母のリハビリカルテ 15
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2014年8月~2015年7月 |
身体は寝たきりになったが、頭は覚醒していった
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母は完全な「寝たきり」になった
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母が新潟で向精神薬で植物状態寸前になってから4年たった。ちょうふの里(特養)入所してから9カ月が過ぎ、母はついに完全な「寝たきり」になった。
身動きもままならなくなって、人の手を借りなければ生きられなくなったのである。
ROM訓練の途中で母はぽつりと「死なせてくれ」と言った。困ってしまった私は「あんたの気持ちは分かるけど、それは神様が決めることだからね~」と言うしかなかった。
「神様が呼んでくれるまでは、残念ながらがんばるしかないんだよね」とかなんとか、何気ないふうに話したら、母は黙って聞いていた。
『なるほど、母は心底辛いのだな』とはじめて実感した。プライドが高くて活動的だった母、人に迷惑をかけることを極端に恐れていた母である。娘としてはどうしてあげることもできない。
タイプ8の母の憎まれ口にはさんざん苦労したけど、泣き言を言わないのはありがたかった。母は二度と「死にたい」とは口にしなかった。
うちの患者さんが「帰ると言うと、母親が泣いてしまうんで、それがつらい」と言っていたけど、うちの母はじっと耐えていた。「来てほしい」と言えない母、「帰らないで」とも言えない母が、かわいそうではあったけど私にとっては救いだった
仕事がどんどん忙しくなって、空き時間を作るのが難しくなった。
ペットロスで2カ月以上休止していたテニスを再開した。もうお散歩に行かなくてすむ。午前中にテニスをしたら、いったん家に戻ってヴェルを連れて仕事に出かけていたのだけど、テニスクラブから仕事場に直行できるようになった。
休みの日は朝から日暮れまでテニスをやった。
ちょうふの里の相談員のKさんは、小柄で丸顔でいつも元気でニコニコ笑顔のかわいらしい女性である。食事の時間は必ず介助に入っていた。
ある日、背もたれを持って来て、「これがあると『きつい』とおっしゃるので、ないほうがいいみたいです。お持ち帰りください」と言われた。
(2万円ぐらいしたもので、後日ホームに寄付をした)
いつの間にか母は坐位を保てるようになっていたのだった。車椅子の上で身体を傾けて、よだれを垂らしている姿を見かけなくなった。
妄想的な話もめったにしなくなった。母の様子を観察して、どうやら向精神薬による脳障害が回復しているらしいと思った。
その前からはじまっていたレビー小体型認知症の症状のひとつ、パーキンソン症状が進行して、会話や身動きが難しくなった、というのが真相らしい。
母の服がいつもきれいなので、おむつ交換に来た職員さんに、「どういうタイミングで着替えさせるんですか?」と聞いてみた。
職員さんは「汚れている、と気がついたらすぐにです。何も分からなくなったような人でも、やっぱりプライドがあるんです。自分の服が汚れていると、『恥ずかしい』と、気持ちが沈んでしまうんです。常にきれいにしてあげると、自分を誇れる気持ちになれる。そういうことを大事にしているんです」と言った。
すごい!と感動した。青樹ではリハビリは充実していたけど、週に2回のお風呂以外はほとんど着替えをしていなかった。ちょうふの里はリハビリは週に1回だけど、お年寄りの心のケアにまで気を配ってくれているのだ。
ベッドに寝かされている時間が長いことを心配していたのだけど、声かけなども頻繁にやってくれていたようである。
「こんなことを話した」と、わざわざ教えてくれる職員さんもたくさんいた。
担当のUさんが「この間お母さんに『うるさい!』と言われたんですよ~」と笑いながら話してくれたこともあった。いつも無口な母が言葉を発したこと、「うるさい!」でも、「反応してくれた」ことを喜んでくれたのである。
「週に2回のROM訓練で拘縮は防げる」とサクラさんに教わった。この頃にはリハビリ師が週に1回ROMをやってくれるようになった。私が週に1回やれば、合わせて2回になる。
歩行訓練ができなくなってリハビリに通う気力がド~ンと下がった。 母の介護はホームの職員さんたちに任せっきりになったのである。 |
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母は相変わらずほとんど「無言」
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ROM訓練 |
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2014年8月2日、ROMをしながら、新潟でのことをあれこれ話してみたけど、母はボーッとしていて無反応。一言もしゃべらなかった。
5日、市役所に電話をして保険証をもらいに行き、ちょうふの里に届けた。ベッドで寝ている母に、職員さんのフリをして「お名前は?分かりますか~?」ときいてみたら、「名前ぐらい知ってる。水越スミ」とはっきり答えた。
