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リョーコの手作りブログへようこそ!
2018/12/29(土) 1回目の調停で「泥棒」と訴えられた
ぎっくり腰のおかげか、日に日に身体が柔らかくなっていって、ストレッチがすいすいできるようになってきた。
でも、「おふとんでごろごろ」ストレッチの5番目のメニュー#10(真向法の4番目と同じ)だけは別で、最近だんだん辛くなってきていた。
ストレッチが痛いし、お尻がつりそうになったり。腸腰筋とでん部の筋は全速力で走るときに酷使するのである。

『これはヤバイ』とふいに思い立ち、水曜日の明け方、痛みをこらえてグイグイと、集中的にストレッチをしたのである。
起きてみたら腰が痛い。歪んで左に引っぱられ、壊れかかっていた。その日はテニスを休んだけど、仕事も腰に響いてた。夜、フルコースでハリを打った。

翌朝起きたら腰痛は治っていた!
ストレッチは調子のいいときに、いい状態を維持するためにするものである。悪くなってからハードにやるのは危険であると、分かっていても性懲りがない。

すぐに治療をして正解だった。木曜日は大掃除とテニス、金曜日は仕事とテニス、どれもこれも何の問題もなくこなせた。
今年の年末年始は、体調を崩さずにすみそうである。

遺産相続の調停が終了したことは、以前に報告(2018/7/1)したけど、調停がどういうふうに行われたのか、順を追って教えてあげるね~~

去年の10月、立川の家庭裁判所から、分厚い茶封筒が届いた。母が亡くなった直後からはじまった弟とのやり取りで、精神的にいたく消耗していたので、自分で読むことができない。
あんずに読んでもらったとき、「あんたが2500万円請求されてるよ」とだけ教えてくれた。

うちの患者さんに顧問弁護士を紹介してもらい、相談に行った。
弁護士さんは心配そうだ。法的には介護をしたほうが損をする時代とのことで、先行きは暗そうである。
帳簿と日記、それと私の記憶力に驚いて、「私に頼むとお金がかかりますよ。自分でできると思いますよ」と言われた。
でも、法律的なアドバイスも必要だけど、精神な支えが必要だ。家裁の書類をコピーして渡し、とりあえずそっちは「丸投げ」することにした。

「母のお金を自分のために使い込んだ」という容疑をかけられた私。
ゾンビの母を東京に連れてくるときに、弟夫婦に妨害されかかったので、彼らのやり口は知っている。日付と事実を捻じ曲げて、私を悪人に仕立て上げるための「ストーリー」を作るのだ。
冤罪から自分を守るには、事実の積み重ねしかない。

過去の記録を調べて、日付順に資料を作る作業をはじめた。母のリハビリのことを、いつかまとめようと思っていたので、ちょうどいいチャンスである。
病院でのこと、医師との交渉、介護のノウハウを中心に、友人、親戚、弟夫婦とのやり取りなど、すべてを書き綴ることにしたのである。

ものすごい長時間、パソコンに向かう羽目になった。身体には悪かったけど、母とのいろんなエピソードを思い出して、懐かしくもあり、楽しくもあり、喪中の心の整理をすることができた。
時間がなかったので、数か月分の記録しか書けず、母の写真と、「レビー小体型認知症の概要」と「陳述書」を準備した。

初めての調停は、去年の10月30日だった。3時半からと思い込んでいた私は、調布のパルコであんずと待ち合わせ、一緒にお昼を食べて、家に帰って、スーツに着替えて出かけようと思っていた。
食事を終わって駐車場に向かう途中で、弁護士さんから電話が来た。「もう始まるところなのに、今どこですか?」と言われて超びっくり。

実は1時20分からだったのである。
私は数字が苦手だし、拒否症状があったせいで、頭の中で、「10月30日3時30分」とぞろ目に変換されてしまったのだ。
あんずに読んでもらおうと、調停に出す書類を持っていたので、そのまま大慌てで家裁に向かった。(スーツの必要はなく、私服でOKだった)

到着したのは1時間後。待っている間に、弁護士さんがあらましを話してくれたらしい。調停室には、相続人である私と弁護士さんしか入れないとのこと。弁護士さんがいてくれてよかった~~

