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 母のリハビリカルテ 10 - 2012年 3~7月 -
 <歩行能力がどんどん低下、「足萎え」寸前になる>
人としての幸せに無関心な老人医療
慈恵医大で褥瘡の手術をしたあと、1月5日に転院した青木病院の内科の部長、主治医の青木先生は母を「歩かせない」方針だった。
常時尿道にバルーンカテーテルを挿入して、車椅子での移動は食事のときだけである。バルーンが入っている間はおむつ交換もない。ずっと病室に一人ぼっちで、人声も聞こえない。シーンと静まり返った部屋で、天井と壁ばかり見つめて過ごすことになった。

ゾンビ状態の頃の母ならそれでも良かっただろうけど、すでにかなりの現実認識ができるようになっていた。「人と関わる」生活を過ごしたあとで、「ひとりポツンと寝かされたきり」はあまりにも辛すぎる。
孤独と閉塞感で押しつぶされそうになったのだろう。母はときどき「獣」のようになって「暴れ」た。目つきがおかしくなる。あらぬことを口走る。薬を拒否して唇を固く結ぶ。ときには、看護師さんたちをつねったり、コップを投げたりもしたそうだ。

オリーブさんが毎日お見舞いに行ってくれるようになって、母の頭はだんだんしっかりしていった。私はリハビリで精一杯だったので、ほんとうに有難かった。
歩行訓練をするのはほとんど私だけ。1日1回の歩行訓練では限界がある。母の脚力はどんどん低下していった。足に力が入らずにヨタヨタで、ほんのちょっとしか歩けない・・・という日が訪れはじめた。
「入院するたびにダメになる」という家族の苦悩を見聞きしてきたけど、ほんとうにその通りだった。褥瘡は治してくれた。感染症を起こして死亡することは免れた。でも同時に、QOL(quality of life)を重要視することはできないのだろうか。。。
「病気を治す」ことに特化して、「いかに幸せに生きられるか」を考慮しない、その老人医療の落とし穴に母もはまってしまった。

リハビリメニューは、①あん摩で筋肉の硬直をほぐすこと。②ROM訓練で関節の拘縮を防ぎ、可動域を維持すること。③車椅子を押させての歩行訓練。④会話。⑤好きな食べ物を運ぶこと。
そして外食は難しくなった。私の車は車高が高い。母の脚力が落ちて踏ん張ることができなくなったので、私一人の力では母を座席に持ち上げられなくなった。車椅子で歩いて行けるオスカー以外は、ポプラが頼りになってしまった。
3月:バルーン(尿道カテーテル)が取れた
3月5日、母にパンを食べさせた。

6日、母にパンを食べさせていたら、看護師さんたちが、「今日はお昼を食べなかったから、よかったわね」と、次々に声をかけてくれた。

7日、レーズンパンとコロッケパンを食べさせた。看護師さんに「お薬を飲まなかったのよね」と言われた。母の投薬は便秘の薬だけになっていたのに、薬を拒否したとのこと。便秘で苦しむのは母である。
リハビリで首の可動域を知っているので、おでことあごに手をかけて、顔を上に向けて私が飲ませた。私の言うことは(たいてい)素直に従ってくれた。

8日、母はシャンとしていて、自力でご飯が食べられた。

11日、ポプラが来たので、母を江川亭にラーメンを食べさせに連れて行った。運悪く、その日の母はマネキン人形状態。目も口も開けられず、一口も食べられなかった。

14日、パンを買って行った。母に車椅子を押させて歩行訓練をしながら、「オリーブさんのお母さんも褥瘡になって、1年たっても治らなかったんだって」と言ったら、母が「毎日聞いてる」と言い放った。「いっつも同じ話ばっかりして!」と、懐かしの毒舌を吐いた。久しぶりに元気な毒舌がきけて、面白いやら嬉しいやらだった。
面倒を見ているオリーブさんよりも、見られている母のほうが、記憶が確かだったのである。

16日、母は「歩けない」と言ったのだけど、無理やり歩かせた。かんぴょう巻きを食べさせた。

23日、たっぷりROM訓練をしたあと、歩行訓練。車椅子を押させて歩きながら、病院内の掲示を読ませてみたら、すべてちゃんと読めた。

27日、ついに母のバルーン(導尿の管)がはずれていた。尿意は健在で、トイレで排泄ができた。バルーンに神経を使う必要がなくなったので歩かせるのが楽だった。ちゃんとお喋りもできた。
私が「帰るね」と言ったら、「私をここに置いておくの?」と言われた。

