母のリハビリカルテ 13 - 2013年 8~12月 -
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<ちょうふの里(特別養護老人ホーム)に入所>
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老健の退所を勧告される
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青樹に入所して丸1年がたった。笑顔が消えて、無口になって、スプーンが使えなくなったけど、週2回のリハビリのおかげで母はなんとか歩行能力は維持していた。このまま老健にいられたら・・・と願ったけど、現実はそう甘くない。
8月2日、相談員に呼び止められ、「そろそろ退所を考えてください」と声をかけられた。施設のリストを渡されたけど、どこもかしこも遠方にあって、電車でなければ通えないところだった。
青木病院も青樹も仕事場からバイクで5分なので、空き時間を1時間作れればなんとかなった。「おしっこ」とかですぐに帰れないときもあるので、予約の患者さんが中で待てるように、ドアの鍵をかけずに出かけられた。
昨年末にちょうふの里(特養)の入所申請に行ったあと、相談員のSさんが「お母さんの様子はいかがですか?」と、ときおり電話を入れてくれた。優先順位3番からはじまったそうである。
入所者の誰かが亡くなるか、もしくは3カ月以上の長期入院になるのを待つしかない。ちょっと前に「あと少しで入所できる」という連絡をもらったところだった。
ちょうふの里も仕事場からバイクで5分である。遠方まで電車で通うとなると半日仕事になり、「仕事の合間にちょこっと」とはいかなくなる。施設を移ればまた母がしばらくレベルダウンするだろうけど、もしも遠いところに母が入ったら、毎日通うのは無理になる。
青樹からちょうふの里への転院がベストである。薄氷を踏むようなギリギリのタイミングで、内心ハラハラである。
リハビリメニューは、①あん摩で筋肉の硬直をほぐすこと。②ROM訓練で関節の拘縮を防ぎ、可動域を維持すること。③車椅子を押させて歩行訓練。④会話。⑤好きな食べ物を運ぶこと。⑥外食、である。 |
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弟が「酒田の土地の相続を放棄していた」と告白 |
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8月5~7日、朝目覚めたら風邪を引いてフラフラだったけど、車で新潟へ。瀬波温泉に宿泊して、寒気にもめげずに海水浴をした。
翌日は新潟市。実家の掃除をし、世話をしてくれているご近所さんにお土産とお礼を渡し、夜は高校時代の友人と駅前で飲んだ。
8日、私の風邪はどんどん悪化していたけど、青樹に行った。母は丈夫で風邪など引いたことがないので、母の心配はしなかった。でも施設には「風邪を引いている方はご遠慮ください」と掲示がしてある。職員さんにバレないか、ハラハラしながらリハビリをした。
 14日、ROMと歩行訓練。途中で、司法書士さんから「弟さんの書類だけがまだ届いていないので、遺産分割協議書の作成ができない」と連絡があった。印鑑証明書だけは本人でないと取れないのだそうだ。
夜電話をしたら、弟はいきなり、「実は、あの土地に俺の権利はないんさ」と言った。父が亡くなってすぐの頃、母に「酒田の土地の権利を放棄してくれ」と言われたそうだ。それで、「自分の分は母に譲る」という書類にサインをさせられ、判子を押した・・・、そう告白されたのである。
今さらそんなことを言われても・・・と思った。もう他の書類はすべて整っている。ぐずぐずして雪が降ってしまうと、売却は難しくなり、もう1年先延ばしになってしまう。植木屋さんのこともあって、私はとても焦っていた。
「その書類がどこにあるかも分からないし、母に聞いても答えられないだろうし、面倒だから、もういいよ。母が2分の1、あなたと私で4分の1ずつ。それでいいじゃない」と言った。弟は「だったらすぐに送る」と、嬉しそうに言った。
母が弟に土地を放棄させた話は初耳だった。 だったら何故、弟は酒田の叔母に売却を頼んだりできたのだろう?売却の話が進んでも、ぐずぐずと引き延ばすだけだった。何年も沈黙を守った挙句、ぎりぎりになって告白したのは、「良心の呵責」に責められたからだろうか?
