母のリハビリカルテ 3
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2010年10月 |
混沌の合間に外出もできるようになった
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認知症のためのリハビリ
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青木病院で歩かせてもらい、「見違えるように元気になった」とはいえ、母にはまだまだ脳障害の影響が色濃く残っていた。精神科の閉鎖病棟なので、一見して「頭がおかしい」とわかる患者さんたちがほとんどだったけど、母はそのことにまったく気づいていなかった。看護師さんたちひとりひとりの識別もできていなかったようだ。
脳障害を起こす以前の人間関係はすべて把握していたけど、それ以降に現れた人々は母の中で混沌としていたように思う。認知できるのは自分の身の回りのことだけで、外界のことや周囲の人たちにはほとんど関心を持たなかった。
食事やトイレなどの日に数回の機会をのぞいて、ほとんどの時間はベッドで寝かされていた。車椅子の上では座位を保てず、身体が傾いてよだれを垂らして眠りこけていた。
それでも、こちらから投げかければ、たいてい正気を取り戻し、普通の会話をしたり歩いたりすることができた。調子のいいときは「ほとんど普通の人」、悪いときは完全に「あちら側の人」で、日によって時間によって状態が大きく異なった。
母のリハビリはいかにして脳を活性化して認知症を予防するかが主眼である。集団の中では半こん睡状態のように無反応な母だけど、1対1で直接投げかけると、目を覚まして動き出すのである。
食べ物を運ぶこと、あん摩と歩行訓練はほぼ毎回やったけど、あとは私の時間と母の調子によって臨機応変に行った。
① |
好きな食べ物で活気づかせる。とはいえ離れて暮らしていたので、これがなかなか難題だった。母の好きなものは何だろう?と頭を悩ませた。実家に帰ったときに出てくる食べ物は、私や孫が好きなものだったのである。 |
② |
パーキンソン症状があるために、どうしても身体が固まっていってしまう。あん摩は必須で硬直をほぐすとスムーズに動かせるようになった。 |
③ |
歩行訓練。調子のいいときは腕を組んで歩けた。悪いときは平行棒の中を歩かせた。サクラさんに教わってからは母に車椅子を押させることにした。安定しているし、疲れたら坐らせることも出来る。右手で母のズボンの後ろをつかんで転倒に備える。 |
④ |
日記を書かせる、絵を描かせる。 |
⑤ |
母の調子のいいときに、親戚や友人に電話をかけて話をさせる。 |
⑥ |
周囲の人の助けを借りる。看護師さんなどの職員さんたちに「声かけ」をお願いし、親戚や友人には「脳を活性化するためにお見舞いに来てください」と、母のアドレス帳をみて次から次へとお願いした。 |
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外出を楽しめるようになった
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10月6日、スペインから帰国した翌日に行ったら、母が「神様を見た」と言った。「どんな神様なの?イエスキリスト?それともお釈迦様?」ときいたけど、母はもごもごしてうまく描写できなかった。
突然、「黒藤に行きたい」と言う。黒藤は母の生まれた家である。なので母の叔母、長井のばあちゃんに電話をした。母は声が小さいし、大叔母は耳が遠いので、なかなか会話がすすまない。携帯の音声をオンにして私がときどき通訳をしてあげた。
8日、母は「お前が来ないと具合が悪い」と言った。看護師さんたちが声かけをしてくれたので認知症のほうはすすんでいなかったけど、9日間もリハビリを休んでいる間に身体が固まってしまっていた。取り戻すにはどうしても日にちがかかる。「このままじゃ歩けなくなっちゃう。歩きたい」と言うので、病院の中をひと回りした。
