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 母のリハビリカルテ 14 -2014年 1~7月-
 <母は次第に「立つ」ことも難しくなっていった>
ROM訓練以外のリハビリが手抜きになる
2013年11月にちょうふの里に入所してから、母は居室のベッドに寝かされている時間が長くなった。身体の負担を減らして、無理せずゆっくり過ごしてもらおうという方針とのこと。長い間いろんなお年寄りを介護してきたプロとしての判断である。焦燥感に駆られたけれど、お任せするしかない。
グループホームや有料老人ホームだと多額の費用がかかる。経済的余裕を考えると、公立の特養が一番で、その中ではちょうふの里がベストなのだ。入れただけで、母はものすごくラッキーだったのである。

入所した当初は施設内の廊下をぐるぐると、日によっては何周も歩けたこともあったのだけど、母の脚力がみるみる落ちて行くのを目の当たりにすることになった。歩ける距離がどんどん縮まっていったのである。
アルツハイマー型認知症だと、自分が「歩けない」ことを忘れてしまい、立ち上がって転倒するなどのリスクがある。だから「歩かせない」ように介護者は神経をとがらせ、監視するのが大変だ。
レビー小体型認知症の母は「やる気がない」ことが特徴で、自分からは動こうとせず、えんえんとじっとしている。誰か促してくれる人が必要なのだ。
『歩行訓練に通おうか?』と悩んだのだけど、青木病院のときのことを思い出し、それが空しい努力に終わったことを思い出し、もう自分ではどうしようもないと諦めるしかなかった。

ちょうふの里に移ったあと、「お話ボランティア」のオリーブさんとは、すっかり縁が切れてしまった。1年半も青樹に毎日通ってくれて、お母さんの介護の心残りが癒されたのかもしれない。
オリーブさんの話をしたら、「私も母の介護に心残りがあるのよ」と言った患者さんがいた。PTAのバドミントン時代の先輩で、10年以上もちょうふの里へボランティアに行っていた女性である。
松本の出身の彼女は、お母さんの面倒が見たくてたまらず、自分の家にお母さんの部屋を作ったそうだ。「でも来てもらえなかったのよ。私はこの家に嫁に来た人間だから最後までここを動かないと言い張って。亡くなるまで松本にいて、とうとう来てもらえなかったの。私もその心残りがあるから、お母さんのところに行かせてもらいたいの」と言ってくれた。
毎週水曜日、休憩時間に母のところへ顔を出して、あれこれ話しかけてくれるようになった。職員さんたちにも、「うちの娘がお世話になっている方のお母さんだから、よろしくお願いします」と声をかけてくれたそうだ。

2014年は激変の年だった。4年間1人暮らしをしていたポプラが帰ってきて、家事の負担が増えた。チワワのヴェルが14歳になって、老化が進んでいくのをハラハラしながら見守ることになった。足腰が弱っていった。認知症もはじまったらしい。夜中に吠えたり、ブラッシングを嫌って私の手を噛んだり。。。
僧帽弁閉鎖不全を患っていたヴェルは、湿度が高いと肺水腫を起こしやすくなる。興奮して心臓がバクバクすると、肺に水がたまって呼吸困難になる。口からはみ出したベロの色で血中の酸素濃度を計り、『息してるかな?』と背中の動きを観察し、心配で心配で、ヴェルの体調が私の関心の中心になった。

母は最低限必要なこと以外めったに口をきかない。まともなことも言う日もあるけれど、おかしなことを言う日もある。すっかりボケちゃったと思い込み、会話をあきらめた。でも歌いながらROMをすると、母の目がキラキラと光って、遠くを見るような目つきになる。『もしかしたら、理解しているのかな・・・?』と思いながらも、ROMのあとは歩行訓練にトライ。歩けないとさっさと帰る。 母のリハビリはそんな具合で、すっかり手抜きになってしまった。

