doseiみづ鍼灸室 by 未津良子(リョーコのブログ) 
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2/9(火) 「こっちゃ来ぉ~」の真相は?
大昔になにかの本で読んだのであるが、いまだに頭の中に疑問符とともに突き刺さっているエピソードがある。
板切れにつかまって、ひとり海を漂っていたところを救助された、ある船乗りが語った言葉である。

「船が難破したとき、夕暮れ時であたりは薄暗く、そのうえ靄がかかっていた。
あっちのほうで、船長と仲間の船乗りが、大勢かたまって漂っているのが見えた。おのおのが板切れにつかまっているらしく、波間にプカプカ浮かんでいた。

みんなが、『こっちゃ来ぉ~』『こっちゃ来ぉ~』と大声で叫んで手招きをしていた。

でも、そっちのほうへは絶対に行っちゃいけねえ。そう教わってきた。やつらはみんな亡霊で、とっくに死んでいる。ひとりであの世に行くのが怖いから、道連れが欲しくて呼んでいるんだ」

彼は、あえて、みんなと反対方向に泳ぎ、「亡霊たち」から逃げ出した。ひとりで海を漂流して、彼だけが通りすがりの船に救助された。
残りの船乗りたちは、誰も帰ってこなかった。

船乗りたちの言い伝えの真相はどうなんだろう?

その人たちは本当に亡霊だったのだろうか?みんなで生き延びようとかたまっていただけかもしれない・・・

結果的には、彼だけが助かったのではあるが、それはたまたま運がよかっただけかもしれない・・・

科学の時代には、古来からの言い伝えをそのまま受け入れるのは難しい。
時折思い出しては、答えの出ない疑問が、頭の中にちらつくのである。

かたまって漂っていた船乗りたちが、「亡霊であったか否か」という、永久に解けない謎はさておいて・・・

この船乗りのエピソードを思い出すのは、たぶん、まわりの人たちの意見や動向に、自分が違和感を感じたときなのだ。
一緒に難破したたくさんの仲間たちと離れ、ひとり別の方向に泳いでいく船乗り。その情景が、まるで映画のワンシーンのように、ありありと目に浮かぶ。
多数派がやっていることと自分の考えが、おおきく異なって、何を選ぶかという決断を迫られるときにあらわれる、一種の心象風景なのかもしれない。

シングルスでは「威力のあるショットを打ちつづけないと勝てない」と書いた。
試合のあと、ダブルスのゲームでも、そのまま威力あるショットを打っていた。せっかく習ったショットだから、モノにしたい。モノにするには練習がいる。
それに何より筋力がいる。打ちつづけないと、ショットに見合う筋肉がつかない。

でも、威力あるボールは諸刃の剣である。
強いボールは速く返ってくるので、逆に打ち込まれる可能性もある。相手にしのがれているうちに、疲れてしまうこともある。力んでミスをすることもある。

おばさまたちのダブルスでは、強いボールは厳禁らしい。
ゆるいボールをミスなく打って、ラリーでつないで、相手のミス待ちをするというプレースタイルなのだ。
自分で打って、自分で決めれば、「おお!」と賞賛されるが、決めきれないと怒られる。みなさん、負けず嫌いなのである。
発展途上国だからと大目に見てもらえた時代は過ぎ、けっこう厳しいアドバイスが飛んでくるようになった。

「サーブは入れればいいのよ」と、親切にアドバイスしてくれる人もいる。
「ゆるくてもいいから入れなさい」とか、「強いサーブなんかいらないの」とか、「回転系のサーブは、女性には無理なんだから」とか。

「入れる」ことに苦労しているのはたしかだけど、週に何百球もサーブ練習をしている私の努力を、完全に無視している。

いろんなアドバイスの中には、「こっちゃ来ぉ~」が混じっているのかも?
有益な言葉だけを心に留めて、亡霊の言葉を上手に聞き流す、新しい術を身につけなくちゃならないみたいである。

人間関係にも同じことが言える。
女子のグループを、中から観察したのは生まれてはじめてなので、大発見がたくさんある。
みんなで和気藹々なのだが、ときには嫌われ者もあらわれる。意図的に、あるいはなんとなく、のけ者にしたり、また仲間に引き込んだりと、いろいろな事がおこる。
みんなと一緒が安心だから、「こっちゃ来ぉ~」に引かれていく。「こっちゃ来ぉ~」と仲間を呼ぶ。
心にひっかかる疑問や罪悪感があっても、それを押し殺し、多数派に流れていく人は少なくない。