母は「退院した人がいる」と言って、「お金は大丈夫か?振込みされないと出される」ととても心配していた。これも幻覚かもしれないと看護師さんに確認したら、ほんとうに母の隣の人が退院したとのことだった。現実感覚はまあまあ健在だった。
11日、あんずが来てくれた。母が「靴が買いたい」と言った。外出は自由なので、車に乗せて出かけることにした。車への移乗の初挑戦である。助手席のシートにつかまらせて母を立たせた。「イチ、ニ、サン」の合図を決めて、私がお尻を持ち上げる瞬間に母に足を踏ん張らせた。かなりの力が必要だったけど、なんとか乗り降りができた。母はドライブが好きだったので、半ば朦朧としてはいたけど楽しそうにしていた。
あちこち走り回っていたら、靴流通センターを見つけた。母にいろんな靴を見せた。何足か履いて歩いてみて、「これにする」と母が自分で選んだ。すっかり元気づいたので、途中でお団子などを買って、車の中で一緒に食べた。
12日、母は調子が悪くて身体が固まっていた。あん摩でほぐしてから車椅子に坐らせて、病院の外をひと回りした。
14日、身体が固まっていて機嫌が悪かった。
15日、顔色も良く表情もあってにこにこ笑っていた。お風呂のあとだったので疲れたらしく、「足が立てなくなった」と悲しそうに言った。母のズボンの後ろをつかんで平行棒の中を歩かせてみたら、それでも2往復半歩けた。
酒田に住む叔母(父の妹)に電話をかけた。こんなに明るくてほがらかな人だったとは!母が無言でも、ひとりで笑いながらぺらぺらお喋りをしてくれるのである。母はとても楽しそうに話を聞いていた。
17日、ポプラが来てくれた。犬も連れて行ったので、みんなで多摩川に散歩に出かけた。ポプラが車椅子を押してくれた。
病院に帰って母にあん摩をしたら、顔をゆがめて「痛~い!」と嫌がった。職員なら無理なことはしない。家族だからギュウギュウやるのである。そばでポプラが「ばあちゃん、元気になったなあ。マッサージが効くなあ」と、笑いながらフォローしてくれた。
19日、母はとても元気だった。会うなりいきなり私を部屋の片隅に連れて行った。「父ちゃんが外国に行って働いて、2億円もお金を作ったって電話があったの。郵便局にお金を取りに行こう」と楽しそうににこにこ笑っていた。母の妄想はスケールがでかい。妄想が強いときのほうが楽しそうである。
「パジャマのズボンにゴムを通さなくちゃならないの。やってくれる?」と言ったら、器用にゴム通しをしてくれた。姉御肌なので頼まれるとはりきるのである。
20日、病院のホールで母に醤油団子を食べさせた。大好物なのでるんるんである。母がにこにこ元気いっぱいになったので、今がチャンスと長井のばあちゃんの息子(母の従弟)に電話をかけた。嫁さんもとても母になついていたので、あれこれおしゃべりをしてくれた。母は根が無口なので、どうやらおしゃべりな人が好きらしい。あん摩のあと、平行棒の中を歩かせ、日記も書かせた。
22日、「気持ちが悪い」と言う。車椅子にのせて外をひと回りした。 |
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車椅子を押させて歩行訓練
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23日、特養でリハビリをしているサクラさんに来てもらった。母の状態を見てもらって、アドバイスをしてもらうためである。3年前に1度会っただけだけど、母はサクラさんのことをちゃんと覚えていてとても喜んだ。
サクラさんと一緒に犬を連れて、母を車椅子に坐らせて多摩川に散歩に出かけた。多摩川についたら、サクラさんが「お母さんに車椅子を押させて歩かせてみよう」と言った。車椅子は大きくて安定しているので、歩行訓練に最適なのだそうだ。
母が両手でハンドルをつかむ。サクラさんは左手でハンドルに手をかけ、右手で母のズボンの後ろをつかんだ。(歩行訓練のときはこうやって転倒に備えるのである)
平らなところを歩かせたあと、なだらかな坂道に挑戦した。「お母さん、坂道を歩けるなんて、すごいことですよ!」とサクラさんが褒めちぎるので母はにこにこ笑顔だった。
