母のリハビリカルテ 7 - 2011年 8月 -
|
|
<父の十三回忌、新潟でお盆を過ごした>
|
|
新潟に連れて行って、家があるのを見せたい・・・
|
|
母は「自分の家が売りに出されてもうない」という妄想にとらわれていた。弟夫婦への潜在的な不信感が不安を呼び起こしたのだろう。昨年9月22日、母は自分の家が更地になって、あちこちに「売り地」の旗が立てられているのを見たと言った。その「幻視」が一種の「強迫観念」になってしまい、いくら説得しても、ご近所さんに電話で話してもらっても、母はどうしてもそこから抜け出せなかった。
その年の3月8日は父の十三回忌だった。母を連れて実家に行けば、その妄想とも縁が切れる。仲良しだったご近所さんに会うこともできる。母を安心させることができれば、元気がでるに違いない。そう思って母の様子を見ながらずっとタイミングを見計らっていたのである。
母を連れてみんなで行くとなると軽のワンボックスでは入り切れない。ポプラにきいたら、でかい車の運転はしたことがないと言う。あんずの婚約者のトモ君は車の運転が大好きで、トラックの運転もしたことがあるとのこと。新潟行きのことをきいてみたら、胸を叩いて「大丈夫」と快く引き受けてくれた。
子どもたちに連絡を取って日にちの調整をしたのだが、長男の仕事が忙しくて、お盆じゃないと二連休が取れないとのことだった。
新潟のお寺(瑞光寺)に電話をしたら奥さんが出て、お盆は檀家まわりで忙しくて、法事の時間は取れないと断られた。「お経なしでも十三回忌ができるんですか?」ときいたら、「いいんじゃないですか、気持ちがあれば」と言うのである。
お寺のお墨付きをもらったので、みんなでお墓参りをして墓前で祈り、仏壇の前でパーティをすることにした。父は何よりも家族を愛していて、みんなで集まることを何よりも楽しみにしていた。最大の供養になるに違いない。 |
|
弟夫婦に連絡
|
|
久しぶりに弟夫婦の登場である。
お正月に母がうちに泊まったとき、元日に弟の携帯に電話をしたけど出なかった。折り返しの電話もなかった。
3月に弟から「4月に上越市に転勤することになった」と電話があった。「単身赴任だし遠くなるので、母の見舞いに行きにくくなった」と言い、「お前のことが信用できるとわかったから、今度会ったときに通帳渡すさ~」と偉そうに言った。
十三回忌はお墓のあるところでやるのが筋なのだそうだ。弟に連絡を取らなければならないけど、こちらからの電話を何度も無視されたので、嫁の住む新潟市のマンションにハガキを出してみることにした。
父の十三回忌を新潟でやりたいこと、全員が行けるように日程を調整中であることなどを書いた。最後に実家の掃除の件について苦言を呈した。
--- ところで、実家の管理はやってくれているのですよね?週に1回は窓を開けに行ってくれているのでしょうね?私がお願いした隣の人を、あなたたちが「自分でやるから」と断ったのですから、当然、やってくれているものと思いますが。実家に泊まることになるので、埃だらけ、くもの巣だらけ、ダンゴ虫だらけ、というのは困ります
---
7月2日にハガキを投函したら、翌々日(4日)、弟嫁が普通に電話をかけてきた。ケタケタ笑いながらお喋りをして、なんだか嬉しそうですらある。
「母を連れて行くことにしたので、その前に実家の掃除をしておいてほしい」とお願いした。弟嫁は「じゃ、シルバー頼んでやってもらうね」と言った。貯金通帳のことにふれたら、「私はなんにも知らないんよ。トシカツさんは私には何も話してくれないから」と、ケタケタ笑いながらとぼけていた。
「全員が休める日を調整して、日程が決まったら連絡するね」と伝えた。
