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 母のリハビリカルテ 12 - 2013年 1~7月 -
 <食事は全介助、笑顔も消え、口もきかなくなった>
しばらく楽をして、充電期間にすることにした私
青樹に戻ってから5カ月がたった。 私はこの頃には疲れ果てていた。
母の治癒もここが限界で、これ以上良くなっていくことは望めない状況になった。ついに「あきらめる」日がやってきたのである。
治療室の収入も、毎年100万、100万と減収になった。患者さんの予約を優先にし、合間に母のところに通うようにしたのだけど、それにしてもあまりにもヒマである。
うちの治療室は裏通りのアパートの一室なので、ひょいと覗きに来る「見物客」はいない。みなさんが前もって予約してくれるので予定が立てやすい。テニスクラブは自分の都合でいつでも行ける。去年からちょこちょこ行くようになったのだ。
はじめは1人ポツンと壁打ちだけ、という日がほとんどだったのだけど、通いつづけているうちについに「仲間」ができた。テニスを教えてくれる人たちも現れて、私はすっかりテニスにハマってしまった。

昔の患者さんの話を思い出した。仕事をしながら「半病人」のお母さんと暮らしていた独身男性である。家事はお母さんがやってくれていたけど、疲れ果てて帰宅したあと、お母さんにとめどなく話を聞かされる。聞き流すと、「なんで聞いてくれないの!」と怒りだして、大ゲンカになる。ストレスで疲れ果てて、まだ元気だったお母さんに軽費老人ホームに入ってもらったのである。
そのとき彼が、「このままでは自分が潰れてしまう。この先母がまた病気になって、全力投球をしなければならない日がやってくる。そのときのために、じばらく充電期間をおくことにした」と言ったのだった。入所後も毎週お母さんをホームに尋ね、ときどきは温泉旅行に連れ出したりと、とても親孝行な男性だったのである。

私ももう限界だった。睡眠不足と緊張感の連続で、今にもプッツン切れそうなほど疲れ果てていた。余力はどこにも残されていなかった。
この先また入院などの正念場がやってくる。そのときに全力投入できるように、充電期間をもうけることに決めたのである。

老健は「お年寄りを元気にする」のが目的の施設である。声かけや、遊び、いろいろなイベントでお年寄りを放っておくことはない。母は夜中のほうが元気だったようだ。職員さんに「昨日の夜中に見回りに行ったら、お母さんがパッチリ目を開けていて、いろんなことをお喋りしてくれたのよ」と報告してもらったこともある。
理学療法士が週に2回、歩行中心のリハビリをしてくれていた。オリーブさんが毎日母に会いに行ってくれていた。
今がチャンスである。優先順位を「仕事→遊び→母」に変えて、テニスに励み、スキーをしたり、温泉に行ったりして、しばらく楽をすることにしたのである。
そして、それは正解だった。

リハビリメニューは、①あん摩で筋肉の硬直をほぐすこと。②ROM訓練で関節の拘縮を防ぎ、可動域を維持すること。③車椅子を押させての歩行訓練。④会話。⑤好きな食べ物を運ぶこと。⑥外食、である。
パーキンソン症状が母をマネキン人形に変えていく
この頃から母のパーキンソン症状が強くなりはじめた。「固縮」のせいで筋肉の硬直がだんだん強くなっていったのである。
「固縮」にも利点がある。足が硬直し、身体もピンとして、マネキン人形のように歩かせられるし、壁に立てかけることもできる。
車椅子を押させて歩行訓練をするとき、廊下の端まで歩かせたら、Uターンをする。左手で母を壁に立てかけておき、その間にいそいで右手で車椅子を回して方向転換をした。
硬直がないときは自前の筋肉だけが頼りだ。脳がショートしていると、膝が折れて、ぐにゃぐにゃと床にくず折れていくこともある。母のズボンの後を引っぱって、倒れないように支えなければならないので、私の身体に負担がかかる。おかげで何度もぎっくり腰寸前になった。サクラさんの鍼灸治療が頼りだった。

