母のリハビリカルテ 17 - 2016年 8月~11月21日 -
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<10日で激瘦せ、3カ月後に誤嚥性肺炎で入院>
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「食べられなくなったら静かに死にたい」という願い
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母が新潟で植物状態寸前になってから6年がたった。ちょうふの里に入所してから2年9カ月である。向精神薬による脳損傷はおおむね回復し、認知症の進行もなく、まともな会話ができるようになった。身体のほうはパーキンソン症状が悪化してどんどん硬直していった。「送り」が難しい日が増えていって、食べるのに苦労するようになった。口の中に食べ物が滞留してしまうのである。
いったん「粗刻み」から「ミキサー食」に変えたのだけど、母は唇を固く締めて拒絶した。「美味しいものを食べたい」とアピールしたのである。職員さんにお願いして、手間のかかる「粗刻み」に戻してもらった。
生きている間は美味しいものを食べたい。胃漏などの延命治療は絶対にやりたくない。そう母は思っていたのだ。私も同じ思いだったので、「口から食べられなくなったら死んでもらう」と決めていた。
そしてついに、終末を意識しなければならない日々がはじまったのである。
7月31日にはスシローに連れて行った。その日の母は調子が良くて、好きなお寿司をたくさん食べられたんだけど・・・
8月2日、患者さんのご主人が食道癌になったという話をきいた。本人は「もう90歳、充分生きた。管を入れられたり、あれこれ治療されるのはまっぴらごめん。何もしないでこのまま自宅で静かに死にたい」と、検査入院した大学病院を脱走、つまり精密検査の前に無理やり退院したそうだ。
奥さんは開業前からの患者さんである。ご夫婦でメンテナンスに来て、家族みなさんが患者さんだった。ご主人は2011年3月の東北大震災で電車に乗ることが怖くなったそうだ。そこからはたまの来院になって、最後の来院から1年ぐらいたっていた。
心優しくて高潔で奉仕の精神にあふれた素晴らしい人物だったのである。俳句の会の先生で、日曜画家展では入賞の常連、仏教にも造詣が深かった。経験と知識の宝庫のような人に出会って、年を取ることが怖くなくなった。まさに「実るほど頭が下がる稲穂かな」の見本で、とても尊敬していたのである。
「うちの母もだんだん食べられなくなっちゃったのよね」と言ったら、彼女は笑いながら、「食べられなくなってもすぐには死なないのよ。そうね、まったく食べなくなってから2週間ぐらいかな、みなさん、そんな感じよ。おとといお寿司を食べたんでしょ?だったらまだまだ大丈夫よ」と言ってくれた。
なるほど・・・と、「2週間」が私の頭にインプットされた。 |
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一気に激痩せ、寿命が尽きかけているのを感じた
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3~5日、あんずと一緒に新潟へ。海水浴を兼ねて、実家の掃除。ご近所さん3軒に挨拶に行き、お土産やお礼を渡しておしゃべりをした。
「母はまだ月に1回、回転寿司を食べに行けてるし、まあまあ元気ですよ~」と報告したのだけど・・・
10日、あんずと一緒にホームへ。3階の窓口で職員さんに、「お母さん、2日か3日に1回しかご飯を食べられないのよね」と声をかけられた。
母に会ってびっくり仰天。たったの10日で別人のように激痩せしていた。「きれいなおばあちゃんね」と言われ、私の友人と勘違いされたりした母が、すっかりしなびたシワクチャのお婆さんになっていた。
母の身体は「岩」のように硬直し、あん摩で入念にほぐしてからじゃないとROM訓練ができなくなった。食事介助をしたけど、ちょっとだけしか食べられなかった。
14日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。激痩せした母を見て、ポプラが「ばあちゃんもついに寿命だな」とつぶやいた。
その日の母は目も開いていて、よく食べたのだけど、途中で疲れたらしい。「送り」が難しくなって、食べ物が口の中に残って、よだれがだらだら垂れ、もうそれ以上は食べられなくなった。
18日、あん摩とROM訓練。
26日、あん摩とROM訓練のあと、母は一生懸命に「またね」と言おうとしていたけど、声にならなかった。

9月8日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。母は調子が悪く、1皿分ぐらいしか食べられなかった。
16日、あん摩とROM訓練のあと、持って行ったあんドーナツをまるまる1個食べてくれた。
27日、あん摩とROM訓練。 |
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母からゼロゼロ音が聞こえてきた
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10月4日、3階の窓口で職員さんに声をかけられた。「鶏が喉に引っかかって食べられないので、鶏だけミキサーにさせてください」と言われ、了承した。
ROMのときに、母の気管支からゼロゼロいう音が聞こえてきた。持って行ったパンを食べさせようとしたけど、ほとんど食べられなかった。
6日、あんずと一緒にホームへ。母に「ポプラがいなくても外出できるように、母ちゃんのお金で、車高の低い車に買い換えようかと思うんだけど、どう思う?」ときいたら、母は目をらんらんと輝かせ、何かを言いたげだったけど、言葉を発することができなかった。