17日、酒田の叔母に電話をした。いきなり、「今私は、ご飯を前にしたお父さんのことを睨んでいるの」と言った。アルツハイマーの叔父は相変わらずで、車の運転以外は何もしないし、散歩にも行かないし、ご飯もなかなか食べてくれないと、叔母は嘆いていた。
18日、ポプラが来てくれて、母をスシローに連れて行った。母はよだれがダラダラ垂れていて、眠りこけていてほぼ無反応。ちょっとしか食べられなかった。
20日、母は一言も口をきかなかった。
21日、母の妹(川口のヒロコ叔母)に電話をした。自分も具合が悪いし、まだまだ暑いのでお見舞いに行かれないけど、「涼しくなったら行くね~」と言った。
22日、私の孫2人を連れて、母のリハビリに。「かわいいね」と母は喜んでいた。
25日、あんずとトモ君を調布駅に迎えに行き、一緒に青樹へ。リハビリのあと、トモ君が母を車に乗せてくれ、銚子丸へお寿司を食べさせに行った。母はけっこうシャンとしていて、たくさん食べられた。
27日、酒田の土地を売るために、母に「遺産分割協議書」にサインをしてもらわなくちゃならない。リハビリのあとで、母にボールペンを持たせた。手がきかなくなっているので漢字は難しいと思い、ひらがなでサインをさせた。しっかり自分の名前が書けた。
家に帰ったら、書類がもう1枚あることに気がついた。
28日、リハビリのあと、もう1枚、母にひらがなでサインをしてもらった。 |
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ちょうふの里の職員が青樹に面接に来た
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9月3日、青樹に行ったら、ちょうど歌の会の真っ最中だった。母は車椅子の上で眠りこけていて、「参加」とはいえない状態だった。母を起こしてリハベッドまで歩かせ、響き渡る音楽を聞きながらROM訓練をした。
5日、ちょうふの里から、青樹で母の面接がしたいと連絡があった。母の日頃の様子を知りたいとのことである。
9日、ちょうふの里の職員、NさんとSさんが青樹にやって来た。一緒にテーブルについたオリーブさんを不思議そうに見たので、「この人はお話ボランティアの方です」と紹介した。
5人でテーブルに坐っていろいろな説明を聞いた。母はちんまりと車椅子に坐って、ずっと目をつぶっていた。
面接が終ったあと母に、「これからお世話になるかもしれないんだから、ちゃんと挨拶したら?」と声をかけた。母はパッチリと目を開けて、「よろしくお願いします」と言った。かわいい!好印象をアピールできてホッとした。
帰りがけにNさんが、「青樹の人に聞きました。熱心にリハビリに来られたそうで。こちらに入ってからも、週に2回のリハビリ、よろしくお願いします!」と私に声をかけてきた。私が本当のことを言っていると施設の人が証明してくれたのだ。
内心、『やれやれ、約束は守らなくちゃならないから、行かなくちゃな。これからも、えんえんとつづくのか・・・』とかなりのプレッシャーを感じた。
初志貫徹でがんばらなくてはならない。嘘つきと思われたくはない。
13日、母はけっこうしっかりしていた。「オリーブさんが来てくれた」と教えてくれた。 |
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弟が母の通帳を持ってきた
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9月14日、仕事の途中で弟から電話がかかってきた。「実は、今、東京に来てるんさ」と言うので、「え、今?」と驚いた。「今、ここさ。青樹の母のところにいるんさ」と言うのである。
私は患者さんの治療中だった。終わるまであと1時間ぐらいかかる。そのあとも予約が入っていたのだけど、「患者さんに連絡して、なんとか空き時間をつくるから、4時ごろにはそっちに行ける」と言ったら、「じゃあ、待ってる」とのこと。4時の患者さんの予約を7時に変更してもらい、いそいでバイクで駆けつけた。
部屋に行くと、母のベッドの両脇に弟夫婦が突っ立っていた。中央に寝ている母はまるで昏睡状態のように眠りこけていた。どうやら2人とも、母に話しかけようという発想すらないらしい。
