入届のことなどをいろいろ教えてもらった。弟夫婦の陰謀のことをとても心配してくれた。印鑑証明書は住民票のあるところでしか作れないので、転出した瞬間に新潟市にある印鑑証明書は廃棄されると教えてくれた。なるほど、弟が転出届を断った理由がわかった。
住民票を別にする人間が転出届を出すには、本人の委任状が必要とのこと。調布市のホームページから様式をダウンロードした。

9日、病院に行ったら、母はあの世で眠り姫状態だった。これじゃあ今日委任状を書くのは無理だなあ・・・とあきらめた。母を車椅子に乗せて外出。病院の前に大きなスーパーがあるので、その中を散歩した。
「ヨーグルト食べる?」「いらない」、「プリン食べる?」「いらない」と母。でも、干瓢巻きと甘栗を「食べる」と答えたので、買って帰った。
ホールのテーブルに食べ物をのせ、車椅子を押し込んで、とりあえず手を洗いに行った。戻ったら、なんと母が車椅子から身を乗り出して、干瓢巻きのパックを開けようとしていたのである。マネキン人形が突然人間になって動き出したような、不思議な光景だった。映画「レナードの朝」さながら、静から動へ、一瞬で切り替るのである。
母は箸を使って自分で食べて、ゴミの片づけまでやってのけた。

目がパッチリ開いているので、メガネをかけてあげた。テーブルの上に委任状を置き、「これ、転出届のための委任状なんだけど、書ける?」ときいた。
母はちょっと手を震わせながらも、なんとか自分の名前と住所を書くことができた。「その下が私の名前と住所なんだけど、書ける?」ときいたら、そっちのほうがスラスラ書けていた。
毎月私と孫のために宅急便を送ってくれたので、自分の住所よりも私の住所のほうが書きやすかったのだ。ちょっと感動した。
しばらくしたら母が「寝たい」と言ったので、ベッドに寝かせて帰った。

帰り道の私は心がうきうきである。母が普通の人のように動けたこと。ペンを持って委任状も書けたこと。東京行きを望んでくれていること。私の住所を覚えていたこと。嬉しい発見がいろいろあったのである。
サクラさんの言うとおり、「好きな食べ物」はほんとうに脳を活性化する。母のリハビリの中心は「これだ!」と、方針が決まったのである。
新潟の病院を退院、実家に泊まる
13日は退院の日である。事前に地域福祉センターで車椅子を借りてあった。大人4人に車椅子とたくさんの荷物も積まなきゃならない。大き目のレンタカーを借りにいったんだけど、犬を乗せられるのは一車種だけだった。しかも犬はゲージに入れて一番後ろの3列目のシートの上に置く決まりだった。小さな犬にシートひとつ使うのはもったいない。結局自分の車で行くことになった。

ポプラは母の担ぎ係兼運転手、あんずは母への話しかけ係と、2人に仕事を休んでもらって一緒に夜中に出発した。朝イチで実家に立ち寄って三文判を探し、母が縫ったとびっきりお洒落な洋服を選んだ。
まず市役所である。途中で弟から電話があって「お前の勝手にはさせん。金目当てだろう~!」とわめきたてたけど、そのまま直行して転出届を出した。

松浜病院で看護師さんが着替えを手伝ってくれた。「これは母が縫った服なんですよ。昔はほんとうに手先が器用だったんです」と話した。いろんなエピソードが人としての色彩を与えるのである。集まってくれたみなさんがなんとなく名残惜しげだった。
半月分の入院費を清算したら、たったの18000円だった。たしかに安い。

退院させたあと母を実家に連れて行った。3軒のご近所さんがお見舞いに来てくれ、母はなかなか元気で楽しそうにしていた。最後はみんなで半泣きで別れを惜しんだ。
東京に持っていく洋服などを選ばせて、その日は実家に泊まった。おしっこはすべてトイレで、夜中にも2回連れて行った。