リハビリは週に2回を目標にした。「外食」はポプラ頼みである。彼は日曜日しか休みがない。私は仕事なので、お昼の患者さんがいないタイミングを見計らって、当日の朝ホームに電話をした。月に1回がやっとだった。
全介助の母をもしも自宅に引き取ったら、食事の世話やもろもろでリハビリをする余裕がなくなってしまう。ROM訓練をしなければ、あっという間に拘縮が進んでしまうだろう。衣食住を施設にお任せして私はリハビリに専念する、それがベストというのが施設側と私の共通のコンセンサスだった。
ちょうふの里のカンファランス
1月1日、11時半に母をちょうふの里に迎えに行った。長男一家、ポプラ、あんずとトモ君も来て、総勢9人である。母のレシピのおせち料理の他、子どもや孫たちが喜びそうなものを作った。食べさせる役目はあんずがやってくれ、母は美味しそうに食べてくれた。
あまりにも寒いので、初詣はやめて近所に散歩に出ることにした。孫娘には私の子どもの頃の着物を着せた。大昔、母方の実家では蚕を飼っていた。私のおばあちゃんが、蚕の吐き出した絹糸を紡いで、機で織って布にして、(染は人に頼んで)自ら縫ってくれたという思い出の着物だ。
母にもあれこれ聞きまくって、タンスの中を探しまくって、大騒ぎで着付けをした。足袋がなかったのでスニーカーを履かせて外に出た。ポプラが母を抱っこして階段を降り、車椅子に乗せた。孫2人と4人で野川の遊歩道を散歩した。
母に夕食を食べさせたあと、夜8時にホームへ送っていった。

7日、ROMと歩行訓練。 リハビリベッドが使えないので、はじめはところどころに置いてある長椅子などを試したりした。でも母のベッドが硬くて、ふわふわ弾まないことに気づいたので、居室のベッドでROM訓練をやるようになった。

13日、母はけっこうしっかりしていた。

15日、ちょうふの里でカンファランスがあった。ケースワーカー、介護、調理、リハビリ、看護など、それぞれの部門から代表が1人ずつ出席して、家族と面談をする。新潟で母が植物状態寸前になったところからはじめて、入所するまでのいきさつを話した。
こちらの要望の根幹は「月に1回は母をお寿司を食べに連れ出したい」である。お寿司を食べる能力を維持したいこと。「噛む力」を維持するために、食事は「粗刻み」にしてほしいとお願いした。車高が高い私の車に母を乗せるために「踏ん張る力」を持たせたいので、「歩く能力」を維持してほしいこともお願いした。
母の担当介護士のUさんが、「わかりました。車椅子からベッドへの移乗ではなく、ちょっと遠いところに車椅子をとめて、ベッドまで歩かせる。トイレも、ちょっと離れたところで車椅子から立たせてトイレまで歩かせる。そういうことなら協力しましょう」と言ってくれた。
みなさんが「協力します」と言ってくれ、職員さんたちは熱意にあふれていた。

リハビリは残念ながら1人しかいない。週に1回「起立台」での訓練を行うとのこと。母を電動式のベッドに括りつけて、斜めに立たせてしばらく置く、というリハビリである。『たったそれだけ?』と落胆したけど、入所者は100人もいるのである。それ以上の要求は無理だろうと思った。
やっぱり、自分でリハビリに通うしかない。

17日、ROM訓練のあと車椅子を押させて歩行訓練をした。途中で「おしっこ」と言われてトイレまで歩かせたのだけど、ちゃんと歩けた。

19日、朝ホームに電話をして、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。母はたくさん食べられた。時間がないので私はバイクで仕事場に直行し、ポプラがホームに送り届けてくれた。

22日、ROMと歩行訓練。
母の脚力はみるみる落ちて行った
2月1日、リハビリのあと、食事介助をした。母に食べさせるのは時間がかかって本当に大変なのだ。途中まで食べさせて、つづきは職員さんにお願いした。
慈恵医大のときはミキサー食だった。噛まずに飲み込めるので、5分ぐらいで食べ終わる。「粗刻み」だと噛まなきゃならない。ときには眠りこけている母を起こし、口に食べ物を入れる。噛んで飲み込むのを待って、次のスプーンを口に運ぶ。ときには1時間以上もかかるのである。
手間と時間のかかる「粗刻み」をお願いしておきながら、食べさせる手間は職員さん任せにする自分。罪悪感を感じながらも、食堂まで連れて行くだけで帰ってしまう日がほとんどになってしまった。

