雑談・8
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日本にもオオカミを取り戻したいね!
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鳥獣被害が年々悪化している日本
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都会に比べると田舎暮らしはほんとうに不便である。そのうえ近年は危険とも隣り合わせになりつつある。クマやイノシシなどが人里に現れるようになった。食べ物を盗むだけでなく、ときには人を襲ったりすることもある。
サルもやっかいらしい。高校時代友人が山の上に住んで、小さな畑をやっているのだけど、収穫物をサルに食べられてしまうのだそうだ。玉ねぎを抜いて育ち具合を確かめて、小さいとその場に放置していく。利口なので大きくなるのを待って食べるのだそうだ。トマトなんか完熟するのを見計らって食べに来るので、青いうちに収穫しなくちゃならないんだって。
「いくらがんばってもやり甲斐がないから、ときどきもう止めちゃおうかと思うのよね」と嘆くご近所さんもいるそうだ。
尾瀬にニッコウキスゲを見に行ったときのこと。かつては見渡す限りの平原に黄色い花が咲きほこったのだそうだが、数輪の花しか見ることができなかった。シカに若芽を食べられて、ほぼ全滅という状態なのだそうだ。
赤城山の山頂に「みんなの牛乳」の東毛酪農の仔牛の育成牧場があった。そこに消費者のための別荘を作ろうという企画が持ち上がったことがある。そばやとうもろこしの種をまき、育つのを楽しみにしていたのだけど、シカに食べられて全滅したとのことだった。山奥の畑を見張るのは不可能なのだ。
鳥獣被害が年々増加している日本。サルやシカに農作物を食べられたら、農業が難しくなる。クマやイノシシに襲われたら住むことすら危険になる。
かつて日本には山にオオカミや山犬がいて、鳥獣被害から人間を守ってくれていた。日本にもオオカミを再導入する必要があると思う人が増えているそうなのだ。
以前にブログ(→2017/1/15)とヴェルの思い出:追記27「犬語②オオカミのDNA」に書いたものをもとに、あらためて編集し直したものである。 |
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農耕民にとって、オオカミは守り神だった
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縄文時代のあと、日本人は農耕を主として暮らしてきた。
畑を耕して、種をまく。芽が出たらまわりの雑草を抜く。芋虫などの害虫を取り除く。水に気を配り、病気に気をつけながら、作物が育ちやすい環境をず~っと維持しなくちゃならない。天候不順や台風という自然災害もある。
作物が育つのには何か月もかかるのだ。米、麦、大豆、イモ類などの重要な作物は、日本では年に1回しか収穫できない。収穫は喜びだけど、とっても大変。腐らないように保存して、翌年までの食べ物を確保するのも大変。
自給自足のグループ農場に参加して、農業の大変さをつくづくと実感した。手間をかけて慈しんでも、何かが起こったら苦労は水の泡になる。
そのうえの鳥獣被害である。何か月も丹精込めて苦労して、「あとちょっと」というところでシカやサルに食べられちゃったら、泣くに泣けないことになる。奴らは暇なので、人間のいないすきを狙ってこっそりと食べにくるのだ。
農民にとって農作物を食い荒らすシカやイノシシは泥棒で、鳥獣被害から作物を守ってくれるオオカミは天の助けだった。オオカミが近くにいれば、シカもイノシシも近寄ってこない。
二ホンオオカミは「山犬」とか「大口」などと呼ばれていたそうだが、「オオカミ=大神」が名前の由来かもしれないね。
「大口信仰」といって、オオカミを「大口様」としてお祀りする神社があったという。農民は山犬のお札をもらって、家や柵に貼りつけたのだそうだ。そのぐらいオオカミの存在は大きかったのである。
チワワのティラも小さな身体のわりには口を大きく開けられる。そのたびに「大口だね~」と感心してしまう。イヌ科の動物は大口のおかげで、自分より大きな獲物と戦って仕留めることができるのである。 |