(もっと早くに思いつくべきだった。この状態では、もうすでに時遅しと判断し、車を買い換えるのは止めにした)
11日、3階の窓口で職員さんに声をかけられ、母が朝から微熱があるという報告を受けた。母はほんとうに具合が悪そうだった。ROMのあと、あんドーナツを食べさせようとしたけど、一口も食べられなかった。目は開いていたけど、怖い顔をして、全身がこわばっていた。
母の寿命はもう尽きかかっている・・・。年内かもしれない・・・。子どもとして、覚悟を決めなければならない時が来たらしい・・
そう思うと、いてもたってもいられない気持ちになった。患者さんに相談したら、「そう思うんなら、親戚や友人に連絡をしたほうがいいよ」と言った。自分の母親が長くないと覚悟を決めたとき、知人らに連絡を取ったのだそうだ。
12日、夜、弟に電話をした。「あんたさ~、おととしの11月から、2年も母のところにお見舞いに来ないよね~」と言ったら、弟は怒り口調で「なんだや~、こっちはちょくちょく行ってるさ~。昨日も行ったし」と言った。
私はムッとして、「え、私に内緒でこそこそ会いに行ってるわけ?」と言ったら、「そっちだって、こそこそ新潟に通ったくせに!」と弟は怒鳴った。
「新潟に『こそこそ』とは何なの!私は堂々と行ってたし、私がリハビリに通ったおかげで母は・・・」と、あまりの怒りに言葉を失った。
冒頭からいきなりのケンカ腰だったけど、母のために言うべきことは伝えなくてはと、気を取り直して会話をつづけた。
「昨日?私も昨日行ったんだけど、何時ごろ?」ときいたら、「4時ごろかな」と言うので、「私もその頃に行ったんだけど・・・」と言った。「4時ごろ行って、夕食の時間だからと言われて帰った」と言うのだけど、私も夕食前までいたのである。キツネにつままれたようである。不思議に思いながらも本題に入った。
「8月に母ちゃんが激痩せして、食事も1日おきか2日おきにしか取れなくなっているので、もう長くはなさそうだから、会いに来た方がいいと思って電話したんだけど」と言った。
弟は「昨日行ったときに、施設の人はなんも言ってなかったぞ」と言った。そこでまたムッとした。「昨日行ったんだったら、母がどんなに激痩せしたか、見たでしょ!」と言ったら、「そうかなあ、気づかなかった」と答えた。
「あんた、施設の人に、『母の具合はどうですか?』と聞いたの?何も聞いてないんでしょ!誰かも分からない見舞客に、いちいちそんなことを報告するわけないじゃない!聞かなきゃ誰も教えてくれないよ。聞いても教えてくれないかもしれない。プライバシー保護法があるんだから。
「母はろくろく口もきけないし、自分の状況を報告できる状態じゃないでしょう!母の状態を教えられるのは私だけなのに、なんで、いつも、私に聞かないの!
「とにかく、もしかしたら今年いっぱい持たないかもしれない。一応報告しておくからね。そんなにちょくちょく行ってるんなら、自分で様子を確かめられるんだから、もう二度とこっちから連絡を取らないからね!」
強い口調でたたみかけた。弟は何も答えなかったので、そのまま電話を切った。
なるほど、母が全身硬直して怖い顔をしていた理由が分かった。
ホームの夕食は6時である。弟が4時に行って、夕食前まで2時間もいたというのは考えられない。私も夕食前までいんだから、私の到着前に帰ったに違いない。「食事時間だから」と言ったのは嫁だろう。
死を間近にした苦しみの最中、死ぬのを待ち構えている人間が現れる。金のことしか眼中にない女が目に前に立って、冷たい目で自分を観察している。
『いつ死ぬんだろう?』『そろそろかな?』『お金は残っているかしら?』『死んだらすぐに遺産をすべて手に入れる作戦を実行に移そう』
母はその恥辱と絶望で、気も狂わんばかりに苦しんだのだろう。
父のことを思い出した。食道癌の手術をして入院したとき、2人で仕事帰りに待ち合わせて毎日見舞いに行ったそうだ。退院したら家には顔も出さない。病院より在宅のほうが手伝いが必要というのに、電話1本かけて来ないと父は怒っていた。
食道癌が肺に転移して再入院したとたん、また毎日病院に通った。あの頃嫁は「どんだけ介護したかと遺産相続はまったく関係がない」ことを知らなかったのだろう。
病室の壁に背中をつけて、ずっと立って父を眺めている2人のことを、「なんであいつらは毎日来るんだろう?」と、父は心底嫌がっていた。
私は毎週末通って父にあん摩をしつづけた。会いたがりの父はみなさんに見舞いに来て欲しがったので、親戚の人たちが入れ代わり立ち代わりやって来た。
母の従弟夫婦がお見舞いに来たとき、「おじさん、孫が来てくれて嬉しいだろう?うちの母親なんか息子のことなんか目じゃなくて、孫ばかり可愛がっていたんだよ」と言った。
父は「おれは娘が一番だ。良子さえ来てくれればそれでいい」と答えたのだった。「平等」が口癖だった優しい父が、孫と弟夫婦の目の前でそう言ったのだ。母も私もびっくり仰天した。
「姉ちゃんばかり可愛がられてた」というのが、弟が遺産相続の調停にかけたときの大義名分だった。
でも激痩せしたことも気づかず、母の状態にも興味のない人間である。結局は心の交流ができる子どもと深いつながりができるのだと思う。 |
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食べられない日がつづいた
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10月13日、調布駅にあんずとトモ君を迎えに行き、一緒にホームへ行った。母の車の乗り降りはトモ君がやってくれた。「トモ君も母を抱っこできるんだね」と感心したら、「これぐらいのことができなきゃ、男とは言えないでしょ」と、トモ君は笑いながら、母をお姫様抱っこで車に乗せてくれた。