私が「せっかく来てくれたんだから、母にお寿司を食べさせに連れ出そうよ」と言ったら、弟嫁が目を丸くして驚いた。「変な時間にお昼を、それもたっぷり食べちゃったから、お腹がいっぱいで何も食べられないのよ」と焦っている。
「だったら近所にオスカーという店があるから、母はそこのホットサンドが好きだから、一緒に行けば喜ぶよ。喫茶店みたいなところだから、コーヒーとかも飲めるし」と言ったら、弟嫁がお腹をさすりながら、「コーヒーとかお茶とか、それだけならなんとか入りそう」と言った。
「母ちゃん、ほら起きて!みんなでオスカーに行くからね!」と大きな声で言いながら、母の肩を揺さぶった。昏睡状態のようだった母が目を開けた。「静」から「動」への入れ代わりは、映画「レナードの朝」の患者さんのようなのだ。一瞬で別の人間に入れ代わるような極端さで、むっくりと起き上がった。
「出かける前にトイレを済まそうね」と母を立たせ、手を引いて歩かせてトイレに連れて行った。
母を便器に坐らせていたら、弟が走ってきて、「具合の悪いのに連れて行ったらかわいそうだから、母ちゃんは置いて、俺たちだけで行こう」と言った。
私は「えっ?」と驚き、口をあんぐり。「何言ってんの?ひとり置き去りにされたらかわいそうじゃないの。大丈夫。ちゃんと食べられるんだから、連れて行くよ」と言った。
トイレをすませた母を車椅子に坐らせて、弟に押させてオスカーまで歩いた。母のためにはホットサンドとカフェラテを注文し、弟夫婦はドリンクバーのみで、一緒にテーブルについた。
ハサミで切ったホットサンドを、母は一生懸命に口に運んで食べていた。途中で力尽きたので、残りは私が口に入れてあげた。
私は弟に「なんでいつも急なの?私は土日が仕事だから、前もって言ってくれないと、時間が空けられないんだよ。今日はたまたま時間が作れたからよかったけど、これからは前もって連絡してね」と言った。
すると弟嫁がケタケタ笑いながら、「トシカツさんて、いつも急なのよ。私だって今朝聞いたんよ。朝、上越から帰ってきて、いきなり『これから東京へ行くぞ』と言われて、大慌てで支度したんよ」と言った。
弟嫁の嘘はいつものことなので、弟は何も言わずに黙っていた。
『そんなはずはない』と内心思いながらも、私も何も言わなかった。母のために揉め事は禁物なのである。うわべの愛想をつくろって、また来てもらえるようにしておかないと、母がかわいそうだからだ。
弟はにこにこ笑いながら、母に向かって、「母ちゃん、おれが死んだと思ってたんだって?」と声をかけた。6月29日に、私が大家さんの話をしたんだけど、弟の頭はまるで「1人伝言ゲーム」のようである。
「違うよ。そう思い込んだのは大家さんのことで、母が言ったんじゃないよ。うちの大家さんの話をして、『あんまり長い間会いに来ないから、母ちゃんもあんたのこと、死んだと思っているかもしれないよ』と言ったんだよ」と訂正した。
さあ帰ろうという頃になって、いきなり弟が嫁に、「母ちゃん連れて外に出てろや」と言った。
「え?」と嫁は驚き、目をくるくる回しながら、「えっ、えっ、えっ?」と手をヒラヒラさせて、立ったまま動こうとしなかった。
弟は嫁に、「母ちゃんを車椅子にのせて、先に店の外に出て待ってろや」「とにかく先に外に出てろ」「これから内々の話があるから」とくり返した。
弟嫁は不承不承、母の車椅子を押して店の外に出て、入口の向こうからじっとこちらの様子を伺っていた。
弟は大きな布袋を出し、テーブルの上に中身をあけた。第四銀行と郵便局の通帳を何冊か、郵便貯金の出し入れの明細が書かれた紙の束、それと印鑑を何個かである。「お前が信用できると分かったから、通帳渡すさ~」と偉そうに言った。
母が東京に来てからもう3年である。おととしの夏に新潟で会ったとはいえ、弟が東京に母のお見舞いに来てからもほぼ3年がたっていた。
第四銀行の通帳はすでに再発行済みである。郵貯のほうは、キャッシュカードもないし、暗証番号も知らないし、ごろごろある印鑑のどれが郵貯のなのかも分からない。とりあえずその時点では預金と年金とで間に合っていたので、通帳の明細を調べる気にもならず、ぜんぶ箱に入れてそのまま保管した。
母は自分の状態を自分で語れない。母の状態を話せるのは私だけで、しかも「死体のような」母を蘇らせることができるのも私だけである。
青樹に到着してから電話をしたのは、「母と食事」と言われるのを避けるためかもしれない。たぶん、どこかのお店にゴージャスディナーを予約してあったのだろう。だから「今朝聞いた」と嘘をつき、「お腹いっぱい」と嘘をついた。