多数派の言動がいつも正しいとは限らない。

原発の再稼動や、インフルエンザのワクチンや、なんとなく多数派でいたほうが安心な気がするみたいだけど、みんなで一緒に難破することもある。

テニスクラブに入ってもうすぐ7年になる。
1人で入って、何年も孤独だったけど、そのおかげで、今では誰よりも顔が広い。いろんな人とテニスをしたり、おしゃべりしたりしてる私である。
だから、様々な思惑から距離をおいていられる強みがある。

いつも自分の信じる道を歩いてきた。「強いね」と驚かれるけど、それは、たとえ少数でも、わかってくれる「心の友」がいるおかげである。

これからもすてきな仲間をどんどん増やしたいけど、キーワードは「類は友を呼ぶ」であることは、肝に銘じておこう。
1/31(日) グリップチェンジに再トライ
あさって2月2日は、みづ鍼灸室の開業23周年記念日である。
毎年、何のイベントもしないで来ちゃったけど、今年もそうなりそうだね~~

シングルスの前日のレッスンで、さんに、「スライスが浮いてしまう」と質問をしたら、「スライスはイースタン・グリップで打て」と言われた。

それは初耳であった。サーブやボレーと同じ、コンチネンタルと思っていた。
グリップが薄いと、威力のあるスライスは打てないのだそうだ。

<以下は、おおまかな分類。区別がつきやすいように、文字を色分けしてみた>

グリップ 握り リーチ 威力 回転
コンチネンタル





イースタン
ウェスタン

あらためて自分のグリップをまじまじと見た。すると、なんと!スピン系のストロークもイースタンで打っていたことに気がついた。

さんの練習会のとき、ストロークのグリップを厚くしてみると、ネットにかかってしまうことがつづいた。
『あ、これがいいんだな・・・』と思ったのがイースタンで、自分のグリップを目で確認していなかったのである。

3年前、はじめてさんに教わったとき、「非力だと打ち負ける」と言われて、それ以来、ずっとウェスタンで打ってきたというのに・・・

バドミントンがイースタンだったので、テニススクールに入ってからと合わせて、10年近くもそのグリップでラケットを振っていた。
この数ヶ月、チャンスボレーを決めたあと、『グリップが厚かったな』と思うことが多かったんだけど、それもイースタンだった。

ひとり立ちして、自分なりに模索しているうちに、いつの間にか、慣れたグリップに戻っていたのである。

すべてのショットがイースタンなら、グリップチェンジの必要がなくて楽だなあ・・・、どうしようかなあ・・・と、ちょっと迷った。

だけど、去年の暮れぐらいから、風の強い日、風下からだと男のボールに打ち負けるようになった。
不思議に思っていたんだけど、グリップが薄くなってたせいだったんだね。

(つなぐ)ボレーは、リーチが長く、回転をかけやすい、コンチネンタル
スライスのストロークと、(攻める)ボレーは、より威力のある、イースタン
スピンとフラットドライブのストロークは、力強い、ウェスタン

というふうに、グリップチェンジをマスターしないと、上のレベルは目指せない・・・

そこで、またひとつ、大発見をした。
これを書くために、「テニス教本」を開いて、グリップのページをよ~く読み直し、実際にラケットを持って確認してみた。

とんでもない見落としに気がついたのである。そこには、「握り方」についての詳しい記述があったのだ!
昔読んだときには、グリップの「角度」のことしか目に入らなかった。

この間、さんに、サーブのときのグリップの「握り方」を矯正されたばかりだった。

何度も注意されたことだけど、ぜんぜんできなかった。というより、自分に「できる」と思えなかったから、無視して聞き流していたと言ってもいい。
「筋力がないから無理」と思い込み、真面目に取り組もうとしなかった。

それが、何度も読んでたしかめたはずの本の中に、しっかり書かれてあったではないか!サーブだけじゃなく、すべてのショットに共通する「握り方」だったのである。

人間て、同じ文章を読んでも、その時点での理解力の範疇以上のことは、自然にスルーしてしまうんだね。

「赤毛のアン・シリーズ」とか、「指輪物語」とか、長い人生の中で時折読み返してみると、そのときの年齢に応じて、違う観点からの見方をするようになる。
経験を積み重ねていくにつれて、社会的、情緒的な成熟度に比例して、理解する能力が深まっていくのだ。

