doseiみづ鍼灸室 by 未津良子(リョーコのブログ) 
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2/23(金) やっとテニスができるようになった
ぎっくり腰の発症から2週間たった日。仕事や日常生活にはとくに支障がなくなったとはいえ、まだ腰の硬さが残っていた。
深いところでところどころ「木」になっている感じがあった。

どうかな?と心配だったけど、動いてほぐれる分もあるので、思い切ってテニスに出かけてみた。

Cさんにお願いして、ミニラリーからはじめた。
前回教わったショットが中断したままだったので、そのつづきである。

フォアハンドは右が軸になる。フォアを打っているうちに、あれあれ?だんだん右の腰とお尻がほぐれていった。
そしたら、左が硬いのが気になりだした。

Cさんに「バックハンドをお願い」と言ったら、「えっ?」と驚いている。
まだまだ仕上がっていないのに・・・と言いたげである。

「右だけほぐれて、左が硬いから」「バランスを取らないと、ぎっくり腰を起こしちゃうかもしれない」と言ったら、なるほどと理解してくれた。

フォアは新しい打ち方を習っているし、バックは基本の①からやり直している。
フォアとバックでぜんぜん違う打ち方なので、大丈夫かな?

でも、右と左を交互に打っていたら、だんだん腰部の蝶番がゆるんでいった。
まっすぐ走る分には全力疾走も可能である。

そのあとダブルスのゲームをやった。
前後左右の複雑な動きは、まだまだ怖い。サーブは腰に来るので、アンダーのスライスサーブを打った。
用心にゲームはひとつだけ。
強風が吹き荒れていたので、腰に負担がかかる。ここでこじらせたら長引いてしまうもの。

3週間が経過した日には、上からのサーブも打てるようになった。
前後左右の動きもOKで、全力で走れた。
ストロークは時折すごいのが飛んでいったんだけど、ボレーはミスを連発。テニスを忘れちゃってて2連敗だった。
でも、みなさん「無理しないで」と優しい人たちで、ちょうどいいリハビリになった。

動くのが大変だった1週間、なんとか動ける1週間、おっかなびっくりテニスの1週間を経て、そろそろフルコースのテニスができそうなところまで来た。

今回のぎっくり腰は鍼灸師としていい経験になった。
ほんとうに「絶好調」は、諸刃の剣である。
あらゆることを全力で取り組めちゃうので、休む間もなく活動しつづけることになる。

疲労が身体のあちこちに蓄積していたことにまったく気づかなかった。
爆発してはじめて、腰だけじゃなく、お尻から太ももから足先までパンパンになっていたことを知った。

4ヶ月間、Sさんにお願いした2週に1回の鍼灸治療とストレッチだけで、どこまでやれるのか試してみたんだけど、やっぱり自分でハリを打たなくちゃだめだったみたい。
テニスのあと、太ももがパンパンになっても、お風呂の中でマッサージをし、それでほぐれてくれたと思い込んでいた。

ぎっくり腰の発症から1週間後、やっとSさんが来てくれた。治療してもらったけど、ぜんぜん変化がない。
その4日後にもう1回治療をしてもらったけど、やっぱりぜんぜん変化なし。

昔は着実に効果を感じられたものだけど、時間で終わる「やっつけ仕事」を2年もつづけた結果、完全にレベルダウンしてしまった。
1本1本のハリを打つ技術はあっても、全体としてどう治していくかのビジョンが見えなくなってしまったのだろう。

鍼灸師として、患者さんを「治して」帰す。それはミスの許されない試合、絶対に負けられない試合をやるようなものだ。

テニスと同じ。1本1本のショットは打てても、どう組み立てて、どう勝ちに行くかの「試合勘」を育てないと、いつまでも負け犬である。

「負け犬」のハリを打っているうちに、「試合勘」がなくなってしまったのだ。

あとから悪くなったところから先に治る、のであるが・・・

最後まで残ったところが、去年の8月に痛めた右太ももの内転筋だった。
坐骨結節から膝内側につながる半腱様筋と、恥骨結合から膝内側につながる薄筋が、すごい硬くなっていてなかなかほぐせない。