14日の明け方5時半ごろ、暗闇の中でボソボソ話し声が聞こえてきた。『あれ、テレビかな?誰かラジオでもつけっ放しにしたのかな?』と、ドロ沼のような眠りから目覚めた。弟が母の枕元に坐って、「母ちゃん、東京なんか行きたくないだろ」と耳元でボソボソささやいていたのである。

気味が悪いので立ち上がって電気をつけた。弟は立ち上がって、ちょうどやって来たあんずに、「あんず~、お前だって自分の母親、信用ならんだろう!」と言った。
あんずは驚いて「うちのお母さんほど信用できる人間はこの世にいないんですけど。そういうこと言うにいにいのほうが怪しい」と言い返した。怒り心頭である。
今度は2階から降りてきたポプラに「お前だって、自分の母親、信用ならんだろう!」と声をかけたけど、彼はムッとして返事をしなかった。
座椅子にどかんと腰をおろした弟は、すごい形相で私を睨みつけた。
まるでテレビドラマの取調室のよう
まるで刑事ドラマのワンシーンのようだった。取調室で何人もの警官がひとりの容疑者を取り囲む。「お前が犯人なのは分かっているんだ!」と一方的に怒鳴りつけて、容疑者を追い込んでいくあのシーンである。
違っていたのは、警察官は弟ひとりで、あとの2人は容疑者の家族。怒鳴りつけてまわりを見回しても賛同してくれる同僚はおらず、冷たい目でシラーッと見られるだけ。弟は警察官らしく体格もよくて声もでかいけど、私は姉である。弟なんかぜんぜん怖くない。そのうえ「正義」はこちらにあるのだ。

「お前は信用ならん。東京で好き勝手やってきたくせに!」と弟が怒鳴った。
「私は東京で仕事をしながら3人の子どもを育ててきたんだよ。それを世の中の人は『好き勝手』と言うの?」と防戦した。弟へのちょっとした意地悪を兼ねている。
「たしかにおれには子どもがいない・・・」とボソボソ、ちょっとトーンダウンした。
田舎の人は「東京にいる」というだけで、まるで毎日楽しく遊んで暮らしているように思うらしい。「好き勝手」は母のいつもの愚痴で、弟嫁はそれを拝借したのである。

弟は気合を入れなおして、「金目当てだろう!」と怒鳴り、「毎日毎日、金の話ばっかりして~」と怒鳴った。
「あら、電話で1回言っただけだよ」と防戦した。毎日金の話をしたのは嫁のほうで、かわいそうに弟はとことん追い詰められたらしい。
「事業資金が欲しいに違いない。そう言ってたぞ!お姉さんに貯金を使い果たされて、面倒見切れんと、カラの通帳と一緒に送り返されたらどうする、そう言ってたぞ!そうだろう~~!」と怒鳴った。
「私がそんなことするはずがないじゃないの!」と驚いた。すごい発想である。

「お前はさんざん親に金をせびって来ただろう!仕送りもしてもらってたに違いない。そうだろ~!」と怒鳴った。
「仕送りなんてしてもらってないし、親にお金をもらったこともないよ。離婚してから親と大ゲンカになって、何年も絶交状態だったこと、あんたも知ってるでしょ!」と言ったんだけど、「いや、そんなはずはない!」と言い張った。
郵便局の通帳を取り出して、「ほら、ここに、お前に100万円送金してあるぞ!こうやってずっとお金を送ってもらってたんだろう!」」と言うのである。
「そのお金は、いざというときのためにと母に預かったお金で、それ1回だけでしょ」と答えたんだけど、「いや違う。お前はずっと親に金をせびってきたんだ!」とあくまでも言い張った。

「母ちゃんの洋服代とか食事代とか、ぜんぶこっちで出してきたんだ。おれたち夫婦は、母親の老後に備えて、いざというときのためにと母親のお金を節約して貯めてきたんだぞ。お前はぜんぶ使う気だろう!」と弟が怒鳴った。
「だって、『今』が母にとってのいざというときでしょ。このときのために今まで貯金してきたんだよ。たしかに私はお金を使うでしょう。母を治すために最大限のことをするつもりだから」と私は答えた。
弟夫婦が貯めているという「母の老後の資金」は、死んだあとに自分たちがもらえる「遺産」を増やすためであることは明白だ。弟は正直者で上手に嘘をつけるほど利口じゃない。弟にとってはそれが「真実」だったのかもしれないけど、遺産を待つどころか、すでに2年間で120万円ものお金を使い込んでいた「事実」がのちに判明したのである。

