母のリハビリカルテ 11 - 2012年 8~12月 -
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<青樹(老健)に転院したのは歩けない日だった>
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脳障害から2年、頭の中の「霧」が晴れていく
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8月1日に青樹(老人保健施設)に転院した。青木病院に7カ月いた間に、母の脚力はどんどん落ちて行った。ヨタヨタしてしまい、ほんのちょっと歩くのがやっと・・・という日が増えて行った。転院の1週間前、母を立たせたときに、足に力が入らず膝が折れて、床にくずおれてしまった。励ましながらなんとか歩かせたのだけど、筋力の衰えは如実だった。
運悪く、入所の日はぜんぜん立てない日だったので、仕方がないので車椅子に乗せて移動した。これでは歩行能力の向上は難しいだろう・・・という絶望感が暗雲のようにたちこめてきた。
向精神薬で脳障害を起こしてからちょうど2年である。東京に来てはじめの1年ぐらいは、母は、精神科病棟や認知症棟の見るからに頭のおかしい人を、「おかしい」と気づかなかった。明らかに「変な」人に、普通に丁寧に対応している母を見て、不思議でもあり、悲しくもあり、『もう、あちら側の人になってしまったんだな』と絶望もした。
この頃になると、訳の分からないことを言われると、「変だ」と気づくようになった。「あの人は頭がおかしい」「同じ話を何度もしてる」と、そういう人たちと距離を置くようになった。周囲の人を識別する能力が戻ってきたのである。
薬剤性の妄想状態はかなり改善された様子だった。母の妄想話は生き生きとして面白かったので、めったに聞けなくなったのがちょっと残念な気がした。脳を覆っていた黒い「霧」が、少しずつ晴れていった感じだった。意味不明なことを話すこともほとんどなくなった。
ときどきは脳がショートして、「獣」のように分からんチンな言動を取ることもあったけど、精神的にも情緒的にも安定していった。
認知症の進行は防ぐことができた。記憶にも問題がなく、自分の置かれた状況、家族のこと、親戚のこと、オリーブさんのことなど、しっかり認識できていた。
よだれのほうは相変わらずだった。車椅子に坐って眠りこけているときは、半開きの口からよだれがたらたらと垂れてくる。よだれと一緒に口内に残った食べかすも垂れてきたので、洋服がすぐに汚れてしまう。
青樹では週に2回のお風呂のとき以外は、着替えをしなかったようだ。あまりに汚いときは私が着替えさせたりもしたけれど、一食で汚れてしまうので、むなしい抵抗だった。
「○○さんがお見舞いに来てくれるって」と報告したときに、自分の胸を指さして、「こんなに汚いんじゃ、恥ずかしくて人に会えない」と言ったこともあった。
「大丈夫だよ。会う前に私が着替えさせてあげるからね」と母を励まし、人に会う前は身なりに気をつけてあげた。母はプライドが高いのである。
青樹に移ったあと、母はなんとか歩行能力を取り戻していった。私が行くたびに車椅子を押させて歩行訓練をつづけていたのだけど、足が萎えて立てない状態から、少しずつ歩ける距離が伸びて行った。
母はとても活動的な人間だった。「歩く?」ときくと、(脳がショートしているとき以外は)必ず「歩く」と答えた。寝たきり同然になってやっと、「歩ける」楽しさを見出したのである。
リハビリメニューは、①あん摩で筋肉の硬直をほぐすこと。②ROM訓練で関節の拘縮を防ぎ、可動域を維持すること。③車椅子を押させての歩行訓練。④会話。⑤好きな食べ物を運ぶこと。⑥外食、である。 |