ハガキで連絡がつくことが分かってホッとした。
そのあとで、みんなが休めるのはお盆だけだったこと、お坊さんは忙しいのでお経は無理と言われたことについてハガキを出した。次のハガキでは、8月11日の夜中に母を連れて実家に到着し、13日にみんなでお墓参りと十三回忌をし、14日まで新潟にいる日程になったことを伝えた。
返事はなかったけど、返事がないのが普通だったので、あまり気に留めなかった。弟嫁との電話でおおよその話はついた、と思っていたのである。 |
|
11日、母は意気揚々と新潟に出発
|
|
8月1日、ROMと歩行訓練。
4日、ROMと歩行訓練。
5日、一緒にご飯を食べたときに、母に新潟行きの話をした。喜んでくれるかと思ったのだけど、脳機能の容量をオーバーしたらしい。母は一気に調子が悪くなった。
8日、この日の母も頭がおかしかった。車椅子の上でボーッとしていた。
11日、出発の日。母を青樹に迎えに行ったら、新潟に出かけることを知っていた。気持ちが高揚しているらしく、シャンとしていた。あんずと一緒に母をイトーヨーカドーに連れて行って靴を買った。夏だから靴下をはくのは暑苦しい。介護用だけどとびっきりお洒落なサンダルを選んだ。トモ君が到着し、トヨタレンタリースまで送って、ハイエースを借りてきてもらった。ポプラもやって来た。
夕食は母の大好物の明太パスタを作った。「これは、ほんとうに美味しいね~」と喜んで食べ、うきうきと嬉しそうにしていた。
夜中の11時ごろ、チワワのヴェルも連れて5人で出発した。ハイエースの荷台に布団をしいておいたのだけど、母は後部座席に坐った。「楽しいね~、私、ドライブが大好きなの」と意気揚々。ほがらかにおしゃべりをしていた。
途中で渋滞にはまったとき、「お前たち、こんなに遠回りをして。東京と新潟って案外近いんよ。歩いて行けるところにあるんだから。近道を知らないんだね」と、笑いながら何度もくり返していた。
途中のサービスエリアで何度か休憩し、母を歩かせてトイレに連れて行った。
関越トンネルの手前ぐらいで、母がいきなり、「ねえ、ちゃんと掃除ができているか、サチコさんに電話で確認したほうがいいんじゃないの?」と私に声をかけてきた。「今頃確認してももう遅いよ。電話でも話したし、ハガキを3通も出したし。掃除しとくって言ったんだから、してあるでしょ」と答えた。
夜中の3時過ぎに実家に到着した。母は家を見て、「ほんとうにお前の言う通り、家がちゃんとあったんだね~、そのままだね~」と大喜びしたんだけど。。。 |
|
弟夫婦の裏切り
|
|
家に入ってすぐに掃除をしてないことがわかった。薄暗い家はかび臭くて埃臭くて、まるで幽霊屋敷のようだった。廊下を歩くと足跡が点々とつき、足の裏が真っ黒になった。1年前にあんずと私でお掃除をして以来、ずっと閉め切ったまま放っておかれていたのだ。
とりあえず仏間に布団をしき、母を歩かせるための廊下を拭いて、お布団に寝かせた。父の仏壇の扉を開け、明かりをつけてお線香を上げた。かわいそうに、誰もいない閉めっきりの家の中で、扉を閉ざされたまま、暗い中にひとりポツンといたのだ。1年間さぞかし寂しかっただろう。
荷物を運び込んだあと、運転手のトモ君とポプラは2階に寝に行った。
あんずとふたりで大掃除をはじめた。窓という窓を開け放ち、まず居間と仏間に掃除機をかけた。クッシャン、クッシャン、くしゃみの連発だった。
5時半になって、疲れ果てた私は座椅子にどかんと腰を下ろした。激しい怒りが怒涛のように押し寄せてくる。
弟の携帯に電話をしたけど、出ない。次いで自宅に電話をしたら、留守番電話の応答で、メッセージが入れられない。嫁の携帯は録音ができたので、留守電に向かって怒鳴りはじめた。
