母のリハビリカルテ 9
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2012年1~2月 |
転院先の医師が母を薬漬け&寝たきりにする
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褥瘡が治らないまま転院になった
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1カ月前(12月2日)に母は慈恵医大で褥瘡の手術をした。レベルダウンするかと心配したのだけど、入院したのが外科病棟だったことが幸いした。
若くて頭がはっきりした患者さんたちの中、認知症の老人は母ひとりだけ。看護師さんたちが協力的で何度も歩かせてくれたし、同室の患者さんたちにも声かけをしてもらって、母の頭はどんどんしっかりしていった。
でもそれが1年半前のゾンビ状態からの快復の絶頂期で、ここから新たな困難に直面したのである。
<リハビリメニュー>
①あん摩で筋肉の硬直をほぐす
②ROM訓練で関節の拘縮を防ぎ、可動域を維持する
③車椅子を押させて歩行訓練
④会話
⑤好きな食べ物を運ぶ
⑥外食 |
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- リハビリ - |
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歩行訓練ができた日 |
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歩けなかった日 |
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特記事項 |
いいニュース |
悪いニュース |
外出、外食 |
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慈恵医大→ |
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→青木病院 |
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1月1日、慈恵医大に入院中の母をお見舞いに行った。長男一家、ポプラにあんずにトモ君と総勢8人である。おせち料理を持って行って、ホールで母に食べさせた。
お散歩に行こうとしたら、排便タイムになった。お尻の褥瘡の手術のあとなので、傷の消毒が大変とのこと。時間がかかりそうなので、看護師さんにお任せして家に帰り、お正月のパーティをやった。
2日、5日に退院することになったと言われた。青木病院に転院して、褥瘡の治療をすることになったそうだ。
青木病院は、新潟でゾンビだった母を引き受けてくれ、歩けるようにしてくれた病院である。古巣なので、なんの心配もしなかった。
レベルダウンしないように、慣れるまでは毎日通う覚悟はしていたけど、問題はそれどころではなくなった。
内科は精神科とは別世界で、最悪の方向に向かって行ったのだ。 |
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バルーンを入れ、寝たきり状態にするのが方針
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1月5日、あんずとヨーコが来てくれて、慈恵医大を退院した。後期高齢者の母は1割負担で、36日間の入院費は94850円だった。ひとり世帯なら減免申請ができたそうだけど、2カ月前に住民票を移動して私の世帯員になったばかり。ちょっと惜しかったね。
そのまま車で青木病院に行った。この日の母は絶好調で、足取りもしっかりと、歩いて病院に入った。
入院は内科とのことで、4人で看護師さんの面接を受けた。母は元気でニコニコ笑い、楽しそうにお喋りしていたのである。
説明を聞いてびっくり。なんと私服は禁止で、オレンジかグリーンのスェットの上下を着用するという。慈恵医大はパジャマだったのだが、おしゃれな母が選んだ洋服も用意して行ったのである。
私が自宅で石けんで洗ってあげていたというのに、男女兼用で着回しされる患者衣を着るしかなくなった。 病院で用意した「セット」を使うことになるそうで、タオルもコップも歯ブラシも歯磨き粉もティッシュも、すべて持ち帰るように言われた。
主治医は内科の青木先生である。中肉中背のハンサムな中年男性で、せかせかと忙しそうで、半袖の手術着を着た青いブルトーザーのようだった。
「ひどい褥瘡なので長くかかる」と言われた。「どのぐらいですか?1カ月?3カ月?それとも半年とか?」ときくと、お年寄りの場合は栄養状態などの問題もあって、「予測ができない」と言われた。
「褥瘡の部位が仙骨の下部なので、感染症が心配」とのことで、排尿はバルーンカテーテル(尿道留置カテーテル)で行うという。常時尿管に管を挿入して袋に尿を集める、通称「バルーン」である。
母を歩かせてほしいという要望は、「お母さんは認知症があるので歩かせません」と、あっさり拒絶された。食事のときに車椅子でホールに移動する以外は、ずっとベッドに寝かせておく方針だと言われた。
天国から地獄へと一気に突き落とされた。
これまでちゃんとトイレに行けていたのに、何か月もバルーンを入れられたら、尿意を感じて排尿するという機能が失われてしまうかもしれない。歩行能力もなくなって、そのまま寝たきりになってしまうかもしれない。何よりも認知症が進んでしまう危険性がある。
歩行訓練をするのは私だけになる。認知症の進行を防ぐためにも毎日通わなくちゃならない。
でも褥瘡がいつ治るのかは見当もつかないのだ。母はレベルダウンせずに乗り越えられるだろうか?私の身体が持つだろうか?
