みづ鍼灸室 by 未津良子(リョーコのブログ) |
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2023/10/24(火) |
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ビーチサンダルを引きずって歩いていたときは、両方の下腿が表も裏もつりそうになって大変な思いをした。右の股関節前方と左の腰に過負荷がかかって、身体が歪んでしまいそうだった。
低温火傷はまだだけど、傷口がだいぶ頑丈になってきた。紐付きサンダルを履けるようになって、リョコちゃんウォークで颯爽と、正しく歩けようになったんだよ。
日本人の股関節の可動域が狭いのは「着物に下駄や草履」という歴史からきているのかもしれないね。どうしても摺り足になってしまう。
今はティラのお散歩だけが唯一の運動。太陽の光を浴びて歩くのって、とっても気持ちがいいね~~
テニスができなくなって数週間、仕事と最低限の家事以外はグダグダと寝て過ごした。夏の疲れがそうとう溜まっていたのである。
先週ぐらいから突然エネルギーが蘇ってきた。いろんなことが気になりだして、あちこちの片づけに着手しはじめ、カーテンも縫ったんだよ。
グダグダしている間に録画してあった映画を見まくったんだけど、そのうちのひとつを紹介するね。
映画「モーリタニアン - 黒塗りの記録」は実話で、監督はケビン・マクドナルドである。
モーリタニア人、モハメドゥ・ウルド・スラヒがグアンタナモ刑務所に収監されている間に書いた手記をもとに制作された。
2001年9月11日、アメリカで「同時多発テロ」が起こった。
はじめて自分の国土を侵された国民が激しく怒り狂い、犯人と協力者を見つけるために、軍隊、FBI、CIAが総力を挙げて世界中を飛び回った。
モハメドゥ・ウルド・スラヒ(タハール・ラヒム)は2001年9月にモーリタニアで逮捕され、FBI捜査官に尋問された。無実を認められて釈放されたのだけど、11月に再尋問になって、そのまま拘禁された。
2002年7月、衣服を脱がされ、目隠しされ、おむつをつけられ、手足を拘束された状態でCIAの輸送機に乗せられた。
8月5日には34人の被拘禁者とともに、軍用機でキューバのグアンタナモ米軍基地に送られた。
監禁、尋問、拷問が果てしなくつづく地獄のような日々がはじまった。
そこでは800人近い「容疑者」が、起訴も裁判も行われないまま、何年も独房で拘禁されていたのだった。
2005年、人権弁護士のナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)が、起訴も裁判も行われないまま拘禁するのは「不当監禁」だとして救済に乗りだした。
軍の弁護士スチュアート・カウチ大佐(ベネデクト・カンバーバッチ)がスラヒの起訴を担当することになった。政府から米軍に「彼を死刑にせよ」と指令が下ったのである。
ハイジャックされた旅客機の副機長が友人だった彼に白羽の矢が立てられたのだ。
ナンシーたちがスラヒに面会に行くと、「英語で話してくれ」と言われた。独房に監禁されている間に英語を勉強したという。
11歳のときに奨学生となってドイツに留学した秀才で、数か国語に堪能だったのである。
これまでのことを手記に書くことをすすめたら、厳しく検閲されながらも分厚い手記が次々に送り届けられた。
軍によるこれまでの尋問記録を請求したのだけど、交渉を重ねた挙句に手に入れたのは「のり弁」だった。機密事項が黒マジックで消されていて、ほとんどの文字が読めない状態だった。
カウチ大佐も、「尋問記録がないと裁判に臨めない」と開示を請求したのだけど、困難を極め、こちらもほとんどミッションインポッシブル。
検察側と弁護側が同じ妨害に遭遇したのである。
9.11のあと、憎悪に燃えるアメリカ国民は「生贄」を求めていた。軍が手当たり次第に拘禁しただけでなく、無関係のイスラム教徒が何人も道端で暴力を受けた。
選挙の鍵を握る「民意」を受けて、政府が証拠隠滅を計ったのだ。
事細かに書き記された手記で、ついに「拷問」の日々が再現されていった。モハメドゥは「自白」を強要されたのだった。
ナンシーたちは粘り強く交渉をつづけ、ついに記録と照合することができた。