「あんたたち、いったいどういうつもりなの!」「寝たきりの病人を連れてきてるんだよ!」「掃除をしてくれる約束だったのに、なんでやってないの!」
「嘘をつくのもいいかげんにしろ!」「父の十三回忌もやらないつもりか!」
数分間怒鳴りつづけたあと、お掃除を再開した。
信じられない裏切りである。「怒り」のエネルギーでパワーが満ち満ちて眠るどころではない。時間も限られている。あんずと私はそのまま寝ないで掃除をつづけた。 |
|
12日、母はゾンビ状態に逆戻り
|
|
母は1年前の半昏睡状態に逆戻りしたかのようだった。目がうつろで表情が欠落して、固まったまま一言も発しなかった。そのときは移動の疲れと思った。掃除に忙殺されていたので、母を仏間に寝かせたっきりにして、トイレと食事以外は声もかけなかった。チワワのヴェルがずっと母のとなりにいてくれた。病人を見守るのが自分の役目と思っていて、何かあったら「ワン!」と吠えて知らせようと待機していてくれていたのだ。
夕方には長男一家が幼い孫たちを連れてやって来る。寝場所を確保しなければならない。
田舎の家なので実家は広い。大きな玄関と長い廊下がある。母を寝かせた6畳の仏間の隣には10畳の居間がある。縁側との間には半間幅のサンルームがある。寝室にダイニングキッチン、洗面所、お風呂場にトイレがあり、中2階には母の洋裁部屋もある。2階の2部屋は男連中がやってくれた。
埃を払い、くもの巣を払い、掃除機をかけて雑巾がけをしまくった。
お布団を干して、ぶら下がったままのタオルやバスタオルを洗い、シーツを洗い、次々に干して乾かした。埃を吸い込んだカーテンもすべて取り外して洗った。
3日がかりの洗濯になったけど、暑かったので、どんどん乾いてくれた。
ベッドカバー類をはがして洗う時間がないので、ベッドを使うことは断念し、母はそのまま仏間のお布団に寝かせることにした。
私たちが来ているのに気づいて、ご近所さんたちが立ち寄ってくれた。家が生き返っているのを見て、みなさんが喜んでくれた。
空き家とバレて不法侵入者が入り込まないようにと、庭の草取りも木の剪定も、外回りはみなさんできれいにしてくれていたのである。母に言われて3軒のご近所さんたちにお土産を買ってあった。
母に会わせてあげたかったけど、母はゾンビ状態である。「まだ母は移動の疲れで調子が悪いので、様子を見計らってお願いに行きますから、母に会ってあげてください」と話した。
料理を作る余裕はないので、食事はすべて外食にした。「ご飯に行くよ」と母を叩き起こすと、なんとか歩くことができた。車に乗せて行ったのだけど、お店の中でも歩いてテーブルにつくことができ、なんとか食べることができた。
食事とトイレ以外の時間、母はゾンビのようになってひたすら眠りこけていた。
夕方には長男一家が到着して、お掃除が一段落した居間で眠ることになった。ふすまを開けて、居間にあるエアコンで二間を冷やすことができる。あんずと私はこの夜も寝ないで掃除をつづけた。
弟夫婦からはまったく連絡がなかった。 |
|
13日、やっと弟が登場、みんなでお墓参りに行く
|
|
次の日になっても母はゾンビ状態のままだった。目を開けることもなく、固まったままひたすら眠りつづけていた。
猛暑なので、朝の涼しいうちにお墓参りに行くことにした。
出かける支度をしていたら、弟から電話がきた。いきなりの第一声が「あれ、姉ちゃん、新潟にいたんかい?」だった。携帯にだったし、私は何も言っていない。「今、上越市から高速でそっちに向かっているところで、車の中からかけてるんさ」と言った。
