5/10(水) |
「魔物」は右肩から腰に移動した |
今年の「魔物」は右肩に・・・と言いながらも、内心、そこだけで済まないんじゃないか?という不安があった。
古傷への灸頭鍼のおかげか、右肩の違和感が消えた。
すっかり治って、翌日のテニスでは完全復活できた。上からのサーブも、はじめはちょっと怖かったけど、ガンガン打っても大丈夫だった。
男4人に混じって、ダブルスゲームをやった。
じゃんけんに勝ちつづけ、私だけ休憩なしで、5セット連続でプレーした。
5日間もテニスができなかったので、飛ばしまくりで、ちょっと張り切りすぎちゃったみたい。
5セット目の途中で、右の腰が軽くピキッとなった。
ヤバイ?と思ったけど、そのあとも普通に動けたので、そのことをすっかり忘れてしまった。
次の日は、朝からテニス・オフだった。
多摩川コートが取れたので、女子シングルス・オフを主催したのである。
2人募集したんだけど、1人しか来なかった。
それがなんと、中高硬式テニス部だったという23歳の女の子なのだ。
私で相手になるかしら・・・と心配で、数日前から緊張していた。
2人なので、20分間ざっとひと通りの練習をしたあと、ラウンドロビンと同じく、6ゲーム先取、ノンアドでシングルスの試合をやった。
いきなり、センターにサービスエース。
すごいサーブを打ってくるのでビビッたが、ほとんどファーストが入らずに、セカンドは「入れとけ」サーブだった。
私と同じく、サーブに苦労している。
ストロークはボールが速い。
追いかけても間に合わず、やっと返した甘いボールを・・・、前に出た彼女は、ほとんどミス。
あれ、私と同じ、チャンスボールが苦手なのである。
かなり気が楽になった。
1セット目、4-6で、かなり競った試合ができたので、ほっとした。
2セット目は勝敗にこだわらず、自分の練習をすることにした。
「入れ」にいかずに、すべてのショットを「全力で打つ」ことをテーマにしたのである。
1-6で負けたけど、かなりラリーがつづき、のびのびといろんなショットを試せた。
若い女の子と試合をやって、得るものがたくさんあった。
自分が打つだけで精一杯で、相手を見る余裕のない私だけど、それではダメと思い知らされた。
彼女はボールが速いというより、タイミングが早いらしい。
ボールが落ちるのを待たずに、高い打点で打ってくる、今どきの若者のプレースタイルである。
タイミングを早くして、ボールに追いつくことを心がけたが、どうやらスライスとフラット・ドライブの「打ち分け」もできるらしい。
弾んでから低く滑ってきたり、高く伸びてきたりするので、打ちそこないを連発した。
私は足が速いし、反射神経がいいので、いつもやっているレベルだと、ボールが放たれてから反応しても、充分ボールに追いつける。
それでは通用しない。
打つときの相手のフォームを見て、球種を予測しないと、間に合わないのだ。
いくら「相手を見ろ」と教えられても、人間て、追い詰められて「実感」しないと、なかなか自分を変えられないものである。
そのままつづけて3セット目に入り、途中で、いきなり今度は左の腰が、ビキッと音を立てて壊れた。
そのままリタイヤ。彼女にはサーブ練習をしてもらった。
ボール籠を持っていってよかった~
午後は仕事ができるぐらいの腰痛だったが、日に日に悪化していった。
4日5日と2連休、テニス三昧の予定が、2日間寝込む羽目になった。
腰だけでなく、お腹が薄べったく固まって、内臓も死んでいた。
6年半の介護疲れがどっと出たのかもしれない。
仕事が休みでよかった。テニスはいつでもできるのだもの。(笑)
7日日曜日は母の納骨があった。一族7人(+ティラ)で日帰りで新潟に行ってきた。
静まり返ったお寺の中に、お坊さんが唱えるお経が響き渡った。