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8月:歩けなくなってから青樹(老健)に転院
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8月1日、10時に青木病院に行き、母を退院させた。この日はまったく立てない状態だったので、母は車椅子で青樹に入所した。職員さんたちが「お帰りなさ~い」と、みなさんで大歓迎してくれて、母はとても嬉しそうだった。
最初の1カ月間は週に4日の集中リハビリを受けられた。その後は週に2回になる。
理学療法士さんたちには、「母を外食に連れ出したい。車高の高い車に私ひとりで乗せられるよう、歩行訓練をしてほしい」とお願いした。
転院があと2週間、いや1週間でも早ければ、状況はまったく違っていただろう。歩いて入所した人なら、そのまま歩かせてくれる。居室からホール、ホールからトイレと、日に何度も歩く機会があるのだ。
でも車椅子で入所した母は、車椅子での移動になってしまった。「歩かせてほしい」とお願いはしたのだけど、無理なことは分かっていた。ヨタヨタした人を支えて歩かせるには、ものすごい力がいる。一緒に転倒するリスクもある。車椅子を押して連れて行く方が格段に楽なのだ。
調布病院にいた頃に指導してくれた理学療法士が言っていたことだけど、専門家のリハビリはどんなにがんばっても週に数回なので限界があるのだそうだ。「日々の介護の力のほうが格段に大きいんですよ」と言っていた。
当時は「付添いさん」がいた時代で、付添う人の熱意と工夫の度合いと、患者さんの能力が比例するのを目の当たりにしたのである。日常生活での歩行がなくては、筋力の向上は難しいのが現実なのだ。
「歩けるうちに転院していたら・・・」と、今思い出しても、惜しくて悔しくて、たまらない気持ちになるのだ。
2日、食事のときにビニールのエプロンが必要とのこと。届けに行ったら、母はボーッとしていた。
3日、ROM訓練のあと母を歩かそうとしたけど、足が萎えて歩けなかった。オリーブさんも来てくれた。
4日、ベッドに寝ている母を起こして連れ出そうとしたら、母はわめいて抵抗した。無理やり歩かせたけど5メートルがやっとだった。筋力が落ちてしまい、膝が折れ曲がってしまって、右足が前に出にくい状態だった。
5日、母は少しまともになっていて、20メートルぐらい歩けた。新潟と酒田へ行く話をした。 |
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酒田市にある土地の問題
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8月6~9日、私は夏休みを取った。海水浴のバカンスを兼ねて、実家と瀬波温泉に宿泊して、酒田まで足を延ばすことにしたのである。
新潟へ行って実家の掃除をし、世話をしてくれているご近所さんにお礼を渡した。酒田へ行って父の土地の管理をしてくれている叔父夫婦に会った。父の土地を見学し、近所の植木屋さんと話すという、なかなかのハードスケジュールだった。
山形県酒田市に、父が実家から相続した150坪の土地があった。酒田に住む父のすぐ下の弟夫婦が何十年も草取りなどの世話をしてくれていた。
この前年(2011年)の春、その叔母から電話があった。うちの弟から「土地をすぐにでも売ってくれ」と電話がきたとのことだった。不動産屋に相談したところ、「今は土地が動かなくて、地価があまりにも安い。今売るのは損だ」と言われたそうだ。
その話をしたら、弟は「捨て値でいいから売ってくれ」と言ったという。共同相続人である母や私に何の相談もなく決めるとはどういうことだろう?