ぎっくり腰の日、ストレッチ(#18)をちょっとハードにがんばったのが引き金で、内転筋の不具合を引っ張り出してしまった。

でも、もう治ったと思い込んで追加の治療をしなかった自分が間違っていた。
ついでに言えば、それに気づかなかったSさんの責任でもある。

駆け出しの頃から、ぎっくり腰の治療ほど簡単なものはないと思っていたけど、他の人の話を聞いてみても、意外に難しいのかもしれない。

もしかしたら、治療するときに一番大切なのは「心」かもしれない。「熱意」と言い換えてもいい。

うちの患者さんにしてもらったカマヤミニや、マッサージのほうがよっぽど効果があった。
患者さんたちのおかげで快方に向かったようなものである。
2/9(金) 25周年記念日はぎっくり腰でゴロゴロ
先週金曜日、2月2日はみづ鍼灸室の開業記念日で、ついに25周年。
今年こそなんかイベントをと思いながらも、例のごとくぐずぐずと何の予定も立てず。

ま、いっか、シングルスのラウンドロビンの日だから、久々の1勝を自分で自分にプレゼントしよう・・・なんて考えていた。
(去年の24周年記念日は、自分にティラをプレゼントしたのである)

でも、その日にあわせてピンポイントの雪予報。
『体調は絶好調なのに・・・』と、がっかりしたんだけど、中止になってよかった。
試合の前日にぎっくり腰になったのである。

朝、いつものようにティラの散歩とストレッチをし、さあ出かけようとしたら、なんだか腰が痛い。
蝶番(腰椎5番から仙骨にかけて)のあたりに、軽いロックがかかっていた。

でも、待ち合わせをしていたので、そのままテニスクラブに出かけた。
ラリーをしているうちに、どんどん腰痛が悪化した。

さっさとお灸をすればよかったんだけど、面倒だった。
『ごろごろ寝てたら治るのかな?』と思って、翌日の開業記念日は1日ごろごろして、自分で試合をする代わりに、デビスカップなんか見ちゃった。
一歩も引かない選手たちに感動できたから、まあよかったけど・・・

ごろごろしてれば痛くはなかったけど、ただ痛みが眠っていただけのことだった。
翌日の仕事のあと、歩けないほどの痛みに襲われた。

誰にでもできる応急処置のアイテムはカマヤミニである。

患者さんを治療するときはずっと中腰なので、腰痛が悪化する。
終わったあと腰が伸びないし、これではとても歩けない。
カマヤミニをするととりあえず歩けるようになるので、それからティラの散歩出かけた。
なんとか歩けるが、腰のロックははずれない。歩いているうちに、だんだん腰が重くなっていった。

パソコンに向かって何時間も坐っていると、足が冷えて氷のようになる。
さあ、と立ち上がろうとすると、腰の痛みで立てないほどになる。

そのうちまとめてお話しするけど、去年の暮れぐらいからプライベートな問題を抱えてて、何百時間も文章を書かなきゃならない羽目に陥っているのである。

「痛いなと思ったらカマヤミニ」で、日常生活はなんとかこなせる。
カマヤミニなどの間接灸は、鍼と違って、表面的にしか効果がないので、日に何回もしなくちゃならないのが面倒だ。

この4ヶ月間、あえて自分で自分に治療をしないでやってきた。
2週に1回は友人の鍼灸治療を受け、あとはストレッチだけで、どこまでやれるのかを試してみたかったのである。

鍼灸師のSさんは、本業じゃないし、治療の途中でも時間で帰ってしまう。
腰の治療が中途半端だな・・・と思いつつも傍観していた。
しかも、ぎっくり腰から4日目の治療をドタキャンされてしまった。
いつ来てくれるのか目処がたたないらしい。

というわけで、やっぱり自分でなんとかするしかなくなった。
初心者の頃から蓄積してきた治療技術の数々を、頭の中の倉庫から引っ張り出して、次々に試してみることになった。