亡骸とさよならし、久しぶりに会った母は「お骨」になっていた。
この間まで、こちら側に座って一緒にお経を聞いた母が、祭壇にかかげられ、お経を上げられる側になってしまったのだ。
なんだか、はじめて母の死を実感した感じで、涙がこぼれてきた。
悲しくて悲しくてたまらなかった。
介護疲れでヘトヘトで、「感情」がどこかへ行ってしまっていたんだね。
今日は1週間ぶりにテニスに行った。
休んだおかげで身体が軽くて、腰痛の問題もなく、腰に移動した「魔物」はとりあえず退散したらしい。ほっ。
もう他の場所に移動したりするんじゃないぞ~! |
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4/30(日) |
今年の「魔物」は右肩に・・・ |
右肩を痛めて、5日間もテニスを休んでしまった。
「毎年この時期、必ずどこかしら故障して、テニスをお休みしてる」と、毎年書いて、毎年同じ轍を踏んでいる私である。
今年の「魔物」は右肩に取り憑いた。
やっぱり、この季節は鬼門だね~。
先月、足を寄せて打つ(70番)サーブにフォ-ムを変えた。えんえんと練習。
威力とスピードが増したんで、練習しててもいい気分。
次の日も、調子に乗ってガンガン打ったら、そのあと右肩が重くなった。
今まで使っていなかった筋肉を酷使したからだね~。
母のことやティラの世話で忙しくて、自分の治療をする余裕がなかった。
テーピングすればまったく問題がなかったので、なんとなく右肩のことはアウトオブ眼中。
フォームの完成に熱中していたのである。
先週金曜日、午後の空き時間にテニスクラブに行った。
コートは空いているが人が少ない。どこも4人揃っていて、すぐにはゲームに入れない。
壁に行こうか、空きコートでサーブ練習しようかと迷っていたら、最近入ったおじさんに声をかけられ、2人でラリーをすることになり、ついでにシングルスの試合をやることになった。
ファーストは▼=70番(もしくは65番)にして、セカンドは▲=60番にしようと決めてあった。
昔、Cさんに、「セカンドをアンダーにすると、腕の振りが違うから難しくなる。上なら上、下なら下、ずっと同じで打ったほうが、調子を上げやすいよ」と言われたことを思い出したのである。
男性相手にアンダーだと勝ちにくい。すべて上からサーブを打った。
『この人には勝たなきゃ』と、かなり気合が入ってしまった。
マッチポイントを私のダブルフォルトで落とし、結果は4-6で負けたけど、ガンガン打ちまくって、先につながるいいゲームができた。
そのあと、女ダブに入れてもらった。
すべて上からサーブを打っていたら、だんだん右肩の痛みが出はじめた。
ラケットを上にあげられなくなり、ボレーは当てて返すのがやっとになった。
次のサーブはアンダーのスライスにしたけど、下から打っても肩に痛みが出るようになり、ついにはストロークを打つのにも支障が出るようになった。
形から想像されるように、▲と比べて、▼だと、ボールに加わる圧が大きくなる。
その分、インパクト時の肩への衝撃が強くなるのだろう。
もっと速く、もっと強くと、男性相手に全力で打ちつづけたせいで、右肩の筋疲労が極限を越えたみたい。
ラケットを持てなくなったので、テニスを休むしかない。
がんばって自分に治療をつづけたけど、治療室のドアを引いて開けるときの痛みが最後まで残った。
日常動作に支障があるうちは、テニスをしたらこじらせる。
ドアを開けても痛まなくなるまで5日かかったのである。
5日休んで、木曜日にテニスを再開、Cさんの合同レッスンに参加した。
大勢いれば、ヤバイと思ったらいつでも抜けられる。
とりあえず4時間、大丈夫だったけど、やっぱりちょっと悪化したみたい?