一緒にスシローへ。母は固まったまま目も開けなかった。無理かな・・・と思ったのだけど、「いくらだよ」と声をかけてみたら、目を開けずに、口だけ開けた。なるべくいろいろなものを食べさせたかったので、好きなものを選んで、ちょっとずつ口に入れてあげた。
母はとても食べたがっていたんだけど、食べ物が口に中に溜まってしまい、よだれだけがダラダラと流れてくる。数個のお寿司を食べただけで、ついにまったく「送り」ができなくなってしまった。残念だったけど、そこであきらめた。
(これが母の最後のスシローになった)
17日、あんずとヨーコが母のお見舞いに行ってくれた。栗アンパンを半分食べたそうだ。
18日、あんずとヨーコが母のお見舞いに行ってくれた。
19日、母の服がおしっこで濡れていたので、職員さんに手伝ってもらって着替えをさせた。「寒くない?」ときいたら、「寒くない」と答えた。そのあとROMをした。あんドーナツを持って行ったのだけど、食べられなかった。
夜、東京在住にの従妹のトモちゃんと、叔母(父の末の弟の未亡人)に母の状態を電話した。2人とも、何度も母のお見舞いに行ってくれたのである。
23日、ROMのあと、相談員さんとケアプランの話をした。
11月1日、ROMのときに、母に「痛い!」と叫ばれた。 |
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母が「誤嚥性」肺炎で調布病院に入院
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 11月3日、ちょうふの里から電話があった。母が朝から38.4度の熱があり、ゼロゼロしているとのこと。看護師さんが病院に行ってくれるとのことだったが、「入院になると思うので、家族の付き添いが必要です」と言われた。
いつもの朝の家事を片付け、いそいで調布病院に行った。私がかつてリハビリをしていた病院で、仕事場から近いので通いやすい。そのときはちょっと安心感を覚えた。
診察室に入ると、中央に置いてあるストレッチャーの上に母がいて、点滴の細い管に取り囲まれるようにして寝かされていた。
顔面蒼白、無表情で身動きもせず、まるで生ける屍のようだった。新潟の病院で植物状態寸前になったときのことを思い出して、ゾーッとした。
診察をしてくれた若い男性医師は、休日なので非常勤とのことだった。
コンピューターグラフィックスの肺の映像(すごい!)をもてあそぶように動かしながら、炎症部位はさほど大きくないし、CRP(C-リアクティブプロテイン)値=炎症反応の数値もそれほど高くないと説明してくれた。
「酸素の必要はないでしょう。抗生物質と栄養の点滴をして、数日間は口から食べないで様子を見ます」とのことだった。「今後のことなんですけど、胃漏など、お考えですか?」と聞かれた。
私は医師に「6年半前、母は新潟にいたときに向精神薬で脳をやられ、たった1日で植物状態寸前になったんです。必死にリハビリをして、いったんは不完全ながらも、歩いたり笑ったり喋ったりできるようになったんですが、途中から徐々に徐々に落ちてきて今の状態になりました。この先もレベルダウンしていくと思います。なので、胃漏をするつもりはありません」ときっぱり返答した。
お年寄りが肺炎で入院すると、数日間は食べさせないで様子を見るのが普通なのだそうだ。母の場合は食べる能力をやっと維持している状態なので、食べさせないでいたら能力が落ちてしまう。
「胃漏はしないので、食べられなくなったら死んでしまいます。食べることだけが母の唯一の楽しみですし、それがリハビリになっています。食べる能力を落とさないように、なんとか早めに食べさせてください」とお願いした。
若い医師は、そんな話をとても親身になって聞いてくれたのだけど、「自分は非常勤なので、担当医師から話があると思います」とのことだった。
待合室に行くと、待っていたホームの看護師さんが、「お年寄りって、肺炎になっても熱も出ない、ゼロゼロもしない。気がついたときは、肺全体が真っ白で、もう手遅れということがよくあるんです」と教えてくれた。
「肺炎の程度もそんなにひどくないし、案外簡単に治って、すぐにホームに帰れるかもしれませんね」と言ってくれた。
いそいであんずに電話をして、調布に来てもらった。自宅にパジャマやタオルケットなどの入院道具を取りに行き、ちょうふの里に靴やエプロンなどを取りに行き、前開きの下着を買いに行ったりと、調布の中を行ったり来たりした。
母はゼロゼロと痰がからんで苦しそうだったけど、娘や孫がそばにいるので目がキラキラしていた。なんだか入院を喜んでいるように見えた。
4日、夕方調布病院に行くと、お試しのゼリー食が出ていた。丸一日絶食していたので、母はそうとうお腹がすいているようだった。看護師さんの差し出すスプーンに自分から食らいついていた。
夜、弟と、従妹のトモちゃん、川口のヒロコ叔母に電話。母の入院を伝えた。
病院には看護師さんがたくさんいる。新しい人を見かけるたびに、母の今までの状況を説明しなくちゃならない。
「一見、植物人間のように見えますが、頭はしっかりしていて、ちゃんと理解ができます」「言葉を発するのが大変なので、あまり口をききませんが、必要なことはちゃんと答えてくれます」「耳は遠くないので、小さい声でも聞こえます」「認知症が進まないように、声かけをお願いします」
会う人会う人に同じ話をしつづけるのはとても大変なのだけど、やりつづけるしかないのである。
ホームなら、食事のたびに車椅子に乗ったりの動きがあるけれど、病院では食事もベッドなので、寝たきりの状態になってしまう。放っておけば、関節の拘縮がみるみる進んでいく。直立不動の木彫りの人形のようになってしまったら、車椅子に坐ることもできなくなってしまう。ROM訓練は必須である。 |