弟嫁の「自分の愉しみにだけ集中する」という性はすごい。詐欺師の頭の中は一般人には想像もつかないが、「騙されてあげた」のは母のためなのだ。 |
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優先順位1位から入所まで1カ月
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9月18日、母はまあまあしっかりしていた。
20日、ちょうふの里から電話があった。母が判定会議を通り、優先順位の1位になったそうだ。次に空きができたときに入所できる。病院に入院中の入所者がいて、たぶんこのままホームに戻れないだろうから、それを待って、とのことだった。
青樹の相談員から退所を迫られている、という話をしたら、「ちょうふの里に入所が決まっていると伝えれば、それまで居させてくれると思いますよ」と言われた。
22日、あんずとトモ君が社宅に引っ越すことになったという話をしたら、母は「トモ君て、誰?」と聞くので、説明してあげた。
思い出したのかどうかは定かではない。母がボケちゃったと思い込んでいたので、答えを聞く努力をする気力がなかったのである。
25日、リハビリをしていたら、母の右足母指の爪が剝がれかかっているのを発見した。怖くて自分では切れないので看護師さんに伝えた。
青樹の相談員に、「ちょうふの里に入所が決まったので、それまで置いてほしい」とお願いした。相談員は、「え、ちょうふの里に? すごい、よく入れましたね!」とえらく驚いた。「このあたりで一番評判のいい施設なんですよ。デイサービスですらなかなか入れず、2年待ちなんですって」と感心していた。
でも、「入れるといっても、そんなに長くは待てません。1カ月ぐらいは待ちますけど、それ以上はちょっと・・・」と言うのである。
そうは言われても、合間に別の施設に移って環境が変わったら、母のレベルダウンが心配である。できればこのまま青樹、そこからちょうふの里へと移動させたい。時限爆弾のスイッチが入ったように、祈るような気持ちで入所を待つことになった。
28日、午前中にオリーブさんが治療に来た。だいぶ元気になっていた。実は彼女の体調がすぐれなくて、8月ぐらいから母のところに通うのが週に2回ぐらいになっていた。ちょうふの里に移ったあとも、(通勤手当を払うから)ボランティアに行ってほしいとお願いした。オリーブさんの自宅からは3キロぐらいの距離である。彼女は「自転車で通えるかしら」と自信なさそうだった。
29日、私は(時間がないので)バイクで、ポプラが車で、母をスシローに連れて行った。よだれをタラタラ垂らしていたけど、お寿司はけっこう食べられた。 |
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母の妹がアルツハイマーと診断された
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10月2日、青樹に行ったら、母はベッドに寝かされていた。お尻の傷が褥瘡になりかかっているとのことだった。この日の母は脳がショートしていた。返事もしない。ROMにも抵抗して、私をぶとうとした。おやつの時間になったけど、食べようとしなかった。
夜、母の妹(川口の叔母)に電話をした。「私、アルツハイマーになっちゃったの」と叔母が言った。薬を飲みはじめたそうである。
なるほど。5年ぐらい前から、話が通じなくて困っていたのである。耳が遠いせいと思っていたけど、その頃から発症していたんだな・・・と納得がいった。
8日、司法書士事務所に手数料を振り込んでから、母のリハビリ。
9日、実家の管理をしてくれているHさんから大量の笹団子とちまきが送られてきた。お礼の電話をすると、「いっぺ~こともらって」と言われた。1年間にたったの2万円しかお礼をしていないのに、恐縮してそのお礼を送ってきたのである。
もうひとりのKさんも同じように恐縮して、その日にロング缶を1ケースも届けてくれたのだった。
ほんとうにいい人たちである。こっちがひたすら恐縮、である。
11日、青樹から電話があった。午前11時に母が39度の熱を出し、解熱剤で37度まで下がったとの連絡だった。6時過ぎに行って、「私が誰だか分かる?」ときいてみたら、「分かる。良子」と答えた。