24日、弟夫婦が来た。ちょうど昼食の時間だったので面会室にお盆を運んで、持っていったおにぎりも食べさせた。弟嫁はちゃらちゃら笑い「よいヨメ」を演じて、食べている母の背中をぐいぐいさすっていた。そんなに刺激したらかえって危ないと、こっちはハラハラである。
弟は通帳を2冊取り出して、「今日は見せるだけ」とテーブルの上に広げた。「ほら、使ってねえろう」と言った。私が『あなたの使ってしまったお金は不問にします』と手紙に書いたので、疑われるのは心外と思ったらしい。その言葉を信じたし、私は数字が超苦手である。通帳を調べようとはしないで残高だけをチラリと見た。
第四銀行は400万円ぐらい、郵便貯金は100万円ぐらいである。『なんだ、たったこれだけか・・・』とちょっとがっかりした。弟夫婦があれだけ騒いだからには、もしかしたら何千万もあるのかな?と期待していたのである。母はパチンコ好きだったし、面倒見が良くて気前が良かったので、その程度の貯金だったのである。
弟は私に30万円渡して、「お前が信用できるかどうか、もう少し様子を見てからにする」と偉そうに言って、そのまま通帳を持ち帰った。
25日、母に「何か持ってきたか?」と聞かれた。あいにく何も持っていなかった。毎回必ず食べ物を持参しなくちゃならないようである。
27日、醤油団子を買っていったら、「甘すぎる」と文句を言いながらもぺろりと平らげた。家に帰ったら、なんと弟嫁からお米が届いていた。何かを送ってきたのはこれ1回きりである。仕方がないのでお礼の電話をした。私が「お金のことで揉めているのは知ってるでしょ」と言ったら、ケタケタ笑って「私には何も言ってくれないんですよ~。だから何も知らないんです~」と、いつのもように嘘をついていた。
母の脳を活性化するために弟には見舞いに来てもらわなくちゃならない。へらへら笑って聞き流すしかないのである。
今、書いてて気がついた!高さ15センチほどの小さなダンボール箱に入れられたあの米。袋にも入れずに満杯になっていて、開いたとたんにパラパラこぼれ落ちたあのお米は、彼女が引き出した120万円の代わりだったのだ!
あのとき通帳を調べられたらアウトだった。自分がお金を引き出したことがばれずにすんで、弟嫁はいたくホッとしてホクホク小躍りして喜んだのだろう。
こんなにお人好しの家族なら騙すのは簡単である。まともな人間は「お人好し」が好きなんだけど、騙す人間にとっては「カモ」で軽蔑の対象でしかない。自分の嘘を見抜き、自分を騙すような人間を尊敬するのだ。
「お人好し」から巻き上げた金を自分より上手の「悪人」に貢いで、たいていは哀れな末路をたどるのだけど、まだ悪運尽きてはいないんだろうな。。。
28日、看護師さんが「お母さんが、『娘が信用できないから警察呼んで!』と言ったんですよ~」と言って、みんなで大笑いになった。
精神科の看護師さんたちはいろんな妄想に慣れているし、うちの事情を知らない。母のために弟夫婦の悪口を封印していたのである。
認知症の介護にはこれがつきものなのだ。悪口のターゲットになるのはいつも世話をしている人間と相場が決まっている。嫁さんが世話をしていたら「嫁」が、娘が世話をしていれば「娘」が悪者になって、「金を盗られた」とか「ご飯を食べさせてくれない」とか悪口を言われてしまうのである。
職員としては、悪口を言われているその人が一番面倒を見ている人だろうな・・・と想像するのである。だからみんなで面白がったんだけど、当事者としては最悪の気分である。
3年前だったら母に心底ムカついて大喧嘩になったことだろう。「面倒を見る」母親という立場から、「見られる」関係に変化していく過渡期だった。元気いっぱいに悪口雑言をぶちかます母と対決するのはまさに地獄のようだった。
周りの人には「大変ね~」と同情されたけど、動けなくなってろくろく口もきけない母のほうがよっぽど可愛いくて楽だったのである。 |
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2007年に遡る。秋になって長井のばあちゃんの孫(私のはとこ)が、「おばさんが身動きもままならなくなって、お人形さんのように坐ったっきりだった」と心配して電話をくれた。
