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 母のリハビリカルテ 8 - 2011年 9~12月 -
 <上昇気流に乗った母に褥瘡が待ったをかけた>
普通のヨボヨボのおばあさんぐらいに回復
新潟での3日間はゾンビ状態だったけど、そのあと母は格段に元気になった。家の心配もなくなった。往復のドライブを楽しんだ。新潟まで行けたことで自信がついたのかもしれない。守られている安心感を持ってくれたのかもしれない。
ROM訓練と歩行訓練はほぼ毎回行い、好きな食べ物を運ぶこと、できるだけ外食に連れ出すことなど、必死のリハビリをつづけた。
青樹の理学療法士さんたちもみなさん優しくて協力的だった。自宅がエレベーターのない3階にあると話したら、「では家に帰れるように」と、階段昇降のリハビリもやってくれるようになった。若い男性と腕を組んで、お喋りしながらニコニコ笑顔で歩いている母を何度も見かけた。歩行能力が安定していった。

1年前に、向精神薬が脳に大津波を引き起こし、母は植物状態寸前になった。脳が破壊され、ジグソーパズルのピースのようにバラバラに分解され、ごちゃごちゃに絡み合い、母の脳は混とんとしていた。
だんだんにピースそのものの損傷が修復されていき、ピース同士も連携ができるようになっていったのだろう。身の回りのことへの現実認識が向上して、認知能力が安定していった。
まだ車椅子の上では坐位を保てず、よだれを垂らして眠りこけている時間もあったけれど、「一見して、脳障害のある人」から、ちょっとヨボヨボした「普通の病気のおばあさん」に見えるぐらいになったのである。
はじめての部分入れ歯
9月4日、母を連れてオスカーで食事。ホットサンドを食べている途中で、母が手の平に歯を3本吐き出した。下の前歯が3本一緒にゴロリと抜け落ちてしまったのだ。噛むのが難しくなって、半分食べるのがやっとだった。
(母は身の回りのことに注意深いので、抜けた歯を飲み込んだことはない)

7日、看護師さんが「お母さんに、よだれが出ないようにしてほしいと言われたんですよ」と教えてくれた。恥ずかしくてたまらないのだろう。人目を気にするようになったことは進歩である。目ヤニも自分で取ったらしくきれいだった。
ROM訓練のときは痛がって、痛がって、大変だったけど、そのあとの歩行訓練では気合が入っていた。

9日、あんずと一緒に母を連れて回転寿司へ行き、そのあと野原歯科へ行った。母の口の中をのぞいた先生が「歯がだいぶ抜かれているね」と言った。
母は口を大きく開けられないので、先生が「お母さ~ん、もっと口を大きく開けて~」と何度も声をかけていた。部分入れ歯を作るために型を取った。健常人でも苦痛なことだけど、母はなんとか難関をクリアした。

12日、青樹に来ている訪問歯科に直接電話をかけて、「母の歯に関しては主治医がいるので、私の了解なしに抜かないでほしい」と伝えた。

16日、あんずとヨーコが来てくれて、母を連れて野原歯科へ。この日は普通のおばあさんのようだったので、先生が「ずいぶん元気になったね!」と喜んでくれた。
先生は「普通は入れ歯の調整に何度か通ってもらうんだけど、お母さんの場合は来るのが大変だから、一発で調整しましょう」と言って、誇らしげに胸を張った。
入れ歯のつけはずしのやり方を教わって練習をしたけど、えらく難しい。
そのあと4人で馬車道に行った。入れ歯のおかげで、母は調子よくパスタを噛んでいた。

19日、母に「入れ歯の調子はどう?」ときいたら、「何の違和感もない。ばっちりだ」と答えた。昔治療に来たときに、野原先生が「入れ歯の細かい調整が好き」と言ったことがあったのだけど、まさに「好きこそものの上手なれ」だ。そのうえ夫婦そろってお年寄りに優しくて、とても親身になってくれるのである。

22日、栗を茹でて持って行ったら大喜びで食べた。母の大好物なのである。

26日、母は固まっていて、涙と鼻水がダラダラ垂れていた。

27日、母は固まっていた。リハビリのあと、持って行ったおはぎを夕食のときに食べさせた。母が「冷凍されて、解凍された」と言った。表現力が豊かである。

28日、3日つづけて行ったおかげか、母がまあまあ元気だったので、車に乗せてイトーヨーカドーへ行った。介護用品のお店で靴とズボンを買ったあと、フードコートでたこ焼きとタンメンを食べた。帰りの車の中でもクルミパンを半分食べた。