腰には自分で鍼を打てないので、股関節や足など、手の届く範囲で自分で鍼を打ってみた。
ちょっと良さそう・・・と思ってもイマイチで、痛みが移動するだけなのである。
病はそうとう根深いようである。

女性のぎっくり腰には、お腹の冷えが原因の場合がある。

最後に単刺で腰に鍼を打ち、いったん立ってもらう。まだ痛みが残っていたら、透熱灸をする。
ほとんどはそれでOKなのだが、それでも痛みが取れない女性がたまにいる。
(男性には1人もいない)

そういうときの奥の手は、お腹の多壮灸である。
灸点紙をしいて透熱灸を重ねていくのだけど、熱さを感じるまで何十壮もすることになる。
終わったあとは、「あ、動ける!」と患者さんもびっくりなのである。

そういえば数日前からひどい下痢をしていた。
お腹を押してみると、薄べったい鉄の板のようになっていて、腹腔の底に張りついている。
お腹への透熱灸も何度か試し、いい方向へは向かったけれど、でもやっぱり腰のロックははずれない。

月曜日にあんずにお手伝いに来てもらった。
あんずはお灸が上手なので、一緒にデビスカップの録画を見ながら、「え、こんなに!」と驚かれるほど、えんえんとカマヤミニをしてもらった。
どんどん腰が軽くなっていく・・・と思いきや、最後の最後に、逆に腰の痛みが増悪した。歩くのもやっとになった。

それまでは、寝ているときの痛みがまったくなかったのに、その夜は横になっていても痛い、という状態になった。
眠っていた痛みが目覚めた=腰のロックがはずれた、ということだ。

腰の「ロック」は、腰を守る筋肉のギブスで、ガッチリと固めて患部を守ろうとする人体の防御反応である。
そのまま放っておくと、筋肉が縮んで固まったままになってしまう。
「痛み」を出して治療することで、奥底まで健康で柔軟な筋肉に戻す。これが鍼灸治療の極意なのである。

横たわっているときの痛みは一晩で消えたけど、立ち上がるときの腰痛はまだまだである。

そこで思い出したのが、足に貼る銀粒である。
ひどいぎっくり腰の患者さんだと、治療のあとベッドから立ち上がれないことがある。
そういうときに、太ももなどのツボに銀粒を貼ると、なぜかスイッと立てるのである。
銀粒の「杖」効果である。

昔はよくやったなあ・・・と思いながら、足のあちこちに銀粒を貼ったら、あれ?ほんとにスイッと立てる。
こんなことなら最初からやっておけばよかった・・・

そんなこんなでこの1週間はテニスどころではなかった。

仕事と家事とティラの散歩と、これって普通の人の1人分の人生かなあ。
分刻みで動いていた私が、のんびり起きて、のんびり歩く。
夜更かしをして、朝寝坊をして、暇さえあれば自分であちこちに治療。

ティラちゃんはうちに来てちょうど1年。
最近だいぶ物分りがよくなって、邪魔をしないでちゃんと待っているんだよ。

10月からつづいた「絶好調」は4ヶ月で終わりをつげた。
年寄りの「絶好調」ほどあてにならないものはない。
身体が鈍感になっているから、脳が小さな不具合を見逃してしまうのだ。
こうなってから振り返ってみると、小さな予兆がちょこちょこあったことを思い出す。

雪掻きもした。雪でコートが閉鎖になったので、あれこれ掃除や片付けなんかして、普段使わない筋肉を酷使した。
腰がイマイチなのに気づいていた。太ももの付け根が固かったし、足も冷えていたし、お腹の調子も悪かった。
ぎっくり腰の朝、360度ストレッチ(#18)をがんばり過ぎたのが引き金かな。