4日、歌いながらROM訓練。母は口もきけず、歩くこともできなかった。

12日、母の部屋に行ったら、ちょうど小柄な女性がベッド脇に車椅子を置いて、母を抱えてベッドに寝かせている場面に遭遇した。
担当介護士のUさんが「なるべく立つ時間をつくるように協力する」と言ってくれたのだけど、「全員」が「いつも」という訳にはいかないのだな・・・と受け入れるしかなかった。Uさんのような長身の男性なら可能だろうけど、他の介護者はみなさん小さくて非力である。立たせた状態でもしも母の膝がくず折れたら、引っぱり上げるのは難しい。一緒に転倒して大けがをする可能性もある。
小柄な女性が一生懸命にやってくれている姿を見て、それが精一杯と思った。実現不可能な願いだったのである。
ROMのあと歩行訓練。母は足弱だったけどなんとか歩けた。

16日、母は無口でおかしかったけど、歩けた。

23日、母は無口で、足が立たず、まったく歩けなかった。

27日、母は足が萎えてよろよろだったけど、なんとか歩けた。
「若く」て「きれいなおばあちゃん」だった母
3月2日、出るのが遅くなったので、ポプラは車で、私はバイクでホームに行った。母は車椅子に坐って待っていた。職員さんの話では、母は「これから娘とお寿司を食べに行く」と言って楽しみにしていたそうだ。
母を車に乗せてスシローへ。19分待ちだったので、その間、車椅子に坐ったままの母に簡単なROMをやった。時間に追われてバタバタして、私は仕事場に直行した。
「食べさせるだけだと、なんだかかわいそうだね」とポプラが言った。本当にその通りだ。なるべく早めに出て、もっとゆったり過ごさせてやりたいねと話し合った。せっかくの外食なのだもの。

4日、母は頭はしっかりしていたけど、まったく歩けなかった。

9日、ROMのあと歩行訓練をしたけど、足が弱っていて、居室の真ん前にあるベンチまでも歩けなかった。

12日、ROM。足の筋力がないせいで、ほとんど歩けなかった。

16日、私はバイクでホームに行き、ベッドでROMをしてから母を車椅子にのせて入口で待った。ポプラは車でスシローに行って、整理券を取ってから迎えにきた。
このパターンだと待ち時間が有効に使える。母はお寿司をちゃんと食べられた。

18日、ROMをしながら、スシローのこと「覚えてる?」と母にきいたら、「美味しかった」と答えた。歩行訓練では、膝が折れながらも、なんとかベンチまで歩けた。

21日、母はしっかりしていた。ROMのあと、食堂まで車椅子を押して歩けた。いつも車椅子でうろうろしているお喋りなおばあちゃんが、「友だち?若いね」と母に声をかけた。母はにこりともせず、返事もしなかった。
母はほんとうに若く見え、私の友人に間違えられることもしょっちゅうだった。施設に入ってからはずっと室内で過ごしたので、どんどん白くなっていった。お肌がすべすべで皴もあまりないので、職員さんたちにも、よく「きれいなおばあちゃんね~」と声をかけられた。テニス焼けした私と見比べて、「お母さんは真っ白なのに、娘さんは真っ黒ですね」と言われたこともある。(笑)
ゾンビになったあと、母は髪を染めるのをやめた。脳を損傷した直後に素晴らしく真っ白な銀髪になったけど、回復していくにつれてちらほら黒い毛が混じるようになっていった。生命力と髪は相関性があるらしい。

26日、ROMをしているときに担当のUさんに話しかけられた。リハビリ師が母を見て、「これなら歩けそう」と言っていたとのこと。実現するのだろうか?