母を東京に連れてきて、みんなで総出で母の世話をした。1年前、母の身体が固まっていたときに、外に連れ出して歩き回らせたら、1日でスムーズに動けるようになった。(そのときのことは→2006/9/3「動かないと老婆になる」にのせてあるんだけど、Sさんとは母のことなのである)
動けるようにするには「動かす」しかない。つまり、動いていると動けるようになるのである。散歩に連れ出したり、スーパーのハシゴをしたり。母は綺麗好きなのでうちをピカピカに磨き上げてくれた。だんだん母はスムーズに動けるようになっていった。
でも母はいつ見ても寝ている。「首が絞められる」と苦しがっていた。レビー小体型認知症の症状のひとつ、パーキンソンの「固縮」だったのだけど、そのときは<寝てばかりいる→筋力が落ちる→頭の重さを支えられなくなる→首に過負荷がかかる>せいと思った。母は首・肩こりを一度も味わったことがなかったので、人一倍ショックだったのである。
「立ち上がるとフラフラする」と自律神経失調症にも苦しんでいた。「具合が悪いときは安静に」と医師が言い、親切な人たちがよってたかって母のお手伝いをしてくれた。
でもお年寄りに安静はご法度なのだ。ずっと寝ていれば寝たきりになる。動いていれば動きつづけていられる。それが自明の理なのである。
私が病院でリハビリをしていた頃、はじめて任されたのがマネキン人形のようなおばあさんだった。口を半開きにしたまま全身が固まっていて、ストレッチャーでリハビリ室に運ばれてきた。主任と付き添いさんと2人でドサリとリハベッドに移したのだけど、微動だにせず固まったままだった。付き添いさんが「だんなさんが亡くなってから、こんな風になっちゃたらしいよ」と教えてくれた。耳元に顔を近づけて話しかけていたから、会話が通じてるらしかった。
主任には「可動域は50%でいいからね。治そうとか思わずに、とにかく壊さないように気をつけて」と言われ、習ったばかりのROM(関節可動域)訓練をやった。「壊しちゃいけない」恐怖に1ヶ月間、夢の中でもROM訓練をやりつづけた。うなされて目が覚めると、あんずが私の上に乗っかっていた・・・というオチである。
母を見ていると、そのマネキン人形のようなおばあさんの映像が、何度も頭の中でフラッシュバックするのである。病名が何だったのか知らずじまい。母がそうなるんじゃないかという恐怖に駆られ、心配で気が狂いそうだった。
見れば寝ている母に苛立って、「寝てばかりいたら寝たきりになるでしょ。休むときは坐って休め!」と怒鳴ったら、母は「寝たきりになりた~い」とほざくのである。口が達者で悪態をつくので、毎日大喧嘩になった。
うちはお年寄りの患者さんが少ないので、『母の筋力はどの程度なんだろう?』と、サクラさんに来てもらった。彼女は「プライドを傷つけるといけないから、ケアマネのレポートを作るのに協力してほしいと、こちらからお願いすることにする」と気をつかってくれた。
趣味は何?とか、外出は?とか、バス停は徒歩何分?とか、母の日ごろの暮らしぶりを事細かにリサーチした。
「出かけるときは自転車をつかうんですか?」という問いに、母は「自転車で2回も転んじゃったので、もう乗るのはやめたのよ」と言った。「え、それで大怪我をしたんですか?」ときいたら、母が「膝小僧をちょっと擦りむいただけなんだけどね」と答えた。
「お母さ~ん、すごいじゃないですか!その年齢で自転車で転んだら、骨折するのが普通ですよ~。そうとう運動神経がいいんですね~!」と褒めちぎった。母は「まあ、運動神経には昔から自信があって」と満面の笑みになった。
こんなふうに会話の端っこをつかんで褒め言葉に持っていくので、母はどんどんノリノリになっていった。お年寄りを元気にする技が素晴らしいのである。
サクラさんは「筋肉もしっかりしているから、これで歩けないのはおかしい」と首をかしげた。
「お母さん、もしかしたら『めまい』はデパスの副作用かもしれませんよ。セデスを飲むみたいに気軽に飲んでません?デパスは脳に作用する薬だから、慎重に服用しないと怖いんですよ」と言ったのである。