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「送り狼」の本当の意味は・・・
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若い頃によく「送りオオカミに気をつけろ」という言葉をきいた。親切そうに女の子を送っていく。守るフリをして逆に襲おうとする男がいるから用心しろ・・・という警句と思っていた。
でも「送り狼」の本当の意味は違っていた。暗い山道をひとりで歩いているときに、遠くからオオカミがあとをつけてくれば、「オオカミに送られて無事に帰れる」という安心をあらわす言葉だったのだそうだ。
ちょっと前まで日本の夜は真っ暗で、月明りだけが頼りだった。小さな集落が山の中に遠く離れて点在している。隣村からの帰り道に夜になってしまったら、ろうそくをともした提灯をぶら下げて歩くしかない。
オオカミの遠吠えがきこえても、自分が襲われるかもしれないという恐怖はなかったらしい。古来の人々は「オオカミは人間を襲わない」と信じていた。
ひとりで歩く人間を襲おうとするクマやイノシシは、オオカミがいたら逃げてしまう。結果的にオオカミは、危険生物から人間を守ってくれる存在にもなった。
日本人はオオカミに好印象を持っているが、ニホンオオカミ(山犬)はとっくに絶滅してしまった。狂犬病を恐れての野犬狩りの影響だったらしく、あっという間のことだったそうだ。 |
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狩猟採集民にとって、尊敬すべき仲間だった
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アメリカの先住民やアイヌなどの狩猟民族にとって、オオカミは「すばらしいハンター」と尊敬されていたという。狩猟の腕を競う「ライバル」でもあり、自然と共に暮らし森林を守り育てる「仲間」でもあった。
日本人も縄文時代までは狩猟と採集で食物を得ていた。
狩猟採集民は森とともに暮らしてきた。森は木の実や山菜、キノコなどの食物の宝庫である。そこに住むたくさんの小動物も食料になった。
森は自然のままに放っておくと廃墟になってしまうのだそうだ。育ち過ぎた木が森全体をおおってしまうと、太陽の光が遮断され、根元に育つ草や木が枯れてしまう。森で暮らす小さな草食動物は餌を失ってしまう。小動物がいなくなれば、捕食動物も餌を失ってどこかへ行ってしまう。
アメリカの先住民やアイヌたちは余分な木を定期的に伐採し、ときには焼いたりして、何世紀も手入れをつづけて森を健全に保ってきた。
オオカミも一役買っていた。シカなどが増えすぎると若芽を食い荒らし、森が枯れてしまう。オオカミは獲物を狩ると、頭からひずめまで一滴の血も残さずに食べてしまう。放置されてある死骸もきれいに平らげてくれる。森をきれいに掃除してくれたのだ。
狩りのやり方はオオカミに学んだそうだ。獲物を見つけたら遠吠えで仲間に知らせ、集団で獲物を追い込んでいく。身振りと声色で合図を送り合いながら協力して狩りをする。
自分よりはるかに巨大な動物にもひるまない。相手を弱らせてから、大口を開けて喉に食らいつく。そんなオオカミを狩猟民は尊敬し、彼らを見習って狩りをしたのだ。 |
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牧畜民にとって、家畜を盗む泥棒だった
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「赤頭巾ちゃん」や「オオカミ少年」などの童話から想像されるように、ヨーロッパでは、オオカミはずっと悪者扱いされてきた。
牛や羊の放牧で暮らしをたてている牧畜民族にとって、オオカミは大事な財産を盗みにくる「こそ泥」で、卑しく狡猾な悪の代名詞とされてきた。
アメリカ大陸では、カナダをのぞくほとんどの地域で、オオカミは絶滅している。ヨーロッパから移住した人間がすごい勢いでオオカミを殺しまくった結果である。あらゆることに極端な北米の白人ならでは、である。