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主治医にパーキンソンの薬と胃漏をすすめられた
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11月5日、昼食時に病院へ。柿を持って行ったのだけど、食事も柿も食べられずに眠りこけていた。あん摩で筋肉をほぐしながらROMをした。片腕は点滴をされているので、それ以外の部位で、坐位でのリハビリはしばらくお休みである。
主治医の先生に廊下で呼び止められた。小太りで丸顔で、終始笑顔の愛想のいい男性である。
「ちょうど会えてよかった。私が主治医の清水です。カルテを見ましたら、お母さんはパーキンソンの治療をしていないようですね」と言われたので、「母はパーキンソン病ではなく、レビー小体型認知症です」と言った。
主治医が「レビー小体型認知症も、大きくパーキンソン病に含まれるんですよ。お薬を試してみませんか?」と言ったので、「いいえ、薬は飲ませません。母は6年半前、新潟にいたときに向精神薬で脳をやられ、たった1日で植物状態寸前になったんですよ」と言った。
「お薬が合わなかったんだと思いますよ。今はいいお薬がいろいろ出ていますから、お試しになったらどうですか?」と言われたので、「いいえ、薬のせいでこうなったのですから、向精神薬は一切飲ませません」ときっぱりお断りした。
「非常勤の先生から、胃漏はしないと伺ったんですが・・・」と言われた。
「そうです。胃漏をするつもりはありません。植物状態寸前になった母を必死にリハビリして、いったんは不完全ながらも歩いたり笑ったり喋ったりできるようになったんですが、途中から徐々に落ちてきて今の状態になったんです。この先もレベルダウンしていくと思います。胃漏をしても元気になれる可能性はありません。それどころか、植物状態になるリスクが高いので」と答えた。
「お母さんは、あまり食べられていないようで、ある程度食べられるようにならないと施設のほうは受け入れを嫌がると思いますよ。でも、胃漏をすれば、もとのホームでの受け入れも可能です」と言われた。
「施設にいたときも同じでした。8月ぐらいから、母は2日か3日に1回しか食べられなくなっていたんです。別に『嫌がられる』とは思いませんが」と答えながら、内心、大きな不安が忍び寄ってきた。
「う~ん」と主治医は左手に抱えたカルテの束をめくりながら、「たしかちょうふの里ですよね。ちょうふの里さんがどう考えているのか、聞いてみないと分かりませんが」とちょっと首をかしげながら、「胃漏をして施設に戻るか、中心静脈の手術をして長期療養型の病院に移るか、どちらかしかありませんよ。ここは急性期の病院ですからね」と言ったあと、ニタッと笑いながら、「さもなければ、ご自宅で面倒を見るしかありませんね」とつづけた。
『ニコニコ笑いながら、私を脅している』と感じた。言うことを聞かなければ自宅に引き取る羽目になる、そうなると困るでしょ、と言われているように感じた。
「だったら、早めに食べさせてください。食べる能力がなくなったら困るんです。このままだと、肺炎で死ぬか、飢え死にするかの、どちらかですよね」と私が言ったら、主治医は、「そうですね~」と答えた。
「この状態だと、年内ですかね?」と私が聞いたら、主治医はまた「そうですね~」と答えた。
いったん仕事に戻って、夕方また病院に行った。母は赤い顔をして寝ていた。昔山田真先生の八王子中央診療所に置いてあったパンフレットを思い出した。
「子どもが高熱を出したとき、真っ赤な顔でフーフーしていたら、それは発熱による自然な反応なので心配ありません。もしも高熱があるのに顔色が青かったら、肺炎の可能性があるので、すぐに病院に連れていってください」と書かれてあった。
ちょっと安心して、あん摩でほぐしながらROMをした。
とりあえず、ゼリー食が開始になった。プリンを半分に切ったぐらいの大きさの、白いゼリー、黄色いゼリー、緑のゼリーに、茶色い「とろみ」のお茶である。
「不味いけど、がんばって食べてね。ゼリー食を食べて実績を上げないと、食事のレベルを上げてもらえないんだよ。全部食べたら、焼きおにぎりをあげるからね」と母に言い聞かせて、口に運んだ。
母は素直に食べてくれたので、焼きおにぎりを食べさせた。
その話を聞いた患者さんが、「そうなのよね~、女の人のほうが我慢をしてくれるのよね。うちの父なんか、いくら言っても頑固で、絶対に自分の意志を曲げないの。ほんとうに苦労したわ。母のほうが言って聞かせればちゃんと我慢をしてくれた。女の人は我慢をし慣れているから、介護が楽なのよ」と言った。
人にもよるのだろうけど、なるほど!と思った。母が状況を理解してくれ、協力してくれたことがほんとうにありがたかった。 |
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母を在宅で看取る決心をする
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11月6日、夕方病院に行ったら弟が来ていた。母は嬉しそうだった。ROMのあと夕食を食べさせた。その夜は3分の1しか食べられなかった。
弟はホテルに車を置いて来たそうだ。その夜は泊まって、また明日も来ると言うので、居酒屋で飲むことにした。弟は西調布まで歩くという。私はいったん家に帰ってバイクを置いて自転車で出かけた。
居酒屋に着くと、弟が先に飲んでいた。弟が「胃漏とかはイヤだなあ」とつぶやいたので、「でしょ。私もそう思うの」と、それまでの医者とのやり取りなど、母の現状について報告をした。