達成困難な課題を前にして、身も凍るような思いだった。 |
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母は一気にレベルダウン
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1月6日、母の表情は完全に「恍惚の人」状態。妄想話をぺちゃくちゃお喋り。環境が変わった上に、一日中ベッドに寝かされたままなので、一気にレベルダウンした様子だった。
バルーンをつけたまま、ROM訓練とあん摩をした。車椅子にバルーンをぶら下げて、母にハンドルを握らせて歩行訓練をした。
7日、前日よりはすこしマシだったが、まだ表情がボケっぽい感じだった。バルーンをぶら下げてROMと歩行訓練をした。
8日、母にお団子と大福を食べさせた。「3日間来られないけど大丈夫?」ときいたら、「大丈夫じゃないの?」と答えた。
12日、ROMと歩行訓練。「もう帰るの?」と母に言われた。
13日、青木病院の待合室でうちの患者さん(オリーブさん)に会った。うちの母のお見舞いがしたいと言うので、一緒に病室へ行った。
母は彼女を見て嬉しそうだった。はじめて会う人がいたせいか、急にしっかりした。
14日、パンと牛乳を買って行ったけど、母は「気持ちが悪い」と食べなかった。目も開かないし、口も半開きのままで、歩くこともできなかった。
15日、ベッドの上で母にちょっとだけ鍼を打った。お母さんのお見舞いに来ていた花屋さんと話をした。(母が前回入院した)3階にいたそうだが、病気になって2階に移動してきたとのこと。「3階は看護師さんが熱心で活気があったけど、2階はぜんぜん違うのよね」と言った。
同じ病院でも五味淵先生の病棟と、青木先生の病棟では、まるで別世界のようなのだ。
16日、院内歯科検診で母の口が開かず、「奥歯が見えない」と言われたとのことで、野原先生に電話をした。
歩行訓練のあと、夕食時に持って行ったお団子を食べさせたら、うまく飲み込めず、ゴホゴホと苦しがった。看護師さんを呼びに行ったら、喉のお団子を吸引してくれ、母は痛がって涙をポロポロこぼした。
3階の看護師さんたちはみなさん忙しく動き回っていたのに、2階の看護師さんはずっと立ったままで、お喋りをしたり新聞を読んだりしていた。
17日、あんずが来てくれ、バルーンを持って、車で野原歯科に連れて行った。入れ歯の手直しをお願いしたのである。治療をしながら、先生は「いいかげんだ!」と院内歯科のことを怒っていた。そのあと3人で回転寿司に行き、母は元気にお寿司を食べた。
18日、あんずとヨーコが来てくれて、母を連れて野原歯科に。そのあと馬車道でパスタを食べた。母はちょっともたついていた。 |
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パーキンソンの薬を飲まされていたことを知る
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1月19日、青木先生と面談をした。5時の約束だったのにさんざん待たされた。
驚いたことに、パーキンソンの薬を飲まされていたのである。患者本人は認知症なのに、家族に無断でそんなことができるなんて!母の足取りが妙で、よろめいたりもたついたりしていて、歩行訓練が大変だった原因が判明した。
「母は薬のせいでこうなったんですから、パーキンソンの薬も、うつ病の薬も、向精神薬は一切飲まさないでください」と言ったら、「それはお薬が合わなかったんでしょう」と言う。「効く薬があるはずです」と断言し、事情を聞く気もないらしい。
「とにかく薬はイヤなんです。向精神薬は絶対にやめてください」ときっぱりと断ったら、青木先生は激昂した。
となりでメモを取っている看護師に向かって、「それも拒否、それも拒否。拒否、拒否、拒否、すべて拒否!」と怒鳴りまくって指示をした。
「母を歩かせてください。歩いて入院したんですよ。寝たきりになったら困るんです」と言う私に、「お母さんは認知症がひどいんですよ。だから歩かせません。寝たきりになるのはしょうがない」と言い放った。
同じ病院なのに、まさに3階は天国、2階は地獄だった。
20日、母は歩行困難だった。牛乳を飲ませた。
22日、足は調子よく、病院内を3周歩けたけど、変なことをしゃべっていた。
24日、雪なので外食の予定を取りやめ、室内でリハビリ。
25日、あんずとヨーコが来てくれて、母を連れて二子多摩川の高島屋へ連れて行った。尿の入ったバルーンは紙袋の中に入れて、外からは見えないようにして持ち歩いた。