30日、ポプラと一緒に母を連れてスシローに。母はずっと目をつぶっていて、口をポカンと開けたままだったけど、お寿司は食べられた。
ダライ・ラマの講演の日、弟は青樹に行った!
4月3日、ROMと歩行訓練。

8日、ROMと歩行訓練。

12日、ROMと歩行訓練。ちょっとしか歩けなかった。

17日、私はあんずと2人で虎ノ門にダライ・ラマの講演を聴きに行った。開始直前に携帯をドライブモードにした。講演が終わって外に出たら、携帯に2件も留守電が入っていた。1件目は青樹からで、2件目は青木病院からで、どちらも「お母さまの長男と名乗る方が現れたのですが、お母さまの移送先をお教えしてもいいのでしょうか?連絡をください」という内容だった。
なんと着信は1時半で、私がドライブモードにした直後だったのである。

緊急連絡先の1番は私で、2番があんずだった。私はめったに調布から出ないし、携帯をドライブモードにすることもない。しかもふたりで一緒になんて、本当にありえないタイミングだった。
青樹に電話をしてみたら、緊急連絡先3番のうちの長男の確認が取れて、母がちょうふの里にいることを弟に教えたとのことだった。
その場で弟に電話をかけたけど出なかった。地下鉄駅のホームにいるときに電話がかかってきた。電車の音がゴーゴー響いて私には聞き取れなかったので、あんずに電話を代わった。無事に母に会えたそうだ。
「私たち2人で都心にいるから、どこかで待ち合わせて一緒に飲む?」と聞いてもらったら、「そのまま新潟に帰る」とのことだった。

ちょうふの里に移ったことは昨年12月22日、すでに弟に伝えてある。それなのにそれを忘れてしまうとは!しかも事前に連絡をくれれば、あらためて教えてあげられたのに、やっぱり「いきなり」である。

20日、3階に着いたら、母の担当のUさんが私を見つけて、向こうから歩いてきた。「弟さん、お母さんにそっくりですね。弟さんを見た瞬間に、お母さんはいきなり涙をボロボロ流して、顔がグシャグシャになって、声も出せなかったんですよ。ものすごく喜んでいましたよ」と報告してくれた。
弟夫婦の悪口を言いたい気持ちをぐっとこらえていたので、Uさんはにこにこ笑っていた。(彼は弟の顔を知る唯一の職員となった)
ROMをしながら、母に「この間、弟が来たんだって?弟だけ?それともサッチーも来たの?」ときいたら、「トシカツだけ。サッチーは来なかった」と答えた。1週間前のことをちゃんと覚えていた。

25日、着いたらいきなり「おしっこ」だった。まずトイレに連れて行った。ROM訓練の最中にも「痛~い!」と大騒ぎをした。「歩こう」と言ったら、「歩かない!」とすねていた。「歩かないんだったら、じゃあね」とそのまま帰ろうとしたら、「えっ」という顔で、母は呆然としていた。
昔から母はこんな性格なので、それが懐かしくて、帰り道でにたにた笑ってしまった。
会いたがり屋の父が休みの前になると「いつ来る?」としつこく電話をかけてくる。母は「来んたっていい」と文句を言い、「お前たちのおかげで大変だ」とブツブツ小言を言いまくる。大ゲンカになって、「じゃ、帰る」という私。父はガッカリして泣きそうになる。それで結局休みはずっと実家で、どこにも旅行に行けなかったのである。
「来い来い」と言う父が亡くなったあと、母は困った。「来んたっていい」と言えば、「あ、そう」と私に言われる。「来てほしい」と言えない母の逡巡は見ものだった。母の逡巡を楽しんだあと、結局はひとりになった母を見捨てられず、やっぱり他へ旅行に行くことができないままになったのだ。

29日、ROM訓練。母はボーッとしていた。
母は「歩かない」と答えるようになった
「歩く?」ときくと、必ず「歩く」と答えた母が、5月に入ってから「歩かない」と答える日が多くなっていった。足の筋力が落ちて、自分の足がもう立てるような状態にないことを母は知っていた。
がんばって歩かせても途中で床にくず折れてしまうこともしばしばになり、母を支え起こすのが大変になっていった。居室を出てすぐのところにあるベンチまで歩くのがやっとになってしまった。

5月6日、ROMと歩行訓練。1週間ぶりだったけど、母はまあまあ歩けた。

9日、ROMのあと、「歩く?」ときいたら、母は「歩かない」と答えた。

11日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。一言も口をきかなかったけど、お寿司はまあまあ食べられた。