そのあと弟に連絡がつかなくなったそうだ。「お父さんの大事な土地を捨て値で売るわけにはいかない」と悩みに悩み、必死で調べて、私に電話をかけてきたのである。実の兄とはいえ、他人の土地の売却を任されるのはそうとうな重荷である。頼りの本家の長男もすでに亡くなって、「誰も頼める人がいないし、どうしていいかわからない」と、途方に暮れていた。
そのときは「今のところ、年金と貯金でやれているから、いそいで土地を売る必要はないと思う」と答えた。
父が生前「おれが生きているうちは売らん」とこだわっていた土地なので、娘としても「自分が売るわけにはいかない」と思っていたし、勝手に売却を頼んだ弟にも腹を立てていた。
7月にまた叔母から電話が来た。叔父がアルツハイマーになって、何もしなくなったそうだ。「畑さ連れて行っても、草1本引かない」と嘆いていた。もう草取りは無理になってしまったのだ。
四国に土地を持っている患者さんに相談をしたら、「市役所に電話をして、シルバーにやってもらっている」と言われた。でも、遠方からだと大変である。
7月20日に書留で5万円送って、そちらでシルバーに頼んでほしいとお願いした。叔母は「こんなにたくさんもらえない」と恐縮した。いくらかかるか見当もつかないので、足りなかったらまた送る。余ったら、今までの分のお礼と思って受け取ってほしいと話したら、「とりあえず仏壇さ上げて、預かっておく」と言われた。
リハビリをしながらその話をしたら、母は「お金を送ったことはなかった」と言った。「お礼はどうしてたの?」ときくと、「笹団子とか果物とか、ものを送っていた」と答えた。
母は「お金を送るなんて考えたこともなかったけど、よくやってくれた」とほめてくれた。 |
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植木屋さんに草取りをお願いしてみたけど・・・
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この年の春、また叔母から電話が来た。土地の様子を見に行ったら、車が停めてあったそうだ。持ち主は近所の植木屋さんだった。
会いに行くと、「車を置かせてほしい」「ついでに畑もやらせてほしい」「そのかわりに草取りは私がする」と言ったそうだ。
叔母に「どうする?」ときかれ、「じゃあ、お願いして」と言った。
8月7日に酒田に行った。叔母の声があまりにも切羽詰まった調子だったので、自分で出かけて、自分の目で確かめないと・・・という危機感に駆られたからだ。
酒田市は私が生まれたところだ。子どもの頃には両親に連れられて、毎年お盆とお正月に帰省した。昔は生き生きとした地方の小都市で、人も多くて活気があったけど、日本の他の田舎町同様にすっかり寂れてしまっていた。バブルがはじけた後、地価がどんどん下がりつづけ、こののち上昇する期待も持てなかった。
酒田の土地のことはおぼろげな記憶しかなかった。父の車に乗ったまま「これが俺の土地だ」と指さされ、通りすがりに見ただけだった。
実際に行ってみると、そこは郊外の住宅地だった。150坪の土地は木の杭と針金でぐるりを取り巻かれていた。こんもり土が盛られていて、雨が降ると側溝に土が流れこんでしまう。溝に溜まる土を取りのぞくのが大変なのだそうだ。
叔母夫婦はそこで畑を作っていて、最初はとても有難かったそうだ。でも本家の長男がある日トラックでやって来て、大量の土を捨てたのだそうだ。ゴロゴロ小石がたくさん混ざっていて、畑をつくるのに難儀するようになったとのこと。
土地の一角に車が停めてあり、一面に畑が作られていた。植木屋さんに会いに行って、お土産を渡し、「よろしくお願いします」と挨拶をしてきた。
でも心の中に、なんとなく不安な気持ちが起こってきた。 |
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遠方の空き家や土地の管理は大変だ!
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8月10日、母は調子が良くて歌を歌っていた。私が新潟と酒田へ行ったことをちゃんと覚えていた。植木屋さんの話をした。「車を停めさせてもらい、畑を作らせてもらう代わりに草取りをすると言うので、お願いした」と言うと、「よかったじゃないの」と了解してくれた。
そこへオリーブさんが来たので、バトンタッチして仕事に戻った。
11日、歌の本を買った。小学校唱歌や童謡、母の時代の歌などが載っている。
ROMをしながら母と一緒に唄った。母に車椅子を押させて外に出た。少しだけ歩かせて、途中から坐らせて、ちょっとだけ散歩をした。