まだ完治してない部位は1ヶ所、肩の前面の筋肉である。
たぶん上腕二頭筋の付け根に近いところと思う。
5年前の冬、手首を痛めてスピン回転がかけられなくなって、見よう見まねの自己流スライスでボールを打ちつづけた。
ちょうど今頃の季節、ついに右肩を痛めてしばらくテニスができなくなった。
あとでスクールのコーチに、肩を開いてスライスを打つと、肩の筋肉を痛めちゃうと教えてもらった。
70番を打ってはじめに疲労がきたのは、肩の後ろ側(上腕三頭筋)だったんだけど、ろくに治療もしないで右肩を酷使したために、肩全体がダメになった。
肩やヒザ、手首など、複雑な構造の関節の場合、多様な方向からたくさんの筋肉がくっついて、関節を支え、動かしている。
四人五脚で走っているようなもの。1人がダメになると、他の人たちに無理がかかる。
ついには全員がへたばってしまう。
治療をすると、あとから悪くなったところから治っていく。
最後に残ったところが、はじめに痛めたところ、ということになるんだけど・・・
治療をしてみて最後に残った部位が、5年前の古傷だった。
今回は、古傷君まで無理をさせられ、ついにダウンしてしまったので、かなりやっかいなことになってしまった。
昨日もテーピングして1時間ぐらいテニスしたけど、右肩の古傷の部位はまだ治りきっていない。
ドアを引いて開けるとき、痛くはないけど、なんとなく『怖い』感じだから、明日のテニスでこじらせるかもしれない・・・というギリギリのところである。 |
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4/19(水) |
バイエル70番のサーブ |
介護疲れがどっと出たのか、眠くて眠くてしょうがない。ティラのお散歩の分、早起きしなくちゃならないのにね。
ずっと分刻みの生活で、猛スピードで家事をこなしてきた私だけど、なんだかノロノロになっている。
気もそぞろのせいもあると思う。時間の計算がまったくできなくなった。
仕事もテニスも遅刻しまくりである。(m_ _m)。
ティラに気を取られているせいもあると思う。
どこにいるかな?何をしているのかな?変なものを食べていないかな?と、ティラを探す。
部屋の中を歩き出すと、ティラがいそいで跳んできて、スリッパの争奪合戦がはじまる。
床に坐って真向法をはじめると、私のひざの上に乗っかってきて、遊んで遊んでと大騒ぎする。
とっても邪魔なんだけど、かわいい~~(^o^)/
今年に入って、だんだんにサーブが安定してきていた。
以前から私のサーブは打ち方が3種類あった。
腕の振りが3種類あって、ぐちゃぐちゃな頃は、どこへどういうボールが飛ぶか、行方を見るまでわからなかった。
打ちつづけているうちに、自分の身体に合った自然な振りに落ち着くはず・・・
そう信じて練習をつづけてきたら、3種類の振幅ハバが、だんだん小さくなってきている。
3種類が融合して1つになるのか、そのうちの1つが自分のサーブになるのか、それとも、その3種類を打ち分けられるようになるのか?
まだまだ先のことは分からない。
2年前、「バイエル1番からのサーブ」つまり、まず「腕の振りだけ」からはじめて、それが安定したら、足腰を使う要素を順々に取り入れていく・・・
というふうに順を追って、サーブのフォームの改造に取り組んできた。
ようやく保母試験の課題曲をこなせるレベル、60~70番ぐらいに到達できたみたいである。
ラケットを担いだ位置で、セミ・サーキュレーション=ラケットをくるくる回しながらタイミングをはかって打つようにしたら、かなりスピードアップしたんだよ。
回転もかかっているし、簡単には相手に打ち込まれない。
それどころか、男性でも、ときどきレシーブミスをしてくれたりするようにもなった。
これでいいやと満足していたら、後ろで見ていたCさんにバカにされた。
「誰に教わったんだか、そんな打ち方をしてかっこ悪い。足を寄せて打てよ!」と軽蔑するようにつぶやく声が聞こえてきたのである。
ドッカ~ンと頭に来た。じゃあ、やってやろうじゃないの!