その場で本で調べてみたら、デパスの副作用に「運動失調」があった。リハカルテ・1の、青木病院に入院していたSさんもずっとデパスを飲んでいた。うちに治療に通いつづけて数年後、ある日「めまい」がはじまった。あれこれやってみたけど私にはお手上げだった。
「じ~っとしているときは何ともなくて、とっても気持ちがいいのだけど、動いたとたんにグラリときて、ふ~らふらになっちゃうんです」と言っていたSさんは、デパスのせいで「運動失調」になっていたのだった。
Sさんの来院のきっかけは「頭がきつい」で、まるで孫悟空の輪っかがはめられたようだと言っていた。医師に肩こりが原因かもしれないと言われて来たのだけれど、別の医師には「頭皮収縮症」という病名をつけられ、これも鍼灸ではほとんど改善されなかった。
母もときどき「頭が岩になる」と言っていた。セレナールという同じベンゾジアゼピン系の抗不安剤を服用している母の友人も同じ症状に苦しんでいたそうである。
あとで知ったことだが、デパスは服用後数分で血中濃度がマックスになり、6時間で完全に血中から消える。「デパス」と「元気」の相関性がはっきり出るので、依存症に陥りやすいのだそうだ。
デパスの作用は人によって正反対に出る。頭と身体が弛緩する、つまり睡眠薬として飲む人だと簡単に止められる。母のように「覚せい剤」として働く人は止めるのが難しい。飲むとシャキーン!と元気になる。若返ってシャンシャン動ける。効果が消えると反動で身も心もドッカ~ンと重くなる。なので薬が欲しくてたまらなくなってしまうのだ。
私は心底驚いた。本には「いきなり止めさせるとリバウンドが来る」と書いてあったけど、強制的にデパスをやめさせた。薬を欲しくてたまらない母はとことん私を恨んだ。
あんずが調べて漢方薬を飲ませてみたけど、ガツンと脳に作用するクスリを味わったあとでは、何を飲ませても無駄である。あんなに薬が嫌いだった母、薬を飲みたがる人をバカにしていた母が、すっかり「ヤクチュウ」になっていた。
ある日の明け方トイレに起きたら、母が居間に坐っていた。「お前たち、私のことが憎くて、私を殺そうとしてるんじゃないの?」と暗~い声で私に言ったのである。
私は仕事をしていた上に、4人分の食事を作り、母にはお昼のお弁当まで用意した。家に帰ってからも休みの日も、ずっと不機嫌な母の相手をしなくちゃならない。疲れ果てていた私にドッカ~ンと鉄槌が打ち下ろされたようなものである。
いろんな話を見聞きしてきた。嫌いだと思っていた親が亡くなったあと「ほんとうは愛していたの」と気づいてどん底に落ちた。「もっと優しくしておけばよかった」と後悔の涙がいつまでも乾かない。そういう後悔をしないために、用心して最善を尽くそうとがんばったのだ。
世の中には愚痴りながらじゃないと付き合えない人がいる。介護のつらさはまさにそこにあるのである。治療をしながら患者さんに愚痴りまくった。
みなさん面白がってゲラゲラ笑い、介護にまつわるいろんな話を聞かせてくれた。「今は悪口を言っているけど、そのうちそれが懐かしいと思う日が来るのよ」と言われたのもそのときである。 |
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認知症と薬物依存症のコラボ地獄
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デパスを止めたあと母に鍼灸をしたら効果てきめん!見事に身体がほぐれてくれた。
デパスを飲んでいたときは治療しても変化なしだった。Sさんもそうだった。治療の間があくと固まっていき、週1で治療をするとなんとか維持ができた。母より1歳年上だったので、治療効果が出ないのは「年齢」のせいかと思ったんだけど、デパスの副作用だったのである。
「頭が岩になる」ことはなくなり、立ち上がるとフラフラすることもなくなった。でも母はデパスを飲んだときの高揚感が忘れられず、代わりの薬を欲していた。「首が絞められる」症状はその後もつづき、母は不機嫌のきわみだった。