弟は新手のストーリー攻撃を繰り出してきた。
「母親が危篤と言ったのに、お前は仕事があるからとか言って、すぐに来なかっただろう!母親は死後硬直状態だったんだぞ。それなのに、金の話をしたとたん、足しげく通ってきて~!」と弟が怒鳴った。
「あなたは母の病状のこと、私にぜんぜん言ってなかったよ。母に会ってすごく驚いて、その場で転院をお願いしたんだよ。お金の話を聞いたのは、そのあと一緒に飲んだときでしょ」と反論したら、「いや、違う!」と弟はみじめに言い張った。
弟は真面目な警察官なので、私を悪者に仕立て上げるためには大義名分が必要である。時系列を崩して再構成してストーリーを作り上げた人間がいるのである。
「とにかく、お前に親は渡さん!」と弟は怒鳴った。

「親は渡さん、と言っても、あなたに面倒は見れないでしょう。嫁さんの協力もないんだから。母の面倒を見れるのは私だけなんだよ。私が来てから母がどんなに元気になったか、あなただって知ってるでしょ」と、ちょっと皮肉をこめて反論した。
「仕方ない。親は渡す。でも通帳は渡さん。金はおれが管理する」と弟は偉そうに言った。「だったら、新潟に通った新幹線代も出してほしい。あんずとヨーコにも行ってもらったから、2人の分も出してほしい」と私が言った。
「それは出す。必要な金はおれが出す。とりあえず当座の金だ」と、20万円入った封筒をテーブルの上にどさりと置いた。お金はすべて「おれ」が出したものと思った。介護ができない代わりの「贖罪」の意味だろうと思ったのである。

私たち家族は前々日の夜中に運転して新潟に来た。二晩もろくろく寝ていなかったうえに、母の世話でへとへとに疲れ果てていた。それなのに1時間以上も弟の暴言に付き合わされたのである。母は目を閉じたまま一言も発っしなかった。母の本心はわからないし、お金の揉め事は神経をずたずたにすり減らす。

弟は怒鳴りまくり、私を責めまくった。私はいつものように防戦に徹した。人を責めるのは好みじゃないし、心の奥底で同情もしていた。
母にすべてを一任され、長男としてがんばったのに挫折した。母親が遠くに行ってしまう淋しさもあるかもしれない。大事な母を元気にしてくれた「大好きな」姉と敵対するのはさぞかしつらいだろう。鬼のような形相で怒鳴られつづけたけど、弟がかわいそうでたまらない気持ちもあった。

人を洗脳して操るための手口のひとつは、相手が信用している人間の悪口を吹き込むことである。結婚して以来、弟嫁はなにかと私の悪口を言いつづけた。私は変わっているし目立つので、よくそういうターゲットにされてきた。
弟は「怒り」とともにそれをぜんぶ私に言わずにはいられないので、嘘で固めたストーリーを作り上げる彼女のやり口は熟知していた。頭に来た私は彼らと距離をおいてしまった。姉を失い、甥姪も失い、両親とも疎遠になって孤独に追いやられた。弟の人生には嫁しかいなくなったのである。「孤独に追い込む」ことも洗脳の手口である。
「怒り」はときにSOSのサインでもある。内心そうは思いながらも、弟は大人で自分で選んだ人生だ。母を助けるだけで精一杯なのだ。