車の後部座席で「ドライブは楽しいね~」と、母は大喜びしていた。お寿司をたべたあとのんびりしていたら時間がなくなった。私は仕事場で下ろしてもらい、ふたりで母を病院に送り届けてくれた。
26日、ROMのあと、母に食べさせてから歩行訓練。
28日、母にドーナツとラスクを食べさせた。 |
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困り果てて、手紙を書くことにする
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2月1日、私は風邪が悪化して治らないので、あんずに母のところに行ってもらった。
3日、4日間も母のところに行けず、歩行訓練ができなかったのだけど、ちゃんと歩けた。頭のほうはあまり調子が良くなかった。
4日、母は頭がボケていた。
5~8日、この間は日記が空白だった。病院に手紙を書くのに忙しかったせいだ。
このままだと認知症がすすむ恐れがある。がんばって毎日通ったとしても、1日1回の歩行訓練では足りない。風邪で寝込んでしまって何日か空白ができてしまったし、私の体力も限界だった。
サクラさんは「医師はプライドが高いから」とおおいに心配して、細かい点を直してくれた。他の患者さんにもアドバイスをしてもらった。
9日、リハビリのあと、看護師さんに手紙を渡した。 |
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手紙「青木先生と看護科のみなさまへ」 |
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青木先生と看護科のみなさまへ
いつも母のお世話をしていただき、ありがとうございます。入院から1カ月たちましたが、母の褥瘡の具合はいかがでしょうか?退院のメドはたちましたでしょうか?
前回の面談のとき、青木先生のお話を伺いましたが、双方の見解にいろいろ行き違いがあったように思いました。さらなる誤解を防ぐために、お手紙でお話しさせていただくことにしました。
母年齢とともに自然に症状が悪化して、今のような状態になったのではありません。
急激に脳を障害されたあと、1年半かけて、「やっとここまで快復した」というのが、今の母の状態なのです。
新潟でのことなのですが、おととしの8月、母は、一日にして植物状態になりました。その日まで、日常動作や会話に全く支障がなく、かかりつけの精神科医に「仮病?」と疑われるほどでした。
8月4日には、歩いて精神科を受診した母が、6日には、ストレッチャーで運ばれてきたそうです。
私が病院に駆けつけたときには、母は、食事も取れず、両腕を拘束されて点滴をされていました。目はうつろで、別人のような表情で、まともな会話もできず、筋肉が固まって、関節を曲げることもできませんでした。意識混濁、死後硬直ののような状態でした。
当時の精神科医のお話によれば、薬の副作用と思われる、とのことでした。
青木病院は、そのような状態だった母を、引き受けてくださった大恩ある病院です。9月14日、倒れてから1カ月と1週間たったときでした。
3階の介護棟で、母を歩かせて下さり、トイレに行かせて下さり、会話が通じるようにもして下さいました。おかげさまで母は、植物状態にならずにすみました。
今回の入院にあたり、同じ病院なので、同じ対応をしてくださると思い込んでいましたので、当方に説明不足があったと思います。科が違うと、カルテも治療方針も異なるということを知らなかったのです。申し訳ございませんでした。
青木先生は、「お母さんの認知症はひどい。危険なので、歩行させるつもりはない」とおっしゃいました。
母の場合は、自分で寝返りを打つこともできません。『歩行できる』とはいえ、介助があってはじめて可能なので、いきなり立ち上がって転倒するという心配はありません。
家族の考え方といたしましては、クオリティ・オブ・ライフを重要視しています。褥瘡が治っても、寝たきりになるのでは意味がありません。母の場合、パーキンソン症状が強いので、寝たきりになったら、そのまま植物状態になってしまうリスクが非常に高いと思います。
「歩く」ためには、目をしっかり見開いて、あらゆることに気を配らなければなりません。身体のバランスを保つことなど、安全に歩行するための努力が、脳を活性化し、認知症の予防におおいに役立つと考えています。歩いて血液の巡りを良くすることは、褥瘡の治療のためにも、有効なのではないでしょうか?