馬鹿にされたと思って、母はムッとしたらしい。
7日、ゴーヤ寿司を作って、あんずとヨーコを駅に迎えに行き、一緒にホームへ。あんずとヨーコのことをちゃんと分って名前を言えたので、「じゃ、私は?」ときいたら、返事をしなかった。
私がROMをしているときに、あんずが見よう見まねで母の片手のROMをやったら、反対側の手であんずの手をはたいた。ときどきROMに抵抗するのだ。
15日、私の孫2人を連れて行ったら、母は「夏休みなの?」と言った。まともな認識があることに驚いた。帰る前には2人と握手していた。
20日、ROM訓練。母は一言もしゃべらなかった。
27日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。母はけっこう食べられた。
31日、不動産屋さん(ハイホリック)から電話。会う日時を決めた。 |
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酒田の土地が売れた
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9月1日、ROM訓練。
2日、不動産屋さん(ハイホリック)が治療室に土地を売るための書類を持って来てくれた。見積もりを送ってくれた中で、一番高額な回答があった不動産屋と契約することにしたとのことだった。
5日、ROM訓練。
12日、ROM訓練。
19日、不動産屋さんが土地の売却に関する書類を持って来てくれた。固定資産税を払った証拠の書類が必要とのこと。売却のあとの(支払い済みの)分は日割りで戻してくれるそうだ。
21日、不動産屋さんに酒田の土地の固定資産税の領収書を郵送した。
23日、母の妹から電話があった。ROM訓練のあと、叔母に電話をかけて母に話をさせようとしたけど、母は一言も喋らなかった。
30日、母は無表情で無言。歌いながらROM訓練。 |
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母が半年ぶりに(まともに)口をきいた
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10月3日、治療室に来てくれた不動産屋さんに、土地売却に必要な最後の書類を渡した。彼の話では、たまに悪徳不動産屋がいるそうだ。契約書を作成して、「送金した」と嘘をつき、権利書を渡したあとで、「実は振り込まれていなかった・・・」という事件がときどきあるそうだ。
6日に酒田の不動産屋に出向くとのこと。送金が確認出来てから権利書を渡すので、その時間、銀行で待機するように言われた。
6日、朝10時に不動産屋さんから「酒田での土地の契約が終わった」という電話があった。
11時ごろに銀行へ行って、ATMに何度も通帳を差し込み、入金されたかどうかを調べた。なんだかハラハラ、ドキドキである。
入金の確認ができたので、不動産屋さんに連絡をした。
7日、弟に電話をして、土地が売れたことを伝えた。「母が2分の1、私とあなたで4分の1ずつ」と言ったら、「お金くれるんかい」と嬉しそうだった。
「振込先を教えてほしい」と言ったら、「母ちゃんの見舞いに行くから、そのときに直接教える」と言われた。
10月8日、『どうせ分からないんだろうな』と思いながらも、無言でROM訓練はできない。「酒田の土地が売れたんだよね」と言ったら、母はいきなり覚醒して、「それはよかった」と答えた。「でも、すごく安かったんだよね」と言ったら、「いいじゃないの、安くたって。売れたんなら」と答えた。
母がまともな口をきいたのは半年ぶりだったので、えらく驚いた。内心、もうボケちゃってるのかなと、あきらめの境地だったのである。
私は調子づいた。売値が800万円だったこと、母が2分の1で、私と弟で4分の1ずつ分けることにしたこと。ハイホリックのご両親とは電車の中でバッタリ会ったことがあり、顔見知りである。不動産屋さんの活躍ぶりやご両親のことまで、ひとりでべらべらしゃべりつづけた。
母はずっと無言で聞いていたけど、母の脳にしっかり浸透していくのを感じた。
久しぶりに会話が成り立って、ほんとうに嬉しい驚きだった。母は現実的な人間なので、『お金の話には反応するのかな?』と想像したりした。パーキンソンの筋肉の硬直で口をきくのが億劫になっていただけで、私の話を理解してくれていたのだ。これからは会話にちゃんと取り組もうと決心した。
このあと母の脳は一気に覚醒していった感じである。酒田の土地についての「気がかり」が脳の容量を圧迫していたのかもしれない。私が売却をやり遂げたこと、弟にもきちんと分けたことで、私に対する信頼感が高まったこともあると思う。
「安心」が脳を楽にしたおかげで、目下のことに集中できるようになったのだろう。
13日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。食べさせるのにとても苦労した。口に入れてあげたお寿司がなかなか飲み込めない。口の中に滞留して喉を越えてくれず、ご飯粒の混ざったよだれがダラダラ垂れてくる。なんとか3皿ぐらいは食べられたんだけど、ものすごい時間がかかった。