ちょっとずつマシになってきているけど、ハードなテニスに耐える身体に戻すためには、どうしても誰かに患部にハリを打ってもらわなくちゃ・・・

私のかかりつけ鍼灸師に志願してくれる人、誰かいませんか~~?
1/30(火) [ドラマ]イサベル ~ 波乱の女王 ~
先週月曜日、「お昼から」のはずの雪が、朝から降りはじめていた。
午前中に、降りそそぐ雪の中でラリーして、シングルスもしたんだよ。

凍えるほど寒くて、身体が温まるまで1時間ぐらいかかったけど、気分は爽快だった。
「テニきち」が20人以上、雪の中でやっていた。

1月の雪は気温が低いので、とけずに凍結することが多いそうだ。
テニスコートに積もった雪がなかなかとけなくて、日曜日の女ダブからテニスを再開。
ショットにも苦労したけど、サーブがぜんぜん入らなくなっちゃった。
たった5日でテニスを忘れちゃうなんて、まだまだ素人なんだね~~

暮れからずっと、スペインのドラマ「イサベル」にはまっていた。
全39話をやっと見終わったところである。

スペイン語を勉強していた頃は、スペインや中南米の地理や歴史に自然に詳しくなっていく。
「カスティーリャのイサベル王女とカタルーニャの王子が結婚してスペインを統一した」という、おぼろげな記憶があった。

去年の暮れに、カタルーニャがスペインからの離脱を宣言した。

「せっかく統一したのに、どうして?」という疑問を感じていたとき、たまたまケーブルで、「イサベル~波乱の女王~」というドラマをやっていたのである。

またスペインに行きたいなあ、スペイン語が聞きたいなあ・・・と、何気なく見はじめたのである。

スペイン語で、「スペイン」は España (エスパーニャ)だけど、別名、Castilla (カスティーリャ、もしくはカスティージャ)とも呼ばれている。

「スペイン語」は español (エスパニョール)だが、castillano (カスティジャーノ)と呼ばれることもある。

なるほど、イベリア半島での最大の強国、カスティーリャが領土を広げてスペインを統一し、その言語が公用語となったのだ。

スペインへは3回行ったけど、すべてバルセロナだった。
マドリードは内陸にあるので肉料理がメインだろう。私は肉を食べないし、どうしても海が見たい。
3回とも別の人との旅だったし、日程の都合もあって、バルセロナを拠点にあちこちへ出かけたのである。

バルセロナはカタルーニャで、駅でもどこでも、スペイン語とカタルニア語の両方の説明書きがあった。

スペイン語、ポルトガル語、イタリア語は似通っていてまるで方言のよう。それぞれが自分の言語で語って、充分会話ができるのだそうだ。
でも、カタルニア語はかなり異なる言語らしく、私はまったく理解できなかった。

バルセロナのディアゴナル駅の近くのレストランで食事をしたとき、となりのテーブルのおばさんと話をした。
面白いおばさんで、「このあたりはすべてエスパーニャ」と、笑いながら皮肉るような形容をしていた。

日本人から見れば区別がつかないけれど、500年以上たった今も、違いがあきらかで、お互いの確執は根深いものがあるらしい。

イサベルは1451年生まれで、ドラマは彼女の少女時代からはじまる。
歴史を知らないので、「なんで?」「なんで?」と次々に疑問が起こる。

「結婚相手は自分の目で確かめたい」「愛する人としか結婚しない」と、きっぱり言っていたイサベルが、アラゴンの王子と政略結婚をする。
「ユダヤ人を迫害しない」と強く言っておきながら、異端審問でユダヤ人が拷問されることを容認する。

途中で気がついたのは、これは歴史物だということ。スペインの大河ドラマなのだ。
イサベルが何を言おうと、紆余曲折して葛藤したかにみえようと、史実の通りにストーリーが展開していくということだ。