私が「今からみんなでお墓参りに行くところなんだけど」と言うと、「もうすぐそっちに着くから待っててくれや。一緒に行こう」と言うのである。
仕方がないので、お掃除をしながらえんえんと待った。
弟が現れたのは11時半だった。母を見るなり、「あれ、母ちゃんも来てたんかい」ととぼけた。「俺たち夫婦は電話もしないし、話もしないから、何も聞いてなかった。来るなんてこと全然知らなかった」と、さらに嘘をついた。
炎天下のお墓参りになってしまった。真上から太陽がジリジリと照りつけて、焼けつくような暑さである。母に日傘をさしかけて、手を引いて歩かせた。手分けしてお墓を洗い、花を飾り、お供えを置き、線香の束に火をつけた。母はボーッとしていて無言だったけど、お墓に手を合わせてお参りをした。
そのあとみんなで食事に行った。
弟は歩いて食べている母のことを目を細めてジーッと見ていた。驚きもなく、喜びもなく、母には声もかけなかった。
不思議である。1年前に両手を拘束されて点滴だけで生かされていた母が、新潟に行かれるぐらい元気になったのだ。私としては感動ものである。
たしかに見た目はゾンビだけど、弟は9カ月ぶりに母親に会ったのである。どうして話しかけないのだろう?声を聞きたいとか思わないのかなあ?
母のことを心配する言葉は弟から一言も聞いたことがなかったのだけど、心の奥では心配しているはず・・・と思っていたのである。
母は残念ながらちょっとしか食べられなかった。2人前ずつ食べたトモ君とポプラがすべて平らげているのを見て、「若いなあ」と感心していた。ここまではまだ弟は居心地がよさそうにしていて、全員の食事代を払ってくれた。
実家に着いてから、弟に、「なんで掃除をしてくれてないの!寝たきりの母が一緒なのに。電話でも話したし、3通もハガキを出したんだよ。こっちは母の世話をしながら、ずっと寝ないで掃除をしているんだよ!」と、語気荒く文句を言った。
弟は、「お姉さんにシルバー頼んでもいいか?ときいたら、シルバーなんかに余計なお金を使わず、自分でしろと言われた。そう言ってたぞ」と言い、「サチコの親はふたりともアルツハイマーで大変なんだ。自分の親の介護で手一杯だから、電話も手紙も2度とよこすな、そう言ってたぞ」と言うのである。
連絡を取り合っていたことを自分からバラしてしまった。実家の管理は私に任せると言ったけど、謝罪の言葉はない。母の貯金通帳のことを向こうから言い出すのを待っていたのだけど、とうとう口に出さなかった。
これ以上いるのはマズいと思ったらしい。弟はそそくさと立ち上がった。 |
|
うちらだけで十三回忌のパーティをした
|
|
帰ろうとしている弟に一応声をかけた。
「これから仏壇の前でみんなで十三回忌をやるから、あんたも一緒に飲んでけば」と誘ったのだけど、「自分の家に寄らないと」と言いながら玄関に歩いて行った。そりゃあ居心地が悪いだろう。
私たち家族は誰ひとり動こうとしない。誰もかれも無言のまま、立ち上がった弟に冷たい視線を送っていた。まわりを見まわして、トモ君がひとり玄関まで見送りに行った。
「さすがに田舎育ち。礼儀を心得てるね~」とほめたら、「あの場合、自分が行かないとまずいでしょう」と苦笑していた。
スーパーに買出しに行って、お米とかお刺身とかカニとか野菜とか、たくさんの食料品とお酒を買った。
父の仏壇の前で、みんなで十三回忌のパーティをはじめた。私が弟夫婦の悪口を言っても、誰も取り合ってくれない。楽しくお喋りしているときに、イヤな奴のことなんか思い出したくもないのだろう。みんなの中では弟はとっくに見切られていて、家族のメンバーから抹消されていたのだ。
初対面のトモ君もまるで昔からの友人のように溶け込んだ。力を合わせて働いたことで一気に親しくなった。みんなが気の合う仲間だった。料理を食べながらお酒を飲んで、和気あいあいとおしゃべりに花が咲いた。