1月1日、元旦の朝11時に青樹に母を迎えに行った。3階までの階段は長男とポプラがお姫様抱っこで上がった。自宅は狭いので車椅子は使えない。ヨタヨタでも歩けるときはトイレに連れて行ったけど、おむつのお世話にもなった。
歩けないとなるとお泊りは難しい。日帰りでお正月にした。
母のレシピで作ったお正月料理でみんなでお祝いをした。母を車椅子にのせて深大寺に初詣に行った。
疲れて「もう帰りたい」という母に、「これから明太パスタを作るよ」と言ったら、「お前のは美味しいのよね」と期待のまなざし。しばらく寝かせたあとで、パスタを食べさせ、7時半ごろに青樹に送り届けた。

6日、母に「お正月は楽しかった?」ときいたら、「ちっとも」と答えた。「え、うちでみんなでパーティやったのに、楽しくなかったの?」ときいたら、「あ、あのこと。楽しかった」と答えた。頭がちょっとボーッとしていた。
年末年始は職員さんが手薄だし、リハビリもお休みだった。母の足がむくんで固まっていて歩けなくなっていた。あん摩で念入りにほぐし、長々とROMをやって、やっと歩けるようになった。

12日、「何も分からない」と母が言ったので、「それだけ分かってればいいよ」と励ました。

14日、大雪が降った。青樹に行ったらちょうどお風呂の時間だった。買い物をしてからまた行ってリハビリをした。

19日、持って行ったおはぎと夕食を食べさせた。

24日、リハビリの途中で青樹のケースワーカーさんが声をかけてきた。終わってから話をしに行った。母はもうスプーンが使えなくなったそうだ。自力で食べるのが不可能になったので、食事は全介助になったと言われた。
スプーンを使えなくなって、食事が全介助に
スプーンを使うのはかなり難易度の高い手技が必要・・・ということをはじめて知った。
スプーンを手にもって、お皿の中の食べ物をピンポイントですくい上げる。スプーンの上の食べ物を落とさないように、空中を30センチも運ばなくちゃならない。口に到着したら、スプーンをひっくり返して、食べ物を口の中に落とす。
微妙で繊細な動作が必要なのである。
ROM訓練のおかげで、指先までの関節の可動域は完璧だったけど、前頭葉の手の運動野にある脳細胞にくっついたレビー小体のせいで、脳の司令塔が機能不全に陥った。「固縮」のせいで筋肉の柔軟性も失われ、手の筋肉を使いこなすことが難しくなったのである。
手につながる神経が死んで、筋肉が委縮し、母の手はどんどん痩せていった。

2月1日、母に「お父さんの名前は?」ときいたら、「福松」と答えた。「お母さんの名前は?」ときいたら、「こう」と答えた。
「じゃあ、ダンナの名前は?」ときくと困っていた。「父ちゃんの名前だよ。私の父親で、あんたの最愛のダンナでしょ」とくり返したのだけど、とうとう言えずじまいだった。
古い記憶ほど長持ちするというのはホントだな・・・と不思議な気持ちだった。

3日、ポプラが来てくれた。母を回転寿司に連れて行って、お寿司を食べさせた。

11日、リハビリのあと食事介助。母にスプーンを持たせて自分で食べるように促したけど、まったくできなかった。すでにやる気を失っていた。ケアマネさんが言った通りだった。

17日、ポプラと一緒に青樹へ。眠りこけているし、身体はマネキン人形のように固まっていた。ぜんぜん立てないので、ポプラが抱っこで車椅子にのせてくれた。まったく歩けない状態で回転寿司に連れて行った。
母に「今日は食べるの無理かな?」ときいたら、「食べる」と答えた。手もまったく使えず、お寿司はいつもの半分ぐらいしか食べられなかった。