28日、エレベーターで1階に降りて売店に行き、パンとジョアを買った。
4月:母の褥瘡が治った
4月3日、歩行訓練で2周歩かせた。

5日、母は目が開けられず、脳がショートしていた。

6日、ROMと歩行訓練のあと、イチゴと甘栗を食べさせた。元気づいたらしく、「もう1周歩く」と言うので、また歩かせた。

7日、母のレシピの昆布巻きを作ったので、持って行ってイチゴと昆布巻きを食べさせた。

8日、母は歩くことができず、手も固まっていた。

13日、青木先生に母の褥瘡が治ったと言われた。意外に早かった。オリーブさんのお母さんは1年たっても治らなかったという話だったので、驚くやら、喜ぶやら、である。
青樹(老健)に転院を希望したのだけど、空きがないとのことで、3階(最初に入った精神科の介護棟)に移動の予定と言われた。

16日、夕食介助をした。

18日、かわいい顔でにこにこと妄想話をしていた。

25日、母は元気で、自力でご飯を食べた。

29日、柏餅と煎餅を食べさせた。
5月:内科から精神科(介護棟)に移動
5月3日、ちょうど美容師さんが来る日だったので、母のカットをお願いした。

5日、何か話そうとしていたのだけど、なかなか声に出せなかった。「弟に電話する?」ときいたら、「しない」と答えた。

8日、あんずと2人で母を迎えに行き、入れ歯の調整のために野原歯科に連れて行った。この日の母は身体が固まっていて、口を大きく開けることが難しかった。
先生が「お母さ~ん、もっと口を大きく開けて~」と何度も声をかけながら、とても辛抱強く治療してくれた。とても手こずって、1時間半以上かかっても、ちょっとしかできなかった。
そのあと一緒に銚子丸へ。タイミングが悪いなあと思ったのだけど、母はお寿司だと口が開いて、ちゃんと食べられた。

11日、もうすぐ移動なので、看護師さんに預けてあったおやつを全部食べ終わった。ジュースは家に持って帰った。

12日、夕食を食べさせた。
喉に団子を詰まらせて、死にかかった
5月15日、母が内科から精神科に移動する日だった。精神科は保護入院になるので、保護責任者である弟の許可を得なければならない。弟に電話をしたのだけど、病院のほうでも連絡をして確認を取ったそうだ。
老健に空きが出るまでの辛抱だ。3階の介護棟は母を植物状態寸前から救ってくれた病棟なので、ちょっとは希望が持てる。
でもこの日、とんでもない事件が起こった。

あんずと一緒に母を野原歯科に連れて行き、そのあとイトーヨーカドーに行った。母の好きなお寿司やお団子、たこ焼き、ラーメンなどを買って、フードコートで分け合って食べた。
母が「お腹がいっぱい」と言ったのだけど、醬油団子が残っていた。私は見るのもイヤなぐらい飽き飽きしていた。母のためにしょっちゅう買ったのだけど、「1本」は買いにくい。2本買って、私も食べる羽目になったのだもの。

「まだお団子が残っているから、責任取って食べてよ」と言うと、母が素直に口を開けた。モグモグ噛んでいるときに、『そうだ、水分を取らせなきゃ』とふいに思いついて、母に水を飲ませた。
母はいきなりむせはじめ、唇がみるみる真っ青になった。チアノーゼである。いきなり口に水を入れられたせいで、団子を喉に詰まらせてしまったのだ。

あんずが「早くドクターを呼んで!」と言ったのだけど、まわりを見まわして、『間に合わない!』と思った。2分ぐらいで死んでしまうから、救急車も手遅れになる。
両腕で横隔膜をグイっと圧迫すると吐き出せる・・・と本で読んだことがあった。後ろに回ってやってみたけど、はじめてなので自信がない。母の口に指を突っ込んで、お団子を取り出すことにした。一番長い中指の先がコロコロするものに触れたので、必死になってかけらを搔き出した。
唇がピンク色に戻って、母を死なせずにすんだ。

真昼の悪夢である。みんなが買い物や食事を楽しんでいる中で、突然ひとりの老人が食べ物を喉に詰まらせて死んでしまう。救急車がやって来る。人々が騒然となり、普通の日常生活が崩壊する。。。
母は自分の身に直結することにはとても慎重だった。「食べられない」ときは食べないし、「歩けない」ときには歩かない。頭がショートしているときでも、自分の状態をよく把握していた。不用意に水を飲ませた私の失敗である

