母のリハビリカルテ 5
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2011年1~2月 |
家族と過ごしたあと感情表現が豊かになる
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脳損傷から5カ月、だいぶマシになったけど・・・
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脳障害の患者さんは倒れたあとの数カ月の記憶がないと聞いたが、母も4カ月過ぎた頃から目が覚めはじめたらしい。「どうやら自分は東京にいるらしい」と気がついて、ところどころ現実認識ができるようになった。
まだ意識は朦朧としていることが多く、ほとんどの時間を眠って過ごした。ベッドの上では身動きもせずに眠り、車椅子では坐位が保てずよだれを垂らして眠る。
目覚めているときも、顔がドヨ~ンと崩れていて、一見して「脳障害の患者さん」と分かる。
朦朧の合間に覚醒の時間があって、現実と妄想がからみ合い、母の脳の中はまるでモザイクのようになっていた。
「レビー小体型認知症」の症状のひとつに「日内変動」がある。日によって時間によって、状態が大きく異なるのである。
意識が朦朧としているときでも、しつこく話しかけて無理やり起こすと、母はパチッと目を開け、たいていは会話や食事や歩行ができた。調子のいいときは箸を使って食事をし、手先を器用に使うこともできた。
看護師さんの話では、夜中に突然元気になって、昔の話などをいろいろ面白おかしく語ることもあるそうだ。
2泊3日、うちで家族とお正月を過ごしたことは、母に大変革を引き起こした。「家族がいる」という安心感で、感情が賦活されたらしい。
大笑いをしたり、ワガママを言ったり、ときには不機嫌バクハツしたりと、感情表現が生き生きと豊かになったのである。
「絶望」はすでに心の奥底に封印してある。母を観察して、脳の中がどんなふうになっているのかを想像するのは興味深く、「面白い」と思って取り組んだ。
母のリハビリはたいてい次の順番に行った。
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好きな食べ物は脳を活性化する。 |
② |
あん摩で筋肉の硬直をほぐす。 |
③ |
ROM訓練で関節の拘縮を予防。 |
④ |
車椅子を押させての歩行訓練。調子のいいときは腕を組んで歩けた。 |
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2泊3日でお正月を過ごす
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12月31日、大みそかの話である。お正月をうちで過ごすために、ポプラと一緒に青木病院に母を迎えに行った。母は3階までの階段を自力で上ることができた。
あんずに手伝ってもらってお正月料理を作っていたら、「お腹がすいた。早く食べさせてくれ」と母が私をせっつき、「お前は段取りが悪いから」と小言を言った。
母としてはとっくに料理ができているはず・・・と思ったのだろうけど、私は29日まで仕事だったし、30日は買い物と大掃除で手一杯だった。
「じゃ、手伝って」と、母にゆで卵をむいてもらった。きれいにむいたあとで、ジーッとゆで卵を見つめ、「これ食べてもいい?」ときき、美味しそうに食べた。
そのあともちょこちょこつまみ食いをしたので、年越しそばはちょっとしか食べられなかった。
みんなで忙しくしていて誰もかまってくれない。母は「病院に帰りたい」とか、なんとかして自分に注目を集めようとしていた。ほんとうにワガママな年寄りである。
年越しの夜は隣同士のおふとんで寝た。昼間寝ていた母は夜中にパッチリ目が開いていた。「良子~」と声をかけてきて、何度も私を起こすので、私はほとんど眠れずにお正月を迎えることになったのである。
1月1日、元日には長男一家が孫2人を連れてやってきた。前日から泊まっていたポプラとあんずに加えて、一族が勢ぞろいした。
私が前日に作ったのは母のレシピのお正月料理である。ところどころ作り方を母に聞いたのだけど、あまりまともに答えられなかった。ボケる前にちゃんと教わっておけばよかったと後悔した。
のっぺ汁、松前漬け、エビ料理、カニ、いくら、(孫のために)おでんと唐揚げなど、母は大喜びで美味しそうに食べてくれた。
食事のあとはおふとんに寝かせて休憩させ、みんなで宴会のつづきをした。
