母のリハビリカルテ 1 - 2010年 夏 -
|
|
<77歳で、向精神薬で脳障害をおこした>
|
|
入院の知らせを受けて、母の愛に気づく
|
|
母は2年前から新潟の老健、江風苑に入所していた。パーキンソン病と診断され、うつ病とも診断され、パーキンソンの薬とうつ病の薬をずっと飲んでいた。
本人の「身体が縛られる」という愁訴以外、客観的にはとくに身体的な異常はなかった。日常動作に問題はなく仮病と思われるほど「元気」、つまり、まだまだ普通の「おばあさん」程度の状態だったのである。
週に2回は電話で母としゃべっていたんだけど、7月の後半になってぜんぜん電話に出なくなった。様子がまったくわからないので、心配でたまらなくなった。
8月3日、仕方なく弟に電話をかけた。弟は出るなり「いいかげんにしろ!」とわめきはじめ、「何もかもおれに押し付けて~!」と怒鳴り、最後に「バカ!」と怒鳴って、ガチャンと電話を切った。話も聞けずに嫌な思いをして、電話したことを後悔した。
それなのに翌日、弟が普通に電話をかけてきたのでびっくり。母が「中に金が縫いこまれている」と言いながら、ハサミでシーツを切り刻んだのだそうだ。妄想がひどくなって問題行動が多発し、施設から「精神病院に入院させてほしい」と言われたとのこと。
母を精神病院に連れて行ったところ、「これなら充分施設で対応できるはず」と言われ、江風苑に連れ戻った。施設の職員に「面倒見切れない」と言われたそうで、「それは退所して欲しいという意味ですか?」と聞いたら、「そうです」と言われ、「次の施設を見つけるまで預かっていてください」と、母を置いて来たそうだ。
7日に弟から電話がきて、前日に母が精神病院に入院したと言う。
弟の話では、5日にまた施設から「すぐに来て欲しい」という連絡がきたそうだ。「老健では水しか点滴できないから、精神病院に入院させて、栄養の点滴を受けさせてほしい」と言われたのだけど、「仕事が忙しい」と断ったのだそうだ。
翌日6日に母が精神病院に入院した。病院の先生が「え、水の点滴がこんなに少ないなんて、これじゃ、脱水症状を起こしてしまうじゃないか!」と驚いていたそうだ。そして、「案外仮病で、いきなりひょいと起き上がって動き出すんじゃないか?」とも言っていたとのこと。
弟の話は江風苑のことに終始した。母のものを片づけようと江風苑に戻ったら、母の荷物が段ボール箱に入れられてホールに置いてあった。もう次の入所者のための準備がすすんでいたので腹を立てた。「勝手に荷物を片付けるなんてどういうことだ!」と怒鳴ったら、向こうが恐縮して平謝りした。翌朝、施設長とふたりでマンションにやって来てピンポンしたので、下におりて話をしたけど、よっぽど悪いと思ったらしい。。。
なんとまた電話が来て、同じ話をくどくどと何度もくり返した。聞いてる私もうんざりである。
「今は仕事が忙しくてすぐには行けないけど、来週、夏休みを取ってあるから、そのときに行くよ」と電話を切った。
弟が母の病状について言及しなかったので、緊急事態とは思わなかった。11日からとってあった夏休みの初日に新潟に出発したのである。
疲れ果てていた私が目覚めたのは、いつものようにお昼過ぎ。助手席に乗せたチワワのヴェルを横目で見ながら、だんだん不安が押しよせてきた。めったに連絡をよこさない弟が何度も電話をかけてきたことを思うと、なんとなくいやな予感がしてくる。
車を運転しながら、母のいい思い出ばかりがぐるぐると頭に巡ってきた。「大嫌い」と母の悪口ばかり言ってきた私だけど、あのときはああしてくれた、こんなこともしてくれたと、私のためにやってくれたいろんなことが次から次へと思い出されてきた。不思議なことにその瞬間、母がいかに私を愛してくれていたかに思いが行ったのである。