30日、夕食時に母のところ行ったら嬉しそうだった。自力で食べるのは難しい状態だったけど、持って行ったおにぎりは手で持ってパクパク食べた。
車椅子用の背もたれと最高級のエアマットを購入
10月3日、クルミパンとサンドイッチを買って行った。母は喜んで食べた。

6日、ROMと歩行訓練。

10日、ポプラと一緒に行った。母は「ちょうどいいところに来た。連れ出してちょうだい」と言った。「そこらじゅう、親戚と身内ばかり」「法事があるらしい」と言った。「ここは閉鎖になる」と、きっぱり強気で言い張った。
車に乗せてうちに連れて行ったけど、3階まで階段を上がるのは大変と思い、団地の前の野川の遊歩道を散歩した。母は元気で、足取りもしっかり、よく歩けた。
ベンチに座って上半身だけROM訓練をしたあと、回転寿司に連れて行った。母は「とにかく、ホームには帰らない」と言い張った。ポプラを見ると家に帰りたくなるらしい。

13日、リハビリのあと、食事介助。

18日、母は「歯が抜けた」と言った。

19日、野原歯科へ母を連れて行って、抜けた歯を診てもらった。そのあと一緒に回転寿司へ。ハサミを忘れて行ったのだけど、板前さんが半分に切ってくれた。母は手でお寿司をつまんで、お醤油も自分でつけて食べられた。

20日、ROMと歩行訓練。身体が傾かないように支えるための背もたれと、車椅子に敷く座布団(最高級のエアマット)を注文した。
サクラさんに相談したとき、「ご家族の経済状況を考えて、いつも中ぐらいの値段のものをおすすめしちゃうのよね。でも結局、もっといいものをすすめておけばよかったと、あとで後悔しちゃうのよ。ものすごく高いけど、空気圧を自動で調整してくれるエアマットが最高よ」とアドバイスをしてくれたのである。
一日中坐っている母のために一番いい選択をしようと思った。車椅子の背中に装着する背もたれが2万円ぐらい、エアマットが3万円ぐらいで、合わせて55077円を支払った。こういうところにこそお金を使うべき、と思ったのである。
(でも、もっと早い段階で言ってほしかった。半年以上も前から母は「お尻が痛い」と訴えていたのだもの)
第四銀行の通帳を再発行
10月24日、市役所に行って、私の家に母の住所変更をして、印鑑証明書を作った。そのあと母のリハビリをして、夕食介助をした。

26日、母と車椅子をのせ、車で第四銀行の池袋支店に行った。入ってビックリ。驚くほど狭くて、小さな箱のような部屋だった。母を車椅子に坐らせて、窓口で「すみません、通帳の再発行をしたいんですけど」と職員に声をかけた。
1年前にみずほ銀行で通帳を作った頃と比べると、母はちょっとヨボヨボした普通のおばあさん程度に見える。脳障害の人を騙していると疑われずにすみそうである。
いぶかし気な銀行員に、「去年の夏に母が新潟で入院したんです。それで東京に連れてきたんですけど、引っ越しのどさくさで、カードも通帳も印鑑も、大事なものを入れた段ボールをそっくり失くしちゃったんです。さんざん探したんですけど、どうしても見つからないので、再発行をお願いしたいんです」と、思いっきり明るく嘘をついた。

職員に「どこの支店ですか?」ときかれて困った。想定外である。大丈夫かな・・・と不安にかられた。母の方を見ると、「う~ん、どこだったかしら?鳥屋野かな?江南かな?」と、困ったように首をかしげている。
銀行の人が調べてくれて、「女池支店でした」と教えてくれた。(今にして思えば、母の反応はとても普通で、何の問題もなかった)
「ここにサインをお願いします」と、書類を3枚も渡された。母は無事にサインを3つも書くことができ、通帳とカードの再発行はあっけなく完了した。
本当のことを言いたい自分、『実は弟が通帳を渡してくれないんですよ』と、悪口を言いたくてたまらない自分を必死で抑え込んだ。母は内心そのことを一番恐れていたと思う。悪口なしでスムーズに事が運んでさぞかしホッとしただろう。

銀行を出たあと、母に車椅子を押させて池袋の町をうろうろした。「何が食べたい?」ときいたら、母が「パスタが食べたい」と言った。イタリアンレストランに入ったんだけど、自分では食べることができなかった。そうとう緊張したらしい。
母にパスタを食べさせながら、『かわいい!』と思った。まるで保育園児の世話をしているよう。世話をすればするほどかわいく思えてくるのが人情なんだな・・・とつくづく実感した。逆に言うと、何もしない人は愛情が増えることもないのだろう、ということだ。