「あれ、ヴェルは?」と探しに行ったら、寝ている母のそばにいた。いつもみんなの真ん中にいたがるヴェルが母のそばで待機していたのである。自分の役目は病人を見守ることだと思ったらしい。何かあったら「ワン!」と吠えて知らせようと思っていたのかもしれないね。
<→ヴェルのお正月 2011/1/6>
母が「このままここにいられないものだろうか」とつぶやいたので、「お正月でお休みだから、みんなが家にいられるけど、仕事がはじまったら1人でお留守番になっちゃうんだよ」と言ったら、しょんぼり悲しそうにしていた。
夕方、母を車椅子にのせて、あんずと孫と犬と一緒に深大寺に初詣に行った。
夜は母とポプラと3人になった。前夜に起こされつづけてあまり眠れなかったので、私は眠くてたまらなかった。
その夜も、「良子~」と声をかけてきたので、「睡眠不足で死にそうだから、おしっことか以外は、私を起こさないでくれる?」と母に言った。
それっきり母は沈黙を守り、数時間熟睡できた。ちゃんと理解してくれたのは嬉しい。
2日、朝ごはんのあと、ポプラに車椅子を押してもらい、犬と一緒に野川の遊歩道を散歩した。母を車に乗せて布田天神にお参り、西友に行って下着を買い、ケーキとお団子を車の中で食べさせてから、病院に母を送り届けた。 |
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調子がいい日のレベルが上がった
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1月5日、お正月にたくさん食べさせたおかげか、お団子1串と4分の1、ポテトサラダを山盛り1杯、ぜんぶ食べてくれた。
6日、朝、青樹(老人保健施設=老健)から「明日入所できます」という電話をもらった。病院に連絡がいっていたらしく、看護師さんたちが口々に「おめでとう」と声をかけてくれた。
でも家に帰ったあとで、五味淵先生から電話が来た。母の血圧が少し高めで、不整脈があるそうだ。心臓が心配なので、先に榊原記念病院で検査をするようにと言われた。
最後に「老健は病気があると入れないんですよ」と言われ、足元がグラグラした。
7日、青樹から電話が来て、やっぱり入所が先送りになったとのこと。早く老健にと、とても焦っていたので、がっかりした。
内心『ほんとうに入れるのだろうか?』という不安があった。調布病院にも老健があるのだけど、認知症の人は嫌がられるという話を聞いていた。青樹は精神病院が経営しているので、認知症の人にとって頼みの綱なのである。
不安に拍車がかかった。母の病気の心配よりも、転院できない心配のほうが大きかった。いかにして「脳」を蘇らせるかのほうが重大問題なのである。
8日、母は調子が悪くて、おにぎりを3分の1しか食べられなかった。
10日、私の孫2人を連れて行ったら、母は満面の笑みで出迎えた。元気いっぱいで、ピョンピョン飛び跳ねる子どもたちを嬉しそうに見ている。
ROMの間テーブルで絵を描かせたら、「上手だね~」と感心していた。
車椅子に坐ってボール投げをして遊んだ。ひ孫の投げるテニスボールをなんとかキャッチして、上手に投げ返すことができた。
12日、母は手が上げられなくなって、おにぎりを口に持っていけなかった。肩関節と肩甲骨のROM訓練を念入りに行った。
13日、いつの間にかご飯がおかゆになっていたことを知った。母はおかゆが嫌いなのである。好きな食べ物じゃないと食欲もわかないだろう。看護師さんに交渉して、おかゆからご飯に変えてもらうことにした。
15日、私は仕事が忙しく、あんずとヨーコが母のお見舞いに行ってくれた。
17日、青木病院に母を迎えに行き、車に乗せて、榊原記念病院へ心臓の検査に行った。レントゲンと心電図の結果、「このぐらいの不整脈は普通」との診断にホッとした。
帰りにおそば屋さんに行って、てんぷらと天丼とおそばを注文した。母は箸とおわんを持ったまま固まっていた。食べ方を忘れてしまったのだ。
病院でそうとう疲れたらしい。食べさせてあげようとしたけど、母はほとんど食べられなかった。 |
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妄想はよりリアルになった |
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2月18日、おでんを持っていったら、母は少しは食べられるようになっていた。
20日、母の機嫌が悪くて困ったけど、看護師さんによると「調子がいい日」とのことだった。