この1年半、「もうこれで頭打ちかな」と何度も思ったのですが、それでも、日常会話の通じる範囲が少しずつ広がっていきました。
褥瘡の手術で慈恵医大に入院していたときも、看護師さんたちに事情を理解していただき、歩行、声かけなどしていただきました。同室の入院患者さんたちにも心を配っていただき、レベルダウンするどころか、かえって元気になったぐらいの、いい状態で退院することができました。
1月5日の転院の日は、普通に車で歩いて入院し、病状についての理解なども、ほぼ普通のコミュニケーションがとれていました。
この1カ月間、私は毎日病院に通い、自分なりに歩行訓練とリハビリをしてきましたが、私だけの力では母のレベルダウンは避けられないような気がします。私も風邪を引いて寝込んでしまったり、先週は4日間も病院に通うことができませんでした。
母のことが、心配で心配でたまりません。
褥瘡が治ったあとは、青樹で引き続き、母のお世話をしてくださるそうです。なんとしても、今のレベルを維持したまま」、青樹に移行し、リハビリのつづきをやっていただきたいと思っています。11月に退所するまで、階段昇降のリハビリも行っていました。
歩行にともなう転倒、骨折のリスクは覚悟しています。ぜひ、歩行を許可していただき、母を歩かせていただきたいと思っています。
でなければ、認知症の治療も兼ねて、以前に入院していた3階の介護棟に母を移していただくというのはいかがでしょうか?
まことにわがまま勝手かもしれませんが、母に対する家族の思いを、ぜひ理解していただきたいと思います。よろしく、ご検討ください。
2012/2/9 |
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看護師さんが母を歩かせてくれるようになった
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2月10日、病院の受付でまたオリーブさんにばったり会った。母のお見舞いに行きたいというので、一緒に病室へ行った。母はとても元気で、病院内を4周も歩けた。
手紙の効果があったらしく、看護師さんたちがみなさんにこにこと協力的だった。看護師さんの1人が「何も知らなかったのよ。してほしいことがあったら、何でも言ってくださいね」とわざわざ声をかけてくれた。
11日、大福を食べさせた。
12日、母は脳がショートしていて、あまり歩けなかった。
13日、母はまだ頭がちょっと変だった。
15日、母を歩かせているときに青木先生にバッタリ会った。怖くて何も言えなかったけど、向こうも気まずそうだった。
16日、看護師さんが2人がかりで母を歩かせてくれていた。手紙が功を奏したようでホッとした。でもこの日の母は調子が悪かった。目はあらぬ方を見ているし、獣のようにわめいていた。「薬を飲まない」とがんばって、口をしっかり結んでいた。
17日、オリーブさんに「お話ボランティア」をお願いしたら快く了承してくれ、それまでの2回分を支払った。
午後、母のところに行ったら少しマシになっていた。自分の名前も言えたし、パンとおせんべいも食べられた。
3階の看護師さんたちが何人か2階に来ていて、母が入院しているのを知ってとても驚いていた。内科と精神科は看護師同士の交流がないようだ。
18日、行ったらいきなり「オリーブさんが今帰った」と母が言った。オリーブさんがいい刺激を与えてくれているようで、とてもまともだった。大福と稲荷を食べさせた。
19日、母は「オリーブさんが来てくれた」と言い、とても元気だった。
23日、母はひとりでご飯を食べられた。
26日、パンを買って行って食べさせた。 |
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オリーブさんの「お話」ボランティア
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「お話」ボランティアをお願いしたオリーブさんは、1年ぐらい前から来るようになったうちの患者さんだった。
母1人子1人で育った彼女は、亡くなって10年たってもお母さんのことが忘れられずに、ずっとお母さんとの思い出話ばかりしていた。
腰痛、首肩こり、めまい、不眠症など多彩な愁訴に悩まされ、半ば「うつ病」状態で調布の心療内科にも通っていた。うちの母が青木病院に入院したのをきっかけに、自宅のすぐそばだからと彼女も病院を変えたのである。
青木病院の待合室でバッタリ会ったとき、「お母さんのお見舞いに行ってもいい?」と聞かれ、2回も母のところへ行ってくれた。