よくも無事に生き延びてくれた・・・と、今思い出してもゾ~ッとする。
病院内なら吸引の器械があるけど、やっぱり外食はリスクが高い。でもリスクが高いことをあえてやらないと能力が低下する。大きなジレンマなのだ。
誰か携帯用の吸引器を開発してくれないかなあ。手軽に持ち歩けて、自宅でも外出先でも食べ物を喉に詰まらせたら、すぐにキュイ~ンと吸いだせるような。そしたら在宅介護も外食ももっと楽になると思うんだけど。。。
頭はちょっとマシになったけど、歩行能力は低下
5月16日、3階に移動した翌日、母はこわばった怖い顔をしていた。歩かせたけどヨタヨタしていた。また環境が変わってしまって、レベルダウンが心配である。
精神科は面会時間が1時半~4時半なので、時間の捻出が大変になった。五味淵先生が3月に辞めたあと、全体的になんとなく活気がない感じがした。

17日、平行棒の中を歩かせた。母は「なんでこんなところに入れた」と怒っていた。でもしゃべるだけマシかな・・・と気を取り直した。

18日、歩かせたあと、とろみのヨーグルトをスプーンを使って自力で半分食べた。

19日、顔がこわばっていて「何もわからない」と言った。頭は「獣」の日だったけど、たくさん歩けた。

22日、精神科の新しい院長、主治医の直長先生と話した。優しい女医さんだった。これまでのいきさつを話して、歩行と声かけをお願いした。

23日、あんずとヨーコが来てくれて、母を野原歯科に連れて行った。修理してもらった入れ歯は無事に入った。母はなんとか歩けて、三崎港でお寿司を食べさせた。

26日、パンを買って行ったら、自分で手に持って食べられた。

27日、平行棒の中を歩かせてから母とお喋りをした。

28日、すごい雨と雷で病院に降り込められ、母とゆっくりお喋りした。会話が通じるようになった。

30日、母にパンを食べさせた。ちょうどオリーブさんがやって来て、「3階に移ってから元気になったね」と2人で喜んだ。
6月:脚力が落ちて、膝が曲がってしまう
6月2日、母は元気でしっかりしていた。

3日、スリジェでケーキを買って行った。母は大好きなモンブランを喜んで食べた。

5日、マドレーヌと牛乳をあげた。ROM訓練のとき、母の膝が曲がりはじめているのに気がついて青くなった。
足の筋力が落ちて、膝を曲げたままで歩くようになってしまったせいである。自己流だけど、膝を伸ばす訓練をメニューに加えた。

6日、主治医の直長先生がホールいて、患者さんたちの様子を見回っていた。
リハビリのこと、オリーブさんのことなど「ありがとうございます」とお礼を言われた。青木病院にはリハビリがないのである。
リハベッドの上でROMをしたら、左膝は伸ばせるようになっていた。

10日、3階にはリハビリベッドが置いてあるのでありがたい。時間があったので念入りにROMのフルコースをした。

12日、主任の看護師に「1日1回しか食べないのよね」と言われた。眠りこけている母をなんとか起こそうとしたら、つねったり、コップを投げたりしたそうだ。脳がショートしていたらしい。
母に、「あんた、看護師さんにコップを投げたんだって?」ときいたら、「忘れた」と答えた。ほんとに忘れたのだろうか?都合の悪い話を聞かされて、忘れたふりをしてとぼけたのか?・・・お年寄りの「謎」である。

15日、リハビリのあと、ポテトサラダを食べさせた。

17日、ROMの途中で「おしっこ」と言うので、歩かせてトイレに連れて行った。

23日、母はヨタヨタ歩いていた。

26日、母にトウモロコシを食べさせた。

27日、ちょうど床屋さんの日だった。オリーブさんに「お母さんに美味しいものを食べさせてあげたい」と言われ、お願いすることにした。病院の中なら、喉に詰まらせても看護師さんに吸引してもらえるので安心である。

29日、ROMのとき、母の身体がだいぶ柔らかくなったことに気がついた。筋肉の硬直が取れた分、立たせることが難しくなる。自前の筋肉がつかなければ、かえって歩行が難しくなるというジレンマがあるのだ。
7月:ヨタヨタになっていった
7月6日、リハビリのあと、母にお稲荷さんと桃を食べさせた。主任の看護師さんといろいろ話をした。五味淵先生が去ったあとも、主任さんは以前と同じく、熱意にあふれていた。どうやら、主任さんがいるかいないかで、病棟全体の活気が異なるようなのだ。