28日、夜に青樹に行ったら、母はまあまあ元気だった。池袋の第四銀行で大役を果たしたあとだったけど、脳もだいぶ丈夫になったらしい。歩かせて部屋に連れて行った。
お尻に褥瘡ができていた
11月1日、リハビリのあと、青樹の看護師さんに呼び止められた。お尻の傷が悪化して褥瘡(床ずれ)になっているので、慈恵医大へ行って診察してもらってほしいと言うのである。
就寝時間以外、母はずっと車椅子に坐っていた。「寝かせておかない」方針で、とてもありがたいのだけど、ほとんどの時間微動だにせず坐っていたおかげで、お尻に褥瘡ができてしまったのだ。春ぐらいから、私が行くたびに「お尻が痛い」と訴えられ、そのたびに母を持ち上げて体位を変えてあげていた。お尻にガーゼが当てられていたのは知っていたけど、ガーゼをはがして傷口を見ることはしなかった。私の仕事はリハビリで、傷は管轄外だったのだもの。

8日、車で母を慈恵医大へ連れて行き、形成外科で褥瘡の診察をしてもらうことになった。待ち時間が長かったので、合間に病院のレストランで食事をした。
この日は入れ歯が入っていなかった。母の入れ歯は入れるのが難しい。青樹の職員さんにも、できる人とできない人がいるそうだ。入れ歯を手渡されたのだけど、私にはどうしても入れられなかった。前歯で噛めないので、サンドイッチをハサミで切って口に入れてあげた。
医師は「褥瘡はそんなに深くなさそうだから、塗り薬で溶かせるでしょう」とのことだった。青樹の看護師さんに報告したら、ホッとした顔をしていた。

10日、お尻の褥瘡のためにベッドで寝かされている時間が長くなった。そのせいか、だいぶレベルダウンした感じだった。

13日、ポプラが来てくれ、母を連れてオスカーで食事。「美味しかった」と母は喜び、「ポプラがいるからホームに帰らない」と言った。

15日、あんずとヨーコが来てくれ、母を連れて慈恵医大へ。「3人いると楽だね~」と言い合った。入口で母を下ろし、1人が母を支えて歩かせる。もう1人が診察券を持って窓口に走り、もう1人が駐車場に車を入れる。おおいに時間の節約になるのだ。
この日は褥瘡をハサミで切り取るとのこと。こっちもハラハラしたけど、母はそうとうショックを受けたらしい。「ご飯を食べられない」と言ったので、そのまま帰ることにした。私を仕事場に送ってくれたあと、ふたりで母を青樹に送り届けてくれた。

17日、あんずとヨーコが来てくれ、母を連れて慈恵医大でMRIを撮った。母が「まだホームに帰りたくない」と言ったので、パン屋さんで軽食。パンとコーヒーでお茶をした。
青樹に戻ったら、看護師さんに呼び止められ、「歯が欠けたせいで、入れ歯が合わなくなって入れられないので、おかゆさんにさせてもらいました」と言われた。

18日、野原歯科へ母を連れて行った。保険では半年間、新しい入れ歯が作れないのだそうだ。「増歯ということで、なんとか修理しましょう」と、歯の形状に合わせて調整をしてくれことになった。
歯が欠けたり抜けたりと、口腔内がどんどん変化していく。入れ歯が合わなくなると、すぐに「おかゆに」と連絡が来る。すぐに歯医者に連れて行って入れ歯を直し、「ご飯にしてください」とお願いする。そんなことがこの先もえんえんとつづいた。母はおかゆが好きじゃないし、噛む力が低下すると困るのである。

20日、母の妹(川口のヒロコ叔母)夫婦がお見舞いに来てくれた。調布駅で待ち合わせて、車で青樹に行った。母はあいにく微熱があってベッドで寝ていた。褥瘡の炎症のせいとのことだった。

24日、母を青樹に迎えに行き、調布駅であんずを拾って、一緒に慈恵医大に。MRIの結果、褥瘡が深くて骨の近くまで達していたことが判明したので、手術が必要と言われた。手術前の検査をし、入院手続きをした。
待ち時間に弟に電話をした。褥瘡の手術をすることになったことを話し、母に電話を代わった。母は「たまには寄ってください」と弟に言っていた。