優しい家族に恵まれていたのだけど、お母さんがいなくなった喪失感で虚空の迷子のようだった。オリーブさんは「やる気」というものを失っていた。
外出するようにと、私がいろんな提案をしたのだけれど、体力に自信がないし、めまいもあるし、車にも酔うしと、ずっと家に引きこもっていたのである。
それなのに、うちの母のお見舞いには「行きたい」と言う。だったら「お話ボランティア」をやって欲しいとお願いをしたのである。
1回500円の少額だけど、好きな時間に30分程度、「歩かせる、食べさせるなど、リスクのあることはやらずに、ただ一緒にいてお喋りするだけ」という約束でスタートした。
人懐っこくてかわいらしくて甘えん坊のオリーブさんは、お母さんの思い出話を聞いてくれる人を必要としていた。うちの母は「聞き役」だった。無口な母はひとりでペラペラ喋ってくれる明るい人が好きだった。
しかも彼女のお母さんとうちの母は、2人とも山形の出身だった。出身地が近いせいか、顔立ちがよく似ていた。
母のことを「自分のお母さんみたい」「かわいくて、かわいくて」と、母にとてもなついていた。母にとっては毎日来てくれる甘えん坊さんがとても励みになっただろう。
お母さんのエピソードを聞いてもらいたいオリーブさんと、話し相手が必要な母と、お互いに助けになっていたのである。 |
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出会いの「奇跡」が母を助ける
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オリーブさんのお母さんのカヨさんは開業してすぐの頃の患者さんで、腰が90度に曲がっていたけれど、シルバーカーを押して自力で来院していた。無口で働き者でがんばり屋さんで、きりっとした素敵なおばあさんだった。
戦時中、オリーブさんを妊娠中、ご主人が工場の爆撃で亡くなってしまった。カヨさんは必死になって働いた。工事現場で働いたこともあったそうだ。何でもかんでも「オリーブのために」と、一人娘に人生のすべてを捧げてくれた。
小学校の給食調理員の職につけて、やっと生活が安定した。米穀手帳の住所を変えて、自分の職場にオリーブさんを越境入学させた。ふたりで一緒に登校し、放課後は調理室で仕事が終わるのを待ち、帰りも一緒だったという。
「近所の人に『いつも一緒だね』と言われたけど、中学生になるまで母と離れたことがなかったのよ」とオリーブさんは笑って言った。
結婚相手もお母さんと仲良くしてくれる人を選び、ずっと一緒に暮らした。
晩年に認知症がはじまって、カヨさんは寝たきりになった。一生懸命に介護をしたのだけど、カヨさんの肘に褥瘡ができてしまったのだそうだ。「お医者さんに、なんでこんなことに!と怒られちゃったのよ」と笑った。
施設に入ったのだけど、当時はご主人と2人の息子さんのことで忙しかったし、カヨさんもボケちゃって、娘のことも分からなくなっていた。
1年後に亡くなったとき、まだ褥瘡が治っていなかったそうだ。
オリーブさんは「もっと母のところに行ってあげていればよかった」という後悔の念にさいなまれていた。うちの母の世話をすることで心残りが癒されたのだろう。
母の快復のためにはいくつかの「奇跡」が必要だったけど、オリーブさんとの出会いもそのひとつだった。1年半もの間毎日通ってくれたのである。
毎回小さなノートにその日の記録を書いてくれ、治療に来るたびに清算したのだけど、私が支払う金額のほうが大きかった。
はじめは「お喋り」だけの約束だったけど、病院の中なら看護師さんがいるので安心である。オリーブさんは食べ物を運んでくれるようになり、ボール投げをして遊んでくれたりと、母のために一生懸命になってくれた。
人懐っこい彼女は、お見舞いに来る他の家族とも仲良しになって、母と4人でテーブルを囲んでお喋りをするようにもなった。
オリーブさんのおかげで、母はあきらかに正気を取り戻していった。私にとっても救いの神で、肉体的にも精神的にもかなり楽になった。ほんとうに感謝、感謝である。 |
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10ページ目へつづく |
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Updated: 2023/10/27 |
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