ホームの人にその話をしたら、「ああ、送りができなかったんですね」と言われた。口から喉へ食べ物を移動するのを「送り」というのだそうだ。
14日、不動産屋さんに売却の手数料を振り込んだ。2回も酒田に行ってくれたのに、「父と母がお世話になっていますから」と、その費用をサービスしてくれた。
17日、不動産屋さんが売却の書類を持って来てくれた。「驚くほどのすごい税金を取られますよ」と言った。国税庁のホームページのコピーも持って来てくれ、申告するときの金額を計算してくれた。
私が「計算ができない」と言うと、母の分、弟と私の分と、個別の計算もしてくれた。
18日、私の風邪が治っていなかったのだけど、マスクをしてROMをやった。
25日、ROMをしながら「誰だか分る?」ときいたら、母は「良子」と答えた。目も開いていた。
31日、ROM訓練。 |
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弟が振込先を教えに来た
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11月8日、ROMの途中で「おしっこ」と言うので、トイレに坐らせた。母はまともでいろんな会話ができた。素晴らしい!と感動した。
15日、5時にホームに着いたら、母のベッドの脇に弟が立っていた。母はしっかりした顔をしていた。
ROMのあと、弟と2人で飛田給のステーキハウスで一緒にご飯を食べた。弟は終始ニコニコ笑顔で、お金が入ることがよほど嬉しかったようだ。あれこれいろんなお喋りをして、久しぶりに姉弟らしい楽しい時を過ごし、昔に返ったようなほのぼのした気持ちになれた。
弟は「母ちゃん、ずいぶんきれいになったな。前はよだれで汚かったのに、服がきれいだわ」と言った。弟の着眼点は「服」にあるようだ。
私は「ちょうふの里って、いいところでしょ~。このあたりで一番評判がいい施設なんだよ。何百人待ちだったところに、優先的に入れてもらったんだよ」と、胸を張ってちょっと自慢をした。
「でも母のために仕事が減っちゃって、毎年100万、100万と売り上げが減っちゃって、すごい大変なんだよね」と言ったら、弟の返答は「新潟の病院に置いとけば安上がりだったのに!」で、しかも自信たっぷりだった。
「えっ?」と私は驚き、「あのまま新潟にいたら、とっくの昔に植物人間になっていたんだよ!」と言ったら、弟は何も答えなかった。
ハイホリックが計算してくれたメモを弟に見せた。合計金額から、司法書士費用、不動産屋の手数料などは引かれた金額と、それぞれの分を計算した金額が書かれてある。
「私は計算できないから、不動産屋さんにやってもらったの。自分で計算してみて」と弟に言ったら、「いいよ」と答えた。
21日、弟は母のところに寄ってから新潟に帰ると言っていた。母のベッド脇の棚に、不動産屋さんの書類が忘れられているのを見つけた。
税務署に提出するときのためと、弟の分まで用意してくれたというのに、ほんとうにズボラな男である。
22日、銀行のATMで弟に送金しようとしたら、「限度額を越えているのでできません」の表示が出た。
25日、弟に、「ATMで送金できない。開いている時間に銀行に行く時間が取れないので、送金はもうしばらく待ってほしい」とメールをした。
28日、銀行に行って、母と弟の口座に土地の売却代金を送金した。銀行の女性に計算してもらって、弟への振込手数料は弟の取り分から引かせてもらった。
こちらは大変な労力と手間をかけたのに、弟は受け取るだけ。同じ金額というのはとても損をした気分だったので、せめてもの腹いせである。 |
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食べ物の「送り」が難しい日が多くなる
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12月1日、10日も間が空いてしまった。左足首の捻挫と(第三腓骨筋の)肉離れを同時にやって、歩くのもやっとだった。踏ん張れないとROM訓練ができないのである。
職員のフリをして「水越さ~ん、具合はいかかですか~?」と母に声をかけた。母はあわてて薄目を開けて、「はい、元気です。おかげさまで」と答えた。
でも娘と分かってむっつりになった。職員さんには丁寧に接していることが判明して、ホッとするやら、ムッとするやらである。
10日、母はちょっとボケていて、そのせいかお喋りだった。ROM訓練の最後に、ベッドに腰をかけて肩を回すリハビリをする。私と一緒に大きな声で、「1、2、3、・・・」と数えてくれた。
21日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。母の大好物のかんぴょう巻きがなくなっていた。
母は眠り姫状態だった。この日はとくに「送り」が悪くて、いつまでも口の中に食べ物が滞留して、なかなか喉を越えてくれない。お寿司の混ざったよだれをだらだら垂らしていた。
時間がかかったけど、母はなんとか2皿ぐらい食べられた。 |