川口のヒロコ叔母(母の妹)が2回、1週間ほど母を預かってくれた。叔母も「あれは疲れるわ。帰ったあとはしばらくぐったりして動けなくなる。いつまでたっても疲れが取れないのよね」と言っていた。
私の定説は「ばあさんの介護は『口』で悩み、じいさんの介護は『失禁』で悩む」である。「この人は病気だから」といくら理性で自分に言い聞かせても、身内の悪態はぐさりと心に突き刺さる。
母はある意味「わがまま」を通してきた人間である。ほがらかで働き者だったから、その「わがまま」がみんなに愛されてきた。でもそれとは異質の「自己中」の人間になってしまった。世界の中心に人間は自分ひとり。自分のニーズでまわりの人間を振り回し、他人の状況を思いやることがなくなった。
たとえ半身不随でも、まわりの人を思いやれる人間は「病人」じゃない。周囲を思いやれない人間は心が「病人」なのだ。これも私の定説である。
ポプラが仕事に出かけようとしたら、母に「具合が悪いから休んでくれ」と言われたそうだ。仕事中に電話がかかってきて「早く帰ってきてくれ」と言われたこともある。ポプラが無職だったときにあんなに心配した母なのに!と心底驚いた。「自分の都合で子どもに仕事を休ませるとは何事だ!」と私が激怒する。
お腹がすくとすぐに食べないと気がすまない。ポプラにパンを買ってきてもらい、夕食前にパンを食べ、食卓に向かうと「具合が悪いから食べられない」と暗い顔で同情を引く。
おでんを作っていたとき、母にゆで卵をむいてもらった。「これ食べてもいい?」ときくので、「いいよ」と言うとムシャムシャ食べて、おでんができたら「食欲がない」と暗い顔で同情を引く。
「私が料理を作っているのに、なんであと10分が待てないの!」と怒鳴ってまた大喧嘩になる。間食にも苛立ったけど、同情を引こうという魂胆に余計に腹が立った。
「紅葉を見に行く?」ときいても、「花を見に行く?」ときいても、どこにも出かけたがらない。なんとか連れ出しても途中で「帰りたい」と言い出す。引き返したこともしばしばだった。ひたすら横になりたがって、「首が絞められる」とずっと不快を訴えつづけるのである。
母に「おまえ、そんな鬼のような顔で私に怒鳴って。私のことがそんなに憎いの?」ときかれたことがある。そのとき私は「人はみんな自分の鏡。人が不快な顔をしたら、それは自分のせいと思え!」などと言って母を攻め立てたのであった。
母の携帯に万歩計の機能がついていたので、私の携帯に毎日の歩数をメールで送信する設定をした。あんずとポプラも「ばあちゃん、散歩に行こう」としょっちゅう連れ出してくれた。ついに日に1万歩も歩けるようになった。スパルタが功を奏したと私は思ったけれど、母にとっては不本意以外の何者でもなかった。
好きなことだけして誰よりも元気と若さを誇ってきた母は『自分が年を取るはずはない』と信じていたらしい。『今は寝ているほうが楽。ある日突然病気が治れば、シャッキ~ンとふたたび元気になれるはず』と信じていたらしい。
母が認知症とは思いもせずに、なんとかして母を説得しようとがんばりつづけた。デリカシーがなくて口の悪い母だったけど、合理的な話が通じるところが最大のとりえだった。
それなのに私がいくら理路整然と説明しても、話がかみ合わずにいつまでも堂々巡りした。これもレビーの症状のひとつで、前頭葉にレビー小体が取り付いたために、ロジカルな思考、客観的判断能力、前向きなビジョンをもって行動する、というような人としての思考能力がなくなってしまっていたのだった。
あのときにレビー小体型認知症のことを知っていれば、母にあんなにつらく当たらなくてすんだかもしれないと、「後悔」の文字がちらつきそうになる。でも仕方がないのである。神じゃなくて人間だから、すべてを見通すことは不可能なのである。 |
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向精神薬で薬漬けの日々がはじまった