1年ぐらいは足を寄せて打っていたから、できないわけじゃないんだけど・・・
「ラケットを回しながら、トスを上げてボールを打つ」に、「軸足に右足を寄せる」を加えると、タイミングの取り方が難しくなる。
足に気を取られると、せっかく回していたラケットが止まってしまう。
上手くタイミングが合うと、確かにボールの威力とスピードが、格段にアップする。
軸が1本のほうが、全身の筋肉のパワーが一点に集約されるんだね。
逆に、接地面積が少ない分、不安定になりやすい。(▼と▲の違いである)
この2年間、絶対に入るサーブを目指して、「セカンドサーブ」だけ打ってきたんだけど、これはいきなりの「ファーストサーブ」である。
Cさんにも「ナイスサーブ!」と感心されたが、「セカンドはどうするの?」と聞かれた。
実は私も内心それを悩んでいたのである。
フォームを変えたばかりで母が入院したり亡くなったりしたので、練習の時間がなかなか取れず、またゲーム中にサーブで苦労するようになった。
足を踏んばる▲のサーブは60番、足を寄せる▼を70番として・・・
ゲーム中にファーストが入らなくなったとき、セカンドを60番に戻すか、それとも70番でセカンドが打てるようにがんばるか、迷いに迷っている。
途中で軸足を変えるのは、それはそれで難しい。70番をマスターするにはまだまだ時間がかかる。
とりあえず、セカンドをアンダーにしたりして、いろんな人にあきれられた。
今日はDさんの練習会だった。
最後のゲーム練習で、はじめから70番を打ったら、ぜんぜん入らない。
60番を打ったら、まあまあのサーブが入る。
そこで考えたのが、中途半端作戦である。
60番と70番の中間ぐらいのスタンスでサーブを打ってみたのである。すると、中間ぐらいのサーブが飛んでいった。
なんとか入るし、中間ぐらいの威力がある。
(これって65番?)
どうしようかなあ・・・
サーブの改造はまだまだつづくとして、ゲームや試合のプレッシャーに耐える精神力がイマイチだから、そっちも育てなくちゃね~(笑) |
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4/9(日) |
心はまだまだ喪中である |
もうホームに通うための空き時間を考える必要がなく、楽になった・・・とは思うけど、母を亡くして、やっぱりちょっと淋しいのかもしれないね。
ナーバスになってるうえに、相続などのややこしい問題もあるし、なんとなく気もそぞろである。
テニスクラブの友人に、「亡くなったんだってね~。私何も知らなくて・・・」と声をかけられた。
「みんなが、『犬が死んだときは出てこなかったのに、親のときはすぐに出てきた』って噂してるわよ」と笑う。
「あなた、すごい頑張ったし、その気持ち、分かるわ~。犬は、口も利けないし、自分では何もできないんだもの」と共感してくれた。
彼女は、愛犬が死んだあと、1年も引きこもっていた人だ。
親が先に逝くのは順番だし、父も母もできるだけの看病をしたし、最後は「幸せ」を感じて旅立ってもらえた。
娘としてやるべきことをやってホッとして「これで肩の荷が下りた」ということもある。
とはいえ、あれこれ思い出して、まだ心は母と共にあるみたい。。。
6年半前の8月、新潟の病院に行ったら、手足を拘束された母がベッドに横たわっていた。
表情が喪失していて、まるで別人。手足が伸びきったまま、硬直していた。
私が行くまでの数日間、その状態で寝かされていたのだ。
弟が母の病状について言及をしなかったので、まさかこんな状態だったとは!とびっくり仰天、天地がひっくり返るほど驚いた。
母の拘束をはずし、手足をマッサージして硬直をほぐし、ベッドからおろして車椅子に坐らせた。
「何か食べたいものある?」と聞いたら、「塩で握ったおにぎりが食べたい」と言うので、次の日、いくらのおにぎりを作って持っていった。
それが母にとっての久しぶりの食事で、その昼から病院食がはじまった。
「東京に連れて行って、私が面倒をみるからね」と言ったら、「おまえ、そんな、迷惑じゃないの!」と母が力なくささやいた。