うちの患者さんにこのときの話をしたら、ちょうど似たような事件が報道されていると教えてくれた。女性検事が逮捕されたそうだけど、彼女が日記をつけていたので、捜査している側が嘘のストーリーを作っていたことが判明し、無実を証明することができたのだそうだ。
「警察はそうやってストーリーを作って、犯人に仕立て上げるんですよ。弟さんも同じですね」とうなづいていた。
私も何十年も日記をつけている。消費者運動をやっていた頃、毎日つけている日記は裁判でも証拠として通用するという話を聞いたからだった。それが家族の遺産相続の調停で役に立つ日がくるなんて想像もしていなかったけど。
青木病院、院長自ら車椅子を押す
青木病院には午後1時か2時には入院してほしいと言われていた。話を打ち切って出発できたのは8時過ぎである。
後部座席を倒して母を横たえ、すき間に車椅子などたくさんの荷物を詰め込み、小さなチワワはそのへんや膝の上。ぎゅうぎゅう詰めながら軽のワンボックスでOKだった。
母のためには途中で何度か休憩しなければならなかったけど、関越道をひた走って、なんとか1時過ぎには調布の青木病院に到着できた。あらかじめ連絡を取ってあったヒロコさん(父の弟の嫁さん)が、母の到着を待ってくれていた。
受付で「転入届がまだなんです」と言ったら、職員さんが驚いた。「保険証がないと大変です。そっちを先にしてください」と急がされた。

入院手続きをあんずとヒロコさんに頼んで、ポプラの運転で市役所に行った。さんざん待たされてから、「同居でないのなら、本人の委任状が必要です」と言われた。都営住宅は同居申請をしなくてはならないので、とりあえず治療室に住民票を置くことにしたのである。時間に迫られているのでいそいで病院に戻った。
なんと五味淵院長自ら母の車椅子を押して「お母さんお疲れのようだから、手続きの前に、先に3階の病室にお連れしましょう」と急ぎ足で歩いていたのだ。看護師さん数人が小走りでうしろから追っている。なんと素晴らしい先生だろう!名医ほど威張らないのである。

病室のベッドで母に委任状を見せた。時間の節約のために、母の署名以外は私が書いた。疲れ果てていた母に『書けるかな?』と心配だったけど、なんとか名前を書くことができた。いそいで市役所に行って、その日のうちに転入届を出すことができた。
病院に戻ると入院手続きはほとんど終わっていた。娘というのはほんとうに頼もしい。あんずは私が知っていることのほとんどを把握してくれてる。置いてきたのがポプラだったらたぶん何の説明もできなかっただろう。
母の入院には保護責任者である弟の同意が必要だった。電話で確認してくれるとのこと。ドキドキしながら待っていたら、無事に了解を得られたそうだ。そこで反対するための大義名分はすでにない。

15日、翌日午前中に着替えを運びがてら母に会い、夕方5時半、仕事の空き時間にまた病院に行った。母が嬉しそうににこにこして「ごっつぉうだ」(ご馳走だ)と言った。「ご飯が食べたい」と言うのである。食堂のテーブルの上には鮭の切り身など、形のある食べ物が並んでいた。朝食も昼食も自力で食べられたのだそうだ。
松浜病院はミキサー食だったので、緑色のかたまりやら、赤いかたまりやらで、食べてみないと味が分からなかったし、とても美味しいとは言えなかった。ほんとうに食べ物は人を元気にする力がある。

主任の看護師さんと話をした。長い髪を束ねた若くて気さくな人柄なので、彼女が主任と知ったのはのちのことである。五味淵先生との面会時に話したことがちゃんと伝わっていた。「車椅子を用意したほうがいいんでしょうか?」ときいたら、カルテを見ながら「1ヶ月前まで歩いていらしたんなら、歩けますね。車椅子は必要ないでしょう」とあっさり言ってくれたのである。

想像を越える急展開に、親子まるごと天国に迎え入れられたような感激だった。母を食堂に送ってからまた仕事に戻ったんだけど、一気に心が軽くなった。
病院が違うとここまで違う。5週間前には植物状態だった母だけど、回復への希望が見えはじめてきたのである。
歩けるようになり、ときどき冗談も言える
青木病院は7階建ての精神科の専門病院で、母が入院したのは3階の言うなれば「介護棟」で閉鎖病棟である。インターホンを押して鍵を開けてもらい、まずナースステーションに入る。そこから病室へも鍵を開けてもらって入る。
着替えの出し入れ以外基本的に家族は中に入れないと言った看護師さんもいた。たいていは小さな面会室を使うんだけど、私は自分で母をベッドから車椅子に移乗させたし、病室(ホール)の中で食べさせたり歩かせたりさせてもらえた。