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友人の知り合いが「うつ病」で介護認定が取れたというので、市役所に相談に行った。住民票のある新潟市でないと申請できないとのこと。せめて数日でもデイサービスに通ってもらわないと、うちらの忍耐と体力も2ヶ月で限界にきていた。
職員さんには「お母さんの住民票をこっちに移したほうがいいですよ」と強くアドバイスされたけど、まだ私にはそこまでの覚悟ができていなかった。夫婦で建てた家があるし、長男がすぐそばに住んでいる。
新潟市で介護認定してもらえれば調布市でサービスが受けられる。慈恵医大に行って「うつ病」の診断書を書いてもらった。あんずが新幹線で母を送っていくことになったので、駅に迎えに行くように弟に電話をした。
私が「にぎやかな家からいきなりポツンとひとりは淋しすぎるから、1週間ぐらいあなたの家に居させてあげて」と言ったら、「そんなの無理だこて」と言う。「だったら1日でもいいから」と言ったら、また「そんなの無理だこて」と言う。「だったら5分でもいい。家に上げてお茶の一杯でも飲ませて。息子の家に行ったことがないことも母が落ち込む原因のひとつなんだから」と言うと、「そんなの無理だこて」とまたくり返し、「自分が実家に泊まるから」と言った。
母は「ヨメも来てくれて料理をしてくれた」と嬉しそうに私に報告した。私がヨメを嫌っているので、なんとか仲良くしてもらいたいという一心で、弟夫婦がやってくれたことをいちいち私に報告するのである。(なので私は彼らがいつ何をやったかをすべて知ることになる)
弟夫婦が母を病院に連れて行ったら、その医師が「パーキンソン」と診断をした。「パーキンソンは誤診が多いので、とりあえずお薬を飲んで様子を見ましょう。もしもその薬が効かなかったら、別の薬を試してみましょう」と言ったそうだ。
でも私には母がパーキンソンではないという確信があった。パーキンソンの患者さんは、動きがのろいわけじゃない。素早さと硬直がモザイクのように入りまじり、つんのめるような動きになってしまう。ゆっくり動くことができないのだ。母は逆にゆっくりとしか動けなくなった。身体全体がカチカチに固まってスムーズに動けなくなっていたのである。
表情も豊かだった。弟夫婦と医師の前では暗く落ち込んで「無表情」に見えても、冗談を言えば大笑いをした。美味しいものを食べれば「これ美味しいね~」と満面の笑みになった。怒るときは思いっきり顔をゆがめた。
私は「絶対にパーキンソンじゃないよ。慈恵の先生もみんな『パーキンソンじゃないし・・・』と言っていたし。もう1度こっちの病院で診てもらう」と必死で抵抗した。
弟夫婦は「ほんとうにいい先生だ」と大喜びだった。診断がついたおかげで介護認定が取れ、出来たばかりの施設に前倒しで入れてもらえることになったのだ。
「ちゃんと診断がつくまで、薬を飲ませるのはやめて」と言ったのだけど、弟嫁が「お姉さんがお薬嫌いなの知ってますけど、とりあえずお薬、飲んでもらってます~」と高らかに言ったのである。あの声は一生忘れられない。
私が「セカンドオピニオンを」と言ったので、弟夫婦は新潟大学病院に母を連れて行った。なんと担当医は最初の医師の後輩で「彼の診断なら間違いありません」と言ったそうだ。新潟市は大学病院が1つしかない狭い世界なのだ。
たったの2週間でショートステイのホームに母を入れた。2ヶ月後には老人保健施設の江風苑に母を入所させた。
母は「東京で虐待された」とうちらを恨んで、「二度と東京に行かさんでくれ」と言っていると弟は嬉しそうに何度もくり返した。
あんずとポプラは「自分も恨まれているに違いない」ととてもショックを受けていた。ふたりともほんとうに優しくて、おばあちゃんを元気にしようと一生懸命だった。
厳しくしたのは私である。長女は厳しいのである。大昔友人から聞いた話だけど、お母さんがボケてしまって、4人の娘でシフトを組んで交代で面倒をみていたときのこと。末っ子の彼女にお母さんが「あなたは優しくていい人だけど、水曜日に来るお手伝いさんは本当に厳しくて、つらくて、つらくて」と愚痴をこぼしたそうだ。「水曜日は長女の担当なのよ~」と彼女は笑っていた。