到着が夜になったので、病院の面会時間は終わりだろうと、高校時代の友人に連絡を取ってふたりで飲んだ。私が母の悪口を言うと、彼は「それは認知症だろ~」と言う。あんなこともこんなことも、すべて認知症がはじまっているせいだと断言された。
『そうなのかなあ・・・?』なんて、それまでのことをいろいろ振り返ってみた。「自分の母親が認知症のはずはない」という頑固な期待を、子どもなら誰しもが抱いてしまう。友人の親の認知症を見抜くのが得意だった私だけど、自分の親に対しては感情が邪魔をして、客観的判断能力が働かなくなってしまうのかもしれない。 |
 |
植物人間のような母を発見
|
|
翌日12日、朝イチで松浜病院に母を訪ねた。病室に入ってもすぐには母を見つけられなかった。まるで別人の顔をした女が、両手を拘束されてベッドに横たわっていたのである。入院してから6日間、点滴だけで生かされて、ずっとベッドに固定されていたのだった。
表情が欠落していて、どう見ても植物人間である。心底驚愕した私に、悲しみというよりも大きな絶望がひしひしと押しよせてきた。
全身がピーンと伸びきったままマネキン人形のように硬直していた。とりあえず拘束をほどいて、古方あん摩をはじめたら、手足はなんとかほぐれてくれた。看護師さんに車椅子を借りにいき、母の状態について主治医のお話を聞きたいとお願いした。
車椅子に母を坐らせて病院の中をぐるぐる回った。ゾンビのようになってしまった母がかわいそうでかわいそうでたまらなかった。
他の人たちにとっては面白くて優しい人間。明るくてほがらかで面倒見がよかったので、みんなに慕われ頼りにされていた。でも私にとっては、母は背負わされた十字架のようなものだった。
自己中心的な愛と過剰な期待を押し付けられてきた。感情的で口やかましく恩着せがましくて、いつまでたっても恨みを忘れなかった。母の思い通りにならなかった私の生き方を、どうしても許せなかったのだ。
母に精神的に追い込まれ、孤立無援でがんばってきたけど、そのおかげで私には自力で生きてきたという達成感がある。今の自分が好きだから、母への恨みは消えていた。2年半前にうちにいた2ヶ月間、鬼のようにケンカをしつづけ、娘に嫌われていると落胆して帰った母への罪悪感もあった。
執着心の強い母から逃げることに半生を費やしたようなものだった。逃げて逃げて逃げつづけてきたけど、一生かけて私を追いかけてきた母だから、ここで振り向いて受け止めてあげよう。家族の面倒を見て、父を看取り、やるべきことをやってきた母の最期を幸せにしてあげたい。「生きてきてよかった」と思って、あの世に行ってもらいたい。そのために全力を尽くそう。そう決心したのである。
車椅子の上でボーっとしている母に、「東京に連れ帰って、私が面倒をみるからね」と言ったら、うつろな目を見開いて、母は「おまえ、そんな、迷惑じゃないの」と言った。
『あ、会話が通じる!』と驚いた。まだ脳は死んでいない。
「迷惑なんてとんでもない。私が死ぬまで面倒をみるからね。見させてください」とお願いした。「もし私が先に死んだら、つづきはあんずが面倒みてくれるよ。私がいったんこうと決めたことは必ずやり遂げるって、あんたも知ってるでしょ」と言うと、「じゅうじゅう知ってる」と母は答え、またそのままこん睡状態のような眠りに陥った。 |
|
主治医の話
|
|
看護師さんに呼ばれたので、別室で主治医の小熊先生と話をした。