ほぼ同時期にカウチ大佐も「拷問」の記録を閲覧することになった。正義感の強い彼は「これでは起訴できない」と訴えて、検察官を解任された。
2009年12月、スラヒがアメリカ政府を訴えることで、やっと裁判が行われた。
無罪を勝ち取ったが、控訴され、彼の監禁はつづいた。
オバマが「テロ容疑者に対する過酷な尋問を禁止する」という大統領令を発令したあとも、4年間も拘禁がつづき、実際に釈放されたのは2016年のことだった。
スラヒは無実の罪で14年間も過酷な拘禁生活を強いられたのである。
映画の最後に本人たちが登場する。スラヒの明るさには驚いてしまう。とんでもなく楽観的で前向きな性格ゆえ、困難に耐えられたんだな・・・とつくづく思った。
スラヒと支援者たちのおかげで、記録の開示、秘密事項とされた「手記」の公開などが可能になった。政府や軍の中に良識ある人間がいたおかげもあるだろう。
スラヒの手記の出版は、彼が獄中にいたときに行われたそうだ。
粘り強い支援で黒塗りの記録に光が当てられ、他の「容疑者」たちにも光が当てられた。
日本では、政府の「のり弁」も、「桜を見る会」の名簿も、たぶん永久に光を当てられないのだろうな。。。 |
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2023/10/15(日) |
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さすがに裸足にビーチサンダルでは寒い季節になった。裸足のパイク通勤もそろそろ限界。治療室の床も冷たくて、足が凍えそうになる。
ときどきゆるゆるの古い靴下を履いてみたりしてるけど、まだ靴を履いてみる勇気が出ないんだよね。
病院に行けばよかったのかもしれないけど、「どうしました?」ときかれ、「実はお灸のやりすぎで」と答えるのはあまりにもみっともない。
火傷がもとで感染症を起こすこともあるらしい。壊疽になって片足切断とか、全身に回って死んでしまうかもしれないとか、あれこれ想像して恐れおののいていたけど、おととい看護師さんが治療に来た。
「足の指も皮膚もきれいだから、大丈夫ですよ」と言ってくれた。壊疽は指先から始まるのだそうだ。
低温火傷が長引くとは聞いていたけど、ホントだね。1カ月たっても治らない。
巨大な水泡だったけど、適度のお灸ならたぶん10日ぐらいで消えただろう。「痒みが止まった」ところで終わりにするべきだった。。。
点灸につかう良質もぐさは燃焼温度が45度~80度とのこと。水泡の上だったので隔物灸(ニンニク灸とか塩灸)のようなもの。そこに良質もぐさだと、はじめはぜんぜん熱さを感じない。つづけるうちに熱が透っていく。
適度な熱さで、ものすごく気持ちがよかったのだもの。
火傷するほどやったおかげで足の裏まで温まって、左足の指が大きくパーを開けるようになったんだよ。右足の指がグーのままだったので、そっちの可動域も広げようと画策している。
寝る前に足にカマヤミニをすると、冷え切った足がポカポカ温まるので一石二鳥である。
後悔してもはじまらない。人は「成功」によって目標に到達するけど、「失敗」してはじめて細部まで理論化できる・・・そう自分を慰めて、行く先を見守っている私である。
「母のリハビリカルテ・8」を更新した。ゾンビになって1年後の9月~12月のことである。
この頃の母の回復は目覚ましかった。認知能力が向上した。笑ったり、喋ったり、歩いたりと、身体能力も向上して、母にとっての一番いい時期だったのである。
でも残念ながら、車椅子の上で微動だにせずに坐っている時間が長かったために、お尻に褥瘡(床ずれ)ができてしまった。12月に慈恵医大に入院して手術をしたのである。
そこでレベルダウンするどころか、若い看護師さんや学生さんたち、同室の入院患者さんたちが協力してくれたおかげで、母の頭はどんどんはっきりとしていった。
脳障害から1年半、母の回復はここが絶頂期だった・・・、そう思うと悔しくてたまらない。このあとの病院でひどい目に合うのである。 |
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2023/10/5(木) |
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まだ靴が履けないのでテニスを休んでいる。調布市の市民大会も欠場することになってとっても残念。