白人が移住して以来、バッファローやグリズリーなどの野生動物がほぼ絶滅した。当然、オオカミは放牧されている牛や羊を狙うようになる。牧畜を営む人間にとって、オオカミは大切な財産を盗む「敵」だった。狩猟を趣味とする人間とっても、シカを捕らえるオオカミは「邪魔者」だった。毛皮が高値で売れるという経済的価値もあった。
すごい勢いで殺しまくったらしい。見つけ次第、撃ち殺す。わなにかける。一番むごいのは、羊の死体にストリキニーネという毒薬をかけて、道端に放置しておいての毒殺だった。単独で行動する動物と違って、群れで行動し、みんなで食べ物を分け合うオオカミは、あっという間に絶滅してしまった。
無残に殺されたオオカミたちのことを思うと、私も胸がつぶれるような思いである。
「帰ってきたオオカミ」(晶文社)の著者、リック・バスはオオカミを愛してやまない詩人である。鋭い牙や爪を持つ捕食動物は生き物を食べる「悪人」で、つぶらな瞳のかわいい被食動物はかわいそうな「善人」という、自分勝手な正義をふりかざした人間たちに対する怒りをあらわにしている。
神に成り代わったつもりで、人間が自然をコントロールできると信じていたのだが、大自然がもたらすバランスのほうが、結局ははるかに優れていた。 |
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オオカミは生態系の維持に欠かせない |
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アメリカ大陸ではオオカミがいなくなったせいで生態系が崩れ、深刻な問題を引き起こすことになった。
イエローストーン公園ではエルクやシカなどが増えすぎて困っていた。植物の芽を食い荒らすので、森林が破壊されていく。エルク自身も、感染症や病気が蔓延して、群れの健康が損なわれていった。
オオカミがシカを殺すときは、群れの近くをうろうろして、弱っている個体を見つけ出す。相手が手強いと自分の命が危険にさらされるからだ。
病気のシカや、トロい子ども、年寄りなど、弱くて不健康なシカが淘汰され、強くて健康で頭のいいシカが生き残ることになる。感染症の蔓延も防げるし、シカの群れの健全性が保たれる。
人間がシカを殺すときは、遠くから銃で一番大きな個体を狙う。健康で長生きをして、数々の経験を積んだシカが殺されることになる。指導者が殺されると、群れにとっては大きな損失になる。
人間と違ってオオカミは食べるだけしか殺さない。草食動物がいなくなれば、餌を失ったオオカミも生きていけない。「自然」はこうやって生態系の微妙なバランスを維持してきたのだ。
アメリカ合衆国でオオカミを復活させようという試みがはじまった。
ハンク・フィッシャー著、「ウルフウォーズ -オオカミはこうしてイエローストーン公園に復活した-」(白水社)には、オオカミの生態や絶滅の理由、再導入の経緯などが詳細につづられている。
牧畜業者の組合からそうとうな反発を受けて、長く困難な交渉を重ねたそうだ。
カナダのオオカミをイエローストーン公園に移住させることに成功し、発信器を取り付けたオオカミを放って、彼らの動向を観察することになった。
現在ではいくつかの群れが生息するようになり、狩りをするオオカミの姿が見られるようになった。
他の地域での導入を目指しているが、人々を説得するのには長い年月がかかりそうである。 |
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カルパチア山脈の羊飼いの話 |
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オオカミに興味を持ってから8年ぐらいになる。いろんな本を読み、オオカミが出てくる映画やドキュメンタリー番組を選んで見るようになった。
はじめの頃はオオカミについての古い考察をもとにした作品も多かった。オオカミを再導入しようという動きに対して、猛反対をしている牧畜業者の団体などが制作したと思われるプロパガンダのような映画もあった。なんとしてもオオカミを悪者に仕立て上げようといういう意図が感じられて不快だった。