母は外面がいいので、他人の中では自分を抑えて我慢している。娘を見たとたんに感情バクハツ、私に当たり散らしてストレス発散したのだと思う。
脳が活性化して、自我が目覚めて、本来の感情的な自分を取り戻したということなのかもしれない。こういう母が大嫌いだったのだけど、朦朧とされているよりマシである。母の不機嫌を喜ぶ日が来るなんて、想像したこともなかった。
23日、ついていきなり看護師さんに声をかけられた。母が「話したいことがあるので、娘を待っている」と言ったそうだ。
母は青ざめた顔でオドオドしていた。
「新潟の駅南でお祭りをやっていたの。見学していたとき、隣に黒いコートの人がいて、コートをハサミで切っちゃったのよ」と言う。「どうしてだか分からないけど、手がちょちょっと動いて切っちゃったの」と落ち込んでいた。いそいで逃げて家に帰ったのだけど、怖くて怖くてたまらない。警察が自分を捕まえにくる。。。
母の話は細部まで完璧で、どんな説得も無駄だった。目覚めているときに、同時進行でリアルな「夢」を見るのだから、レビーと折り合いをつけるのは大変だ。
私もときどきリアルな夢を見て、目覚めてから現実ではないと理解するのに苦労することがある。脳のシステムの不具合で、夢と現実を区別する機能が故障しているんだろうと想像した。
24日、この日の母はニコニコ笑顔だった。
前日に都立松沢病院(五味淵先生の以前の職場、精神科の専門病院)の看護師さんが治療にやって来た。「家族が面会に行かないと(精神レベルが)落ちる」のだそうだ。がんばって行かなくちゃとあらためて決意したのである。
26日、リハビリ。
27日、リハビリ。
30日、おにぎりを食べさせてからROM訓練をした。2日空いたら、やっぱり少し固くなっていた。
31日、母の得意料理のひとつ、ひじきご飯に大喜びで食らいついていた。 |
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老健の2階(元気な人のフロア)に入所
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2月1日、青樹から、2階の個室(1日5000円)ならすぐに入所できると電話があった。空きがあり次第、大部屋に移してくれるそうだ。
母が入ることになった2階は、比較的しっかりした人のフロアである。「できれば普通に近い人たちの中で」という思いがあった。一緒にお喋りをしたり遊んだりできる人たちに混じれば、母の脳が活性化するかもしれない。
そこには前述のSさんが入所していたので、母とお友達になってくれるようにお願いすることもできるかも・・・と、淡い期待がふくらんだ。
3階は認知症の人のフロアである。「どちらにしてもほとんど差がなくて、みなさんボーダーなんですよ」とのことだ。母の様子を見て、どちらが適しているか判断するそうだ。
病院ではどうしてもベッドに寝かされている時間が長くなる。身体能力の低下と認知症の進行が心配で、焦燥感でじりじりと焼かれそうだった。
お金の問題じゃない。一刻も早く転院させたい。最初の1カ月は集中リハビリができるそうなので、それもお願いした。
2日、母に青樹の話をして、「部屋代だけで10万円ぐらい余分にかかるんだけどね」と言ったら、「断ってくれ」と言った。
お金の心配ができるのは健全の証であるが、母の意見は無視した。
4日、待ちに待った老健入所の日が来た。青木病院ではほんとうに良くしてもらったけれど、リハビリには限界があるのだ。
看護師さんが母の荷物をダンボール箱に入れておいてくれた。みなさんにお別れを言って、ダンボール箱を台車にのせてふたりで押して歩いて行った。同じ敷地に建っているのである。
青樹の食事は、普通食、1センチ角刻み、刻み、ミキサーと4種類だそうで、母には1センチ角刻みをお願いした。
形が崩れていても、どういう食べ物なのかおおよその判別ができるし、箸やスプーンを使って自分で食べられる。噛み応えがあるので、嚙む力を維持できる。「おかゆが嫌いなのでご飯にしてください」とお願いした。
食事の時間、母は食べることに夢中になって、話しかけても無視された。 |
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環境が変わって、一気にレベルダウン
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2月5日、母はボーッと坐っていて、おやつのケーキを自分で食べられず、職員さんに食べさせてもらっていた。 「お年寄りは環境が変わると一気にレベルダウンする」とは聞いていたが、ここまで落ちるとは!