弟が自分を「善人」と思っていることが分かり、ちょっと安心した。久しぶりに姉弟らしい、なごやかな時間を過ごした。
7日、昼食時に病院へ行ってROMをした。弟は先に来ていた。食事の前に、母に、「焼きおにぎりをつくってきたよ。味噌と醤油とどっちがいい?」ときいたら、「味噌」と一言。「ゼリー食を食べたら、焼きおにぎりをあげるからね。病院の食事を完食しないと、お粥に出世できないからね。不味くてもがんばって食べてね」と、また母に言い聞かせた。
母はゼリー食を完食し、味噌の焼きおにぎりをちょっとだけ食べた。母に「何か食べたいものある?」ときいて、「プリンとか、ヨーグルトとか、水羊羹とか、モンブランとか・・・」と並べたら、いきなり「モンブラン」と答えた。「じゃあ、明日買ってくるね」と母に言った。
「そろそろ行くね」と私が言うと、弟も「じゃ」と立ち上がった。母に「ほら、トシカツが帰るって。『また来てね』とか言わないと、もう来てくれないよ。何か言いなよ」としつこく迫った。
母はボソッと一言。「またね」とは違う。「え、何て言ったの?もう一度言って!」とくり返したら、「来週」と言った。
弟に「母ちゃんが『来週』って言ってるよ」と言うと、「う~ん、来週か・・・」と考え込み、「検討します」と答えた。
驚きの発見である。母は自分が東京で、弟は新潟で、仕事をしているから週末にしか来られないことなど、現実をしっかり認識できていたのだ。
8日、母は痰を引かれたあとで、とても苦しがっていた。リハビリのあと食事をさせようとしたけど、まったく食べられなかった。看護師さんによると、食べられる日は全量だそうだ。母は私の話をちゃんと理解してくれ、私がいないときでも、不味いゼリー食を食べてくれていたのである。
9日、あんずを調布駅に迎えに行き、一緒に病院に行った。ROMのあと、あんずが買ってきたモンブランを3さじだけ食べた。
また廊下で主治医に会った。主治医は「ここは急性期の病院なので、最長でも20日間ぐらいしか入院できません。この食事の量だとホームに戻れません。胃漏にしなければ、長期療養型の病院に転院するか、さもなければ自宅に帰るしかありませんよ」と、相変わらずニコニコ笑いながら言った。
私は「ゼリー食は不味いので、このままだと食べる意欲を失くしてしまいます。ちょうふの里では、お粥と粗刻みのおかずを食べていたんです。食べる能力を落とさないように、早くご飯に変えてください」とせっついた。
「ご飯にするのは今日の夕食からでも可能ですが、誤嚥を起こすと困るんです。また肺炎になるかもしれませんからね」と主治医が言った。
「食べないと飢え死にするんですから、早くご飯に変えてください」と私は重ねてお願いした。
お年寄りの入院に際しての、病院の制度、医師の取り組みは、「冷酷」であるとすら言える状況だった。
肺炎と見るや「誤嚥」と思い込む。口からの食事を摂らせない。食べられなくなったら、胃漏か中心静脈の手術をすすめる。胃漏をしないとホームに戻してもらえない。「だったら自宅で」と言われてしまう。
入院したら絶体絶命、「延命治療」行きのベルトコンベアーに乗せられてしまうのだ。保険点数を下げても、どうしても胃漏が減らない理由がよく分かった。
母に延命治療をさせないためには、自宅に連れ帰って、在宅で看取るしかない、そう覚悟を決めた。
主治医の言う「ちょうふの里で母の受け入れを嫌がる」について、本当のところはどうなのか、施設の真意を聞きたいし、在宅介護にそなえてのアドバイスもお願いしたいと思った。ちょうふの里に電話をして、翌日の面接を約束した。
夕方また病院に行った。母の筋肉の硬直は半端じゃないのだが、あん摩とROM訓練をやったあとはきれいにほぐれてくれた。気血の巡りをよくするので、肺炎にも効果があるかもしれない。毎日やっているおかげで、母の顔色はみるみる良くなっていった。『病気になると、みんなが心配して来てくれる』と、内心喜んでいるんじゃないか?と疑ったほどである。
ROMを終わったあとに夕食が運ばれてきた。主治医をせっついた効果があって、その日の夕食から母の食事はお粥になり、副食は刻みに出世していた。 |
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ちょうふの里に相談に行く
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11月9日、あんずと待ち合わせて病院に行った。簡単なROMのあと、2人でちょうふの里に面談に行った。
相談員のSさんは「報告に来てくださってありがとうございます。そろそろ様子を見に行こうかなと思っていたところなんです」と言った。
状況をざっと説明したら、Sさんが「ご飯にしてもらったというのは、すごいことですよ!」と、とても喜んでくれた。
「主治医の先生が、あまり食べられていないようだから、この食事の量では施設のほうも受け入れを嫌がるでしょう、そう言ったんですけど、施設のお考えはどうなんですか?」とたずねた。
Sさんは「もとからあまり食べられなかったんですから、全量食べられないとダメということはないんですよ。肺炎が落ち着き次第、こちらに戻ってもらって、食べられるようにもうちょっとがんばりたい。そういう気持ちです」と答えてくれた。「でも、主治医が退院許可を出してくれないと、どうしようもないんです。ホームのほうでへたに動くと、医師はプライドが高いし、今後の関係がこじれてしまう可能性があるんです。でも間に人を入れて、それとなくお願いしてみましょう」とのことだった。
なるほど、医師は絶対の権力者なのだ。医師が退院許可を出さないとホームに戻ることができないのだ。
胃漏をしてホームに戻るか、もしくは中心静脈の点滴を選んで長期療養型の病院に転院するかのつらい選択を迫られ、「延命治療はされたくない」という、お年寄り本人の願いは無視されることになるのだ。