12日、母まだ熱があった。抗生物質を3日間投与するとのこと。かるくROMをしながら、「私が誰か分かる?」ときいたら、母は「分からない」と答えた。
13日、長男一家が来た。ポプラも一緒に青樹に母のお見舞いに行った。
16日、母の熱が下がったそうだけど、ベッドに寝かされていた。
24日、久しぶりに行ったので、洗濯物が山のようだった。ちょうふの里から「入所決定」という電話があり、翌週に面接に行くことになった。
27日、ポプラとあんずが母のお見舞いに行った。
29日、ちょうふの里に面接に行った。入所は間近とのこと。青樹に健康診断書を届けて、リハビリ。 |
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ちょうふの里に入所
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11月4日、母はニコニコ笑って「恍惚の人」状態。「自分の名前わかる?」ときいたら、「いきなりそんなこと言われても」と笑ってごまかした。よくあるアルツハイマーの人のパターンである。「言葉尻は完璧で、現実から遊離している」のが特徴なのだが、母のこういう反応は初めてだった。
認知症が進んだのかな?と心配になったけど、本人はそういう状態のときのほうが幸せそうだ。現実を忘れるからだろう。
8日、母はシャンと起きていて、スッキリした顔をしていた。オリーブさんが週に2回通ってくれているのだけど、母は「うるさい」「おんなじ話ばっかりして」と愚痴っていた。このところ母の頭と記憶がかなりしっかりしてきたので、オリーブさんのお母さんの話を聞き飽きてしまったらしい。
9日、青樹からの診療情報提供書をちょうふの里に届けた。
13日、11月生まれの誕生会をやっていた。母はマイクで「ありがとう」とみなさんにお礼を言っていた。母は81歳になったのである。
14日、朝イチで青樹に行ったら、母はお風呂に入っていた。出てくるまで待ってリハビリをした。
17日、ちょうふの里に持って行く衣類に名前を付けたりと、準備に大わらわだった。
11月18日、青樹を退所して、ちょうふの里に入所の日。母を青樹に迎えに行った。男性職員が母を車に乗せるのを手伝ってくれた。
ちょうふの里に着いて、事務の人に「母を車から降ろすのを手伝ってください」とお願いした。やって来たのが女性だったので、座席の上に立って母をおろすのを手伝った。無理をしてぎっくり腰寸前になった。
ちょうふの里は建物がとてもきれいだった。職員も大勢いて、みなさんが熱心で活気があった。会う人ごとに母の話をして、声かけをお願いした。
母の担当は長身の男性介護士だった。「身体の負担が最小限で済むように、お母さんにはベッドで休んでもらうことにします」と言われた。老健のように一日中ホールに坐らせておくことはしないそうである。
私が「環境が変わるとレベルダウンが心配なので、慣れるまではがんばって毎日通います」と言ったら、「そうですね。目が覚めたら、天井が違う、カーテンが違う。職員を呼んだら別人だった。そんな感じで、慣れるまでは大変ですよね」と言い、「ありがたいですが、あまり無理しないでください」とも言ってくれた。
インフルエンザの予防接種に関しては、青木病院でも青樹でもずっとお断りしていたのだけど、ちょうふの里の看護師さんは「集団生活ですから」と、私の言い分をまったく受け付けてくれなかった。仕方なく受けさせた。
19日、ちょうふの里に行ったら、ちょうど昼食時間で、歩行訓練ができなかった。メニューにうどんがあったので驚いた。麺が伸びないように、麺とおつゆが別々の器に入れてあって、食べる直前に混ぜてくれた。さすが料理の評判のいい施設である。母は嬉しそうにうどんに食らいついていた。途中まで食べさせて帰った。
20日、市役所で母の転出届を出した。特養に入所の場合は住民票を持って行くのである。私が世帯主なので簡単にできたけど、これからは手続きのたびに母の委任状が必要になる。
ちょうふの里で母のリハビリ。腰が痛かったので、ちょっとだけ歩かせた。母をベッドに寝かせて帰ろうとしたら、「やだ」と言われた。
21日、ニトリで大量のタオルを買って、ちょうふの里についてから名前を書いた。母は風呂上がりで眠っていたけど、ROM訓練をしているうちにパチッと目覚めた。ちょっと足弱だったけど、歩行訓練もできた。