「迷惑なんてとんでもない。面倒をみさせてください。お願いします」と、私から母に頼んだのである。
家庭を守り、子どもを育て、父を看取った母。
やるべきことをやってきた母が、自分は『いらない人間なんだ』と悲しんだまま、捨てられていくのを放っておくわけにはいかない。
私のモットーは、「人にはふさわしき贈り物を」なのだ。
新潟の病院にリハビリに通って、1ヶ月と1週間で、近所の青木病院に転院できた。
当時の院長の五味渕隆志先生は、「抗精神薬を使わない治療」を目指すすばらしい医師だった。
本当に運が良かった。
母を車椅子にのせて、多摩川まで散歩に出かけたとき、「どうしてこんなに良くしてくれるの?」と聞かれた。
「だって、逆の立場だったら、同じことしてくれるでしょ。もし私が交通事故かなんかで、先に車椅子になったら、今の私以上に、全力で看病してくれるでしょ」と言ったら、なるほどと、母はちょっと気が楽になったようだ。
ゾンビから1年半までは、ちょとずつ良くなっていった母も、そこからちょっとずつ落ちはじめた。
4年前からスプーンを使えなくなり、3年前から立てなくなった。
去年の8月に一気に激やせしてから、2日か3日に1回しか食事が取れなくなり、身体の硬直も半端じゃなくなった。
こっちも半ば死に物狂い。できる限りリハビリに通い、なんとか食べてもらおうと、好きな食べ物を運んだり、回転寿司に連れ出したりしたけど・・・
『年内かもしれない・・・』と、あきらめの気持ちが、ジワジワと私の心に入り込みはじめた。
11月に肺炎で1ヶ月も入院した。
「管につないでの延命治療は絶対にさせない。食べれなくなったら、うちで死なせてあげるからね」と母に言った。
私は「やる」と言ったことは絶対にやる人間だから、すごく安心したみたいだし、「まだ生きてて欲しい」という私の気持ちが伝わって、母は幸せそうだった。
年寄りは入院のたびにどんどんレベルダウンしていく。
ホームの職員さんたちと何度も話し合った。
あまりに早く退所させると、在宅介護が長くなって、家族が崩壊する。
遅すぎるとホームで亡くなってしまうかもしれない。
「タイミングが難しい」のはお互いの共通認識だった。
母も落ち着いていたし、職員さんたちも今年一杯ぐらいはなんとか元気でいてもらって、ホームで面倒をみたいと言ってくれていた。
「手足のむくみ」に気づいたのは私だけみたいだったけど、まさか、そんなにあっという間だったとは、ちょっと想定外だった。
年内と覚悟していたのが3月まで、母は必死で頑張ってくれたんだと思う。
家族葬のときに飾った母の写真は、父が勲章をもらったときのものだ。
20年近くも昔の写真なので、私にはどうも違和感があったけど、私以外の満場一致でそれに決まった。
丸々と幸せそうで意気揚々とした母の写真。母が最高に幸せだった頃のものだ。
2年後に父が食道癌で他界。母にとっての生まれてはじめての不幸だった・・・というぐらい、苦労知らずの人生だったのである。
脳をやられ、身体という牢獄に閉じ込められ・・・、人に迷惑をかけることを一番恐れていた母が、人の世話になって生きなくちゃならなくなった。
「幸運」の上に乗っかって、ある意味「傲慢」だった母よりも、苦難に耐えて生きた母、老いて病んでシワシワになった母の顔のほうが、なんだか人間として好感がもてる気がするのである。
母はまっすぐに大好きだった父のところへ行くんだろうな・・・
たぶん父は天国にいるし、母も行けそうだから、私も同じところに行けるようにしなくちゃね~~ |
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3/29(水) |
とうとう私もみなし児に・・・ |
先週、母に「終末が着実に忍び寄っている」と書いたんだけど・・・
その翌々日のま夜中、ちょうふの里から、「1時に見まわったときは息をしていたんですが、2時に見たら息をしていなくて・・・、救急車を呼んで、搬送先の病院を探しているところです」という電話があった。
『たぶんもう必要ないな・・・』と思いつつ、一応パジャマなどの入院グッズをバッグにつめて、調布病院に出かけた。