認知症が進まないように、母が慣れるまで毎日通うしかない。
6日、ポプラと青樹に。母は眠り姫状態で、昼食も食べられなかった。ポプラのことも思い出せなかった。
車椅子を押させて歩いてオスカーに連れて行った。しつこくしつこく話しかけて無理やり起こしつづけた。目をつぶったままの母に枝豆とあんこクロワッサンを食べさせた。
最後にやっと目が開いて、ポプラのことを思い出した。
7日、前日よりは少しマシで、歩かせたあと、あん摩とROMをした。
夕方にはあんずとヨーコが行ってくれた。脳を活性化させるために総力結集である。
8日、30分だけ、母に歩行訓練をした。
9日、母にズボンを届けた。自分で箸を使ってご飯を食べていた。少し元気になったようである。
母に「お前はもう来なくていい」「せっかくの平安が乱れる」と言われた。毎日行っている私のことを気遣ってくれた・・・と思いたい。
10日、ちょうど母は食事中だったので、お手伝いをした。
13日、青樹に行ったら、車椅子に坐って並んだお年寄りがボール送りをして遊んでいた。母は輪の外にいて、ひとり車椅子の上で眠りこけていた。
無理やり起こして歩かせたら、途中で「勝手にしやがれ!」と文句を言った。持ち前の負けん気が出たあと、スイスイ歩きはじめた。
14日、前日より元気で、施設内を2周歩けた。
17日、特養でリハビリをしているサクラさんを連れて行った。
一緒に母を歩かせて、体操などを教えてもらった。母は無表情でよだれをダラダラ垂らしていた。
「レベルダウンがすごいから、当分は毎日通ってあげて」とアドバイスされた。 |
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ちょっとずつ正気が戻る |
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2月18日、昼食後に行ったら、母はちょっと元気だった。
歯磨きをしてから、歩かせ、テニスのボール投げをした。でもあん摩を「痛い」と嫌がり、体操も嫌がった。
職員さんに、みんなでやるボール投げに参加していると聞いて、ちょっとホッとした。
19日、調布駅にサクラさんを迎えに行き、母を連れてオスカーで食事をした。
ジョークを連発して、ずっと笑顔だった。母が私を指さして、「この子と待ち合わせをするなんて。いっつも人を待たせる子なんだよ」と言いながら大笑いをした。
母はラーメンをすすることができた。サクラさんは大いに感心していた。「すする」というのは高度な技で、出来ないお年寄りが多いのだそうだ。ホットサンドを手にもって食べることもできた。
レベルダウンに歯止めがかかって、上昇気流に乗りはじめたらしい。
20日、長男一家と一緒に行った。母は元気そうにご飯を食べていた。ふたりのひ孫を見て、ニコニコと嬉しそうだった。
歯磨きをし、トイレに連れていったあと、ひ孫とボール投げをさせた。
2階のフロアでは、「みなさん、パジャマに着替える時間ですよ」という放送が流れる。ほとんどの人が自分で着替えができるとのこと。母は自分ではできないので、私がパジャマを着せてあげた。 |
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元気なときほどワガママが出る
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2月22日、夕食前に行って、リハビリベッドの上であん摩をしたら、母は「痛い!」と叫びつづけた。「職員さんはこんなに痛くしない」と文句を言うので、「家族だから厳しいリハビリをするんだよ」と言い返した。
元気がある分、抵抗も激しい。
私のことを「鬼!」と呼ぶので、「私が鬼なら、鬼を生んだあんたも鬼」と言い返した。母娘喧嘩はたいてい娘のほうが強いのだ。(私もあんずには言い負かされる)
帰宅しようとする職員さんたちがゾロゾロと前を歩いているのを見て、「看護婦さ~ん、助けて~」と母は大声で呼びかけた。
職員さんたちは「あら、あんなに顔を歪めちゃって」と大笑いして、「羨ましい~」「私もやってもらいたい~」と言いながら帰って行った。
23日、母はよだれを垂らしてボーッとしていた。ROMのあと歩かせて、パジャマの着替えを手伝い、トイレに連れて行った。
いきなり私に「おまえ、弟のことが心配じゃないの?」と言った。そのうえ、「墓参りもしなくちゃならないのに、何もかもあの子に押し付けて!」と私に文句を言うのである。
私がムッとして弟の悪口を言ったら、「だって、あの子には片足がないんだよ。片足がなくて、車椅子に乗っているんだから、かわいそうじゃないの!」と言った。
あんなにひどい目に合わされたというのに、自分の状態をさておいて、母親らしく息子のことを心配しているのだった。
仕方ない。母が生きているうちは自分の感情を封印して、表向き仲良さそうなフリをするしかない。
母の脳を活性化するためには、かわいい息子のお見舞いが必要なのだから。。。