22日、リハビリのあと、おやつを食べさせた。
24日、ちょうふの里は週に2回(火・金)しかおやつが出ない。家族が持って行って預ければ、調子のいいときに職員さんが食べさせてくれるとのこと。大量のおやつを預けた。ROM訓練をしたけど、あと10分でお風呂とのことで、簡単に済ませた。
26日、食事介助をした。
26日、歩行訓練では足が弱っていてほとんど歩けなかった。
27日、着いたときはちょうどコンサートの真っ最中だった。話だけして仕事に戻った。
29日、リハビリ。夜母の妹(川口のヒロコ叔母)から電話があった。アルツハイマーと知ったからにはもうストレスはない。「分かってもらおう」という努力をしなくて済むので、気が楽である。母のお見舞いに来てくれるとのことだった。 |
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ヒロコ叔母のアルツハイマーはかなり進んでいた
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12月1日、ポプラと一緒に母をスシローに。待ち時間には車椅子を押して、ニトリをうろうろして買い物をした。母は元気で、3分の2人前ぐらい食べられた。
3日、母の妹夫妻を調布駅まで迎えに行き、一緒に母のところへ。ちょうど食事時間だったので、みんなで食堂に行き、母が食べるお手伝いをした。運悪く調子の悪い日で、母はずっと眠りこけていた。
中庭が見えるホールでお喋りをした。ヒロコ叔母はアルツハイマーがかなり進んでいた。「お母さんに美味しいものを食べさせたいんだけど、どこか食べるところある?」ときくので、「この近辺には何もないの。飛田給の駅まで行かなくちゃならないんだけど、車椅子を押して歩くのは遠すぎるし、私たちの力じゃ、母を車に乗せるのは無理でしょ?」と言った。
叔父も「年寄りだから、自分もお母さんを持ち上げられないしな」と言う。
「じゃあ、売店とかはないの?」と叔母。「ここには売店もないんだよ」と言うと、「知ってたら、何か買ってきたのに」と残念そうに言った。
しばらくしたら、叔母が「お母さんに美味しいものを食べさせたいんだけど、どこか食べるところある?」と、また聞いてきた。私は職業柄アルツハイマーには慣れているので、同じ答えをくり返した。同じ会話をトレースして、最後に叔母が「知っていたら、何か買ってきたのに」と残念そうに言った。
またしばらくしたら、叔母が同じ質問をはじめた。まったく同じ会話がトレースされ、同じ説明がくり返され、叔母は残念そうに同じ結論に至るのである。
叔父のほうを見ると、手で小さく「くるくるパー」の合図をしていた。この叔母と暮らし、遠路はるばる川口市からお見舞いに来てくれた叔父の度量には敬服した。母は一言も喋らずに、ずっと目をつぶっていた。
叔母夫婦を送っていく途中で、飛田給のバーミヤンで3人で食事をした。「お母さんも一緒に食べられたらよかったのにね」と叔母は残念そうだった。
姉への愛と優しい気持ちは丸ごと残っていたけど、記憶を保持する「海馬」の脳細胞にレビー小体が憑りついて、機能不全に陥ってしまったのである。
次回は私が食べ物を用意しようと思ったのだけど、ヒロコ叔母のお見舞いはこの日が最後になってしまった。
6日、母に車椅子を押させて歩行訓練。リハビリ室にはリハビリベッドがあるのだけど、「使わせてほしい」とは言いにくい。廊下をぐるぐる歩き回りながら、ROMができそうな場所を探した。途中で1畳ぐらいの畳敷きの長椅子を見つけて、その上に寝かせてROM訓練をやった。
8日、ROMと歩行訓練。母の担当介護士のUさんが、「お母さんはだいぶ慣れたようです。もうそんなにがんばらなくても大丈夫ですよ」と声をかけてくれた。
1年前の転院時と比べると、母のレベルダウンもさほどでもなく、意外に順調に環境の変化に適応してくれたのである。
11日、調布駅であんずを拾い、一緒にちょうふの里へ。お風呂の時間だったので、あんずに仕事場まで送ってもらい、あんずだけホームに戻った。
仕事のあとでまた迎えに来てもらった。あんずが話しかけてくれたおかげか、母はだいぶしっかりしていた。ROM訓練の途中で、母が「おしっこ」と言ったので、トイレに連れて行って坐らせた。あとは職員さんにお任せして帰った。