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お正月は元気で買い物もできた
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2015年1月1日、母をちょうふの里へ迎えに行って、うちで新年のお祝いをした。長男一家が来なかったので、大人だけ5人の静かなお正月だった。母は調子が良かったので、たくさん食べてくれた。
おふとんに寝ている母の隣にもぐり込んで、私も一緒にお昼寝をはじめたのだが、『そうだ、人手のあるときに母の靴や洋服を買いに行こう』と思い立った。
ネットで調べてみたら、イトーヨーカドーが元日からオープンしていたので、みんなで車で買い物に行った。
店の入り口で車椅子を借り、母をのせて店内を探索した。介護シューズとズボンは母に相談しないで選んだけど、上に着るものは母に選ばせた。
次から次へと母のところに洋服を持って行き、「これ、買う?」ときいた。母は「買わない」とか、「下品」とか、「飽きた」とか、次から次へと却下した。
母が「買う」と選んだ洋服は、施設の洗濯に耐えられそうもないデリケートなものだったけど、お洒落をすれば気分が高揚するかもしれない。
買い物をしていたら5時になった。母がとても疲れてしまったので、そのままホームに送り届け、5時半の夕食に間に合った。
2日、ROM訓練。「昨日は楽しかった?」ときいたら、母は「楽しかった」と答えてくれた。帰りがけに「また明日ね」と言われ、う~ん、と悩んだ。暮れからお正月にかけては主婦は死ぬほど大変なのである。
『今日からが私のお休み』と、やっとホッとしたところなので、困ってしまった。(数日後にぎっくり腰になった)
15日、ROM訓練。
23日、ROM訓練の最後のメニュー、坐位で肩を回すときに母も一緒に数を数えてくれたんだけど、途中でいきなり泣き出した。
ベッドに寝かせたあと、母が「あんずちゃんに会いたい」と言ったのでびっくり仰天した。あんずには前日に自宅のお掃除に来てもらったのだけど、母のところに寄る時間がなかったのである。
「動けない人にはテレパシーがあるんじゃないか・・・」と、ときどき思う。
「また来週ね~」と母に言って帰った。
31日、ROM訓練。母はボーッとしていた。 |
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まともな会話が増える
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2月5日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。母は眠っていたけど、なんとか食べられた。帰りに洋品店に寄って、とってもお洒落でかわいいカーディガンを見つけた。
ホームに送り届けたとき、よだれと食べこぼしでぐちゃぐちゃになったタオルを返すのが気が引けた。家に持ち帰って洗ったんだけど、汚れがぜんぜん落ちない。いつも『汚いタオルだな』と思い、『タオルは取り替えないのかな?』と思っていたのだけど、洗っても落ちない汚れが染みついていたのだ。
洗濯はホームでという規則である。どうやら合成洗剤を使っているらしい。汚れ落ちが悪く、しかもゴワゴワに硬くなっていた。
石けんで洗うと汚れがきれいに落ちるうえに、洗いざらしてボロボロになっても、いつまでも真っ白でフワフワなのである。
15日、ROM訓練のあと、母に「お金をくれ」と言われた。
16日、あんずと一緒に母のホームへ。ROM訓練のあと、お喋りをした。
24日、ニトリで汚れの目立たない濃い色のタオルを大量に買い、ホームに届けた。古いのはホームに寄付をして、雑巾にしてもらった。
母はお喋りはしたのだけど、この間買ったかわいいカーディガンの話には反応しなかった。 |
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3月7日、ROM訓練。
17日、ROM訓練のあと、母に「お名前は?」ときいたら、「水越スミ」。「父ちゃんの名前は?」ときいたら、「俊治」。「自分のお父さんの名前は?」ときいたら、「福松」。「お母さんの名前は?」ときいたら、「こう」。全問正解だった。
24日、ROM訓練。
 31日、ROM訓練。相談員のKさんが、「昨日のお花見のとき、パチッと目を開けて、『桜が満開で、きれいね』と言ったんですよ」と教えてくれた。
実家のご近所さんのKさんと酒田の叔母から電話があった。Kさんからは「もう草取りができなくなったので、これからお礼はHさんだけにしてください」という電話をもらっていた。酒田の叔母には土地のことで長年お世話になっていた。
2人に送ったプレゼントが届いたので、そのお礼の電話だった。 |
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職員さんが「外食」を励ましてくれた
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4月12日、ROM訓練。母はボーッとしていた。
20日、歌いながらROM訓練をしたあと、相談員のKさんとケースカウンセリングをした。