テニスなどの技術的なことでも、成長の度合いに応じて、同じ文章の中から、異なる文字を読み取ることになる、というのは驚きである。
だって、だって、ほんの数行の、とっても短い文章なんだよ~
立体の構造を、平面図と文章で説明される難しさは、解剖学に匹敵する難しさではあるけれど。

このトシになって「そんな努力は無駄」と揶揄する人は、クラブの中にも大勢いる。でも、あきらめたら可能性はゼロである。
「やろうと思うことは、やれることである」というのが私の信条なのだ。

というわけで、グリップのチェンジだけでなく、握り方も変えて、またはじめの一歩からやり直しだあ~~(笑)
1/26(火) シングルスは孤独だね
22日金曜日は、京王主催のシングルスのラウンドロビンに出た。
申し込んだのは去年の6月だったのだが、延期、延期(ほとんどが雨)で、7ヶ月目の出場となった。
用心に、前日の夜、京王に電話して、エントリーの確認をした。(笑)

試合の前日、先輩(さん)が久しぶりにレッスンをしてくれた。シングルスに備えて「一夜づけ」での調整かと思いきや、「明日でなく、今後のために」と、いろんなショットの基本レッスンになった。

あらゆるショットを教わりなおし、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
おまけに、4時間近く、休憩なしで特訓を受けて、その日は、口をきく余力も残っていなかった。
そのまま家に帰って、腕や足や腰やでん部など、あちこちにハリとお灸をして、10時間以上もぐったりと眠りこけた。寝借金がたまっていたからね。

金曜日の朝、おにぎりやサンドイッチを大量に用意して、9時過ぎにテニスクラブに着いた。(ホームでの試合は気が楽である)

京王のラウンドロビンは、出場選手のレベルの差が激しいらしい。
私のようなシングルスの初心者もいるし、大きな大会で実績をあげている上級者が練習に出てきたりしているんだって。
他のコートを見ていても、6-0のスコアーがやたら多かったのはそのせいらしい。

前回は、とにかくストロークを打ちつづけて、しっかりラリーをすること。チャンスボールを決める「練習をすること」が目標だった。

でも、シングルスに「つなぐボールはない」と教わった。

ダブルスなら、1人がつないでチャンスを作り、ペアが決めるという組み立てができる。深いボール、もしくは足元へのボールを打って、ミスをしなければなんとかなる。
役割分担で勝つことが可能だ。

シングルスでは、威力のあるボールを打ちつづけないと勝てないのだそうだ。
つなぐだけでは、相手のミス待ちになる。相手が強ければ、そうそうミスはしてくれない。出ても出ても負ける結果になって、そのうちイヤになってしまう、って。
だから今回は、威力のあるボールを打つことを目標にした。

半年前には、チャンスボールを決めるショットがまったく打てなかったんだけど、最近では、半分ぐらいは決めれるようになっている。
チャンスのときに、しっかりオープンスペースに打ち込むことができるだろうか?

1戦目の相手はフォームのきれいな20代で、あとから優勝者とわかった。
私と同じくサーブに苦しんでいたが、きっちりと打ってくる。あっという間に0-6で負けたけど、見ていた人が「あなたも上手かったわよ」と言ってくれた。ジュースが2回あったから、マシだったのかなあ・・・
(よく覚えていない)

2戦目は、ふつうのおばさんが相手だった。はじめ2ゲーム取られて、やっと気合が入った。私はスロースターターなのである。
サーブもゆるくて短いし、すごいショットも持っていないし、動きもイマイチ。
でも、試合慣れしているんだね。ふつうのボールを打つと、相手の展開にやられてしまう。

ゆるくて短いボールを打ち込むやり方は、去年さんに教わった。
全力でできるかぎりの強いボールを打ちつづけ、チャンスボールをオープンスペースに打ち込んで、なんとか、6-3で勝つことができた。
これが唯一の勝利である。

2戦目が終って、腰の痛みに気がついた。
腰椎と仙骨の境目、腸骨稜の間の筋肉がガチッと固まって、鈍い痛みがある。それ以降は、全力で戦うのを控えるしかなかった。
どっちにしろ、力不足だった。ショットのコントロール力を磨かなければ、戦術も何もあったものじゃないことを思い知らされた。
結果は1勝3敗である。