26日、入れ歯の修理ができたので、野原歯科へ母を連れて行った。私が「どうしても母の入れ歯を入れられない」と言ったら、母の下あごが狭いので入れ歯の着脱が難しいのだそうだ。「上あごの入れ歯なら簡単なんだけどね」と言う。またやり方を教えてもらったけど、できそうな気配もない。
青樹に母を送り届けて、「入れ歯が直ったので、おかゆからご飯に戻してください」とお願いした。
慈恵医大に入院し、褥瘡の手術を受けた
12月1日、青樹を退所して慈恵医大に入院。朝早くヨーコが来てくれ、8時半過ぎに青樹に母を迎えに行った。母の荷物をぜんぶ引き取って車に積み、10時ちょっと前に慈恵医大に行った。あんずも合流した。緊張感からか、母はトイレでジャージャーおもらしをした。
おむつは自前とのことである。3人で近所の薬局に買いに行き、そのまま華屋与兵衛に行って食事をした。私は風邪を引いていたので、家に送ってもらって寝させてもらい、あんずとヨーコが病院に戻ってくれた。

2日、褥瘡の手術の日である。私はバイクで、あんずとヨーコは車で、3人で慈恵医大に行った。母は10時から手術だった。12時40分に手術室から戻ってきた母は普通にお喋りしていた。老親が「そのまま全身麻酔から目覚めなかった」という話をたくさん聞いていたので、ホッと安心した。
麻酔医の質問に、「ここは慈恵で、自分は手術を受ける」と、母はちゃんと答えたそうだ。きちんと現実認識ができていることを知って、おおいに喜んだ。
私はバイクで仕事に出かけ、あんずとヨーコが母に付き添ってくれた。

3日、あんずと一緒に慈恵医大へ。母は顔はボーッとしていたけど、頭はしっかりしていた。いったん家に帰って、私はバイクで仕事に出かけ、あんずが車で病院に戻って母に付き添ってくれた。

4日、長男一家が来てくれた。ポプラとあんずは車で、私はバイクで慈恵医大へ行った。あんずが母にご飯を食べさせてくれ、母の車椅子を押してみんなで散歩に出かけた。私は途中で仕事に出かけ、子どもたちが残ってくれた。

5日、ROMと歩行訓練。

6日、ROMと歩行訓練。母は目つきがしっかりしていた。

7日、私は仕事が忙しかったので、あんずとヨーコが慈恵医大へ行ってくれた。
お尻につながれた機械を車椅子にのせて歩行訓練
12月8日、前日から母のお尻には、褥瘡の手術部位を陰圧にする機械がつながれていた。患部を陰圧にすると肉の盛り上がりが早くなるのだそうだ。お尻からホースがつながっていたけど、車椅子のシートの上に機械をのせて、母に車椅子を押させて歩かせた。
手術が無事にすんだことを報告しようと弟に電話をかけたら、「あとでかけ直す」と言われた。かかって来たのはトイレの中で、母が便座に坐っているときだった。弟に状況説明をし、「あまりしゃべれないかもしれないけど、脳を活性化したいから、母を元気づけてあげてね」と言って、母に携帯を渡した。
母は一生懸命に聞いていて、何か話そうとしていたけど、大きな声を出せずにもごもごしていた。私が電話を代わったら、「仕事中だ!」と、すぐに電話を切られてしまった。あまりにも冷たい。私だって仕事の途中だ!と言い返したかった。

9日、母にお昼ご飯を食べさせた。おかゆとミキサー食なので、もちろん美味しくない。ROM訓練のあと、母に車椅子を押させて歩行訓練。1階の売店まで歩いて、ジャムパンと牛乳を買って、ベンチに坐って食べさせた。

10日、焼きおにぎりを作っていって、母の昼食介助。帰ろうとする私に、珍しく母が「まだ行かないで」と言った。でも時間がないので仕事場に直行した。午後にはあんずとヨーコが行ってくれたそうだ。

12日、母に車椅子を押させて、売店まで歩かせた。おむつの他、クリームパンなども買って食べさせた。

13日、途中の手作りパン屋さんでパンを買って行き、母を車椅子に坐らせたまま一緒に食べた。

14日、母を歩かせて売店に。パンと牛乳を買って、夕食時に食べさせた。

16日、母を歩かせて売店に。母がよくしゃべったと看護師さんが言ってくれた。

17日、あんずとトモ君がお見舞いに行ってくれた。

18日、山形に住む母の従弟のお嫁さんがラフランスを送ってくれた。母に食べさせていたら、途中でいきなりカッと目を開き、自分でスプーンを使って食べはじめた。ちょうどやって来た看護師さんが母の元気ぶりに驚いていた。事情を話して、声かけと歩行訓練をお願いした。