14日、ポプラが来てくれた。母は立ってふんばる力がなくなったので、私の力では車に乗せることができなくなってしまった。外食は力持ちのポプラ頼みになった。
母は歩けなかったので、車椅子にのせて三崎港に行き、お寿司を食べさせた。
15日、ROMと歩行訓練をした。夜、実家の近所のKさんに電話をした。娘さんが言うには、実家の前に引っ越してきた大工さんが、我が物顔でうちの駐車場に車を停めているとのこと。「駐車場を借りたい」と言ってきたわけではなく、黙って使うなんて気分が悪い。ご近所さんたちもかなり不快に感じたそうだ。入れないように植木鉢を置いてくれることになった。
酒田の叔母にも電話をした。「酒田に来てくれてよかった。良子ちゃんに自分の目で見てほしかったの」と言われた。私が「あの植木屋さんは利にさとい人種に思えて、あまり信用できない気がする」と言ったら、叔母は「やっぱり、そう思った?」と嬉しそうに言った。
「あらかじめ断ってから車を停めたんならいいけど、行ってみたら停めてあったんだもの。信用していいかどうかと悩んだ」そうなのだ。「だから、当人同士で直接会って話してほしかったの」と言った。
2人して、あの植木屋さんは「あまりいい人じゃなさそう」と意見が一致した。
遠方の土地を所有するのはほんとうに大変だ。父には悪いけど、やっぱり手放すしかない。残念だけど、売却するしかないと決心した。
叔母に言うと、「こっちは年寄りだし、頼める人もいないから、そっちで新潟の不動産屋さんに頼んでほしい」と言われた。
とりあえず東京の不動産屋さんに相談してみることにした。うちの患者さんの息子さんが世田谷で不動産屋(ハイホリック)をしているので、電話をしてみた。東京でも新潟でも、どこの不動産屋でも売却は可能と言うので、売却をお願いした。
17日、部屋からリハベッドまで歩けた。梨も食べられた。
18日、母のベッドでROMをしてから、車椅子を押させて歩行訓練をした。
21日、母のひ孫を2人連れて行ったら、「かわいい!」と大喜びした。
23日、まあまあ歩けた。 |
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不動産屋さんのアドバイス
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8月26日、ハイホリックをやっている不動産屋さんがわざわざ来てくれて、治療室で話をした。とても有能で、豊富な知識の持ち主だった。
開口一番、「車を置かせるのはすぐに止めてもらいなさい」と言う。「畑はもっとまずい」と言うのである。
例えば、里芋を植えたとする。「収穫するまで」と待たされているうちに、次はネギの収穫まで、次は人参と、えんえんと先延ばしされることがあるそうだ。無理に立ち退きを迫ると、種代や収穫物への賠償金を請求される。
畑にはそういう危険性があるそうだ。
「だから畑はすぐに止めてもらうように言ってもらってください」「こっちでも書類を作って立ち退き要求をすることもできるけど、親戚の人に話してもらったほうがいいと思う」「田舎の人だから大丈夫と思う。そのほうが穏便にすむ」とのこと。
「所有者責任」という法律があって、空地の管理は難しいのだそうだ。その土地に誰かが入り込んで、もしも事故が起こったら、所有者に賠償責任が生じるそうである。
いろいろな話を聞いて、土地を持つことが心底怖くなった。彼に売却をお願いしたら、こころよく引き受けてくれた。
酒田の叔母に電話をして、植木屋さんに話してくれるようにお願いした。
27日、母に「酒田の土地を売ることにした」と言ったら、「そういうことはお父さんに聞いて」と、ボケていた。父の姿が見えているのかな?と思った。でも身体はまあまあ元気で、足の力もあった。
28日、母に「海にでも行ったの?」ときかれた。「ずいぶん日焼けしたね」と言われた。(実はテニス焼けである) |
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9月:朗らかな母が戻ってきた
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9月1日、オリーブさんには笑ったり喋ったりしているそうだ。母は外面がいい。(私にはあまり愛想がよくない)
2日、アンパンを食べさせた。
3日、ちょこっと歩けた。
5日、母に「お前、18日のお盆には家に連れて行くと言っていたのに」と文句を言われた。約束したことをちゃんと覚えていたのである。
でも息子たちが仕事だったので断念したのだった。
11日、多摩川に車椅子で散歩に出かけた。母は「今日は調子がいい」と嬉しそうで、「気持ちがいい」「景色がきれい」と大喜びだった。