シングルスに備えて、週に2回も治療をしてきた。腰も肩も肘も膝も完璧だったのに、左足背のたったひとつの「水泡」のために、すべてが「水泡に帰した」のである。
(あれ、これって、けっこう笑える・・・)
うちの車はマニュアルなので、左足でクラッチを踏まなきゃならない。ビーチサンダルでは危なっかしくて車の運転もできない。
バイクはステップに足をのせるだけでいいけど、バイクの駐輪場がきわめて少ないので、お店まで長距離を歩かなくちゃならない。
もちろん電車に乗るのもダメ。歩き回ると思うだけで気力が萎える。 時間があってもどこにも出かけられないのである。
裸足でなら歩けるので、仕事と料理はできるけど、嫌いな掃除や片付けはぜんぜんやる気になれない。
テニスをやれない分の時間はほとんど眠りこけている。9時間、12時間といくらでも眠れるうえに、休みの日は夕寝までしている私。
夏の疲れを取り返すために思いっきりグータラしようと決めたのだけど、楽を覚えて、この生活に身体が適応してしまったら・・・?と、ちょっと心配になってきた。
65歳以上の患者さんには「動いて、動いて、動きまくれ」とアドバイスしている。
若い人はゆっくり休んで疲れが抜けると、シャキーンと元気になる。でも年寄りはそうはいかない。楽をしたら、その分身体能力が低下して、「寝たきり道一直線だよ」と、みなさんを脅しているのである。
自分は大丈夫かな・・・と、ちょっと心配になりはじめた。このまま仕事と家事だけで精一杯の人間になってしまうかもしれない。同じ年代の普通の人はたいていリタイアしていてるのだもの。。。
でもまあなんとか、「母のリハビリカルテ・7」を更新した。
2011年8月のたったひと月の記録である。1年前に向精神薬でゾンビ状態になった母が、新潟に行けるぐらい元気になった。
父の十三回忌のための帰省だったけど、「家が売られてしまった」と思い込んでいた母に、家があるのを見せたかったのである。
でも弟夫婦は「実家の掃除をする」という約束を破り、十三回忌もすっぽかしたのだった。
母は幽霊屋敷のような家に入って、そのままゾンビに逆戻りした。3日間、トイレと食事以外は固まったまま眠りつづけていたのである。
それを私は「移動の疲れ」と思い込み、母に遠出は無理と思い込んでしまった。
もしもあの時に「脳機能の容量オーバー」ときづいていれば、もっと母をいろんなところへ連れて行ってあげられたのに。。。
後悔と、そして弟夫婦への怒りがふつふつと湧いてくる。あまりの怒りを抑えるために、書き上げるのに時間がかかってしまった。。。
身内に「悪人」がいる人は少なくない。みなさんも、用心、用心である。 |
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2023/9/26(火) |
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夏の初め7月に左足のとびひが再発し、すぐにお灸をしたら数日で消えて、そのまま飛び火せずに終了・・・と報告した。
でも猛暑の終わりかけ、左足にまた小さなとびひ(●)ができた。すぐに縮んでくれたんだけど、しばらくして近所に飛び火した。 |
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仕事場に着いてびっくり。足の甲に直径1センチもの水泡(●)が出来ていた。テニスのシューズでこすれて、とびひが巨大化したらしい。
皮が硬くてプヨプヨと弾力がある。半透明でぬらぬら輝く巨大ドームを建設されてしまった。
スリッパをはいて仕事をしたら、1.5倍にふくれあがった。もう裸足でしか歩けなくなった。
こんなに大きいと、お灸をしても熱が届かず、消えるまでにかなりの日数がかかることはすでに経験済みだ。
靴をはけないのだからテニスは無理である。水泡が潰れたらとんでもなく広がってしまう。火曜日のラウンドロビンにはどうしても出たかったのだけど、断念するしかなくなった。
月・火の二連休が舞い込んできた。長い猛暑とハードスケジュールで疲労困憊していたらしく、ほとんどの時間を眠ってすごした。
免疫力が低下していたんだね。