母の妄想がどんどんひどくなっていったので、7月の終わりにパーキンソンとうつ病の薬を中止したのだそうだ。代わりにリスパダール(ベンゾジアゼピン系の抗不安剤)を処方したところ、1ミリを2回飲んだところで傾眠、意思疎通もできず食事も取れない状態になったので、6日に緊急入院したとのことである。
そこで小熊先生は私にリーフレットを差し出して、「お母さんの病気はどうやらレビー小体型認知症だったようです」と言う。筋肉が硬直するパーキンソン症状があって、うつ病のようにやる気がなくなる。幻聴や幻視があるのが特徴で、「こうなってから、やっと病名が判明したんです」とすまなそうに言った。
アルツハイマーは昔から有名だけど、「レビー小体型認知症」はまだデビューして間もない。私も名前は知っていたけど、具体的な症状についてはまったく知らなかった。2年前に受診した慈恵医大の医師たちも、母を診て「何だろう?パーキンソンじゃないし・・・」とみなさんが首をかしげていた。記憶にも会話にも問題がなかったので、まさか「認知症」だったなんて、誰も夢にも思わなかったのである。
向精神薬に過敏なので、薬を使うとどんどん悪化していく。症状がすべて出揃って、やっと病名が判明したときには取り返しがつかない状態になっていることが多い・・・というドツボに母も落ちてしまったのである。
<→ふろく・3「レビー小体型認知症について」に詳細>
私の推測だけど、脱水状態になったために、薬の血中濃度が高まって、どっか~んと脳を壊してしまったらしい。過ぎたことは取り返しがつかない。脳をやられたときは最初のリハビリが肝心で、どこまで回復できるかはそこにかかっている。待ったなしなのである。
小熊先生に「母を東京に連れて帰りたいんですけど、どうしたらできますか?」ときいた。「弟さんとよく話し合われたんですか?」ときかれたので、「弟は、私が母を連れて帰ると言ったら、もろ手を挙げて喜びますよ」と答えた。そのときは心底そう思っていたのである。
小熊先生は「私が紹介状を書きますから、それを持って病院に行ってください。どこの病院ですか?」と言いながら、メモを取り出して書きはじめようとしている。
いきなり言われても・・・と困ったけれど、青木病院の名前が浮かんだ。治療室からバイクで5分のところにあるから通いやすい。ちょっと前に道でバッタリ、青木病院に入院中のSさんと下の娘さんが2人で歩いてくるところに、偶然出くわしたときのことも思い出した。
Sさんは母より1歳年上で、うちに10年ぐらい治療に来ていた患者さんである。ずっとデパス(ベンゾジアゼピン系の抗不安剤)を服用していたのだけど、テレビに出ていた有名精神病院を受診してから抗うつ薬も飲むようになった。精神状態がどんどん悪くなって、数年前に近所の青木病院の精神科に入院したのである。
入院中にときどき治療に来たのだけれど、すっかり現実感覚を失っていた。赤ちゃん返りしたみたいになって、うつろな目をしてボーッと椅子に坐っていた。その表情に、『やっぱりこの人はうつ病で、薬が必要なんだ』と、そのときは思ったのである。
ところが、娘さんと歩いてきたSさんは、私を見て「あら先生、お久しぶりです。お世話になりました」と挨拶をして、ヴェルを見て「あ、かわいいワンちゃん」と言ったのである。ちょっとヨボヨボだけど、現実感覚を持つ普通のおばあさんになっていた。
娘さんが「お母さん、胃の薬以外のお薬をぜ~んぶやめたんですよ。そしたら、こんなに元気になっちゃって!」と、嬉しそうに報告してくれた。
もしかしたら、向精神薬を使わない治療をしてくれる病院になったのかもしれない?