17日、ポプラと一緒に母を三崎港に連れて行った。眠り姫状態だったけど、お寿司はちゃんと食べられた。
21日、前回は固まっていたけど、この日はROMがすんなりできた。オリーブさんがメロンを持って来てくれたので、一緒に食べた。
30日、ポプラが来て、職員さんがすすめてくれたスシローに行ってみた。あまりに混んでいるので、いつもの三崎港に行った。 |
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10月:一緒に歌ったりもできた
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10月3日、オリーブさんに会った。
7日、夕食介助と歯磨き。
9日、足のROMだけして、少し歩かせ、夕食介助と歯磨きをした。
11日、おやつを食べさせた。
15日、ご飯を食べさせた。
16日、朝8時半に青樹から電話。入れ歯を支えている歯がかけたのでおかゆにさせてもらう、とのこと。おかゆはかわいそうなので、野原歯科に電話をした。
車高の低い車を持っている友人にお願いして、入れ歯の修理をしてもらいに行った。
23日、着替えを届けてリハビリをした。
27日、母の服がよだれと食べこぼしで汚れていたので、着替えをした。
31日、あんずとヨーコが来てくれた。私がROMをしている間、母と3人で歌を歌っていた。車椅子に乗せてオスカーへ行き、母にホットサンドを食べさせた。
この間買った「歌の本」はほんとうに重宝だった。子どもの頃に母と一緒に歌った思い出の歌がたくさん載っていた。ほとんどがうろ覚えだから、歌詞がついていると有難い。母が喜んで歌った歌には印をつけておいたんだけど、このマーキングが後々大いに役に立った。 |
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11月:八雲園(特養)に入所申請 |
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11月5日、午前中に行ったら、母はちょうどお風呂に入っていた。着替えだけおいて、リハビリはしないで帰った。
6日、母の80歳の誕生日。青樹に行ったら、オリーブさんと他の入所者とその家族の4人でテーブルについて、おやつを食べていた。母は嬉しそうにニコニコ笑っていた。オリーブさんは人懐っこいので、いろんな人とお友達になって、母も仲間入りをさせてもらっているのだ。
リハビリのあと、友人の車でイトーヨーカドーに。お誕生日祝いに、母の洋服や靴を買った。(母のお金だけど)
14日、午前中にリハビリに行った。11月生まれの人たちのお誕生会をやるとのことなので、母は主役である。服が汚れていたので、真新しいスウェットを着せてあげた。
16日、オリーブさんに会った。リハビリのあと、友人の車で母を野原歯科に連れて行った。
20日、ちょうど音楽会の真っ最中だった。母はホールの片隅で車椅子に坐っていた。よだれを垂らして、ボーッとして、眠り姫状態だった。リハビリをしないで帰った。
21日、母は理学療法士さんのリハビリを受けていた。朗らかな若いお兄さんで、冗談を言いながら歩行訓練をしていた。母は楽しそうにケタケタ笑っていた。
そのあとは私の厳しいリハビリ。「あの人は優しいのに」と言う母に、「職員なら私もそうするけど、家族だから、リハビリがハードなんだよ」と言い返した。
24日、リハビリのあと、迎えに来てくれた友人の車で野原歯科へ。保険だと6カ月は新しい入れ歯を作れないので、今回も「増歯」で修理をするとのこと。
母はシャンとしていて、口を大きく開けることができ、歩行もしっかりしていた。
26日、リハビリの途中で実家のご近所さんのKさんに電話をかけた。母は嬉しそうに話を聞いていたけど、自分ではあまりしゃべれなかった。
27日、自宅の近所にある特別養護老人ホーム「八雲園」に入所の申し込みに行った。面接したのは女性職員で、こちらの事情などを説明したのだが、当然のことながら満員である。「入所のときはこちらから連絡します」と言われた。
29日、母はすごくしっかりしていて、まともな会話ができた。 |
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12月:ちょうふの里(特養)に入所申請
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12月1日、友人の車で母を野原歯科に連れて行き、入れ歯を受け取った。そのあと三崎港でお寿司を食べさせた。
青樹の看護師さんに「入れ歯が治ったのでご飯に戻してください」とお願いした。