12日、テニスコートで捻挫をした。軽い捻挫と思っていたら、バイクを降りて歩いているうちにどんどん悪化していった。母のROMのときも、痛みで足が踏ん張れなくて大変な思いをした。(症例47「ねんざ足首・2」→”魔物のような捻挫”) |
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結婚後の苗字を忘れた母に焦った
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12月19日、ご飯も食べられ、おしっこもOKだったけど、歩くどころかまったく立てなかった。目もロンパリになっていて、私のことも分からないようだった。
不動産屋(ハイホリック)さんから電話があった。冬になってしまったので、雪が溶けるまで売却は無理、来年の春以降に、とのことだった。弟のせいで、結局1年も先延ばしになってしまった。
不動産屋さんが父の土地をグーグルで見たそうだ。「一面の畑なんですよ。映像が古いから大丈夫と思うけど、一応親戚の人に確認してもらった方がいい」と言われた。
酒田の叔母に電話をしてみた。「しばらく前に見に行ったときには、車も畑もなかった」そうだ。「また確認に行ってみる」と言ってくれた。
22日、リハビリをしながら、母に「お名前は?」ときいたら、「スミ」と答えた。苗字をきいても答えられないので、ヤバイ・・・と心配になった。
認知症がひどくなると、下の名前にしか反応しなくなるとサクラさんが言っていた。特に女性は、結婚したあとの姓に反応しなくなるそうだ。
職員さんに母が「水越さん」と呼ばれていれば、頭がまともだという証明で、「スミちゃん」とか名前で呼ばれるようになったら、認知症が進んだということになる。一種の試金石のようなものなのだ。
急に心配になった。弟のほうから電話が来るまで放っておこうという意地悪心で、それまで連絡をしていなかったんだけど、弟に電話をした。
母がちょうふの里に転院したことを知らせたら、弟が「それってどういう字を書くんだ?」ときいたので、「ちょうふはひらがなで、里が漢字だよ」と教え、「お見舞いに来てあげてね」とお願いした。
27日、母は眠っていて口もきかない。歩行訓練は無理だったので、ROM訓練だけやった。「もうすぐお正月だよ。お正月はうちに連れて行くからね~」と眠りこけている母に言った。 |
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母の「親心」に気づき、母への「片思い」に気づく
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母が弟に酒田の土地を放棄させたのは、父が亡くなった直後の話だそうだ。つまり母はその時点で、すでに弟夫婦のことを「見切って」いたのだ。
でも私にはそんな話は一切しなかった。今になってやっと気づいたのである。弟夫婦の悪口を一切口にしなかったのは、息子の行く末を心配する「親心」だったのだ。
私が弟嫁を死ぬほど嫌っていたから、姉弟の仲がこれ以上悪くなったら困ると思ったのだろう。
父のお葬式のあと、母があんずに、「うちの養子になって、婿をもらって、ここで一緒に暮らしてほしい」と言ったことがある。ポプラにも「うちの養子になって、あとを取ってほしい」と言ったそうなのだ。『長男がいるのに、なんで?』と、母の不穏な言動にびっくり仰天した。
誰にも言えずに1人で思い悩んで、こっそりと弟を相続人から除外する作戦を立てたのかもしれない。
結婚した直後から弟嫁は、ケタケタ笑いながら次から次へと嘘をつきまくった。うちの家族には「嘘つき」がいないので、「なんでこんなことを言うんだろう?」と不思議でたまらず、みんなが振り回された。
嘘つきを相手にするときは「理由」探しは禁物なのだ。口から出る言葉はすべて「ゴミ」と思わなくてはならない。嘘の中に「真実」を探そうとすると、嘘つきの策略にハマってしまい、いいように操られてしまう。
いちいち「何で?」と聞き、「だったら、こうすれば?」と言う私を、弟嫁は煙たがって、なんとかして私を悪者に仕立て上げようと画策していた。
愛情深くて心配性だった父はタイプ6で、息子のことを心配するあまり、たったの2年で食道癌になって、たったの半年であっという間に死んでしまった。
死の床で父は「あいつは案外不幸なんじゃなかろうか」「あんな嫁で、案外不幸なんじゃなかろうか」と、最後まで悩みに悩んでいた。