私が「お寿司を喉に詰まらせるんじゃないかと心配で心配で、もう母を外食に連れ出す自信がなくなった」と話したら、「気分転換になりますから。楽しみにしていらっしゃるし、ぜひ続けてください」と励ましてくれた。 |
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5月1日、ROM訓練。10日ぶりだったので、関節が固まっていてリハビリが大変だった。母は何を聞いても「わかりません」を連発した。
4日、相談員さんに励まされたので、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。
10日、夜の7時半にホームへ。母はよくしゃべって元気だった。最後の肩を回すROMのときは、1~40まで一緒に数えてくれた。 |
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6月3日、ROM訓練。母が「爪が伸びてる」と気にしていた。私は怖くて切れないので、職員さんに伝えて帰った。
9日、ROM訓練。母は目を開けていたけど、一言も口をきかなかった。
14日、ROM訓練。母が「お風呂は昨日入った」と言った。
23日、ROMのとき、歌い始めたら母は目を開けたけど、話しかけても反応しなかった。
30日、母は目を開けていたけど口をきかなかった。歌いながらROM訓練。 |
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2015 7月 |
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7月2日、あんずと一緒にホームへ。ROM訓練のあと、母を車椅子にのせて中庭に出た。母はまあまあ元気だったけど、『老けたなあ』と感じた。
3日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。母はけっこう食べられた。
6日、ホームに着いたら、ちょうど母がストローでジュースを飲んでいた。飲み終わってからベッドに連れて行き、ROMをした。
14日、ROM訓練。母はけっこうお喋りだった。
24日、母が口をきかないので、歌いながらROMをした。 |
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リハビリと介護の本質的な違い
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「歩かせたい」という私の希求は強烈だった。「歩く=自由」という本能的なこだわりが自分の中にあるのかもしれない。母はとても活動的な人間だったから、歩けなくなったらさぞかし辛いだろうと思ったのだ。
何より鍼灸師としての職業柄から来ているのだろう。
うちの治療室には元気な人がやって来る。元気な人が「もっと元気になりたい」と来院するのだ。
身体の不具合を治療して、本人が望む暮らしができるように手助けするのが仕事で、「治った」という喜びを共有することが生き甲斐なのだ。
患者さんたちはみなさん前向きでやる気に満ちている。母のように認知症がはじまって「やる気がない」人は、実は私の管轄外なのだ。
母が亡くなったあと、何度も母が元気に動き回っている夢を見た。「あ、やっぱり治ったんだね!」と夢の中で大喜びをして、目覚めてから呆然とする。
今思えば、私は母をゾンビの前の状態に戻そうという、途方もない「夢」を描いていたのだ。だから死に物狂いでリハビリに通ったのだ。
衰えていく母を見て、それが現実と思い知らされた。母が立てなくなったことで大きな挫折感を味わい、やる気を失ってしまったのである。
私は何かをしないではいられない人間だ。母のそばに「ただそこにいる」ことができない。「やることがない」と行き詰まってしまうのである。
ちょうふの里のカンファランスで「歩けるようにしてほしい」とお願いしたとき、職員さんたちはみなさんうなづいて、親身になって聞いてくれた。
でも内心は「現実を知らない家族」の、よくある「過大な要望」と、ほほえましく思っていたのかもしれない。
介護の現場で働く人たちにとっては、母のような人が「歩けるかどうか」はさほど大きな問題ではなさそうなのである。つまりは、老人が最後に寝たきりになるのは自然のことなのだ。衰えていき、死にゆく人を介護する仕事なのだ。
いかに余生を快適に安楽に過ごせるかを主眼にして、職員さんにたちは一生懸命に母の介護をしてくれた。食事、着替え、体位の交換、おむつ交換、そして頻繁な声かけが、「寝たきり」の老人にどれだけ大きな力をもたらすかをまざまざと体験した。
おかげで、母の頭はどんどんしっかりしていったのである。 |
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16ページ目へつづく |
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Updated: 2023/12/30 |
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