楽しい時間を共にして、父はさぞかし喜んでくれただろう。
あんずはさすがに疲れたらしく2階に寝に行ったけど、私は寝ないで掃除をつづけた。3日ぐらいの徹夜には慣れていたのである。
母は「良子~、おしっこ」と何度も声をかけてきた。床に敷いたお布団から母を抱え起こすのは重労働だけど、尿意があって、排尿をコントロールできる能力があるのは素晴らしいことである。
病院や施設では夜間はおむつに用を足していた。夜間用のおむつは着脱が大変なので、トレーニングパンツをはかせたままだった。母は几帳面できれい好きで、自分の身に直結することに敏感だった。ゾンビ状態でもそこはしっかりしていた。
私たちと過ごした4泊5日間、失禁はゼロだったのである。
昼間と同じく夜中にも、母を抱え起こして何度もトイレに連れて行った。
その夜、ついに私の身体が壊れた。抱え起こすときに、右の太ももの付け根にギクッと激しい痛みが走り、右足で踏ん張ることができなくなった。
自分で抱え起こすのは無理になったので、居間に寝ていた長男に頼むことにした。私の「ちょっと」の声ですぐ目を覚まし、母を抱え起こすのを手伝いに来てくれた。 |
|
14日、ゾンビの母がご近所さんと会う
|
|
母はまだゾンビ状態だった。移動の疲れがこんなにも長引くとは!
この日はみんなに海に行ってもらう予定だったけど、掃除と片付けが途中なので、家に残ってくれることになった。長男一家だけが朝早くから孫を連れて海に遊びに出かけた。
午後になって、丸二日間目をつぶって眠りつづけた母がやっと目を開けた。まだ表情もなく、顔が歪んでよだれを垂らしていたけど、最後のチャンスと3軒のご近所さんに「母に会ってやってください」と声をかけに行った。
みなさんすぐに来てくれた。もっと元気でシャンとしている母を見せてあげたかったけど、仕方がない。それでも、母は涙をポロポロ流して喜んでくれた。
しばらく席を外したあと、居間に戻って話に加わった。
隣のWさんのご主人が、「大雨のときなんか、雨漏りがしているんじゃないかと気になるんですよ。漏電も心配だ。もし火事にでもなったら大変だ。帰る前にブレーカーを落としてもらいたい」と言う。
ついで、「お兄ちゃんも上越だから、電話をかけてもすぐに来られない。ここはひとつ、Hさんに代表して鍵を預かってもらい、何かあったらみんなで家の中の様子が見られるようにしたらどうですか?」と提案してくれた。
Hさんの奥さんが、「うちは鍵を預かるのはちっともかまいません。でも去年、弟さんが怖い顔ですぐに鍵を取り返しに来て、まるで泥棒扱いされたんです。あんな嫌な思いは二度としたくないから、姉弟でよく話し合って、弟さんが納得してくれるなら、預かるのはかまいません」と言ってくれた。
私は、「自分でやりますと鍵を取り返しておきながら、結局この1年間、1回も掃除をしていないんですよ。弟の了解を得ても、嫁と話したあとはぜんぶひっくり返るから、話し合っても無駄なんです。でも今回は母がいて、母が自分の家のことを自分でお願いしたことになるから、弟は文句を言えないでしょう」と言った。
話がまとまったのだけど、去年作った合鍵は弟に取られてしまった。いそいで合鍵を作りに行かなければならない。
ブレーカーを落としたら冷蔵庫の中のものが腐ってしまう。氷が溶けたら水浸しになる。冷蔵庫の中身を取り出して掃除をするという新たな仕事が増えたので、あんずと私はますます忙しくなった。はじめて新潟に来たトモ君が車で行ってくれた。