父はまるで「親心」で出来上がっていたような人間だった。自分のこと以上に私を愛してくれた。父が亡くなったあと、「この世で私を愛してくれる人間は1人もいなくなった」という喪失感を味わったのである。
母はタイプ8である。楽しいときには満面の笑顔でとてもかわいい。不機嫌なときには思いっきりの渋面になって小言をさく裂。やりたいことは一生懸命やるけど、やりたくないことは一切やらない。どうしてもやらざるを得ない羽目に陥ると、すべて「お前のせい」と、えんえんと文句を言われた。
母のことを「嫌い」と思いながらも、できるだけのことをしようとがんばったのは、あの世で父に合わせる顔がないと困ると思ったからなのだ。
2007年に母のレビー小体型認知症がはじまったあとは、元気いっぱいなだけに悪口雑言のボルテージが上がって、私の苦痛もマックスになった。
<この頃のことは→母のリハビリカルテ3「デパスが認知症を加速させた」につづってある>
苦痛と葛藤がどん詰まりに来た頃に「やさしい嘘」という映画を見た。母がゾンビになる半年前のことである。<以前にブログ(→2009/10/27)で紹介した>
ジョージア(グルジア)で、おばあさんのエカが娘マリーナと孫娘アダと暮らしていた。フランスで働く息子オタールを溺愛して、親孝行な彼の手紙や電話を心待ちにしていた。息子のことばかり褒めちぎって、面倒を見ているマリーナとアダには文句ばかり言うのである。
ここまでは「うちの母とそっくり」と、エカのわがままぶりを見ては、いちいちうなづいていた。
でも突然オタールが亡くなってしまう。優しいマリーナとアダはエカを悲しませまいと、彼の死を伏せて手紙を書きつづけた。手紙は来るけど、電話は来ない。どうしてもオタールに会いたいと、エカは貯金をはたいて娘たちを連れてフランスに行った。
本当のことを知られたら・・・と戦々恐々とするマリーナとアダだけど、エカは別行動をとってオタールの死を知ってしまう。
ここで大どんでん返し。自分勝手なわがまま婆さんと思い込んでいたエカが、娘たちを悲しませまいと、「オタールに会った」と噓をついて帰国したのである。
そこで頭に???と疑問符が突き刺さった。
エカは単なるわがままな母親ではなく、子どもたちを思いやる大いなる母性の持ち主だった。
うちの母も私には文句ばかり言っていたけど、愛と信頼があるからこそ言えたのかもしれない?弟の誉め言葉しか聞いたことがないのは、悪口を言えないほど心配していたからなのかもしれない?
この映画のおかげで、母に対する私の感情に変化が起こり、そして半年後にゾンビになった母に遭遇したのである。
お母さんの死後、「とうとう最後まで振り向いてもらえなかった」と苦しみ、「私は一生、母に片思いだったのよ」と嘆いていた患者さんを思い出す。
そのとき「私は逆に、母の私への執着が重荷」と答えたのだけど、でも本当は私も母に「片思い」をしていたのだ。ありのままの私を愛してくれない母を、「嫌い」と思ったのは「愛」の裏返しだった。「悪口も言えない」母の本心を察してあげられなかったのは、感情が邪魔をして盲目になっていたからなのだ。
母もちゃんと「親心」を持っていた。ゾンビにされたあとも、息子を恨むこともなく、息子を心配し、息子の幸せを願っていたのだった。
仏教に造詣の深い患者さんに教えてもらったことがある。「自分がいい人間なのは、自分のおかげじゃない。まわりの人が愛を注いでくれたからこそ、自分の中に愛が育ったからだ」そうで、それを「縁」と言うのだそうだ。
同じ両親に育てられても、心に愛が溜まらない人間もいる。心の底に大きな穴があいていて、注いでも注いでも愛が流れ出てしまう。そういう人間は心の空虚を埋めるために物やお金を必要とするらしい。
私にとって弟嫁は、父を癌で殺し、母を植物人間にした張本人で、いくら恨んでも恨み足りないほどの極悪人なのだ。表向き「仲良さそうなフリ」をしていたのは、ひたすら「母のため」だった。
でもそれは「自分のため」だったのである。ありったけの愛を注いでくれたからこそ、自分にとって母が大切でかけがえのない存在だったからなのだ。 |
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Updated: 2023/12/15 |
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