平日の面会時間は1時半~4時半ととても短い。患者さんの予約を12時、4時、7時に限定し、なんとか1時間、空き時間をつくって病院に通うことにした。
老人は環境が変わると一気にレベルダウンしてしまう。慣れるまでは毎日通って認知症の進行を防がなくてはならない。「リハビリは私がやります」と断言した以上、やり通さなくちゃならないのだ。

16日、あんずとヨーコと3人で母の見舞いに行った。ヨーコはあんずの中学生からの親友で、うちに入りびたりだった時代もあるし、母の家に泊まりに行ったことも複数回ある。1人ずつでも明るくて元気だから、2人揃うと相乗効果になる。ますます明るくにぎやかになって大笑いの渦がおこる。面白くて優しいうえにとても気が利く。テキパキ動いてくれるので私は大助かりである。

母を面会室に連れてきて、車椅子から普通の椅子に坐らせた。車椅子に長時間坐っているととても苦しくて、まるで「拷問」のようなのだそうだ。そうサクラさんにアドバイスしてもらったからなんだけど、母も「一日中坐らせられて苦しい」とつぶやいていた。
椅子の上の母にあん摩をしながらみんなでおしゃべりをした。母はにこにことえらく活気づいていた。サクラさんに大きい声を出す練習がリハビリになると聞いたので、母に「もっと大きい声を出して」と促したら、「あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ!」とやけになって大声で叫んだ。あん摩を痛がって、「ヨーコちゃん、助けて~」などとおどけてみせたりして、母のユーモアのセンスは健在だった。
帰りに靴下と大学ノートを買って、夕方また母をたずねて日記を書かせた。

弟に電話をした。母がみるみる元気になったことを報告しようと思ったのである。弟は私の話をさえぎって、「まったく~、病人の前で金の話をするなんて、ほんとうに心寒い話だ」と、偉そうに私をなじった。口をあんぐり、あっけに取られてしまった。「6時に出るといったのに、出たのは8時じゃないか!嘘八百言って~!」と、また偉そうに私をなじった。
別の星雲にワープしたらそこは別世界。まったく異なる風景に遭遇したという映画のワンシーンを思い出す。M・スコット・ペックが書いた「平気で嘘をつく人たち」(草思社)という本の中には、こういう人たちがたくさん紹介されている。事実を微妙にすり替えて正義の味方に成りすます、つまり「偽善者」なのである。まさか弟が母の健康に関心がないなんて、そのときはまだ夢にも思わなかった。

17日、母はまるで普通の人のようだった。腕を組んで一緒に歩くこともできた。2人でホールを歩いていたら五味淵先生が通りかかって、「お母さま、元気になられて良かったですね」と声をかけてくれた。
「ほんとうにありがとうございました。おかげで見違えるようになりました!」とお礼を言うと、「いやいや、私は何もしていないんですよ。お薬、向精神薬をぜんぜん飲んでいないんですから。お母さまが元気になられたのは、看護の力なんですよ」と、ニコニコ笑いながら誇らしげに言ったのである。こんな人が院長だと、下の人間はほんとうに働き甲斐がある。看護師さんたちがみな生き生きと働いているのは院長の人格に因るのである。

母は「長井のばあちゃんが来ている。ちょっと見に行ってみよう」と私を促した。母の一番仲良しの叔母なのだが、山形の施設に入っているのだ。近くまで行ってみたら、たしかにちょっと似てはいたけど別人だった。「私の勘違いだったのね」と母はがっかりしていた。
帰りに主任看護師さんと会った。「毎日来るのはやめたほうがいいですよ」と言う。「もちろん毎日来てくださるのはかまいませんし、とっても嬉しいんですけど、どうしても来れない日もあるでしょう。お年寄りって『娘になにかあったんじゃないか?』とものすごく心配してしまうんですよ」とアドバイスしてくれた。
なるほど!である。ときどきインターバルを入れることにした。
怒ったり文句を言ったりできるようになった
19日、私は仕事で行けなかったけど、長男一家がひ孫を2人連れて、そしてあんずも一緒に5人でお見舞いに行ってくれた。母は涙を流して喜んでいたそうだ。