両親は旅行好きだったので、置物や提灯などの土産物がそこら中に飾られてあった。物は少ないほど掃除が楽である。今後のことを考えてすべて捨てることにした。不要なものをゴミ袋に入れて、車庫の中に積み上げた。
Hさんに合鍵を届けると、「ゴミはぜんぶ車庫の中に入れといてくれれば、あとで捨ててやるわ~」と言ってくれた。
外に出たとき、民生委員のおじさんが自転車に乗ってやって来た。母を東京に連れて行ってるという話をしたら、「そっかー、空き家が増えるなあ。みんな娘さんのところに行ってしまうんだよな。そのほうが幸せだもんな」などと、感慨深そうにつぶやいた。出たゴミを車庫に入れといてくれれば、「俺がときどき見に来て、捨ててやるさ~」と言ってくれた。
田舎の人たちはほんとうに親切である。
実家には大勢が泊まれるように布団がたくさんあった。もうみんなで実家に泊まることもないだろうし、お客が泊まることもない。もったいないので、布団や寝具などを運びだし、ぎゅうぎゅうに車に詰め込んだ。
母は食器に凝っていたので、大きな食器棚には母が集めたたくさんの食器が入っていた。去年から少しずつ私の家に運んでいたのだけど、食器やカメなどもダンボールに詰めて、入れられるだけ車に積み込んだ。
仏壇の中の父の位牌も持ち去った。空き家にポツンとひとりはかわいそうすぎる。
人間と荷物で満杯のハイエースで東京に向かった。高速の料金所で「被災者の方ですか?」と聞かれたことは笑える。被災者は高速料金が無料になるのだそうだ。
帰りの車の中で、母はいきなり元気を取り戻した。「楽しい!」を連発し、「私、ドライブが大好きなの」「景色がきれいでいいね~」と言ってはしゃいでいた。この姿をご近所さんたちに見せてあげたかった。
渋滞にはまってしまったので青樹には間に合いそうもない。あんずとトモ君を駅まで送ったあと、母はその晩もうちに泊まった。
夜中のトイレのときは、ポプラが母を布団から抱え起こす手伝いをしてくれた。「ちょっと」の一声ですぐに起きてくれたので、ほんとうに助かった。 |
|
帰りは元気いっぱいで、そのままレベルアップ
|
|
8月15日、母は朝からパッチリと目を開けて元気いっぱいだった。帰りは「移動の疲れ」もなく、見違えるように生き生きしていた。そのときは『新潟で3日間も眠りつづけたからかな?』と思って、ただホッとして喜んだだけだった。
このチャンスにと、もち米で納豆おはぎを作った。施設に持って行くと時間がたって、どうしても固くなってしまうのである。出来立てのホカホカ温かくて柔らかいおはぎを、母は大喜びでパクパク食べた。午前中に母を車で青樹に送っていった。
18日、母は元気だった。「昨日は父ちゃんと墓参りに行った」などと嬉しそうに報告してくれた。
23日、都営住宅局へ行き、母を同居させるための相談をした。持ち家があると入れないのだけど、実家の名義は父のままだった。同居が可能とわかって、申請用紙をもらって帰った。
住民票が別所帯だと、手続きのたびに母に委任状を書いてもらわなければならない。同居だと、世帯主権限で独断で手続きができるのである。
市役所に立ち寄って、母の非課税証明書を取った。(遺族年金は非課税なのである)
24日、あんずと一緒に青樹へ。母を歩かせてオスカーに連れて行った。職員さんの話では昼食を食べなかったそうだ。お腹がすいていたらしく、ホットサンドをほぼ一人前、自力で平らげた。
相談員とケアプランの話をした。他の人たちがトランプや折り紙をしているとき、母は計算問題をしているとのことだった。のぞきに行くと、母は一生懸命に計算問題に取り組んでいて、なんとか鉛筆を握って答えを書き込んでいた。1桁2桁の簡単な計算だったけど、母はすべて正解していた。
29日、母は目力があって元気だった。