4日、私の父方の従兄(母の甥)の奥さんが、娘さんとお見舞いに来てくれた。調布駅まで車で迎えに行き、一緒に青樹へ。母を車椅子に乗せてオスカーに行き、軽食を食べながらおしゃべりをした。
彼女が「やっと『まあまあ』の意味が分かったわ」と言った。私が毎年年賀状に「母はまあまあです」と書いていたので、「まあまあって、どういう意味なんだろうと?」と不思議でならなかったそうなのだ。
彼女とは従兄のお通夜とお葬式が初対面で、会うのはそれが2度目だった。
「なんで母のことを心配してくれるの?」ときいたら、「お世話になったのよ~」と言う。「本家の三男の嫁で、実家に行くと親戚の皆さんが大勢集まって来るでしょ。どうしていいかわからずにオタオタしていると、お母さんが『おいで』と手招きしてくれ、『気にしないで、そのままにしていればいいのよ』と言ってくれ、いつもかばってもらっていたのよ。だからお母さんのことが大好きなの」と言った。
病前の親切が巡り巡ってやって来たのだ。明るくて朗らかな人なので、母はとても楽しそうだった。帰るときには「また来てね」と言って見送った。
12日、友人の車で母を野原歯科に連れて行った。
14日、特別養護老人ホーム「ちょうふの里」へ入所の申し込みに行った。相談員の男性がとても熱心に話を聞いてくれた。母のこれまでの経過を話すと、「えっ、褥瘡をつくった青樹にまた戻ったんですか!」と驚かれた。私は「とても一生懸命に面倒を見てくださったんです。過去のミスをどうこう言うより、これからどうするかを考える主義なんです」と答えた。
3階以上でエレベーターのない住居に住んでいること、同居の私が独身で働いていることなど、優先順位が高いそうだ。母が要介護5ということと合わせて、最優先の要件を満たしているとのことだった。
私が「母のリハビリはずっと私がやってきたので、ここに入所したあともリハビリを許可してもらいたい」と言うと、「たとえご家族の方がやったことであっても、施設内で事故が起こったら困るので、その点は検討させてください」と言われた。
施設の中を案内してくれて、いろいろなことを教えてもらった。
ちょうふの里は、調布市民が優先(70%ぐらい?)で、残りは三鷹市民と府中市民に入居の権利があるそうだ。特養に入ると住民票を移さなければならなくなるので、うっかり、例えば八王子の特養に入所してしまうと、ちょうふの里に入る権利がなくなってしまうので、「注意してください」と言われた。
もしも母の状況に変化(死亡したとか、他の施設に入所したとか)があったら、連絡してください、とも言われた。 |
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母の頭はかなりはっきりしていった
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12月16日、あんずとトモ君が来てくれて、母を連れて一緒にオスカーで軽食を食べた。
19日、オリーブさんが来てくれて一緒にお喋りをした。オリーブさんに「相撲って知ってる?」ときかれた母は「子ども扱いされた!」とブリブリ怒っていた。母の妹(川口のヒロコ叔母)に電話をして話をさせた。
23日、オリーブさんから電話があった。青樹の3階で吐く人が続出したので、閉鎖中で入れてもらえないとのこと。
24日、洗濯物を届けに行ったら、やはり腸炎のために3階は閉鎖中だった。でも母は何ともなかったので、職員さんが1階の受付に母を連れてきてくれた。車椅子に坐ったまま軽くリハビリをしながらおしゃべりをした。
26日、やっと青樹の閉鎖が解除になって、1週間ぶりに母にフルコースのROMをやれた。理学療法士さんと話し、「車椅子を脱することを目標に」と言ってくれた。
ほんとうにそんなことが可能なのだろうか?実現するという期待は持てなかったけど、彼の気持ちがありがたかった。
28日、弟から、酒田に住む叔母(父の妹の1人)が亡くなったという連絡があった。翌日に母と私の分のお香典を送った。
30日、父の妹が亡くなったことを母に報告した。朗らかでお喋りな彼女をとても好いていたので、とても残念がっていた。
夜その叔母の娘(私の従妹)からお礼の電話があった。弟夫婦のこともきかされた。「お兄ちゃんからはものすごい多額のお香典をいただいて。夫婦で酒田に泊りがけで来てくれて、お通夜とお葬式と両方に参列してくれたんですよ」と、とても感謝していたのである。
弟は(去年の夏に新潟で母に会ったときを除けば)2010年10月24日に通帳を見せに来たとき以来、2年以上も来ていない。母が褥瘡の手術をしたときも、年末年始の休暇があるだろうに、電話もなければお見舞いにも来なかったのだ。