18日、リハビリのあと、職員さんに話しかけられた。他のお年寄りが入れ歯を飲み込んでしまったそうである。だから母にも入れ歯を入れないことにしたのだそうだ。
「うちの母はそういう点ではしっかりしているから、入れ歯を飲み込んだりしませんよ」と言ったのだけど、何が起こるかわからないからと、入れ歯を持ち帰るように言われた。
でも私がおかゆを嫌い、しつこく「ご飯に戻してください」と言いつづけたおかげか、入れ歯なしでもご飯のままにしてくれた。下の前歯がなくても、口に入った食べ物を奥歯で噛むことができるのだ。入れ歯の修理のために野原歯科に通う必要がなくなって、内心ホッとした。

23日、不動産屋さんからの連絡で、土地を売るためには、相続人全員の承諾が必要とのこと。まず遺産分割協議書を作成しなくてはならないそうだ。
母はけっこうしっかりしていた。声を聞かせてあげようと思って、弟に電話をしたら出なかった。弟嫁にかけたら電話に出て、仕事場にいるとのことだった。
弟からかかって来ないので、夜にこちらから電話をして、酒田の土地の売却を東京の不動産屋さんに頼んだことを伝えた。弟は「一任する」と答えた。

28日、リハビリのあと食事介助。右手より左手のほうがよく動くので、左手にスプーンを持たせてみたけど、やっぱり上手くいかなかった。
無表情で無言の母が怖くなる
この頃から母から笑顔が消え、めったに口をきかなくなった。無表情で黙っていられると、『何を思っているのだろう?』という不安に駆られた。弟との金にまつわる醜い争いのとき、母は一言も私を応援する言葉を口にしなかったのだもの。
『私が来ても嬉しくないのかな?』という徒労感にもさいなまれた。昔から母を喜ばせるのは大変だった。父を喜ばせるのは簡単だった。そこに「私がいる」だけで、父は大喜びをしてくれたのだもの。でも母は毒舌家で「文句たれ」で、何かしてあげても素直に「喜ぶ」ということがない人だった。
子どもの頃から母の気持ちがどうしても理解できずに、さんざん苦労したのだった。

あるとき職員さんのフリをしてみた。眠っていた母に、「水越さ~ん、具合はいかかですか~?」と、思いっきり明るく声をかけてみた。母はパチッと目を開けて、「大丈夫です。元気です」と答えた。
あれ、他人にはちゃんと口をきく?と驚いた。でも2回目は通用しなかった。

3月4日、母は目も開けなかった。ROM訓練はやったけど、歩けなかった。「名前は?」ときくと、「知らない」と答えた。夕食介助をした。

6日、母はしっかりしていた。

16日、夜、洗濯物を届けに行った。母はもうベッドで寝ていたので、リハビリをしないで帰った。

21日、10日ぶりに母のROMをした。まあまあ元気だった。

25日、リハビリのあと、食事介助。

31日、ポプラと一緒に青樹へ。ROMをしていたら、母がいきなり「トシカツ?」と聞いた。弟の名前である。「違うよ、ポプラだよ」と言うと、急に不機嫌になって、そのあとはブリブリだった。何を言っても「わからない」を連発した。
夏に実家で会って以来、母は弟のことを口にしなくなっていたので、久しぶりのことだった。去年の夏にひどい目にあった記憶が薄れて、古い記憶のほうが生き生きと蘇ったのかもしれない。
母が「喜んでいるはず」と思うことに決めた
私を見ても嬉しそうな顔をしない母、話しかけても返事をしない母。無表情で無言の母が怖くなって、徒労感にさいなまれた私。母のところに行くのが苦痛になったけど、リハビリはどうしてもやらなければならない。
途中から、「母は喜んでいるはず」と思うことにした。そう決めて、母の無言にも無表情にもいちいち落ち込まないようにしたのである。
無言の母にリハビリをするのは苦痛である。いつも母に「お前は口から生まれてきた」と言われたほどの私だけど、毎回ひとりで喋りまくる気力は出ない。