アメリカ大陸は開拓者が乗り込んでいって、牧場のために広大な土地を囲い込み、先住民を放逐し、野生生物を絶滅に追いやり、あらゆるものを破壊して建国した新興国である。
でもヨーロッパは歴史と伝統のうえに成り立っている。いまだにオオカミが生息している地域があるのだ。オオカミが登場するドキュメンタリーの中に忘れられないひとコマがあった。
(もう一度見たいのだけど、題名を忘れてしまった)
たぶんカルパチア山脈での話と思う。先祖代々羊の放牧をしてきた老人がいた。羊を守るための犬(シープドッグ)を飼っている。生まれてすぐに羊小屋に入れて、羊とともに暮らすことに慣れさせるのだそうだ。放牧する羊の群れのまわりを駆け回り、羊を守るのがシープドッグの仕事である。
ときには羊や犬がオオカミに襲われて食べられてしまうこともあるそうだ。
「オオカミを殺さないんですか?」というインタビューに、「オオカミも自然の生態系の一部。彼らがいなくなったら生態系が崩れてしまう。羊や犬は惜しいけれど、共存していくことがお互いにとっての利益になる」と、淡々と語っていた。
オオカミは「悪」を行っているのではなく、生きるために狩りをしている。「欲」に駆られて動物を殺す人間よりもはるかに崇高であるとも言える。
最近ではオオカミの生態を正しく理解し好意的に伝える番組だけになった感じで、ホッとしている私である。 |
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オオカミの群れは家族だった |
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オオカミ研究の第一人者だったデイヴィッド・ミッチは、かつて「オオカミの集団は支配と服従で形成されている強固な縦社会である」と推測した。
交尾できるのはボスのカップルだけで、それぞれ「アルファー雄」と「アルファー雌」と命名した。ボスの命令には絶対服従。群れには序列があって、獲物を食べる順番も序列に従っていると推測したのだった。
オオカミの研究がすすんで、かつての間違いや思い込みが次々に訂正されつつある。
オオカミの群れは「家族」だった。交尾するのはお父さんとお母さんだけ。毎年生まれる子どもたちは兄弟姉妹なので、同一家族内では交尾をしない。ミッチもその後、「繁殖オス」「繁殖メス」という言葉を使うようになったそうだ。
厳しい自然環境の中で生き抜くためには、経験豊富な年長者に従うのは当然である。
獲物を食べる順番は「序列順」ではなく、自然にそうなるのだと私は思う。
狩りをして獲物を倒す。いきなりみんなで食べるのは危険である。断末魔のあがきで、足蹴りを食らわされるかもしれない。完全に仕留めたかどうかをまず確認する。
硬い皮を食い破るのは、鋭い牙と頑丈なあごを持つ大人のオオカミが行う。獲物の身体を崩して、食べやすい状態になってから年少の子どもたちが食べはじめる。
人間の大人が子どものために、食べ物を小さく切ったり、骨を取り除いたりしてあげるのと同じことだ。
犬の生態も祖先のオオカミになぞらえて語られている。飼い主の言うことをきかない手に負えない犬は「アルファー・シンドローム」で、自分を群れのボスと思い込んでいるせいだと言われてきた。
ヴェルと暮らして犬には「誰がボスか」という概念はないと思うようになった。
家族を守るために、私がキャーッと叫ぶと見えない敵に吠えた。雷に向かって吠えつづけた。赤ちゃんが泣くとワンワン吠えて親に知らせた。病人がいると寝床のそばでずっと待機していた。人間がケンカをすると、ふたりの間を行ったり来たりして平等に愛想をふりまいた。
誰も教えた訳ではないのに、家族の一員として自分の役割と思うことをやった。不満を訴えるときにはガルルと小声で唸った。大人の手をガブリと嚙むこともあったけど、赤ちゃんには甘噛みでたしなめるだけだった。
そして言葉を生み出したミッチ自身がのちには自分の説を否定するようになったのである。 |
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言葉と身振りでコミュニケーションを取る