31日、母は自分で目ヤニを拭いていた。はじめてのことなので感動した。目ヤニを取るのは高等技術なのだそうだ。母は格段にレベルアップしていた。ものすごく大変だったけど、新潟行きが良かったみたい。苦労が報われた思いだった。 |
|
あの時にゾンビの理由に気づいていれば・・・
|
|
当時はまだ介護2年目で、目の前にある課題をクリアするだけで精一杯だった。回想することで、今になってやっと、いろんなことが理解できるようになった。
新潟で母がゾンビ状態になってしまった原因は、「移動の疲れ」ではなかったのだ。同じ距離を移動したのに、帰りには元気いっぱいだったのだもの。
掃除されていない家を見て現実を思い知らされた。母の脳裏にいろんな想念が怒涛のように押し寄せて、脳がパンクしてブレーカーが落ちてしまったのだ。
母にとって「家」はとても大切だった。国鉄職員だった父が55歳で退職してから、両親ははじめての「我が家」を持ったのである。それまでは転勤族だったので、ずっと官舎暮らしの不自由に耐えていた。
余生は新潟市でと、鳥屋野潟のほとりに土地を買っておいた。退職と同時に住むために、酒田市にいる間に建築を進めた。間取りのこと、屋根瓦のこと、造り付けの家具のこと、設計のこと、駐車場のことなど、両親が熱心に話し合っていたのを覚えている。
両親は「我が家」を持つ目的を共有していた。父は国鉄の仕事に命をかけ、母は洋裁の内職で家計を助けながら完璧に家事をこなした。協力し合って努力を重ね、半生をかけて達成した「夢」であり、一代で築き上げた「宝物」だったのだ。
父も母もきれい好きだったし、世間体を重んじていた。素敵な家具をそろえ、数々の食器や茶器をそろえ、働き者の母はいつも家をピカピカに磨き上げていた。酒好きで話好きだった父はいろんな人を招きたがり、母は山のように料理を作って、親戚や友人などをもてなした。
弟嫁が現れるまで二十数年、幸せな日々を過ごした、たくさんの思い出のつまったかけがえのない「我が家」だったのだ。
せっかくの帰省、そしてご近所さんたちとの再会と、楽しめるはずの時間をゾンビのように過ごしたことが、返す返すも残念でならない。
治療道具を持参して行ったけど、鍼灸どころか、ROM訓練も1回もやってあげられなかった。温泉や市内見物や買い物とか、あちこち連れて行ってあげたかったけど、その時間も取れなかった。
でももしかしたら母にとっては、娘一家が大切な「家」を掃除をしていたのを見るのは何よりも幸せだったかもしれない。
帰るときには母の人生は単純になった。家がきれいになった。ご近所さんたちが面倒をみてくれることになった。掃除の大嫌いな娘が最後まで徹底的にやり抜いた。長男夫婦の所業に「まさか、ここまで!」と落胆しただろうけど、以前からあんなもんだった。期待できない代わりに、妨害される心配もなくなった。私の家族がみんなで協力してくれたことも安心材料だったと思う。
浮世の心配から解放され、自分のことだけ考えればいい状況になった。一気に元気になって、そして、そのままちょっとずつレベルアップしていった。
新潟行きが母にとってただ一度の遠出になったけど、その甲斐はあった。このあとは最後まで、「家が売られた」という妄想(=不安?)にとらわれることがなくなったのである。
あの時、母がゾンビになった原因が「脳機能の容量オーバー」だと気づいていれば・・・と悔やまれてならない。「移動の疲れ」のあまりの凄さに、母には遠出は無理と思い込んでしまったのだ。
母はドライブが大好きだったのである。もっといろんな所に連れて行ってあげたかった。郷里の山形にも連れて行ってあげたかった。今になって後悔の念と、そして弟夫婦への怒りがふつふつと湧き上がってくる。 |