イベント大好き夫婦だと知ってはいたけど、母への思いやりがなさ過ぎる。息子に会うことを渇望している、生きている母のところには来ないのに、死んだ人のところには泊りがけで行くなんて!と不快に思った。 |
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特養は「家族」を選ぶらしい
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老健の入所は3カ月が原則である。施設長の温情で、青樹には1年以上、中には数年間もいる人も多かったのだけど、だんだん「出される」人が増えはじめていた。
最初に青木病院に入院して以来、その流れで転院させてもらっていたので、自分で何も考えずにすんできた。
そろそろ自力で次の施設を探さなくてはならない。年末になって、やっと重い腰を上げて、特養の申し込みに行ったのである。
母が調布に来てすぐの頃、調布市役所に相談に行ったことがある。施設のリストを渡されて、自分で調べて申し込みをするように言われ、「え、市でやってくれないんですか?」と驚いた。
「先着順ではないんですよ。施設の人は入所者を選ぶんです」と教えてくれた。「何百人待っていても、空きがあってヒョイッと入れる、ということもあるんです」と言われた。
特養で働いているサクラさんにきいたら、彼女の施設は「緊急性」が重視されるそうだ。「どんなに困っているかが、一番の優先事項なのよ」と言う。
他にもいろいろ裏話を聞いた。
「なんとかして入れたいと、嘘をつく家族がいるのよね。『毎日来ます』と言って、いざ入ったら全然来ない。にこにこと親切そうな顔をして、何かあったらすぐに訴えてくる家族もいるし」
「うちの施設は、他の区と提携しているベッドが何床かあるの。例えば、足立区の人が亡くなったら、そこには足立区の人を入れることになっているの。よその区から来る人は、ひどい人たちばかりなのよ。暴力をふるうとかで、どこも引き受け手がない人が回されてくるから、大変なのよ」
つまり、施設というところは「いい家族」を求めているのだ。親身になって面倒をみている家族、具合が悪いときはすぐに駆けつけてくれる家族、何があっても施設を訴えない家族。。。
入所者が亡くなったとき、あるいは3カ月以上の長期入院になったときは退所になるので、空きができる。誰か新しい人を入所させなくてはならないときに、数多くの希望者の中から「いい家族」を選びたい、というのが本音なのだ。
入所者本人である母はほとんど寝たきり状態なのであまり手がかからない。暴れたり騒いだりすることもなく、聞き分けのいいおとなしい患者である。
施設内に要介護4以上の人が一定割合以上(70%ぐらい?)いる場合、「加算」がつくそうだ。母は要介護5なので、この点でも有利だった。
だから母は「入ってほしい人リスト」の上位になるはずと、なんとなくのんびり構えていたのである。
調布市には公営の特養が2か所あった。
「八雲園」は自宅から歩いて5分ぐらいのところにあるので、休みの日に通うのが便利である。そこで働いていた人を何人か知っていたけど、とりたてていい噂も悪い噂も聞いていなかった。
「ちょうふの里」は仕事場から一駅のところにあって、バイクで5分。自宅からは5キロぐらいだけど、仕事の合間に通うのは便利である。
うちの患者さんの1人がそこで10年以上ボランティアをしていた。彼女にきいたら、「いいところよ~。職員さんたち全員がとても優しくていい人たちで、悪い話は1回も聞いたことがないのよ」と一押しだった。
11月27日には八雲園に、12月14日にはちょうふの里に申し込みに行った。
江風苑でのこと、松浜病院でのこと、青木病院→青樹→慈恵医大→青木病院→青樹と、これまでの母の状況を説明した。
私がどれだけ母のことを大切に思っているかということ、同時に、「絶対に施設を訴えない」家族だということを、エピソードを通して伝えることができる。
入所中の青樹に問い合わせれば、私の言っていることが本当であるかの確認もでき、親を厄介払いしたいために嘘をつく家族でないことも証明してもらえる。
ちょうふの里の相談員さんが熱意を持って対応してくれた。かなり希望が持てたので、他の施設は探さずに「待つ」ことにした。 |
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12ページ目へつづく |
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Updated: 2023/11/19 |
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