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ギャリー・マーヴィンの「オオカミー迫害から復権へ」(白水社)では、オオカミの歴史、迫害の理由、オオカミの特徴が、系統的に語られているが、この中に興味深い一説があった。
「---オオカミは、聴覚、嗅覚、視覚による合図が混じりあったものでコミュニケーションをとることにより複雑な社会生活を営んでいる。
幼い仔オオカミの声は、キャー、キー(金切り声)、キャンキャン(鳴き声)、そしてワフ(吠え声)という音で表現される。
彼らが若いオオカミに育つと、ウー(呻き)、クーン(鼻を鳴らす声)、グルルル(怒って唸る声)、ワフ(吠える声)という音に変わり、やがて成獣のウーフ(低い唸り)、キー(叫び声)、そして遠吠えの声となる---」
オオカミも「言葉」を持っていたのだ。声色や音のトーンで微妙なニュアンスを使い分け、身振りや表情をまじえてコミュニケーションを取っている。一緒に遊んだり、お喋りしたり、じゃれたり、助け合ったり、ケンカしたりしながら家族の絆を強めていく。巣穴の中でくっついて眠る。互いの体温で温まるし、お尻や背中をくっつけると外に向けた耳と目と鼻で危険をいち早く察知することができる。
年長の子どもが弟や妹の世話をする。経験豊富な両親の指導のもと、協力し合って狩をして、家族みんなで食べ物を分け合う。
成熟して力がつくと「一匹オオカミ」となって、生まれ育った群れを離れる。集団でやっていた狩りをひとりでやって生き延びなければならない。困難を乗り越えたオスとメスが出会うと、ふたりであらたな群れ(家族)をつくる。
日本語の「一匹狼」には「孤高の人」というようないいイメージがある。英語の "lone wolf" に危険な人間というニュアンスがあるのは、放牧民とオオカミとの関係からきているのだろう。 |
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オオカミは人間を襲わない
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どの本にも「オオカミは人間を襲わない」と書かれてある。本当だろうか?日本人も古来からそう信じてきた。ここからは私の仮説である。
オオカミと人間には共通項がある。家族を中心とした群れで暮らし、近親婚はタブーとされている。言葉や身振りで合図を交わし、集団で狩りをする。協力し合って食べ物を手に入れ、分け合って食べる。親がいなくなったら(もしくは役立たずだったら)、他人の赤ちゃんでもみんなで育てる。
太古の昔人間はオオカミの祖先を飼いならし、「犬」という仲間にした。集団で暮らすオオカミと人間にとって「仲間」は何よりも大切である。
他の動物、ハトでもコイでも餌を上げる人間を覚えていて、姿を見ると近寄ってくる。でも人間を守るために命をかけたりしない。
犬は自分と同族の犬ではなく、人間の家族の一員になる。家族を守るために自分の命を危険にさらすこともいとわない。「餌」がなくても「言葉」でほめられただけで大喜びをして、人間の役に立とうと一生懸命になる。
記憶を保存するのは脳だけじゃない。臓器移植をした人間がそれまでと違う食の好みや趣味を持つようになった話は有名である。ときには臓器の持ち主の記憶まで共有することもあるという。小さな細胞のそれぞれがひとつの人格を共有し、経験を記憶し、DNAに刻んで次の世代に伝えている。
「送り狼」の言い伝えにもあるように、人間のDNAには「オオカミは人間を襲わない」と刻まれているらしい。
人間は火を扱い、棒や斧や弓矢などの道具を使う。誰かひとりでも襲われたら、集団で徹底的に仕返しにやってくる。オオカミのDNAには「人間には敵わない」「近寄るな」と刻み込まれているのかもしれない。
オオカミにとって人間は「神」のような存在だから、人間の赤ちゃんを食い殺さずに育ててくれるのかもしれない。人間だってオオカミの赤ちゃんがいたら、食べずに育ててあげるのだもの。
高度な社会生活を営む動物は地球上でたった二種類しかいないのである。極寒の地でも、家族で肩を寄せ合って、けなげに生きるオオカミたち・・・かわいい!日本にも取り戻せたらいいね~ |
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