当時はスペインの戦国時代。
各地に貴族が群雄割拠し、互いに領土を広げようとする。策略と謀略と戦いに明け暮れ、エピソード満載なのである。

途中で古地図を調べようと思ったけど、『待てよ・・・』と思いとどまった。
何も知らずに見れるのは、1回かぎりなのである。

スペイン人が「イサベル」を見れば、誰が勝ち、誰が負け、どうなったかをすべて知った上でのことだろう。

日本も戦国時代が一番面白いが、すでに史実を知っている。
時代の雰囲気を味わい、作者の「解釈」を楽しむことしかできない。

戦国時代の大河ドラマを、何も知らずに見るとしたら、波乱万丈の展開に、手に汗握ってハラハラ、ドキドキに楽しめる。

ローマ教皇が何人も登場し、いろんな司祭も出てくるが、みなさん普通に愛人がいて、子どもまで持っている。
神に仕える身でありながら、欲にまみれている。

コロンブスも登場。そういえば、バルセロナで、イサベル女王がコロンブスに謁見したという「王の広間」に行ったなあ。

神聖ローマ帝国とか、うろ覚えの人物や地名が次々に出てくる。
あの有名なレコンキスタ(国土回復運動)も、この時代の話だったのだ。

カスティーリャでは「女王」が即位できるけど、アラゴンでは男しか王になれない。
2人に「男」の子孫がいないと、両国を合体させることはできない。

ところが、男の子が弱いのである。なかなか男子が生まれない。生まれてもあっけなく死んでしまう。
権力を集中させるために、王家同士で血族結婚をくり返したので、子孫に恵まれにくくなる。日本の天皇家や徳川幕府と同じである。

そんなこんなで、最後までハラハラ、ドキドキ。興味津々でドラマにのめり込んでしまった。

やっと見終わったので、ネットや本であれこれ調べはじめているところである。

イサベル女王役のミシェル・ジェネ-ルは、少女時代からはじまって、孫のいる晩年までを堂々と演じている。

イサベルは後妻の子として生まれ、遠くの城に追いやられて、経済的にも困窮した不遇な少女時代を送った。
質素な生活を貫き、敬虔なクリスチャンで、人民のことを第一に考えていたように思える。
たぶん、人民に人気があったから、国をひとつにまとめることができたんだろう。

古地図を見ると、当時のアラゴン王国がバルセロナやバレンシアを抱合するカタルーニャである。

アラゴンの王子フェルナンドは知力と武勇にすぐれ、自ら戦場に赴いて戦う王子である。
王にして、男の中の男である。彼も人民に人気があっただろう。

フェルナンド役を演じているロドルフォ・サンチョも、メチャかっこいいのである。
1/19(金) レビー小体型認知症のこと
開業して25年もたつと、いろんな患者さんの人生を、絵物語を読むように、長きに渡って観察することになる。
「親がうるさい」と文句を言っていた若者が、いつの間にか親を介護をする側に回っている。
「お母さん大好き」少女が、母親の「無気力」と葛藤している。

ふろく・4は「母の介護」がテーマで、その1は「レビー小体型認知症」についてである。

人間は死亡率100%だし、若くして病気や事故で死なないかぎり、必ず「老い」がやって来る。
形あるものは必ず壊れる。ある人は身体から、ある人は脳から、「壊れて」いくのは生物の必定なのである。

親の認知症の始まりを見抜くことは難しい。私もそうだった。
「自分の親が年を取るはずはない・・・」、そんな期待をしてしまう。
「ああしろ、こうしろ」と親を励ます。
「甘えてるだけだ」と親に激怒し、大ゲンカになってしまうこともある。

私の最大の後悔は、母の認知症をすぐに見抜けなかったことである。
早く気づいて上げられれば、母は辛い思いをすることもなく、植物状態寸前になることもなかっただろう。
私の失敗を参考にして欲しい。

今年に入って、クラブでのダブルスはほぼ連勝。サーブが入ると、自分のゲームのキープ率が上がるので、勝ちやすい。
シングルスを戦ったことで、コートで動じない自分を発見して、「ヤッホー」と喜んでいたんだけど、女ダブでスランプに陥った。