試合をやってて全然楽しくなかった。1人で参加して、1人で戦う。
バスケの試合とか、PTA時代のバドミントンの試合なら、みんなで出かけて和気藹々。分かち合う仲間がいたし、応援もたくさんいた。

テニスやバドミントンなど、道具を使うスポーツに番狂わせは起こらない。実力が上の人間が常に勝つのである。(技術が同レベルだったら、メンタルが強いほうが勝つんだって)
格下に勝っても当たり前だからちっとも嬉しくないし、格上に負けたら意気消沈して落ち込むだけなのだ。

昼過ぎにはシングルスが終って、さあ、どうしよう?と途方にくれた。腰は痛いけど、楽しいダブルスをやって気分転換しようかな・・・
その手の腰痛は、軽く動くことでかえって治る可能性と、こじらせてぎっくり腰になる可能性とが五分五分である。

ちょうど、4ゲーム先取でお楽しみ会をやっているグループに入れてもらえた。
はじめてすぐに腰の痛みが消えた。固まっていた筋肉が、動くことで血が通い、自然にほぐれていってくれた。
気心の知れた優しい人たちとのテニスは、ほんとうに楽しくて癒しになって、暗くなるまでダブルスをやった。

帰りがけに、シングルスに出ているおじさんたちとお喋りになった。
「相手が格下とはいえ、きっちり勝ち切るのはけっこう大変なんだよ」と言われた。
たしかに途中、「負け犬の心」がちらついたし、「勝ち」に行けずに、そのままずるずる負けたかもしれなかった。
半年前なら、私の打ったいいボールに相手が押され、返ってくる甘いボールに対処できなかったりしたものな。

シングルスなんて、孤独で、ちっとも面白くない・・・
という気持ちから、数日たったら、またチャレンジする気持ちが出てきた。思い通りの展開に持ち込めたこともあったし、着実に進歩はしている。
あらたな課題がはっきり見えてきたことも、今となっては心地よい。
試合で全然上がらず、ほぼ実力どおりのプレイができたことも進歩のひとつだ。

昔、親睦会で「カカシ」になってしまう私の弱点を克服する策として、さんが、「ヘロヘロ大作戦」をやってくれたことを思い出す。
前日の特訓で、身体を極限まで酷使して、頭がぐちゃぐちゃになったことで、かえって自然体で試合に臨むことができたのかもしれない。

昨日は、特訓で教わった修正点を意識して、フォームを確認しながらのんびりダブルスをやった。すすむごとに調子が上がっていった。
なんだか、すべてのショットの威力が増していた。無意識に身体が動いて、自分でも驚くぐらいの好プレーがたくさんできた。

シングルスをやったおかげかな?
孤独に耐えてひとりで戦ったことで、いろんな面でレベルアップできたのかもしれないね。こりずにまた挑戦しようと思う。
1/19(火) [映]永遠のこどもたち
映画「永遠のこどもたち」は、スペインとメキシコの合作で、監督はJ・A・バヨナ。
(以下、ネタバレ)

ピカソ、ダリなど、あまたの画家を生み出しただけあって、スペイン映画は、言葉ではなく、映像で語りかけてくる。

紺碧の海。そこに張り出したゴツゴツした真っ黒い岩山。満潮になると海に沈む洞窟。使われなくなった昔の灯台。歴史を感じさせる古い孤児院。
背景の美しさが、かえって、これから起こる事件への予兆を感じさせ、不思議に不安をかき立てる。

亡霊たちの住む館で、生者と死者の世界が交錯する物語。でも、観る人を怖がらせることが目的のホラー映画ではない。
母親の中には、「女」として生きることを選ぶ人もいる。「母」として生きることを最優先する人もいる。これは究極の母性愛の物語なのである。

はじまりのシーンは、昔の孤児院の風景。
おそろいのスモックを着た、7歳ぐらいの子どもたちが庭で遊んでいる。スペイン式の「だるまさんが転んだ」で、子どもの遊びは世界共通らしい。(今はもう見かけないのが残念である)
その中からラウラ(ベレン・ルエダ)だけが養子にもらわれ、孤児院を去った。

30年後、37歳になったラウラは、医師である夫のカルロス(フェルナンド・カヨ)と、7歳の息子のシモン(ロジャール・ブリンセブ)とともにそこに引っ越してきた。
閉鎖されていた孤児院を買い取って、障害のある子どもたちのための施設を作ろうとしていたのである。