調停員は年配の男性と女性である。
「すみません。書類を読む気力がなくて、娘と弁護士さんに丸投げしていたんです。私は娘をあてにして、娘も私をあてにして・・・申し訳ありません」と言うと、女性が、「そうですよね。わかります。見たくないですよね~」とにっこり。

「お母さまは認知症だったんですよね?」ときかれ、「認知症といっても、母はレビー小体型認知症で、パーキンソン症状が強いタイプだったんです。最後はマネキン人形のように動けなくなってしまいましたが、記憶にはぜんぜん問題がなく、私のことも家族のことも分かっていました。亡くなる直前まで、口から食べられて、意識もしっかりしていたんですよ」と説明した。

2人とも、「それは良かったですね」と親身になってくれている。たぶん、親の介護の最中か、目前に迫っているかで、他人事のように思えないのだろう・・・と感じた。良識がある優しい人たちでラッキーだった。

女性にいきなり、「お母さまが亡くなられたあと、5月に実家に行かれました?」と尋ねられた。
「え?8月には行きましたけど、5月には行ってません」と言ってから、途中で思い出した。「あ、行きました。5月7日に母の納骨で実家に行きました」と答えなおした。

女性が、「他にも誰かいましたか?」と言うので、メンバー全員の名前をあげ、「それと、犬も連れて行きました」と付け加えた。
「あ、ワンちゃんがいらっしゃるんですね」と、またまたにっこり。

「先に家に入ったのはどなたです?」ときかれ、「う~ん・・・、あ、そうだ、私です。渋滞を避けるために夜中に出発して、明け方に着いて仮眠をしたんです。長男一家とは実家で待ち合わせをしました」と答えた。

「どうやって家の中に入られたんですか?」ときかれ、「う~ん・・・、あのときは玄関から、鍵を開けて入りました」と答えた。
「鍵を持ってらっしゃるんですか?」と聞くので、「当たり前ですよ。何度も実家の掃除に行ったりしているんですから」と答えた。

「じゃ、鍵を壊す必要はありませんね」と女性が言い、隣の男性に、「この訴え、変ですね・・・実家の鍵を壊されて侵入され、そのあと鍵屋さんを呼んで大変だった・・・というのは・・・」と、2人でぼそぼそとささやいていた。

私は「鍵なんか壊れていませんよ。そのあと8月に行ったときも、自分の持っている鍵で普通に開けられたし。そのとき隣の大工さんと話しました。鍵を預かってくれて実家の管理をしてくれてる人ですけど、『鍵を壊された』なんて話、してませんでしたよ」と言った。

「そのとき、何か持ち帰りました?引き出しとか何かを開けたとか、何かを持って帰ったとか?」と聞かれた。

半年前の話である。記憶をたどって、「あのときは座椅子を2つ持ち帰りました。どうせゴミにされちゃうだけだしと思って。引き出しものぞいたと思います。手紙あるかな?とか、あれこれ家の中を探索しました」と答えた。

「金庫を持って帰りました?」と聞かれたので、「えっ?」と驚き、「あんな大きくて重いものを?私は鍵も持っていないし、番号も知らないから、金庫を開けられないんです。母もあんな状態だったし。金庫は弟の管轄ですよ」と答えた。

私はますます???となった。話が読めない。

弁護士さんが、「あなたが、金庫の中のものを盗んだと、訴えられているんですよ」と笑いながら教えてくれた。

弟夫婦は、私を悪者に仕立て上げようと、嘘の話をでっちあげたのである。
前にも書いたけど(2018/7/1)、弟は警察官。これでは冤罪があとをたたないのも無理はない。弟の嫁は「虚言依存症」ともいうべき人間で、次から次へと嘘をつかずにいられないのである。

男性に「お母さまが具合が悪くなったのはいつですか?」ときかれた。
記録を書いたばかりなので、「2010年の8月6日です」と即答した。

「それは平成何年ですか?」と聞かれ、困ってしまった。日記は西暦表記なのである。
調停員さんと弁護士さんが計算してくれ、「平成22年ですね」となった。

「東京に転院したのはいつですか?」と聞かれ、「9月14日です。植物状態寸前になってから、1ヶ月と1週間で転院させてもらえたんですよ」と答えた。

「そのあと老健に入りましたよね。いつですか?」と聞かれ、「同じ敷地内に青樹という老健があって、2月2日に移りました」と、記憶をさぐりながら答えた。

「その後はどうなりました?」ときかれ、「12月に褥痩の手術のために慈恵医大に入院し、1月5日にまた青木病院に入院し、8月にまた青樹に入って、翌年の11月18日にちょうふの里に入ったんです」と答えた。