|
悪人の行動を予測するのは難しい
|
|
悪人の考えることはほんとうに想像もできない。悪人の「心」計り知れずなのだ。もしも悪人に「心」があると仮定すればの話だけど。。。
遺産相続で義姉にひどい目にあった患者さんの弁護士が「みなさん、それぞれ違う景色を見ていたんですね」と言ったそうだ。
私にとっての唯一かつ最大の関心事は母の健康と幸福だった。でも弟夫婦にとっての関心事は金勘定だけだったらしい。
弟夫婦はどうしても母の預金通帳を渡したくなかったのだろう。「今度会うときに通帳を渡す」と約束をした。見舞いに行かなければすむと思っていたところへ、新潟にやって来ることになった。そこで「十三回忌をすっぽかす」という策に出た。
「知らなかった」ことにする。上越を出てから電話をする。もしも通帳のことをきかれたら、「通帳は上越の家に置いてある。来ると知ってれば持ってきたのだけど」と、言い抜けるための策略を立てたのだ。
私の最初のハガキで弟嫁が普通に電話をかけてきた理由も、今になってその謎が解けた。「法事」ときいて大喜びして、そのときはやる気満々だったのだ。めったに会わない親戚やお坊さんの前で舞台女優を演じるチャンスと思った。
弟嫁は法事などのイベントが大好きだった。お料理などすべての準備ができあがったところにやって来て、颯爽と舞台に上がる。清楚な服に身を包んで、三つ指ついて挨拶をする。ケタケタ笑ってお喋りをしてお酌をして回る。
彼女は一種の「虚言依存症」で、嘘をつきたくてたまらないという性癖の持ち主だ。立て板に水ごとく、次から次へと嘘八百を垂れ流すけど、事情を知らない人間は簡単に騙されてしまう。明るく朗らかに立ち回り、かいがいしく働いて、「完璧な嫁」を演じる。「法事」はスポットライトを浴びた主演女優になれる場なのだ。
演技は長時間つづけられない。「明日仕事なので」とふたりで立ち上がり、さっさと帰って行ってしまう。後片付けをしたり、親戚を駅に送るのは私と私の家族の役割になる。
はじめはみなさん「なんて気の付くいいお嫁さんかしら!」と感心する。それが毎回つづくと、「あれ?」と気づく人も現れる。「いつも最後まで残るのは良子ちゃんたちだよね」と、いぶかし気に首を傾ける人も出てくる。
でも母はプライドが高くて秘密主義だったので、弟夫婦の悪口は一切口にしなかった。めったに会わない親戚を騙し通すのは簡単だったのだ。
最初のハガキをもらって「イベントだ!」と大喜びした。次のハガキでお坊さんも親戚も呼ばないと知った。観客がいないところに舞台もない。弟嫁はすっかりやる気をなくしてしまった。実家の掃除などという面倒なことはまっぴらごめんである。彼女の辞書に「約束」の文字はない。嘘をつきまくり、ついた嘘も忘れてしまう。
そこで「何もしない」という選択ができるところが「悪人」の凄さだろう。私には想像もつかなかった。
数年後のことだったけど、弟が「新潟に置いとけば安上りだったのに」言ったことがある。お墓参りのときに母を眺めた弟の頭の中にも、その言葉がチラチラしていたに違いない。まさに「違う景色」を見ていたのだった。
他人なら距離を置いて客観的に観察できるけど、身内の「悪」を完全に見抜くことは難しいし、受け入れることも難しい。
そこまで!とは思わなかったけど、薄々は感づいていた。新潟行きのガソリン代、レンタカー代、食事代など、かかった費用はすべて帳簿に記載した。あまりに腹が立ったので、掃除をしてくれた全員に日当を払うことにして、それらもすべて帳簿に記載して、全額を母のお金でまかなったのである。 |
|
8ページ目へつづく |
|
リハカルテ TOP |
 |
Updated: 2023/10/3 |
|