雑談・4
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<善悪の概念はどこからきたのか?>
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人間は群れに属して生きる動物
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何年か前、「生きてこそ」という映画を見た。大学のラグビーチームを乗せた飛行機がアンデス山脈に墜落した。極寒の雪の世界で、人肉を食べて生き延びた人たちの実話だ。中には、どうしても食べられず飢え死にした人もいたけれど、死体は冷凍保存状態だったから、そのままでも生き延びつづけることはできたかもしれない。
勇気ある何人かが意を決して、救助を求めて山を降りることにした。そして、緑の大地にたどり着き、集落を見つけ、人間に出会ったとき、「助かった!」と叫んだ。
その瞬間に感じたことは、ああ、人間て、集団社会に属してはじめて「生きている」といえる動物なんだ、ということだった。
何年も前のことだが、シニカルな連中に「善悪なんて、宗教家が作り出した概念で、自然界にはそんなものはない」と言われて、それでも、自分の内部にある、善悪の感覚の存在を、何とか立証したいと、以来、探索しつづけてきた。
そのヒントが「生きてこそ」の中にあると思った。 |
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大自然の中で暮らす技術
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現代社会に生活していると、なかなか、思い当たらないことだけど、少し前の世代までは、各自が、食べ物を手に入れる具体的な技術を持っていた。着るものを手に入れるのも、その工程のほとんどすべてを家庭や個人でやることができた。
私なんか、魚も釣れないし、山に入ってもどれが食べられる植物か知らないし、あっという間に飢え死にだろうな。
私のおばあちゃんは、蚕を育てて、繭からフワフワを取り、それを紡いで絹糸にして、その糸を織って布にして、それで私の着物を縫ってくれたというのに。
自然の中から、生活に必要なものを手に入れるという、太古から個人に伝承してきた知識と技術が、工業化と分業によって、私たちの中から失われたことを思うと、すごく残念だ。
話がそれたけど、「雑談」だから、かんべんしておくれ。
つまり、人間は群れを作って生き延びてきた動物だってこと。先祖から子孫へと繋がる縦糸と、同時代を生きる人間同士の横糸の組み合わせがあって、はじめて、大自然の中で人間らしい暮らしが営める動物なのだ。 |
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「好かれる」ことが生き延びること
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集団生活をする動物にとって、「人に好かれるか嫌われるか」ということは死活問題だ。
人を利用したり、騙したり、人のものを盗んだり、人を傷つけたり、殺したりする人間は嫌われる。優しく、親切で、誠実で、人のために一生懸命働く人は、人に好かれる。
そういうことが善悪の基礎になっているのではないだろうか。つまり、弱肉強食の自然界にあって、人間にとっては、「善である」ということは「生き延びる」こと、「悪である」ことは「死ぬこと」なのだ。
その基礎は、子供のうちに、大人たちとの生活や子供同士での遊びを通して、培われるのではないだろうか。かつて、子供にとっての「学校」は自然で、「勉強」は遊びを通して人間関係を学ぶことだった。 |
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人間は善悪を学びながら成長する
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子供のうちは、善悪のすべての要素が、同じレベルで存在する。虫を殺すし、いじめもするし、盗みもするし、嘘もつく。残酷さもストレートだ。人が嫌がるようなことをすれば、仲間はずれにされる。
でも、優しい心も持っている。反省もするし、仲直りもする。道徳を口で説かれるのではなく、自分の体験を通して学んでゆくのだ。
現代は、子供の世界はほとんど崩壊している。人間関係を学ぶチャンスは、絶滅の危機にある。
その上、現代では、大人が一番悪いことをする。子供が悪くなったと言っても、大人の凶悪さの比ではない。名誉よりも目立つこと、反省するよりも居直ること、善悪よりもお金や権力を求めることをよしとする風潮がある。重要な職についている人間までもがそうだったりする。役割モデルは最悪だ。
善悪の概念も絶滅の危機にある? |
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お釈迦さまが言うには・・・
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仏教に詳しい患者さんに教わった。
釈迦が弟子たちに「知ってて悪いことをする人間と、知らずに悪いことをする人間の、どちらがより悪いと思うか?」と聞いた。
弟子は「知らない人間は無邪気だから罪がない。知ってて悪いことをする人間の方が悪いのではないか」と答えた。
釈迦の答えはこうだ。
・・・知ってて悪いことをする人間は、自分が悪いことをしていると知っているのだから、止めることもできるし、もうしない、ということを選ぶことができる。だが、知らずに悪いことをする人間は、自分が悪いことをしていると知らないのだから、やめることもできない。だから、知らずに悪いことをする人間の方が、より悪い・・・
ニューヨークの教会では、マフィアの献金が一番多いそうだ。悪いことをしては、贖罪のために献金する。笑える話だけど、あるいは彼らは、悪いことをしていると知っているだけマシなのだろうか? |
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天国or地獄への道は?
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仏教によれば、善人も悪人も「縁」だと言う。自分がいい人だとしても、それは自分の手柄ではない。親や周りの人に優しく親切にされたから、他人にも親切にできる。誰かから渡された親切を、別の人にバトンタッチしているだけのことらしい。
天国も地獄も、別に決まった場所があるのではなく、真っ暗闇のあの世で、魂は自分と似た魂に惹かれていくらしい。そこには似通った魂ばかり。やな奴ばかりのまさに地獄のような世界、あるいはいい人ばかりに囲まれる天国のような世界、というふうなのではないか、と誰かが言ってた。
類は友を呼ぶ、とも言う。似たもの同士が居心地がいい。いい人の周りにはいい人が多くて、たまに悪い人が現れても、すぐに去ってしまう。 |
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自分が「やった」ことだけが魂に刻まれる
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子供は無邪気で、知らずに悪いことをする。未熟から成熟にいたる道は、しょっちゅう自分の邪悪さを意識しながら、誘惑を退け、善なるものを選びつづけることだ。
人間が責任を持つのは、自分がしたことに対してだ。誰かにされたことではなく、自分がしたことのみが、自分の魂に刻印される。それは、その人のオーラになり、似たようなオーラを持つ人が引き寄せられてくる。
結局、善を心がけるのは、自分のためになる、ということだ。 |
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