そこで活用したのが「歌の本」である。小学校唱歌や童謡、昔の歌がたくさん載っていた。もう母は歌うことができなくなってしまった。一緒に歌えた頃に母が喜んだ歌に丸をつけてあったので、歌いながらROM訓練をすることにした。
母の好きな「リンゴの唄」と「青い山脈」を歌うと、母の目がキラキラと輝いて、遠くを見るようなまなざしになった。山とか川とか、自然の風景を織り込まれた歌のときにも、遠くを見るようなまなざしになった。
たぶん、子どもの頃の思い出、まわりを取り囲んでいた大自然、若かった頃の幸せな日々など、古き良き時代を思い出していたのだろう。

4月3日、母は歩きがヨタヨタだった。

11日、リハビリのあと、食事介助。

14日、リハビリのあと、食事介助。

18日、リハビリのあと、食事介助。母は眠ってしまって一口も食べられなかった。

22日、リハビリのあと、食事介助。

28日、オリーブさんが母を外に連れ出してくれたそうだ。

29日、リハビリのあと、食事介助。10スプーンだけは自力で食べられた。なんとかしてスプーンを使う能力を取り戻せないものかとがんばってみたけど、それは不可能とあきらめるしかなかった。
とはいえ、脳のショートの具合で、ときには「ほぼ全量を自力で食べた」と報告してもらえることが、このあと数年はたまに起こった。
脳障害のリハビリは整形外科とは違う
老健がリハビリ目的とはいえ、職員さんの最優先事項は「命を守る」ことである。食事の量、水分摂取量、排尿排便などをチェックして、入所者の健康を維持することが重要になる。
それらのすべてを職員さんがやってくれていたから、私はリハビリに専念できた。リハビリの目的は、身体能力の維持と向上なのである。

5月2日、リハビリのあと、食事介助をした。看護師さんがやって来て、「ご飯の前にリハビリするのはやめてください。お母さんが疲れちゃって、ご飯が食べれないんです。食事のほうが大切です。せめて1時間、空けるようにしてください」と言われた。
「あんなにたくさんする必要はないんです。整形の先生がおっしゃってましたけど、それぞれ、1回ずつで充分だそうですよ」と言うのである。

たぶんその看護師さんは整形外科で働いていたのだろう。脳が健全な人が身体のどこかを故障する。手術のあとでも、関節が動くように、筋力がつくように、本人がリハビリをしないと元には戻せない。
脳が健全な場合の整形外科のリハビリは1回でいいのかもしれない。でも前頭葉を患った人は「自分でがんばる」ことができない。脳梗塞で半身不随になったら患側の存在を失認し、自分に「身体がある」ことに気づかない。
脳を患うと自分ではピクリとも動かさないし、そもそも動かせない。ピクリとも動かさずにいると関節の拘縮を起こしてしまう。それを予防するのがROM訓練(関節可動域訓練)で、各関節を10回が基本なのだ。前頭葉を患った母には全身の関節を10回ずつ動かさなければならないのである。
でも反論はせず、なるべく時間に注意を払うよう心がけることにした。
土地売却の書類集めで忙しく・・・
私はテニスを優先にし、酒田の土地の売却のための書類集めで忙しかった。母はほとんど口も利かないし、身体状況の改善もとくに望めなかった。なのでこの間、母のことに関する記述はほとんどない。

5月6日、酒田の土地の売却の件で弟に電話をしたら、司法書士さんからの連絡がまだないとのこと。単身赴任先の上越市の住所を聞いた。

8日、新潟市役所のホームページを見て番号を調べ、電話をかけて、戸籍謄本の取り方などを教えてもらった。司法書士さんに頼むと料金がかかるので、経費節約のために自分で取り寄せることにしたのである。

9日、調布市役所で母と私の住民票と印鑑証明書を取ったあと、母のリハビリ。

28日、新潟と酒田の市役所に、戸籍謄本などの取り寄せのための書類を郵送した。

  