10日、母が「何も分からなくなった」と暗い表情で言った。悲しい気持ちで帰ったけど、「何も分からない」ことが「分かる」だけマシかなと、気を取り直した。

11日、桃を持って行って食べさせた。

13日、母は「獣」状態だった。

17日、パンを食べさせた。

18日、母に、「オリーブさん、具合の悪い話しかしないでしょ」と言ったら、「しなくなった」と答えた。
「オリーブさんが元気になったのは、あんたのおかげだね。寝たきり同然なのに人助けをするなんて、偉いね」と母をほめた。

20日、枝豆を持って行ったら、ちょうどオリーブさんが来ていた。みんなで枝豆を食べながらおしゃべりをした。

21日、お芋を食べさせたら「まずい」と文句を言った。

22日、自分で桃にフォークを突き刺して食べ、「まあまあだ」と感想を言った。

24日、病院でオリーブさんに会ったら、アンパンを食べさせてくれたとのこと。美味しいアンパンがあるからと息子さんがわざわざ買いに行って、うちの母にも「食べさせてあげて」と言ってくれたそうだ。オリーブさんの家族みんなが母のことを気遣ってくれているそうだ。優しさに涙がほろり。

27日、2階で合同リクレーションがあった。看護師さんに「どうしますか?」ときかれて、母は「行きたい」と答えた。母を送って行って、2階の看護師さんたちに挨拶をし、そのまま仕事に戻った。

28日、母が「お散歩に行きたい」と言うので、ROMのあと、車椅子を押させて外をぐるりと歩いた。売店でクッキーと牛乳を買って、待合室で母に食べさせた。

31日、病院に行ったら、オリーブさんが「とっても美味しかったから」とメロンを持って来てくれ、母に食べさせてくれていた。
この日が青木病院の最後の日で、翌日から青樹に転院することになった。
五味淵先生が去った青木病院
青木病院の院長だった五味淵先生は、1年半前、新潟で植物状態寸前になった母を受け入れてくれた大恩人だった。向精神薬を使わない治療で、母を歩いたり、笑ったり、お喋りしたりできるようにしてくれたのだった。
母の目覚ましい変化に感激して、ホールで会ったときにお礼を言った。すると先生はニコニコ笑いながら、「私は何もしていません。お薬、向精神薬を使ってないんですから。お母さまがお元気になられたのは『看護の力』なんですよ」と、まわりを見まわして誇らしげに言ったのである。
こういう人が院長だと、看護師たちもやり甲斐がある。みなさんが生き生きと働いて、精神科の介護棟全体が活気づいていた。

当時の理事長先生(先代の院長)が「青木病院を優れた病院にしたい」と、都立松沢病院で部長をしていた五味淵先生を院長に招いたのだそうだ。でも母が青樹にいる1年ちょっとの間に理事長先生が亡くなってしまい、青木病院は一人娘の婿である青木先生が全権を握ることになった。
青木先生は2階の内科の部長で、そこでは私服が禁止だった。衣服からタオル、歯ブラシ、ティッシュにいたるまで私物はすべて持ち帰らされた。患者衣を着用し、病院が提供するセットを使用していた。

精神科では、患者さんが自分の好きな洋服を着て、自分の好きなものを持つことを重要視していた。「自分」を見失いがちな精神病患者にとって、「自分らしさ」というアイデンティティを持つことが大切とのことで、患者衣を拒絶したそうだ。
そんなこんなで揉めに揉め、 五味淵先生は3月末に退職することになった。(現在は「九段ごみぶちクリニック」の院長先生である)

母は5月に3階の精神科介護棟に移ったのだけど、もう以前のような活気が失われていた。主任看護師さんは変わっていなかったけど、他の看護師さんたちの多くは、以前のような熱意が感じられなくなっていた。
松沢病院で事務をしているうちの患者さんにその話をしたら、「そうなのよね。上が変わると、同じ人が『え、こんなに?』と驚くほど、別人のようになっちゃうのよね。一生懸命やっても、逆に怒られたりしちゃうから、やる気を失くしちゃうのよ」と言った。

なので母に以前のような「目覚ましい変化」を見ることはなく、ギリギリのところを維持することで精一杯だった。頭のほうはともかく、足の筋肉が衰えが顕著になった。転院の直前には「立たせることも難しい」ことも起こるようになったのである。
11ページ目へつづく
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Updated: 2023/11/17




















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