小熊先生に青木病院への紹介状をお願いして、母のところに戻った。 |
|
はじめての食事
|
|
その日の夕食からミキサー食が出た。点滴だけだった母のはじめての食事である。ためしにスプーンを握らせて、自分で食べさせてみた。腕の硬直が残っていたので、どうしてもスプーンを口元まで持っていけない。口のほうをスプーンに近づけようとしたけど、下唇がブルブル震えるだけで、あと10センチのところで届かなかった。「食べたい」という気持ちがあるのは一安心なので、私が食べさせてあげた。
母に「何か食べたいものある?」ときいたら、か細い声で「塩で握ったお握りが食べたい」とささやいた。「塩だけ?海苔はないほうがいいの?」ときいたら、「どっちでもいい」との答え。「具はどうなの?ないほうがいいの?それとも、何か入れる?」ときくと、「どっちでもいい。お前に任せる」と言った。
翌朝ご飯を炊いて、しっかり海苔も巻いて、筋子のお握りを作って持って行った。手足の硬直をほぐしてから、車椅子に坐らせると、母は自分でお握りを手に持って食べはじめた。2個も食べたのである。
見ていた看護師さんが「あ、食べられるんですね!」と喜んでくれた。ミキサー食も自分でスプーンを使ってちゃんと口に入れられるようになっていた。
弟がやって来た。本人の意思がなく、精神科に措置入院するときは、保護責任者が必要になる。「裁判所に行ってきた」と誇らしげにカバンをたたいた。
「ちょっと待てや」と席をはずし、メロンを持って現れた。「これは土産だ」とメロン、そして「交通費だ。これでちょくちょく来てくれや」と10万円を私に渡した。
ずっと「死後硬直」状態でベッドに固定されていた母が、車椅子に坐っているのを見て、目をうるうるさせて喜んでくれたのである。
母はまた車椅子の上で、半こん睡状態のように眠りこんだ。
弟は母を指差して「ここにも長くはいられないだろう。次のところを探さなくちゃな」と言った。「でもすぐに見つかるだろう。こういう状態だと、預かってくれるところはいくらでもあるんさ。寝たきりだと、オムツを換えるだけでいいから、楽だから。しかも、安いし」とつづけて言った。
大事な母親が植物人間同様になっているのに、あまりにも客観的な言い方なので、妙な違和感がただよった。
「東京に連れ帰って私が面倒見るからね。先生に紹介状をお願いしたんだよ」と話したら、弟はホッとしたようにうなづいた。 |
|
家族の「無謀なリハビリ」と「異様な熱意」
|
|
母がパンが好きだったので、夕食のときにパンをあげた。パンを手に持って食べている母を見た看護師さんに、「食事が出たばかりなんですよ!ミキサー食の人にパンを食べさせるなんて!」と怒られてしまった。
でも、脳の回復には家族の「無謀なリハビリ」が多大な効果をもたらすことを経験で知っていた。職員はリスクを考えて、ゆっくりとしかリハビリを進められない。
CTやMRIでの脳の画像と現実の状態(QOL)が、理論的に説明できない患者さんをたくさん見てきた。「医学的には奇跡」と驚かれるほどの回復が、家族や付き添いさんの性急で懸命なリハビリの成果だったという例がたくさんあるのだ。
鍼灸学校を卒業してすぐに、脳外のリハビリで定評があった調布病院に就職した。当時はまだ理学療法士の数が少なかったので、鍼灸師やマッサージ師がリハビリを行っていたのである。
私が入る前日に(主任をのぞく)最後の1人が退職した。10年以上もベテラン4人で取り組んできたリハビリを、初心者の私と主任と2人だけでこなさなければならなくなった。
77歳の女性が脳梗塞で入院してきたときのこと。主任はカルテを見ながら「77歳で痴呆がある。回復の望みはないから5分で終わらせなさい。可能性のある若い人に時間をかけてあげるべきだからね」と私に言った。
病院に入ってからROM(range of motion=関節可動域)訓練を教わったんだけど、その意味がわかっていない新人だった。その私が彼女のリハビリを任されて、マッサージなどを一生懸命やってあげたのだけど、手が固まってしまった。
1ヶ月ぐらいして主任が「あれ、手に神経がつながってる!残念だったなあ。手が硬直しているから、もう使えないね」と言う。「でも痴呆症だから、手が動かせたとしても、どっちにしても意味がないからね」とあっさり言ったのである。
主任が悪人というわけでなく、2人で100人もの患者さんをみなければならない現状で、それが医療の限界なのである。
母も77歳で認知症がある。職員にしてみれば、手をかけるのは時間の無駄と思われる患者なのである。大逆転をおこす秘訣は、家族の「異様な熱意」なのだ。
職業人が客観的にみて「望みはない」と思われる患者さんでも、家族があまりに熱心だと協力してあげたくなる。
病院で働いていると、あまりにも多くのお年寄りが捨てられていくのを見ることになる。帰っていく家がない。面倒を見てくれる家族がいない。かわいそうに思っても、職員としてやってあげられることは本当にわずかである。
そんなときに「リハビリはまだですか?」と何度も聞きに来る家族や、「早く家に連れて帰りたい」という家族がいると、俄然やる気になる。帰れるところのあるお年寄りなら、ちょっとの手助けでも、幸せへの大きな手助けになる。
脳をやられたときは最初の1ヶ月が重要で、4ヶ月を過ぎるともうそれ以上の回復は望めなくなる。壊れたての脳を刺激すると、新たに再構築されていくらしい。
母をそのまま放っておいたら、あっという間に認知症がすすんでしまい、1ヶ月で植物人間になってしまう。看護と介護を病院にお任せしている以上、職員さんたちにがんばってもらうしかない。ああしてくれ、こうしてくれと要求だけしても、動いてはもらえない。人を動かすには、まず自分が行動に出なくてはならない。
人生にはときどき正念場がやってくる。母が植物人間になるかどうかの瀬戸際だ。「異様な熱意」を見せるために、全力を投入して新潟に通う決心をしたのである。 |
|
トイレで排泄
|
|
いったん東京に帰って、3日後の16日に松浜病院に行った。母を車椅子にのせてうろうろしていたら、小さな声で「おしっこ」と言った。オムツでがっちり固められていたし、トイレ介助初体験なので、看護師さんを呼んで手伝ってもらった。母を立たせて、私が母を支えている間に看護師さんがオムツをはずしてくれた。トイレに坐らせたら、成功!