24日、リハビリ。
25日、サクラさんに来てもらって、母とオスカーで食事をした。ホットケーキを半人前だけ食べられた。 |
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認知症フロアに移動になった
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2月27日、ポプラと一緒に行った。
母がせかせかしながら「引っ越しだ」と騒いでいた。「事務の人が荷物をダンボールにつめて持って行った」と言うのである。
また妄想か・・・と思いつつ、よく見ると、母のタンスに「明日から3階に移動します」と書かれた張り紙がしてあった。自分の身に直結することに関してはまともな認識があるのだ。
「なんとか2階で」と思っていたのだけれど、やっぱり、普通の人たちの中にいると違和感があった。「頭が変」と一目瞭然なのである。
他の人たちとの交流もできないし、一緒になってお喋りをしたり、トランプ遊びをしたりもできない。食事もトイレも着替えも、すべてに介助が必要だ。
職員さんたちが認知症フロアが順当と判断したのも当然である。とても残念だったけど、納得せざるを得なかった。
フロアが変わってレベルダウンしたら、また毎日通わなくちゃならない。もう疲れ果てていたので、暗澹たる思いに襲われた。
28日、朝、青樹からフロアの移動について電話があった。
母が入るのは3階の認知症フロアの4人部屋で、注意が行き届くように、ナースステーションの真ん前の部屋にしてくれたそうだ。
介護認定の審査があるとのことで、ケースワーカーと話をした。
「環境が変わるとまたレベルダウンするかもしれない」という心配を口にしたら、「階が変わるだけなので、今までと同じと思って大丈夫ですよ」と請け合ってくれた。
職員はほとんど同じで、2階と3階を行ったり来たりしているのだそうだ。「みんなで話し合って声かけをしますから」と言ってくれた。
認知症フロアに行ってみたら、母はそこでしっくりなじんでいた。似たような人たちの中にいると、母が「普通」に見える。母にとってはそのほうが居心地がいいらしい。 |
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「長く生きる」より「いかに生きるか」をモットーに
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青木病院にいたときのことである。母を外食に連れ出そうとしたら、年配の看護師さんが話しかけてきた。
「私も100歳の母親の介護をしているのよね」と言う。「私は、母がいつ死んでくれてもいいのだけどね」と、複雑な表情を浮かべて、「外食はリスクがあるけど、ちょっとでも楽しい時間をという、あなたの気持ちはよくわかるわ」と言ってくれた。
若い人はマニュアルに従うので、生命の存続を最重要視する。これをやるとリスクが高い、あれはダメ、これは危険と、いろんな制限をもうけたがる。
でも長く生きて経験を重ねると、本人にとっての「幸せは何か?」を考えるようになる。いろんな患者さんの生や死を目撃してきた。友人やその家族、近所の人や親戚の話など、いろんな話を見聞きもしてきた。
人間は死亡率100%で、いつか必ず死ぬ運命だ。「長く生きる」ことよりも「どんなふうに生きたか」のほうが重要だと思うようになるのである。
「でも、病院の中で死なれるのは困るのよね。できれば、娘さんと外出したときに死んでほしいわ」と笑った。「同じだね~」と私。
自分が母を連れ出したときに死なれるのは困る。「私も、できれば病院の中で死んでもらいたいと思っているんだよね」と言って、ふたりでうなづき合った。
彼女には「お金はできるだけ節約したほうがいいわよ」というアドバイスをもらった。この先大きな病気になると、とんでもない多額の費用がかかることがあるそうなのだ。
母にために絶対必要と思われるお金は惜しまないつもりだけど、余分なことにはお金を使わないように気をつけよう。。。
介護1年生の私にとってとても貴重なアドバイスだった。
最後に彼女に「どんなにがんばっても、お母さんはこれからどんどん悪くなっていくのよ」と言われたときは、心の中で『そんなはずはない!』と抵抗した。
まだまだ良くなる可能性があるはずだ。
あきらめたら可能性はゼロになる。心の底から「受け入れる」しかなくなるその日まで、私は決してあきらめない。
私の辞書に「あきらめる」の文字はないのである。 |
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6ページ目へつづく |
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Updated: 2023/7/4 |
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