20日、リハビリのあと、ベッドの上で柿を食べさせた。

21日、リハビリのあと、お団子を食べさせた。母の様子はイマイチだった。

23日、洗濯が間に合わなくてパジャマが必要になった。慈恵の売店にあるかな?と母を歩かせてのぞきに行った。
「もっと安い店もあるんだけど、時間がないからね。売店のパジャマは高いからどうしよう・・・」と言ったら、「いくらなの?」と聞かれた。値段を言ったら、「4000円は安い」と言われた。おしゃれなパジャマを自分で選んだ。
前日にあんずが母のお見舞いに行くと言っていたので、「昨日、あんずが来たでしょ?」ときいたら、「昨日は来ていない」と答えた。あんずに確認したら「行きそこなった」とのこと。母の答えは本当だったのだ。

25日、ROMと歩行訓練。

26日、ROMと歩行訓練。

28日、リハビリのあと、昼食介助をした。

29日、リンゴを自分で食べられて、感動したのか涙がポロリ。かわいい!

31日、ROMと歩行訓練。
慈恵に入院して、逆にレベルアップ!
青樹から慈恵に転院して、環境が変わるとまたレベルダウンするかもしれないと恐れおののいた。青樹は仕事場からバイクで5分だけど、慈恵医大へは15分以上かかる。時間を捻出するのが大変だったけど、レベルダウンを防ぐためには毎日行かなくちゃならない・・・と覚悟を決めた。
看護師さんたちひとりひとりに、見かけては声をかけ、事情を話して、声かけと歩行訓練をお願いした。みなさんがとても親切に協力してくれた。看護学校が併設されているので、学生さんたちも手伝ってくれた。熱意に燃える学生さんや若い看護師さんたちが多くいて、日に何回も母を歩かせてくれたのである。

予想を超えてラッキーだったのは、入院したのが外科病棟だったことだ。精神病院や老人病院と違って、同室の入院患者さんたちが、頭のはっきりした若い人たちだった。みなさんにも事情を話して声かけをお願いした。
あるとき、「お母さんのこと、ほんとうに大変ですね」と声をかけてくれた患者さんがいた。「私はヘルパー2級を持っていて、専門家なんですよ。お母さんにはなるべく声をかけてあげてます」と言われた。母は自分が山形の出身ということも話したそうで、「子どもの頃の思い出を楽しそうに笑ってお喋りしたんですよ」と教えてくれたこともあった。癌の治療で入院した患者さんなのに、自分の心配はさておいて母のことを気遣ってくれたのだ。感謝、感謝、である。

褥瘡の手術でレベルダウンか・・・と危惧していたけど、事態は逆で、みなさんに親切にしてもらって、母の頭はどんどんしっかりしていった。
このときまで母は上昇気流に乗っていた。よく笑い、よく喋り、よく食べ、よく歩き、母の回復の絶頂期だったのである。
老親はなによりも「孤独」に苦しむらしい
振り返ってみて、あんずとヨーコがこんなにも頻繁に手伝いに来てくれたのか!と今さらながら驚いた。母が病院でレベルアップできたのも、ふたりの協力があったおかげだな・・・と、あらためて頭が下がる。
これを書きながら、今まで思ってもみなかった発想が頭に閃いた。もしかしたら母はものすごい幸福感を味わっていたのかもしれない・・・?

以前のブログで、「83歳のやさしいスパイ」というドキュメンタリー映画を紹介したことがある。特養に入所中の母親が虐待されているんじゃないか?と疑った娘が、探偵事務所に潜入捜査を依頼したという実話である。(→2022/6/27
にわか探偵セルヒオは、最後のレポートに「ホームの職員さんたちはみんな親切で、虐待などは行われていない。依頼人は一度もホームにやって来たことがない。お年寄りたちは『孤独』に苦しんでいる。探偵に捜査を依頼するよりも、自分で母親の様子を見に来たほうがいい」と記述してホームを去ったのである。

父が亡くなって人生のどん底に落ちた母。ひとり暮らしで、子どもたちはたまにしかやって来ない。新潟の施設にいたときは、身体はなんとか動いていたけど「孤独」に苦しんでいた。
ゾンビになった母がかわいそうでたまらなかったけど、もしかしたら母は最高の「幸せ」を味わっていたのかもしれない。娘や孫が頻繁に来てくれて、自分のために一生懸命になってくれた。身体の「自由」を失った代わりに、「孤独」と縁を切ることができたのだ。どっちにしろ母は、「どこかへ出かけたい」とか「何かをやりたい」とかの欲求を、とっくの昔に失くしていたのだもの。
自分が老境に入ると、人生を別の面から眺めるようになるのだろう。あらたな「発見」が妙に感慨深い。
9ページ目へつづく
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Updated: 2023/10/13