看護師さんは「尿意があったんですね」と驚いていた。「実は母は・・・」とこれまでの経緯を説明した。彼女は「東京から来てるんですか!」とまた驚いた。「東京に連れて帰るので、それまでよろしくお願いします」と話した。
3日後、19日はあんずと2人で病院に行った。母は車椅子にのせられてナースステーションの中にいた。この間の人とは別の看護師さんが「水越さん、おしっこしたくなったら言ってね~」と書き物をしながら母に声をかけてくれていた。
尿意があるうちにトイレに連れて行かないと、尿意が消失してしまう。トイレで立位訓練もできるので、これでまた一段、看護のレベルが上がってくれた。
あんずはとても明るいので、「ばあちゃん、ホッペがすべすべだね」とか。母はさんざんいじられてちょっと迷惑そうでもあったけど、にこにこ嬉しそうに笑っていた。いろんな刺激を受けると脳が活性化するので、あんずには大助かりである。
その日の夜は、弟と3人でお酒を飲んだ。弟はあんずがお気に入りだった。母を薬漬けにして植物状態にしたことは不問にして、「2年間大変だったね」と労をねぎらい、「これからは私たちで面倒を見るからね」と、母の転院を穏便にすすめる作戦だった。
「レビー小体型認知症」のコピーを弟に渡し、「私が前から言っていたとおり、母はパーキンソンじゃなかったんだよ。長年この仕事をしていると、勘が働くってあるんだよ。あんただって、長年警官をやっていると、『こいつが犯人らしい』とか、勘が働くってあるでしょ」と言った。
弟は「それは本部長が決めることだろ~。こいつはシロだとか、クロだとか、みんなはいろいろ言うんさ。でも、本部長が『クロだ』と言ったら、そいつが犯人なんさ」と答えた。
冤罪事件がおこるのは、警察のこういう体質のせいかもしれない。自分で考えることをしないで命令に従う。チームで動くから、この証拠はあいつが捏造したのかも?なんていちいち疑っていたら仕事にならない。
近所の人に合鍵を渡して、実家のお掃除を頼んだことも話した。母が不在の2年間、実家は閉めきりだった。お掃除は年に2回、私が帰ったときだけだったので、家の中は埃だらけ、くもの巣だらけで、だんご虫などがぞろぞろ生息していた。業者を頼むにしても、いちいち私が立ち会えない。近所の人に話したら、鍵を預かるだけでなく、お掃除もみなさんでやってくれることを快く引き受けてくれたのである。
弟は「近所の人に鍵を預けるなんてもってのほか。業者に預けるのなら分かるけど。近所の人に家の中に入られるのなんかヤダろう。金庫もあって、家の権利書なんかも入ってるんだぞ」と言ったのである。それにも心底驚いた。
ご近所さんと母はとても仲良しで、何十年もお互いの家を行き来する関係だった。73歳で具合が悪くなってからは、ご近所さんが母の世話をしてくれた。施設に入ったあとも、草取りや木の剪定や雨どいの修理など、外回りのメンテをやってくれていたのである。
私はあきれ果てて、「親も家に入れないあんたたちならイヤかもしれないけど、母は違うんだよ」といろんなエピソードを話し、「そんなに心配なら、金庫とか貴重品とか、ぜんぶ自分の家に持って行けばいいじゃないの!」と言った。それ以上反論がなかったので、納得してくれたと思った。
穏便作戦は上首尾ですすみ、弟はにこにこと上機嫌だった。
「母ちゃんは金持ちだ。新潟市から毎月お金が振り込まれるし、年金との差額がどんどんたまっていく。長生きすればするほど儲かる」と弟は嬉しそうに言った。
私は母のためにお金を惜しまず使うつもりだった。ちょっと不安がよぎったけれど、このまま事を進める決心は変わらなかった。
翌日(20日)もあんずと2人で病院に行ったけど、母はまったく元気がなかった。トイレに2回行けただけ。話しかけても返事がなく、ひたすらどんよりと眠りつづけていた。小熊先生に紹介状をもらって帰った。