6月2日、リハベッドで母のROMをやっている途中で、理学療法士さんが来た。「母を外食に連れ出したいんです。私の車は車高が高いので、私一人で母を車に乗せられるように、足の力をつけてください」とお願いした。

4日、新潟市役所に定額小為替(750円分)を郵送した。

7日、新潟市役所から戸籍謄本などが届いた。

9日、ポプラと一緒に母を府中のスシローに連れて行った。30分待ちとのことだったので、車椅子にのせた母を連れて、向かいのニトリを探索した。母は元気でよく食べた。

12日、母が「さっき、オリーブさんが帰ったところだ」と言った。

21日、戸籍謄本などを司法書士さんに郵送した。

28日、司法書士さんから、弟の書類だけがまだ届いていないと連絡があった。弟に電話をしたけど、出なかった。

29日弟から電話。戸籍謄本や印鑑証明書を司法書士さんに郵送してほしいと言い、ついでに、「とにかく、母のお見舞いに行ってあげてちょうだい」とお願いした。
「うちの大家さんがホームに入っているんだけど、この間電話したら、長男が何か月もお見舞いに来ないんで『死んだ』と思い込んでいた、と言っていたんだよ。『私に心配かけまいと、みんなで私に内緒にして、お葬式も密葬で済ませたに違いない』って思い込んでしまったんだって」という話を聞かせた。
「母はあなたの話をぜんぜんしなくなったから、もしかしたら『死んだ』と思い込んでいるのかもしれないよ」と、弟に釘を刺した。
私が「自分の収入が減って、大変な思いをしている」と言ったところ、弟が「新潟の病院は金がかからなかった」と言った。

  

7月4日、リハビリと食事介助。

10日、青樹に着いたらちょうどお誕生日会だった。楽団の演奏や、ハワイアンの踊りなどをバックに、リハベッドでROM訓練と歩行訓練。

21日、あんずとトモ君が来てくれた。
母が無表情で無言になった原因がパーキンソン症状だったと気づいたのは、こののち何年も先のことだった。あるとき、ふいに思い出したのである。
・・・そういえば、青木病院に入院した頃は笑っていたよな・・・
母は感情的な人間だった。楽しいときは満面の笑顔で大笑いをして、ほんとうにかわいらしかった。気に入らないときはひどい渋面になり、ブツブツと小言をさく裂した。

自分の患者さんなら、母がパーキンソン症状につかまって、表情筋を動かすことができなくなったと悟るだろう。口をきかないのも、話すための筋肉を動かすことが大変になったせいと気づいただろう。
職員さんにはちゃんと礼儀を尽くし、がんばって会話をした。でも娘だから気を許し、面倒くさいので無言でいた、ということなのだ。母娘というのは難しい。「感情」が大きく動いてしまう。職業人としての客観的判断能力が働かなくなってしまうのだ。
話しかけても反応がないと、『ボケちゃったのかな・・・』と思う。会話をあきらめて、歌いながらリハビリをして、さっさと帰ってしまうという日が多くなった。
母の認知症が進んでいなかったことに気づいたのは、亡くなる直前、肺炎で入院したときのことなのだ。その正念場で全力投球をする元気があったから、充電期間をもうけたことは大正解だった。

振り返ってみれば、母がゾンビになった年はあまりの忙しさに仕事が辛くなっていたときだった。家には帰って寝るだけで、自由な時間がまったくなかった。休みの日は疲れ果てて、テニスにもどこにも出かけられなかった。過労で死んでいたかもしれないし、大好きな仕事がイヤになってしまったかもしれない。。。

「母のリハビリを優先」→「仕事がヒマになる」→「テニスが上達する」→「仲間ができる」→「ますますテニスにハマる」という好循環が起こったのだ。
おかげで老後の趣味と仲間を手にすることができた。「仕事」と「遊び」のバランスが取れて、今は老境に入った生活を楽しむことができている。
やはり「情けは人のためならず」だなあと、母に感謝をしている。
13ページ目へつづく
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Updated: 2023/11/21





























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