Sさんの長女も、もたもたしているSさんに「なんでちゃんとはけないの。靴ぐらい自分ではきなさい!」と厳しかったけど、末っ子の二女は「えら~い、ちゃんと靴がはけたのね~」と、幼稚園児を相手にするみたいにパチパチ手を叩いてほめていた。
長女は厳しく育てられる。長女のときは親も若くて勢いがある。はじめての子なので期待も大きく、「早く大人にしよう」としつけも厳しい。弟妹の世話を頼まれて、なにかにつけて親の相談相手になってきたので、親にはっきり意見を言う。
海上で嵐に見舞われたとき、船長はみんなを鼓舞して難局を乗り越えなくてはならない。気弱になった船員に「怖いなら休んでていいよ」とは言えないのだ。
責任があるし期待があるから、親が完全に弱るまではそうそう甘やかせられない。(サクラさんも長女である)
末っ子になると親もそれなりに年を取っている。「いつまでも赤ちゃんでいてほしい」と思い、「大きくなればそのうち分かる」と甘やかして育てられる。
優しく育てられるから親に優しく、甘やかして育てられるから親を甘やかす。
母がゾンビになったあと、近所の人に挨拶に行ったとき、「母が東京で虐待されたと言ったのは、さんざん動かしたからなんですよ」と説明したら、「親子ってそうなのよね~」と困ったように苦笑していた。
『やっぱり、私の悪口をそこら中に吹聴したんだ!』と判明したけど、近所の人たちはちゃんと分かってくれた。それに私は人にどう思われようとあまり気にしない。自分で自分が信じられればいいのである。
パーキンソンと診断されたおかげで、「薬を飲みたいという」母の希求がかなえられた。自分は「病気」で、「年を取った」わけじゃないという満足感もあったかもしれない。そしてもしかしたら「長男に面倒をみてもらう」という快感もあったかもしれない。
弟は「ずっと姉ちゃんばかりかわいがられてきた」という不満をときどき口にしていたので、母親が姉を嫌い、自分を選んでくれたことが嬉しかったのだと思う。母の通帳を預かって自分が母の管理者になるという長男としての誇りも感じていただろう。
ヨメは母の介護にはノータッチだったから、はじまってみれば通帳から自由にお金を引き出せるし、「楽して儲かる」極楽が転がり込んできたと大喜びしたのだろう。
川口のヒロコ叔母(母の妹)に電話で相談した。耳が遠いせいで同じ話を何度も聞き返す。「弟は長男なんだから、自分で面倒が見たいんじゃないの?」と言う。「しばらく弟に任せてみれば?」と言う。
私もついにあきらめて様子を見ることにしたのである。そしてたったの2年半で母はゾンビになってしまったのだ。その頃、川口の叔母はアルツハイマーと診断された。
もうすでに認知症がはじまっていた人のアドバイスを真に受けてしまったことをとことん後悔した。「70代のアドバイスは疑ってかかること」というのが私の得た教訓である。
母は江風苑で個室に入り、食事も部屋でひとりで取っていた。サクラさんは「すごい、ひとりにひとり、職員が付き添うなんて!」ととても驚いた。食事のときは何が起こるか分からないので、熟練した介護施設では必ず職員の見ているところで食べさせるのだそうだ。
江風苑はできたばかりの施設だったので、職員さんたちはみなさん介護の素人だった。だから母のことを「手に負えない」と言ったという話を聞いたときも、なるほどと思ったのである。
それでも実家にいたときよりも母の状態はよかった。サクラさんは「施設にいるとあれこれ忙しいのよ。放っておかれる時間なんてないのよ」と言っていた。母は身体が固まってしまうこともなく、動ける状態を維持できていた。仲良しのお友達もできた。
最初に入ったショートステイの施設が近所にあったなら、家と施設を行ったり来たりできたのになあ・・・と思うと残念でたまらない。 |
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4ページ目へつづく |
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Updated: 2021/4/18 |
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