17日、ROMのあと、母に「歩く?」ときいたら、「歩かない」と答えた。

18日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。母はあまり食べられなかった。ホームに戻ったら、私が差し入れしたお菓子の一部を戻された。「ゼリーなど、滑りのいいものをお願いします」と言われた。

21日、ROMのあと、母を立たせようとしたけど、まったく立てなかった。足がすっかり細くなってしまい、立てそうな気配もなかった。

26日、ホームに着いたら母はちょうど床屋さんの日だった。終わるのを待ってROM訓練をした。母は足が立たなくて、歩行訓練はできなかった。
チワワのヴェルが死んでしまった
野生の動物は死の直前まで元気いっぱいなのだそうだ。ヨタヨタしたら食べられてしまうのだもの。一気にレベルダウンしてから、大体1・2週間で死んでしまうと見聞きしていた。
2週間前にいきなりヴェルの目が「ビー玉」なって光を失い、『もう死ぬな』と思った。もしも病院に連れて行ったら、恐怖で一気に肺に水が溜まる。酸素ボックスに入れられて、そのまま病院で死ぬことになる。
甘えん坊のヴェルだから、家族のそばで逝かせてあげたいと、衰えていくヴェルを半泣きで見守ったのである。

6月1日、ROM訓練。

2日、チワワのヴェルが逝った。享年14歳半だった。あまりの辛さに9日間連続で仕事をした。ヴェルのレベルダウンと私のテニス肘の悪化が同時だった。そのままテニスも止めてしまった。

5日、ROM訓練。

12日、ROMのあと、母を立たせてみたら、ちょっとだけ立てた。

15日、朝ホームに電話をしたら、「便通の座薬を入れる予定なので」と母の外出を断られかかったのだけど、母の気持ちを優先してくれ、座薬のタイミングをずらせてくれることになった。
ポプラと一緒に母をスシローに。母はなんとか3皿ぐらい食べることができた。

19日、あんずが来てくれた。ROMのあと、母を車椅子にのせて中庭に出た。あんずを指さして、「誰だか分かる?」ときいたら、ちゃんとフルネームを答えられた。

26日、ROM。母に「お名前は?」ときいたら、「分からない」と答えた。「私の名前は?」ときいたら、「知らない」と答えた。何を聞いても「分からない」「知らない」を連発した。1週間も空いたのですねていたのだろう。
でも「歩く?」ときいたら、「歩きたい」と言う。部屋の外のベンチまで歩かせた。大人の足で10歩ぐらいの距離だけど、膝が折れて、床にくず折れそうな母を支えて歩かせた。これが母の最後の歩行訓練になった。
不動産屋さんが酒田に行ってくれた
7月1日、母の足がまったく立たないので、歩行訓練はあきらめた。

4日、酒田の叔母に電話をして、土地の様子を聞いた。車も畑もなく、ちゃんと空地になっているとのことだった。

11日、母の夏服に名前を書いてタンスに入れてから、ROM訓練をした。

12日、不動産屋さん(ハイホリック)から、土地の様子を訊ねる電話があり、叔母の話を伝えた。

15日、ROM訓練。

21日、ROM訓練。

22日、不動産屋さんから「木、金で酒田に出かける予定」という電話。

26日、母は目つきが変だった。いきなり「福松」と自分の父親の名前を口にした。「おじいちゃんがどうしたの?」と聞いても、何も答えなかった。ROM訓練をしながらお喋りしているうちに、だんだん人間らしい表情になっていった。
帰るときに、「また来てね、とか言わないの?」と母に言ったら、「また来てね」と言った。

28~30日、車で新潟に。瀬波温泉で泊まって海水浴をしたあと、新潟市に戻って父の墓参り。翌日は実家のご近所さんたちに挨拶に行った。KさんとHさんにはウオロクの商品券を渡した。Wさんは留守だったので、お土産を渡してくれるようにお願いした。Kさんにはまたビールを1ケースいただいた。