ほとんど男性の中でやっているので、女性のゆるいボールが苦手なのである。
ゆるいボールの打ち方を教わってはいるんだけど、ぜんぜんダメなのである。

まあまあのボールを打つ女性3人の中で、私の1人負け。1-6、3-6、0-6、4-6と、4連敗してしまった。

たまたま見ていたシングルスプレーヤーの若い女性が、あれこれアドバイスをしてくれたんだけど、最後に、「女性のシングルスなんて、あんなボールばっかりですよ」「慣れないと!」と言うのである。

相手が動けないんだから、ロブを上げれば簡単に勝てるはずだったけど、ロブが上げられなかった。
足元に落とそうと思っても、落ちてくれない。
相手はベテランだから、手元のボールはチャンスボール。簡単に切り返されてしまう。
ついにサーブもボロボロになった。

次の日たまたまミックスをやることになったんだけど、スランプが尾を引いていて、ボロボロのままでスタートした。
ボールが飛ばないし、サーブの打ち方も忘れてしまった。

でも、組んだ男性に励まされ、相手ペアにも励まされ、1セット目の途中から、やっと自分のテニスを思い出しはじめた。
2セット目、5連敗のあとの久しぶりの勝利を手にした。

今回のスランプで、いろいろなことを学んだ。

上手く行かなくなるとパニックになる。
基本を忘れて、あたふたとボールを追いかけることになる。
「ちゃんと飛んだかな?」と自分のボールを見送って、返ってくるボールへの対処が遅れる。

・・・いつもの悪いクセが炸裂するのである。

それを防止するために、あんちょこを作ってバッグの中に入れてあるんだけど、余裕がなくなると、あんちょこを見る余裕もなくなるんだよね。

ロブが上げられなくなった理由は、ボールに回転がかけられなかったからである。
回転がかけられないから、コートの中に落ちてくれない。
打ちすぎるとアウトするし、縮こまるとネットする。

強くて速いボールを打つ相手だって、ときには短かったり、ゆるかったりのボールが飛んでくる。
でも、パニックにはならない。

「苦手」と思って「萎縮」するんじゃなく、「セ・サ・ミ」や「サ・サー」など、せっかく留意事項を合言葉にしたんだから、地道な取り組みに集中しよう・・・

「ロブが上げられない」が萎縮の兆候だから、ムーンボールを深く打つことからはじめて、そこから自分を立て直したらどうかな?

もしや、苦手なのは、女の「ボール」じゃなく、「女」なのかも・・・?

母とはずっと葛藤が多く、父とのほうが仲良しだった。
自閉症は「男脳」だから、男といるほうが気楽である。
「裏表を使い分ける」女の前では、どうしても緊張してしまう。

その考察はのちの課題として、相手に関係なく、自分のテニスができるようにならなくちゃね~~(笑)
1/9(水) なんとか岩鞍でスキーができた
年末年始はハードである。

「体調は最高」なんて、自慢したあとはたいてい落ちるものだけど、予想通りだった。
掃除、片付け、料理、買い物と、あまり使っていない分野の脳ミソと筋肉をフル活動させているうちに、あちこちがガタピシ言い出した。

ハードなテニスをぴたりとやめたのも一因かも。
動きつづけている人間がいきなり動きを止めると、どっかに故障が出てしまう。

そのうえ気分はLost Mother ・・・
なんだか母を亡くしたことをはじめて実感した。悲しくて悲しくて、何かにつけて母を思い出してしまった。

毎年、年末に大量の料理を作ってきたのは、母のためだったのである。
家族にひとり「弱い者」がいると、その人を中心にみんなが結束する。

母に大好物を食べさせてあげたい。みんなにも来てもらって、母を喜ばせたい。
・・・母を元気付けてあげたい・・・が原動力になっていたんだね。

エネルギーがぜんぜん沸いてこなかったんだけど、あんずが「松前漬けが食べたい」と言うので、なんとかいつものおせち料理をつくりあげた。

元日は一族7人が大集合。みんなで(ティラも連れて)深大寺に初詣にも行ってきた。
2日3日はスキーに行く予定にしてあった。

なんだか右腕が変だなあ。肘を曲げて腕を持ち上げるときに、ときどきピリピリが走る。ピアノ線のような細く鋭い高音の痛みである。
だんだん頻度が増していき、痛くて歯磨きが難しくなった。
でも、無視して早めに寝ることにした。