Sさんに、「胃漏も点滴もしたくないので、最後は在宅で母を看取ろうと思っているんです」と伝えた。
彼は「え~っ!自宅に?あの都営住宅で、面倒をみれるんですか?仕事もしているんでしょう?」と驚いた。「私はここに勤務して10年になるんですけど、自宅に帰った人は、この10年間で3人しかいないんですよ。お母さんが自宅に帰られたら、それはすごいことですけど」と言った。
「胃漏はしないとおっしゃっているから、関係ないとは思うんですけど、一応、説明させていただきます」と、数枚のパンフレットを渡された。
胃漏にも、感染症など、かなりのリスクがあるそうだ。胃漏が合わなくて、結局、取り外すための再手術ををした人もいたそうだ。
ちょうふの里は「看取り」をやっていないので、いよいよのときは退所になり、ほとんどの人が長期療養型の病院に転院していくそうだ。
転院するためには、胃漏か中心静脈の手術をしなくてはならないので、たいていの人は中間策として、中心静脈を選ぶそうだ。
転院してしばらくは中心静脈からの高濃度輸液で栄養補給をし、「もう最後だな」となってから、点滴に切り替え、そこで死を迎えることになるそうだ。
Sさんは、「とりあえず言っておきますけど、もしも胃漏をした場合は、口からの食べ物は一切禁止になります。水も食べ物も一口も食べさせることはできません。このことだけはご注意ください」と忠告してくれた。
それを聞いて私は呆然とし、ますます胃漏を拒否する決心が固まった。
「母の場合、食べられなくなったら、どんどん認知症が進んでしまうでしょう。遠方の病院に入院となったら、私も思うようにリハビリに通えなくなります。あっという間に全身の関節が硬直して、木彫りの彫刻のようになってしまうでしょう。私のそばから離れたら、植物人間になってしまうんです」と言った。
かつての病院勤務のときに、身体が伸びきったまま硬直した患者さんをたくさん目にした経験がある。
老人医療や介護に関する本も読んだ。末期の患者への点滴に警鐘を鳴らしていた。点滴で大量の水分を体内に入れると、身体が水ぶくれになるそうだ。水分が少ないと「枯れて死ぬ」ことになり、楽に死ねるのだそうだ。水分が多いと「溺れ死ぬ」ことになり、ものすごく苦しむのだそうだ。
Sさんは、「在宅介護は過酷ですよ。施設にいてもうダメかなと思ったお年寄りが、自宅に帰ったとたんに元気になって、介護が半年以上になった例を知っています」と心配そうだった。
「でも、母には胃漏も点滴もやりたくないとなれば、自宅で看取るしかないんです。それしか選択肢がないんです」と私の決意を伝えた。「また正念場が来るときのためにと、この2年間、そちらにお任せして楽をさせてもらったので、充電はばっちりです。大丈夫です」と言ったら、「そう言ってくださると嬉しいです」と、Sさんが頭を下げてくれた。
在宅介護については、ちょうふの里と自宅では管轄のエリアが異なるとのことで、「いろいろ調べてから教えてさしあげましょう」と言ってくれた。
 ちょうふの里を出てから、あんずと2人で調布駅に向かい、父の妹(秋田の叔母)と娘のトモちゃんをピックアップ。調布病院に行った。
私がROMをしている間、叔母はいろんなことを母に話しかけてくれた。母は目をつぶったまま、ずっと無言で聞いていた。
叔母が私に、「あんたのお父さんは若い頃に結核をやって、片肺がないでしょ。これじゃあ結婚は無理とみんなであきらめていたら、お母さんが現れて。兄のことを大事にしてくれて、家族みんなでお母さんにはほんとうに感謝しているのよ」と、昔話をしてくれた。
なるほどと、いろんなことに合点がいった。
母が父の実家に行っても自分の実家と同じく、着いたとたんに白い割烹着を着て、台所を磨きはじめる。ガス代から電気釜から冷蔵庫から、ありとあらゆるものをピカピカに磨き上げたのだ。遠慮なく意見を言い、けっこう仕切っていたことを不思議に思っていたのだけど、そういう経緯があったのか!と腑に落ちた。
途中で夕食の時間になった。持って行ったいくらをお粥の上にのせてあげたら、母は美味しそうに完食した。
帰りがけに、「母ちゃん、せっかく来てくれたんだから、目を開けて顔を見たら?挨拶とか、しなくていいの?」と母に話しかけた。
母はパッと目を開けた。無言だったけど、目でお礼を言っているのが分かった。2人のことをちゃんと認識し、状況を理解していたのである。
病院を出てから4人でパルコの中華屋で食事をした。「お母さんのこと、よろしくね」としみじみと言われた。お年寄りはみなさんそうなんだけど、明日は我が身で、心の底から親身になって共感してくれるのである。 |
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心の「地獄」、そして「天国」
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11月11日、午前中に調布病院の相談員さんから電話があった。「そろそろ転院していただく時期なので、転院先の病院を紹介させていただきたいと思いまして」と言われたので、「転院はしません。自宅に連れて帰るつもりです」と話して、面談の予約をした。
夕方病院に行き、ROMのあとで夕食介助をした。完食だった。主治医に会いたいと看護師さんに伝えたところ、忙しいので面会の予約をするようにと言われた。なんと、4日後でないと会えないそうである。
家族が入院しているのに、医師が不在の場合ならともかく、病状を聞きたいとお願いして「忙しい」を理由に断られたのは初めてである。老人はなおざりにされている、と感じた。