23日には、「風に当たりたい」と母が言った。この年の夏はすごい猛暑で、まるで熱風のような風の中、車椅子で外をひと回りした。「ジュース飲む?」ときいたら、「飲む」と言うので、お金を手に持たせてみた。親指と人差指でコインをつまんで、自販機の狭いすき間に投入することができた。自分でボタンを押すこともできた。
ヤッター!と、内心小躍りした。脳が覚醒しているときは、まだこうやって器用に手を使うことができたのである。いろんな機能がまだ残されていた。このあともしばらくは、洋服のボタンのかけはずしなどの複雑な動作も可能だった。 |
|
青木病院の院長、五味淵先生との出会い
|
|
25日には母のリハビリはあんずとヨーコに行ってもらった。母はヨーコのこともちゃんと覚えていてとても喜んだそうだ。
私は紹介状を持って、青木病院に入院をお願いしに行った。母が植物人間にならずにすむためにはいくつかの「奇跡」が必要だったけど、この出会いもそのひとつだった。
五味淵先生はほがらかで優しくてとても気さくな人柄だった。事情を話すと、ニコニコ笑って聞いてくれた。職業が鍼灸師と話したら、「専門は鍼ですか?お灸ですか?」ときかれた。「私も昔、鍼に興味を持っていたんですよ。自分でもいろいろやってみて。もうとっくにやめてしまいましたけど」と笑う。
「鍼灸師さんならお薬が嫌いでしょう。ご家族がそうだと助かります。『もっとお薬を』とおっしゃるご家族だと、困ってしまうんですよ」と言うのである。なんて素晴らしいめぐり合わせだろう。
向精神薬を飲ませない代わりに?・・・というのも変だけど、差額ベッド代が4000円/日かかるそうだ。もちろん喜んで払うつもりである。
「弟さんには面倒見切れないと?わかります。私もそうだったんですよ。こんな仕事をしていますが、自分の母親のときにはお手上げで、何にもできませんでした。ところが、妹はいろんなことができるんですよ。母の世話はほとんど妹任せにしてしまいました」と笑う。
「え、新潟まで通っていらっしゃるんですか?」と驚いて、「それなら、なるべく早くベッドをお空けするようにしましょう」と、母の転院を快く引き受けてくれた。
「ところで、この病院はリハビリがないんですよ」と言うので、「大丈夫です。リハビリは私が専門ですから自分でやります」と答えた。断言した以上、やりつづけなければならない。プレッシャ-が重くのしかかってきたけど、覚悟をきめるしかない。
のちに聞いた話である。なぜか治療室には必ずと言っていいほど、そのとき必要な情報をもった患者さんがやって来る。数ヵ月後に都立松沢病院の職員が2人も現れたのである。
「青木病院だったら、五味淵先生がいるでしょ?」と事務の女性に聞かれた。松沢病院では院長、副院長の次に偉い部長先生だったのだそうだ。薬を使わない治療に取り組んで、テレビで紹介されたこともある有名な先生とのこと。
「どうして辞めるんですか?ときいたら、娘さんが医学部に入ったので、お金が必要になったんですって。とっても気さくで、誰に対しても優しくて、ほんとうにいい先生なのよ~」と大絶賛していた。
別の患者さんから聞いた話なんだけど、先代の院長(理事長)が青木病院をもっといい病院にしようと、五味淵先生を招いたのだそうだ。
彼が院長だったのはほんの数年間。そのタイミングで入院できたのは、ラッキーとしか言いようがない。(現在は九段ごみぶちクリニックを開業している) |
|
みなさんが親身になってくれた
|
|
26日に病室に行ったら、母がベッドにいなかった。お風呂の時間だった。男性看護師が2人でストレッチャーで母を運んできて、どさりとベッドに寝かせた。「ここの風呂屋は乱暴だ」と母がボソッと言ったので、笑ってしまった。