夜中、いきなり目が覚めた。自分が風邪を引いていることに気がついた。

やたらに鼻をかんでいたこと。皮膚がピリピリ過敏になっていたこと。あちこちの筋肉痛は「節々の痛み」かも。
そういえばゾクゾクするし、熱も出そうである。
身体もだるいし、これじゃあスキーなんてとても無理。

・・・でも、ドタキャンは嫌いである。

昔から、風邪の引き始めに、商陽(大腸経の井穴)から瀉血をするとすぐに治ると言われている。
おふとんの上に坐って、両方の手の指10本と足の指10本と、すべての井穴から邪気を抜いた。
1時間ぐらいかかったけど、かなり身体が軽くなったので、ビールを飲んでまた寝なおした。

翌朝、のっぺ汁を食べたら、風邪症状は1割以下に激減。やっぱり野菜スープは風邪の特効薬である。

右ひじにテーピングをして、ピョン君の運転であんずと3人、一路、「尾瀬岩鞍スキー場」へと向かったのである。

今年はほんとうに雪が多い。沼田で関越道を下りると、もう一面の雪景色である。
お昼頃に山荘に到着し、宿の人にスキー場まで送ってもらった。

スキーは1年振りである。
まず、なだらかな斜面で練習したあと、ゴンドラに乗って山頂に出た。目的のミルキーウェイである。

ピョン君が「もう4時だから、4時半の迎えに間に合わないかもしれない。ゴンドラで下ろう」と言ったのだけど、「明日は明日の風が吹く。明日何が起こるか分からないから、滑れるときに滑っておこうよ」と私。

お天気もよくて、景色も素晴らしかったけど、見ている余裕も写真を撮る余裕もなく、必死になって下りに下った。
(バスにはゆうゆう間にあった)

温泉でマッサージをしたあと、食べて飲んで、夜の時間は自分の右腕にハリを打ちまくった。
「ここが痛い」というレベルではなく、腕を使いまくったために全体的に疲労が溜まっているせいだろうと診断したのだけど、それは正解だった。
翌日にはすっかり治ってしまった。

夜から雪が降りはじめ、どんどん積もって行った。一晩で車の上に50センチもの高さに雪の山ができてしまった。

次の日は吹雪のためにゴンドラは停止になって、ミルキーウェイに行き損なったから、無理して滑っておいてそれも正解だった。
雪の日のスキーって大変なんだね。

立っているときは上から落ちてくる雪が、滑っているときには吹雪になる。
雪が正面から向かってくる。目に入って痛い。メガネに積もる。
前が見えないだけじゃなく、足元も見えない。

半分以上の時間、「お祭り広場」で休憩をした。山小屋風の居酒屋みたいなところで、料理が美味しいし、ビールもワインもあるんだよ。

「もうちょっと滑りたい、というところで終わるのもいいのかもね」とあんず。
なんだか去年も同じセリフを言い合ったような気もするけれど、のんびり楽しめたからちょうどよかったね。

4日5日はテニス、6日7日は仕事と、いつもの生活パターンがはじまった。

風邪もはじめにガーッと熱を出して寝込んだほうが、早く治るかもしれない。
症状を軽くしたためか、だらだらと長引いてしまった。
身体の重だるさがなかなか抜け切らなかった。

今日はシングルスのラウンドロビンの予定だったけど、来月に変更した。
チャンスボールの打ち方、ぽっこんボールの打ち方を習い、気持ちはやりたくてたまらなかった。
ラウンドロビンに「出たくてたまらない」なんて、私の精神力もかなり向上してきたね。

お正月休みで1年の疲れを取る・・・のが理想だろうけど、年末年始がハードなので、完全に元気が戻るのにはしばらくかかるのだと思う。

明日からはほぼ(アクセル)全開で行けそうかな~~
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