12日、朝調布病院から「大部屋があいたので移れます」という電話が来たのだけど、このまま2人部屋でとお願いした。どうせあと数日のことだ。差額ベッド代を払いつづけたほうが、母に対する待遇がいいのでは?と思ったからである。それに、大部屋よりもリハビリがやりやすい。
長男が孫を2人連れてきたので、昼に病院に行き、ROMをしながらお喋りをした。母は喜んでずっと目を開けていたけど、昼食は一口も食べられなかった。持って行ったヨーグルトも「いらない」と断られた。
夜、弟から電話があった。「明日行くさ」と言うので、「ちょっと待って」と仕事のスケジュール帳を開いた。「明日は仕事が忙しくて、夕方遅くしか時間が取れない」と言ったら、弟が「明日はドライブさ!」と言った。
「えっ、ドライブ?」と聞き直すと、「そうさ、東京にドライブさ。母ちゃんのところにもちょっと顔を出すけど」と答えた。
「じゃ、私が行く必要はない、ってことね」と言うと、「そう」と弟が答えた。
親が死にかかっているときに「ドライブ」とは、いやはや呑気なものだなあと思ったけど、嫁を説得するために、遊びとコラボさせたのだろう・・・と推測した。
 13日、夕方に母のところへ。ROMの間も、終わったあとも、ゼロゼロと痰がからんで、とても苦しそうにしていた。
「今日弟が来たんでしょ?」と聞いても、「弟1人?サッチーも来たの?」と聞いても、何も答えられなかった。目がらんらんとして、何か言いたげで、何度も声を出そうとしていたけど、声を出せなかった。
夕食が運ばれてきたけど、痰がからんでゼロゼロと苦しそうで、一口も食べられない。看護師さんが「痰を引きましょうか?」と言ってくれた。痰を引いたあとは苦しがって食べられなくなる。でも痰がからんでいると食べられない。さんざん迷ったのだけど、看護師さんを呼んで痰を引いてもらうことにした。やっぱり苦しがって、結局は食べられなかった。
弟夫婦の「ドライブ」が原因らしい。自分が死ぬのを待っている女がやって来て、冷酷なまなざしで自分を見ていた。不安や絶望は苦痛を増大させる。母は「地獄」に突き落とされて病状が悪化したのだと思う。
母があまりにも苦しそうで怖い顔をしているので、『このまま死ぬのかな・・・』と思い、怖くてたまらなくなった。
仕事のあとだったので疲れ果てていた。母のベッドに横になって、「母ちゃん、まだ死なないでね。苦しいだろうけど、もうちょっとがんばってね」「胃漏もしないし、点滴もしない。最後はうちに連れ帰って、うちで死なせてあげるからね。だから、もうちょっとがんばってね」と母に話しかけた。
母の目にきらりと微笑みの影が浮かんだ。私のことを「お前は心が冷たい」と嘆き、不満に思っていた母である。いつもクールな私が感情的になったので、母に心が伝わったようである。
人に迷惑をかけることをもっとも恐れていた母が、誰かの助けがなくては身動きもままならなくなって何年もたった。そんな自分でも、まだまだ娘に必要とされていると、喜んでくれたみたいだった。心の「地獄」から一気に「天国」へ。ゼロゼロは相変わらずつづいていたけど、母の表情が穏やかになったのが分かった。
後ろ髪を引かれる思いで病室をあとにした。
死にかかった母と2人きりは精神的につらいので、あんずにメールして、翌日に来てもらうことにした。 |
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調布病院の相談員と面談し、退院許可がでた
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11月14日、午前11時に調布病院の相談員との面談だったので、早めに行って母のROMをした。
相談室に入ったとたん、相談員の男性が「私の役目は、転院先の長期療養型病院を紹介することなんです」と、私に数枚のパンフレット渡しながら言った。
事前の電話で自宅に引き取るつもりであることを伝えてあったのだけど、あまり本気にしていなかったようである。
パソコンに向かって、「ほら、お母さんはあまり食べられていませんよね」と、食事の量のデーターを私に見せた。「ですので、ホームに戻るのは無理と思います。ここは短期の病院なので、長期療養型に転院していただくことになります」と言った。
私が「長期療養型へは行きません。電話でも言ったように、自宅に連れ帰るつもりです。胃漏も中心静脈もやりたくないし、点滴もいやなんです。病院には行きません」と言うと、相談員はとても驚いた。
植物状態寸前にになったときのことから始めて、それまでの経緯をざっと説明した。6年間の母の闘病生活のこと、ほとんど身動きもできない状態が何年もつづいいたこと、もう限界なら、そろそろ楽にしてあげたい気持ちもある・・・
眼鏡の男性相談員は私の話を親身になって聞いてくれた。
「8月に激痩せしてから、2日か3日に1回しか食事を取れなくなっていたんです。ちょうふの里にいたときと、食事の量は同じなんです」と言うと、「たしかに、1日3回全量を食べている日と、3食全く食べられない日がありますね」と相談員が言った。
私は、「母は自分のことがよく分かっているんです。食べられるときには食べますが、食べられないときは決して口を開けません。食べられない状態のときに食べてしまって喉に詰まらせる心配がないんです。
「母の状態で胃漏をしても、元気になれる見込みはゼロですし、逆に、あっという間に植物人間になってしまいます。それではあまりにもかわいそうです。なので、胃漏も中心静脈もするつもりはありません。自宅に連れ帰って、うちで自然に死なせてあげるつもりです」
そう相談員に決意を伝えた。