31日、不動産屋さんから電話。酒田までわざわざ車で赴いて、街のあちこちを探索したそうだ。酒田市は素朴でいいところで、「いつかあらためて旅行に来たいと思った」と言ってくれた。でもあまり活気がないこと。父の土地は郊外にあるので、あまり高くは売れそうにないとのことだった。
ホテルに入ってすぐに地元の電話帳を開いたそうだ。「東京では調べられない電話番号がある」とのことで、市内のすべての不動産屋さんに片っ端から電話をかけてくれた。父の土地は150坪もある。個人で買うのは無理なので、建売をやっている大きな不動産屋を探したのだそうだ。
翌日に可能性のある不動産屋をすべて訪ね、見積もりを送ってくれるようにお願いしたとのこと。「そのうち見積もりが届くから、一番高い値段をつけてくれた不動産屋に売る」そうである。土地売却の実現はもうすぐである。
ダライ・ラマが「人としての道」を教えてくれた
ダライ・ラマの講演のことは私のブログ(→2014/4/22)で紹介してある。
「ダライ・ラマ」の生まれ変わりとして、子供の頃に寺院に入り(一種の)英才教育を受けた。そこへ中国軍が侵攻して、チベットの人々を蹂躙した。命からがらインドに亡命。そしてチベットの人々のためにその全生涯を捧げたのである。
実際に会ってみて、まるで腕白小僧がそのまま田舎のおじいさんになったような、素朴で朗らかな人柄と知り、ますます好きになった。

誰かと対談した本の中で、「人間に宗教が必要ですか?」と問われたダライ・ラマは、「宗教が必要でない人間もいる。自分の中に善悪の基準を持って、教わらなくても正しい道を歩める人もいる。でもほとんどの人間はそうではない。彼らには人としての道を教えてくれる宗教が必要なのだ」と答えていた。
(「ほとんど」が7割だったか8割だったかも、誰との対談かも忘れてしまった)

弟が青樹に行ったのが、ダライ・ラマの講演のときだったというのは偶然じゃない、と思った。必要なことはちゃんと連絡してあるのに、弟はきれいに忘れていた。私に連絡もしないで「こっそり」行ったのは、母のことなど眼中にない証拠である。「まだ生きているかどうか」を確認しに行ったのだろうか?
苗字が同じでも、「母の長男」と伝えても、母の居所を教えてもらえない羽目に陥った。甥に許可してもらって、やっと母親に会えた。それは人として「恥ずかしい」ことなんだと、ダライ・ラマが教えてくれようとしたのだ。
私は『そら見ろ、いい気味だ』と爽快な気分を味わったけど、弟本人は何も気づいていないんだろう。
「人としての道」を教えてくれようとしたダライ・ラマのオーラ。受け手側の受信能力がないと、オーラも伝わらない。私自身への励ましだったのかもしれないね。

その数日後、青樹で事務をしている女性にバッタリ会い、「ごめんなさいね。弟のことで大騒ぎをさせちゃって」とあやまった。
彼女は「ううん、気にしないで。そんなこと、しょっちゅうなのよ」「兄弟に連絡を取ってくれるな、親を会わせるな、そういう家族がたっくさんいるのよ」と言った。
年老いた親を巡ってどろどろの争いをする家族って、そんなに多いの?と驚いた。私もいろんな話を見聞きしてきた。親の幸せも、子どもとして果たすべき役割も無視して、兄弟姉妹で争うのが現代のありふれた現象らしいのである。

犬だって「人としての道」を教えてくれる。
ヴェルが死んだあと、中学時代の柏崎の友人に電話をした。彼女は数年前に愛犬のビーグル、モモちゃんを亡くしていた。いまだに毎日犬の写真にお水とお花を供えているそうだ。
彼女が「犬は偉い。最後まで文句も言わず、愚痴もこぼさず、自分に残された力をふり絞って生きる」「人間も犬を見習え。うちの親にもそう言いたい」と言ったのである。
立てなくなっても、這うようにして水を飲みに行っヴェル。泣きもせず騒ぎもせず暴れもせず、息をするだけで精一杯の状態だったのに、最後まで雄々しくがんばった。犬のほうが人間よりも数段崇高な存在かもしれない。
15ページ目へつづく
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Updated: 2023/12/22













































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