もともとシモンは空想好きの少年。ワトソンとぺぺという友だちがいた。
ラウラとカルロスは、そんなシモンの空想をあたたかく見守っていたが、孤児院に住んでから、シモンの空想はいきなりリアリティをおびはじめる。

新しい友だちがどんどん増えていく。具体的な名前とエピソードを一生懸命話すシモンの真剣な目。
シモンにははっきりと見えるらしい子どもたちが、ラウラの目には見えない。
なんとなく不安が高まっていく。

ある日、ソーシャルワーカーを名乗る、メガネをかけた陰気で小柄なおばあさんがいきなり訪ねてきた。施設のことをあれこれ質問をする。
その老女ベニグナは、シモンのことも調べていた。
数日後、ベニグナは夜中に忍び込み、庭の物置で不信な行動をとる。

実は、シモンは養子で、しかも先天性のエイズを患っていた。ラウラとカルロスはシモンに話すタイミングを見計らっていたのであるが・・・

なぜか、亡霊というものは何でも知っているらしい。
友だちに教えてもらった、とシモンは言う。親に捨てられた養子であること、長くは生きられないこと、「自分たちと同じだ」と聞かされたのである。
しかも、亡霊たちは、物を動かすこともできる。物を隠し、移動させて、メッセージを伝えるのだ。その「ゲーム」にもシモンは夢中である。

施設の宣伝のための仮装パーティがはじまる。障害のあるこどもたちと、その父母たちがやってきた。
忙しく働くラウラに、「トマスの部屋を見つけたから、一緒に行こう」と、シモンはしつこくまとわりつく。思わず、ラウラはシモンをぶってしまう。
ラウラは、孤児院のスモックを着て、布の袋をかぶった少年に、バスルームに閉じ込められて怪我をしてしまう。
そして、パーティのさ中、シモンは忽然と姿を消してしまう。

気が狂ったようにシモンを探すラウラ。たった2000gの未熟児だったシモンを、全身全霊の愛情を注いで育ててきたのだ。
警察による大捜索網がしかれたが、シモンは見つからない。
そんな中、ベニグナがかつて孤児院で働いていたことがわかる。彼女の持っていた写真や8ミリの中には、幼い頃の5人の仲間たち、ベニグナの息子のトマスと、ラウラ自身も写されていた。

ついに、霊媒師の助けを借りることになった。特殊な装置を使い、催眠術で眠らされた霊媒師は、かつて孤児院でラウラが一緒に遊んだ子どもたちの言葉を伝える。
顔が崩れたトマスをからかって、みんなで死なせてしまったこと。それを恨んだベニグナが、子どもたちを毒殺し、死体を物置に隠したこと。

カルロスは、霊能者グループを詐欺師と呼び、彼らの言葉を信用しない。
9ヶ月もの捜索に疲れ果てたカルロスは、この館を立ち去ろうとラウラに告げる。

ラウラはどうしてもあきらめきれない。ひとり残って、かつての仲間の案内でシモンを探すことにした。
トマスの部屋ですでにシモンは死んでいた。閉じ込めたのはラウラだった。

暗い部屋で、シモンの亡骸を抱いて、泣きながら大量の薬を飲むラウラ。
しばらくたって、あたりが急に明るくなる。古い灯台も動き出し、明々と部屋を照らす。かつての仲間たちとトマスが現れ、ラウラの周りに集まってくる。

「ピーター・パン」のお話のように、大人になれなかった子どもたちのもとへ、大人になったウィンディが戻ってきたのである。
亡骸だったシモンも生き生きと動きはじめ、ラウラはふたたび幸せを見つけた。

障害のある子どもを守り育てる母の愛は、強くて深い。実子であろうと養子であろうと変わらない。
ベニグナのとった行動も、トマスへの強い愛からやったことだ。でも、子どもたちを毒殺したから、たぶん地獄へ行くだろう。

カルロスは善人だからたぶん天国に行くと思う。

シモンにふたたび出会うために、自ら命を絶ったラウラ・・・
みんなのお母さんになって、ネバーランドで子どもたちと永遠に楽しく暮らすことを選んだのである。
1/8(金) マネキン人形のような母だけど
元旦はポプラ、あんず、ピョン君と協力し合って、母をホームから帰宅させ、5人で一緒にお正月を過ごした。