つづけて、「実は4日前にちょうふの里に相談に行ったんですが、その食事の量でも受け入れOKで、また食べられるようにがんばりたい、そう言ってくれました。調布病院からそのまま自宅に退院したら、介護するのはこの私だから、たぶん数週間で死んでしまうでしょう。いったんホームに戻れれば、職員さんたちは介護のプロだから、もしかしたらもう数カ月、何とかなるかもしれないんです。ですので、いったんちょうふの里に戻してもらって、いよいよとなったら自宅に連れ帰る、そういう方向でお願いしたいんです」と言った。
相談員は、「なるほど」とうなづき、「実は、ちょうふの里さんが何度か様子を見に来てくれて、いろいろとお話したんですよ。こうなったら、病院に長くいてもいいことはありませんね。1日も早く退院できるように、主治医と話してみます」と言ってくれた。
病室に戻って、母にその話をしながらROMにつづきをやった。運ばれてきた昼食は完食。気持ちが活気づいたようだ。
午後、調布駅にあんずを迎えに行った。お茶をしながら話をしている最中に、ちょうふの里の相談員さんから電話があった。主治医の退院許可が出たとのことで、退院の日程を決めた。
病院に戻って、母に退院が決まったこと、ちょうふの里に戻れることを話した。ROMのあと、母は夕食を完食し、あんずが持ってきたモンブランも3分の2ほど食べることができた。
15日、簡単なROM。母はずっと眠っていたけど、なんとなく元気そうだった。
16日、あんずと待ち合わせて一緒に調布病院へ。主治医と話すことになり、あんずも同席した。パソコン画面を見ながら主治医が言った。
「お母さんの肺炎は、ほら、この通り、大きくなったり小さくなったり、毎日変化しているんですよ。今は肺炎のほうは一応治っていますけど、食べるとまた誤嚥を起こして肺炎が悪化するかもしれません。そしたら、すぐにまた入院ということになるかもしれません。どうやら食事を取れた日に大きくなっているようで、関連性が感じられるんですよ。
「でも、退院するなら今がチャンス。これを逃すと、いつ退院できるか分からなくなるので、できるときに退院しましょう」と、にこにこ笑いながら、退院許可を出してくれた。
あんずは「なんだ、いい人じゃん」と感想を述べた。ROMのあと食事介助。あまり食べられず、モンブランもだめだった。 |
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調布病院を退院し、ちょうふの里に戻る |
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 11月17日、10時半に退院予定なので、調布病院に行き、退院の手続きをした。ホームの人が母を迎えに来ることになっていたのだが、多摩川病院から退院する利用者がいるので、そちらに寄ってからになるそうだ。
母の着替えなどを持って、先にひとりでホームに向かった。3階に行くと「退院おめでとうございます」と職員さんたちが挨拶してくれた。まだまだ時間がかかりそうだったので、出直すことにした。
テニスをやってから4時にホームに行った。あん摩をしながらROM。腕に点滴がないので、久しぶりに坐位でのROMもできた。
母に「どうする?車椅子に乗って食堂に行く?それとも、少し横になって休む?」ときいたら、「もう少し寝たい」と答えたので、ベッドに寝かせて居室を出た。
その話をしたら、「そういうことがちゃんと言えるなんて、すごい!」と、職員さんたちがみんなで盛り上がってくれた。
相談員のKさんが、「お母さん、お昼ご飯を食べられたんですよ~ お粥を全量と副食も半分以上。すごいです」と大喜びで報告してくれた。
「それに、体重も入院前が28キロで、退院後も28キロで、ぜんせん減っていないんです。横ばいというのはすごいことですよ」と言った。
私が「でも、病院で点滴をされてれば、栄養は足りるんじゃないんですか?」と聞くと、「点滴だけではどうしても体重が減少するんです。これも娘さんのがんばりのおかげですね」と賞賛してくれた。
母の担当のUさんが「身体がぜんぜん硬くなっていないんで、驚きました」と言ってくれた。「普通は硬くなるんですか?」と聞いてみたら、「病院ではずっとベッドに寝かされるので、退院したあとは車椅子に坐らせるのが大変になるんです」とのことだった。
私もそのことを危惧していたので、毎日通って、1日1回2回と、あん摩とROMをやりまくったのである。そのおかげで、かえって入院前よりも身体が柔らかくなっていた。
Kさんが「これからは私たちに任せて、しばらくゆっくり休んでくださいね~」と言ってくれた。
ほんとうに、へとへとに疲れ果てていた。2週間の全力疾走は死ぬほど大変だったけど、それに見合う成果が出せた。しかも、職員さんたちが私の努力を分かってくれて、喜びを分かち合ってくれたので、苦労が報われた思いだった。
弟に電話をして、母が退院してホームに戻ったことを報告した。
「今回は胃漏をしないでちょうふの里に戻れたけど、延命治療をしないとなると、自宅に連れ帰るしかなくなってしまう。最後は在宅で母を看取ることにしたから」と伝えた。
弟は驚いて、「え~、そんなの無理だろう!おしめなんか換えらんねえろ~」と叫んだ。「やるわよ。オムツぐらい、誰だって換えられるわよ」と答えた。
特養でリハビリをしているサクラさんに母の退院の報告をしたら、「よく、胃漏をしないでホームに戻れたわね~!」と感動してくれた。実情をよく知っているので、「みづさん、奇跡を起こしたのね!」と絶賛してくれた。
でもその喜びも束の間で、たったの4日で再入院になったのである。 |
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18ページ目へつづく |
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Updated: 2024/1/31 |
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