水泡の上にお灸をしたら、天井が焦げてまるで爬虫類の目玉のようになった。不気味である。 |
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サンダルの紐からずれていたのだけど、ティラの散歩をしているうちに、紐の当たる部位に飛び火してしまった。
これじゃあ散歩に出られない。途方に暮れて玄関を見まわしたらビーチサンダルと目が合った。うまく水泡とずれていた。
そのうち、右足のビーチサンダルの紐に沿ってとびひが3つできたので、両足とも紐をずらしてズータラ、ズータラ歩くしかなくなった。
でもステロイドを塗らなかった右足なので、すぐに沈静化。ほかにも左膝の内側や右肩、右膝など、あちこちに飛び火したんだけど、ステロイドを塗った左足以外は小さなほくろぐらいの水泡にとどまって、数日で沈静化してくれる。
去年のたった1回のステロイドの副作用が、翌年にまで持ち越したことを思うとほんとうに恐ろしい。後悔、後悔、である。
なんとかして巨大ドームを崩壊させようと、ポワロを見ながらお灸をくり返した。去年のお灸の痕がすっかりきれいに消えてくれたので、調子に乗ってしまった。
水泡に手を当てると、ポカポカと温かい。これじゃあ細菌にとっては居心地のいいお風呂みたいになって、かえって繁殖してしまうかもしれない?などと考えて、ますます焦りまくった。
そして数日後、お灸のやりすぎで大火傷になったことに気がついた。皮膚がべろりと剥けて、大穴があいていた。
一種の低温火傷だから治りにくそう。。。
そうだった、とびひを治すのは自然治癒力だった!と反省した。「お灸の熱で菌を焼き殺す」ことにこだわって大失敗をした。
去年のとびひのときはテニスも仕事もやれていた。お灸ができるのは朝晩だけだった。だからお灸のやりすぎで火傷になることもなく、痕も残さずにきれいになってくれたんだね。。。
火傷のあとが残りそうだけど、足先だから、ま、いっか。。。
靴を履けないのでテニスはしばらくできないけど、おかげで録画してあった映画も見れたし、休みの日はたっぷり休養している。
自分の身体で失敗したおかげであらたな発見があったから、そのうち「終わりよければすべて良し」と報告できると思う。(笑) |
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2023/9/17(日) |
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ぎっくり腰があっさり治ったので、月曜日にテニスを再開した。タイミングよく女ダブに入れてもらえたんだよ。
でもなんだかテニスできそうな気がしない。1週間もやっていないし、お散歩以外はエアコンの中だったし、そのうえ朝から下痢をして、体力低下でフラフラだった。
おっかなびっくりゲームをはじめたけど、体力をつけるには、体力を使うしかない。使えば使うほど増えるのが体力なのだ。
動けば動くほどだんだん元気になっていった。ついにはノリノリになって、バッコン、バッコン打ちまくったけど、腰はまったく問題なし。
そのうえダブルスで練習通りのサーブが打てたのである。合言葉を「ガー、オー」にしたことが功を奏したらしい。
右ひざ痛とテニス肘で2年間もダブルスだけやっていた。なんとかサーブを「入れられる」ようになったけど、「入れとけ」ばかり打っていたせいで、すっかりフォームが崩れてしまった。
練習を再開してフォームを再構成。出来上がった自分のマイ・サーブが「ラ、ディ」サーブだった。(→2021/11/16)
「ラ、ディ」サーブにはジャンプが必須と気がついて、「カエル」をイメージすることを思いついた。(→2022/11/23) |
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「カエル」 |
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サーブを打つ前に、柳の下で枝に跳びつこうとするカエルのイメージを思い描く。
①でラケットを振り上げながら膝を曲げて沈み込み、ボールに狙いを定める。
②のインパクトの前に、ジャンプして、体位を変える。 |
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「ラ、ディ」 |