母を車椅子に坐らせて、ドライヤーを借りて母の髪を乾かしてあげた。そこへさっきの男性看護師がやって来て、「あ、車椅子対応ができたんですか!」と驚いた。
「そうなんですよ。会話も通じますよ。実は・・・」と今までの経過を話した。彼はとても親身になって話を聞いてくれた。
母が通院していたのは病院の外来である。外来の看護師さんなら、母が入院の2日前には普通だったと知っている。でも病棟の看護師さんは、ストレッチャーで運ばれてきた母しか知らないから、植物状態の患者さんと思い込んでも不思議はない。
病院の職員さんは何十人もいる。全員の耳に入るまで、とにかく手当たり次第に声をかけて母の状況を説明した。
自分でお願いができない母に代わって、私がお願いをする。人間にはフィードバックが必要だから、お礼を言えない母に代わって、私がお礼を言う。母の代わりに会話をして事情を理解してもらい、私が協力をお願いするしかない。
そうやって看護のレベルを上げてもらうのである。「植物人間」扱いをされてしまうと、そのうち本物の「植物人間」になってしまう。それが現実で、医療や介護にたずさわったことのある人間なら誰でも知っていることだ。
小熊先生も通りかかって「青木病院のほうはどうなりましたか?」ときいてくれた。「え、東京から来ているんですか!」と驚いて、「早く転院できるように、私から電話してみましょう」と言ってくれた。
30日には実家のご近所さんたちがお見舞いに来てくれた。江風苑に入所中は「惨めな姿を見られたくない」と、母は一切の面会を拒絶していたらしい。訪ねて行っても、背中を向けてベッドに横たわったまま一言も口をきかなかった、という話も聞いた。
でも私は「高すぎるプライドは邪魔である」という考えだ。病気も加齢も単なる現象だ。決して惨めじゃない。脳を活性化するためには、いろんな人と会って、いろんな刺激を受ける必要がある。そう話したら、みなさん喜んで来てくれたのだ。
同世代の友人を失うのは淋しい。どんな状態なのか様子を知って、少しでも助けになってあげたいと思うのが人情なのである。私が報告してあげることで、心配しているご近所さんたちを元気にしてあげられる。
そのときにご近所さんから、弟が「姉が勝手にやったことですから」と鍵を取り返しに来たという話を聞いた。1回も掃除をしたことがないのに、「家の掃除は自分たちでやりますから」と言ったそうだ。母の世話も実家の世話もすべてご近所さん任せにしてきたのに、感謝するどころか、「まるで泥棒扱い」したのである。
その日の母はあいにく調子が悪かった。脳がショートしていて口が開かず、昼食を一口も食べられなかった。言葉も発せず、ひたすら横になりたがっていた。でもみなさんに会えたことをとても喜んで、最後に泣きながら「ありがとう」とお礼を言ってくれた。
そろそろ帰る時間になった頃、夕方に弟がやって来た。車椅子の母を見て目をうるませて喜んでいた弟とは、まるで別人のように怖い顔をしていた。 |
|
弟が妨害をはじめる
|
|
病室に入ってくるなり、弟は「お前の勝手にはさせん」と私を睨みつけた。「今、金を払ってきたところだ。この病院は安い。医療過誤がらみだから、もしかしたらずっと置いといてくれるかもしれない。ここにいたほうが安上がりだ」と言った。
私は驚いて、「お金の問題じゃないでしょ。母を元気にさせられるのは私だけだよ。私が来たから、母は車椅子にも坐れるようになって、食事も食べられるようになったんだよ。あなたに面倒は見られないでしょ」と反論した。
「人を雇えばいいこって」と弟。「家族以外、誰ができるの?他人がどこまでしてくれるの?眠ったっきりで声も出さない患者に、一生懸命リハビリをしてくれる人をどうやって見つけるの?」と私。