ホームに迎えに行くと、職員の人が、「今日は大丈夫かな?朝ごはんをぜんぜん食べなかったんですよ。食べられるといいけれど」と、心配そうである。

母の病気、レビー小体型認知症は、「日内変動」といって、日によって、時間によって、本人の状態がおおきく異なるのが特徴だ。
母の状態に合わせてあげられればいいのだけど、介護する人員の都合で外出させるので、「運任せ」になってしまう。

その日の母はほとんど「マネキン人形」状態。目も開けない、身動きもしない、返事もしない。食卓に坐らせたけど、まったく何も食べられなかった。
好きな食べ物を口に入れてあげても、時折のろのろ噛むだけで、いつまでも口の中に残っている。
口から喉まで食べ物を移動させることを「送り」と言うらしい。「嚥下」の前の「送り」ができない。あきらめてお布団に寝かせた。

しばらくして再トライ。やっぱり食べれそうもない。
イスに坐って固まっている母に、「そうだ、ヨーカドーに買い物に行く?」と聞いたら、「行かない」と、小さな声が聞こえてきた。
「買い物、行こうよ!」と言うと、「行かない」と、また一言。
(その日喋ったのは、その二言だけだった・・・)

でも、無理やり連れ出すことにした。イヤだと言っても抵抗はできない。
ポプラが母をお姫様抱っこして、3階から階段を下って、車に乗せて出かけた。お店の中でも、車椅子に坐ったマネキン人形で、微動だにしない。

去年は自分で洋服を選べたけれど、目も開けないので、みんなで相談して母の洋服を買った。

家に帰って30分ぐらい寝かせたあと、もう一度、食事にトライ。やっと脳が目覚めたらしく、手作りの正月料理をけっこう食べてくれた。母のレシピだもの。

笑顔も嬉しそうな様子もなく、終始、無言、無表情だった母。でも、喜んでいるはずと、思い込むことにしているんだ。(笑)

今回わかったことは、母は、施設にいるから生き延びられるのだという現実である。
植物状態寸前の人間に「食べさせる」のは、ほんとうに大変だ。自宅で世話をしたら、長くても1ヶ月しか生きられないだろうな、と思う。

本人が意欲がないし、反応も鈍い。「また食べなかった」をくり返しているうちに、体力が弱って、いつの間にか「死んでいた」ということになるか・・・
無理やり食べさせて、喉に詰まらせて死んでしまうか・・・
起こそうとして転倒して、骨折したりするかもしれない・・・

施設は全館冷暖房完備。食事もそれぞれの状態に合わせてくれ、毎食何割食べたか記録をつけ、水分摂取量や排尿排便の管理をしてくれる。専門家が細心の注意を払って、24時間、世話をしてくれるのだ。
ホームにいるから、母のようなギリギリの状態でも、なんとか現在のレベルを維持していかれるのだと痛感した。
ありがたいことである。

例年のことであるが、私の年末年始は、超ハードだった。
30日まで仕事をし、31日は家の掃除とお料理。元日は(ほぼ)全員集合で、母の世話で神経をすり減らした。

2日は、クラブに初テニスに出かけた。
去年、絶好調で終ったのだけれど、年明けから絶不調。疲れ果てているせいか、身体が重い。

年末に女ダブばかりやって、「女ダブの攻略法を見つけた」と大喜びしていたんだけど、年初からは、いきなりミックスばかりをやる羽目になった。

男とばかりやっていると、女のゆるくて短いボールに慣れるまで、ものすごく時間がかかる。
女のボールになじんだあとは、男の速くて強くて深い、回転のかかったボールを返球するのがほんとうに大変になる。
まだまだ素人なんだね。

2日、3日、4日と三連チャンで、毎日違う人とゲームや練習をした。身体が縛られたみたいになって、フォームが縮こまり、動きも悪い。
・・・またテニスを忘れちゃった・・・

3日目の途中から、やっと、大リーグボール養成ギブスを脱ぎ捨てることができたみたい。萎縮していた身体が解き放たれて、なんとか圧勝することができた。

6日、7日もテニスをしたけど、なんだか「変」である。
打てたはずのショットなのに、狙ってもうまく行かず、ボロがつづく。
「ダメ」と思っていると、いきなりすごいショットを連発して、強い相手に勝っちゃったりもする。

自分でもよくわからない。
あれこれいろんなことを試しているからかなあ・・・?
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