バッグを中に置いたまま車をおりると、暗闇の中、病院の入り口で救急隊員が私を待っていた。
診察室に入ると、ストレッチャーの上に、酸素マスクもなしで、黄色い顔をした母の遺骸が寝かされていた。
「生ける屍」と、本物の「屍」の違いは、一見してあきらかだった。
永久に来ないのではと思いながらも、やって来ることを恐れていた「その日」が、ついに来た。
とうとう私も親なし子になってしまった・・・
警察官が事情聴取に来た。
この頃は施設での虐待が懸念されるとのことで、遺体はいったん警察署に運ばれ、検死を受けるのだそうだ。
「遺体を引き取りに来るときは、棺を用意してきてください」と言われた。
とりあえず家に帰って、「くらしの友」に電話をした。
5年ぐらい前に、バドミントン時代の先輩に、「電話1本かければ、あとは何もかも手配してもらえる。パニックにならずにすむわよ」と言われて入会したんだけど、たしかにその通りだった。
国領の斎場に安置された母は、とてもきれいで穏やかな表情をしていた。
「手足のむくみ」はやっぱり終末の兆候だった。
末端まで気が巡らず、すべての細胞が活力を失っていく・・・、言うなれば「多細胞不全」なんだと思う。
最後まで意識があって、家族や身の回りのことがわかっていた。
延命をせずに老衰で自然に逝け、希望どおりの「尊厳死」となった。
たぶん気管にちょっとずつちょっとずつ痰が蓄積していって、酸素の流入量が減っていき、脳死状態になって亡くなったんだと思う。
「枯れるように死ぬ」って、こういうことだったんだね。
体内の栄養や水分が少ないと、痰の量も少ない。だから眠るように逝けたのだ。
胃漏や点滴をして「身体が水浸し」だと亡くなるときに苦しむ、と聞いていたけど、大量の痰が一気に詰まっての窒息死になるからなのかもしれない?
母の命日は3月22日になる。「お彼岸に死ぬ人は生前に幸せだった人」というらしいが、たしかに幸せな人だったと思う。
子どもたちや弟夫婦、母の妹夫婦が来てくれて、小さな部屋で母を囲んでお喋りをして、母の死を悼んだ。
金曜日に火葬。こっちに住んでいる親戚も駆けつけてくれ、お坊さんもお経もなしで、みんなで見送った。
お骨は弟に新潟に連れ帰ってもらった。
お葬式はそれから?で、父が待っているお墓に埋葬される。
母のお骨をいきなり手放したのはちょっと淋しい気もする。
親の写真を飾るのはどうも好きじゃないので、ホームの枕元に飾っておいた(母が作った)木目込み人形を、ヴェルのお骨、父の位牌のとなりに並べて、毎日お水をあげている。
土曜日はお休みを取っていたので、予定通り、テニスクラブの親睦会に出た。
お天気もよく、ドローにも恵まれて、なんと3連勝!
遊び好きだった母のプレゼントだったかもしれないね~~
日曜日からは平常どおり仕事をしている。
6年半もの長きに渡った介護だった。
去年の8月に激やせして以来、ちょっとずつ覚悟がかたまっていたし、ラストスパートをかけてがんばったから、後悔のしようもない・・・
在宅介護にそなえて飼ったティラが、とても癒しになってくれている。
母の亡骸を目にして、ボーゼンと家に帰ったら、ティラが大喜びしてピョンピョン跳ねまわった。抱っこしてフワフワの毛に顔をうずめると、かわいい!と「幸せ」を感じられる。
ティラに手がかかるので、落ち込んでいるヒマがない。
リハビリをしながら、母にティラの話をした。エピソード満載なのだもの。
「会いたい?」と聞いたら、「会いたい」と言うので、ティラをバッグに入れて、2度ほどこっそり部屋に持ち込んだ。
母のひざの上にティラをのせて、手を持っていったら、指を動かしてモニョモニョと撫でていたんだよ。
でも母は潔癖症に近い綺麗好きだったから、動物はあまり好きじゃなかった。
子犬が家中を駆け回り、あっちでおしっこ、こっちでウンチというような家には行きたくないと思っていた気がする。そういうオーラが伝わってきた。
それでさっさとホームで逝っちゃったのかなあ。。。 |
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