もちろん素晴らしい付き添いさんも存在していることは知っている。だけど、監視のないところで最高のリハビリをやってくれる人にはそうそう出会えない。
最悪の状態でこんこんと眠りつづけている母の上にかがみこんで、「母ちゃん、東京なんか行きたくないだろ?」と何度も耳元にささやきかけた。おまけに「母ちゃんだって、生まれ育った新潟にいたいだろ?」とまでささやいていた。
あきれ果てた私は、「あら、母は山形県の生まれで、新潟には定年退職してから住んだだけだよ」と注釈した。
もう転院の手はずは進行中だけど、弟は母の保護責任者である。妨害されたらどうしよう・・・という危惧が、黒雲のように私におおいかぶさってきた。
赤の他人の職員さんやご近所さん、親戚の人たちがみな母のことを心配してくれ、元気になってくれることだけを心から願ってくれている。それなのに、実の息子が金のことしか考えられないというのが私には信じられない思いだった。
でも、それはある意味「想定内」のことでもあった。弟の嫁は「虚言依存症」とでも言うべき人間で、詐欺師の娘でもあった。父親は「事業をやるから金を貸してくれ」と近所の人にお金を借り、夜逃げをして戻ってきてまた金を借り、農機具屋をつぶし、家も土地も借金の方に取られた、地元では有名な「札付き」だったらしい。
開業したての頃、「私はプロよ」と豪語した「男を騙すプロ」の女性が2年間も治療に来ていた。まわりの人たちも大勢やってきて、いろんなトラブルを目撃した。なので嘘つきのことはよく知っている。口を開くたびに「嘘」が飛び出して、周囲の人を騙さずにはいられない「性」なのだ。欲しいのは「金」である。
詐欺師は泥棒や強盗よりたちが悪い。ただ金品を奪うだけじゃなく、人を信用させて騙すのだから、人の心をずたずたに傷つけてしまう。
母はそんな嫁でも弟のためにじっと耐えていた。「心がないんさ」とポツリと言ったことがあるけれど、私にも他の人にも悪口を言ったことがなかった。
嫁姑や夫婦で互いに悪口を言っている人がいるけれど、ある意味、それは仲がいい証拠でもある。「パンが食べたいと言ったのに、寿司を買ってきた」とか、関係性が深いからエピソードがたくさんある。「来ない」だけならエピソードもなく、悪口を言う材料もない。
弟夫婦は「介護は楽して儲かる」と思い込んでいたのだ。調停にかけられたせいで、あとから調べて判明したことだけど、江風苑の2年間、外出も外泊もゼロだった。老人保健施設は付き添いがなければ外へ散歩にも出られない。母を軟禁状態においたまま、母の通帳から120万円も引き出して自分たちで使っていたのである。
弟の職場では本部長の命令に絶対服従である。家庭では嫁が本部長なので、命令に従う以外の選択肢のない人生を送ってきたのだろう。
病院や施設を医療過誤で責めることはできない。「誤診」があったとしても、そのおかげで施設に入れると大喜びして、薬を飲ませることを受諾したのは弟夫婦である。
「面倒を見切れない」と言っている施設に母を置いてきたのも弟である。私なら即座に連れて帰る。再三訴えたのに、それでも置き去りにされた母は、家族にとって「いらない人間」である。職員さんたちに放っておかれたとしても、仕方がないのである。
残念ながら現代は、介護には遺産相続がセットになっている。弟夫婦のこと抜きでは、母のリハビリ・カルテは書けないのである。
睡眠時間を削って身体を限界まで酷使していたところに、実の弟の「まさか!」と信じられないような言動に遭遇して、複雑な感情にさいなまれた。弟夫婦の妨害からいかに逃れるかという、新たな課題に頭を悩ます羽目になったのである。 |
|
2ページ目へつづく |
リハカルテ TOP |
 |
|