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これでちょっとマシになったけど・・・
サーブの前に、「カエル」「カエル」とつぶやきながらボールをつく。しっかりイメージができるといいんだけど、ダブルスのときはどうしても雑念が入ってしまう。結果、やっぱり崩れてしまう。
暑くてやる気になれなかったのだけど、やっぱり練習するしかない。
ゲームと練習のギャップはだんだん縮まりつつあるけど、逆に練習でも思うようなサーブが打てなくなってしまった。不安定だったとはいえ、昔のほうがスピードサーブが打てていたのである。
打つときの合言葉を考える必要があった。「カエル」では力が入らない。
最初にやってみたのが「イ、ガ」である。女子の1位、イガ・シフィオンテクの攻撃的なプレーに感化されてのことだ。
①ラケットの振り上げで「イー」と唱え、②インパクトで「ガー」と唱える。
でも「ガー」だと力が入りすぎてネットしてしまう。「ガー」を「サー」に変えてみたら、とりあえずネットを越えてくれるが、スピードが乗らない。
そのあとアルカラスの試合を見たら、①でラケットを振り上げるときに「ウ~ウォ~」と大声を出していたのである。
それまでは「インパクトまでは力を抜く」ように気をつけていたんだけど、もしかしたら、振り上げのときの「ウオ~」が秘訣なのかな???
「イガ」を逆にして、ついでにちょっと変えて、「ガー」「オー」で打ってみたらどうだろうと思いついたのである。 |
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①ラケットの振り上げ |
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「ガー」で振り上げる |
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②インパクト |
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「オー」で打つ |
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それが意外といい感じなのである。ついでに、トスを上げる前に左足のつま先をピンと上げることにしたら、スムーズに「カエル」に入れることも発見した。
先輩に「まさか、声を出すんじゃないでしょうね?」と驚かれたけど、もちろん一応女子なので、そんな恥ずかしいことはできない。心の中でつぶやくだけである。
でも、気弱になって崩れそうになったときは、「ガー」と小さく声を出すといいことも発見した。集中力が上がるらしい。
Cさんには「腕を振り回しすぎているせいで逆にスピードが乗らない」と指摘された。
力まずに振り上げて、ボールに当たった瞬間に腕を止めると、ラケットのヘッドスピードが上がる。止めた瞬間の面の角度でコースが狙えるのだそうだ。
ついでに、久しぶりにスライスの打ち方も教わった。数年前に「フラットで打て」と言われて以来、ずっとフラットで打っているうちに、スライスの打ち方を忘れてしまったのである。
新たな課題が発生したけど、それ以外の細かい点は「カエル」にOKが出たことになるので、すごい自信になった。
振り上げの最後に手首を止める練習をしてみたけど、できなさそうだった。動ている状態で「止める」のはすごい筋力がいる。 筋力がつけば自然に止められるようになる日が来るかもしれない?
コースを狙うのも先の課題になったけど、あまり困っていないのだ。
フラットサーブとはいえ、ナチュラルスライスがかかっているので、回転もコースもまちまちになる。どんなサーブがどこに飛んでいくか自分でも分からない代わりに、相手にも読まれないという利点がある。
ここでフォームを変更するとまたグチャグチャになってしまう。だんだんボールにスピードが出てきているので、しばらくこのままつづけることにした。
せっかく「ガー、オー」でサーブが安定したところなのだもの。今使えるサーブでシングルスの試合に臨むことにしたのである。 |
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