20日、母はひとりで自力で歩いていた。トイレも自力で行けたそうだ。左手の爪を自分で切ることもできた。頭はまだ変だし顔も崩れているのだけど、表情もあって、声もまあまあ大きくなっていた。
看護師さんが来て「午前中に息子さんが来てたのよ」と言ったので、驚いて「え、息子って、私の息子?」と聞き返した。母に聞いたら「せがれ」と一言。「弟ひとりだったの?それともヨメも一緒だったの?」ときいたら、「ヨメは来なかった」と言う。まだその辺にいるかもと思って弟に電話をかけてみたけど出ない。折り返しの電話もなかった。
『なんで私に連絡をしないんだろう?』と不思議に思った。母は筋道立ててちゃんと話すことは難しい状態で、説明できるのは私だけである。ほんとに入院したのか探りに来たのかな?と思うと不快である。

22日、母はにこにこしていたけど、「家が坪30円で売りに出された」と言った。更地になってあちこちに「売り地」の旗が立てられているのを見たのだそうだ。「幻視」である。
前日に近所の人と酒田の親戚に母の様子を報告したので、「近所の人に電話をしたけど、そんなこと何も言ってなかったよ。家はそのままだよ」と言った。「母ちゃんが元気になったって伝えたよ」と言ったら、「こんなんで元気だなんて!」と怒った。

24日、母は「具合が悪い」と不機嫌だった。前日に母の昔の友人に電話をしたと話したら、「余計なことを!」とぶりぶり怒った。私がいる間中ずっと文句ばかり言っていた。帰る前にベッドに寝かせたら、「ごめんね」と悲しそうな顔で私にあやまった。かわいい!
昔患者さんに「今はそうやって悪口を言っているけど、そのうち、お母さんの小言が懐かしいと思う日が来るんですよ」と言われたことがあった。そのときは『絶対にありえない!』と思ったけれど、そういうもんなのである。怒ったり文句を言ったりできるようになったことが嬉しくてたまらなかった。ごめんねも言ってくれたし、かなりの進歩である。

26日、「ばあちゃんの見舞いに行こう」と、朝9時にポプラがやって来た。日曜日は午前中に面会できるので一緒に病院に行った。あん摩をしたあと、印鑑証明の引換証にサインさせた。
看護師さんに「母を外に連れ出していいですか?」ときいたら、「どうぞどうぞ」とのこと。母を車椅子に乗せて近所のホームセンターに出かけ、お店の中をぐるぐると回った。
母はずっと目をつぶったままだったけど、顔つきがだいぶしっかりしてきた。

27日、市役所で母の印鑑登録をすませたあと、病院に行って母に委任状を書いてもらった。翌日から私は友人とスペイン旅行の予定だった。母がゾンビになる前にお金を払い込んであったのだ。キャンセルも考えていたんだけど、転院のタイミングがバッチリで、母も病院に慣れてくれた。母に納得してもらい、看護師さんたちにもお願いして、旅行に行くことにしたのである。

スペイン旅行はほんとうに癒しになった。外国にいるから、母が危篤でも駆けつけられない。その距離が母のことを忘れさせてくれ、この1ヶ月半のとてつもないハードワークの疲れからすっかりリフレッシュすることができた。
本人に投げかければ反応し、歩いたり話したりが可能になったとはいえ、母は朦朧としていてほとんどの時間はこん睡状態のように眠りこけていた。
どこまで回復できるのか?リハビリはまだまだこれからである。
3ページ目へつづく
Updated: 2021/4/7
母のカルテ目次
目次
ROM訓練
レビー小体型認知症