「それは平成何年ですか?」と聞かれ、指で机の上をなぞりながら計算しようとしたんだけど、私には無理。「メモ用紙をください」とお願いしたんだけど、「平成25年ですね」と3人で計算してくれた。

私は自分の作った資料を提出したかったんだけど、弁護士さんに止められた。まず、向こうの出方を見ないと・・・と言うのである。
それに、今は向こうが訴えてきている段階で、それが終わってからこちらの要求をする、とのことである。

事前の話し合いで弁護士さんには、「余分なことまで話し過ぎないように」と釘を刺され、「エスカレートしたときは、私がストップします」と言われていた。
遅刻したせいで余計に時間が限られている。調停員さんにもときどき「聞かれたことにだけ答えてください」と言われたんだけど、状況をわかりやすく、順を追って説明しないといられない性格である。

私の型破りな言動に、弁護士さんはハラハラしてらしいけど、私がどんどん話をするので、あまりの勢いに止めようがなかったそうだ。
調停員さんたちが、私の話にいちいち相槌を打ってくれたので、とても話しやすかったのである。

調停は、訴えた方が「申立方」で、訴えられたほうが「相手方」になる。待合室はまったく別で、代わる代わる呼ばれ、当事者同士が会うことはない。
弟のほうは、弁護士のみの出席だったという。

調停のあとの帰り道、助手席に坐ったあんずが、向こうの資料を調べはじめた。私も横から、初めて資料を見た。
通帳の引き出し記録が平成表記だったのである。よく見ると、なんと、平成19年から始まっている。母が新潟の老健に入所中だった時期である。
自分たちが母の通帳を管理していた期間まで、私に請求していたのである。
しかも、弟が母の貯金通帳を渡したのは、東京に来て3年もたったときだった。

1回目の調停のあと、一気に気が楽になった。「嘘つきは自分のほうだ」と自ら証明してくれたようなものである。
これは私に有利に展開しそうである。

次の調停に備えて「年表」を作成。母の入退院と、通帳の動きなどを、わかりやすく一覧表にした。
日々の記録のダイジェストとして「カレンダー」を作り、「母のリハビリカルテ」と「弟とのやり取り」の詳細を、ひたすら書きに書きまくったのである。

つづきは来年ね~~みなさん、良いお年を!
2018/12/22(土) サーブの出来と「気心の知れ具合」が比例?
サーブの話にはうんざりしている読者も多いかもね。私だってもううんざりである。
「スライスサーブは3年かかる」と言われたけど、それをはるかに越えて、もう6年以上も苦労しているんだもの。

ボールの横とか下から、ただスライス回転をかけるだけなら、とっくにできるようになっていたかもしれないが、Cさんの教える「トップスライス」は、とても高度なのである。
マスターすれば、同じトス、同じフォームで、スライスもスピンもフラットも打ち分けられる。コースも球種も、相手に読ませないサーブが打てるそうだ。

『そんな強い相手と試合をすることが、この先ありえるのだろうか?』と思い、『無意味なチャレンジなのではないだろうか・・・』と思いつつやってきた。
でも今になって、上手な若い人たちとシングルスを戦うためには、「打ち込まれない」サーブが、必須課題になっているのである。

Cさんの教え方は、身体の各部の動作を細かく分析したもの。サーブのフォームだけで、50個ぐらいのピースがある。
Cさんが見てくれているときは、落ちたピースを拾い上げてくれるので、なんとか1枚の絵になる。すべてのピースがはまれば完璧である。

でも1人で練習しているときは、自分でピースを拾わなくちゃならない。あれを拾うとこれが落ち、これを拾うとそれが落ちで、なかなかまとまらない。
自分なりにピースを1個ずつ糊付けしよう・・・と、サーブの「バイエル」1番から練習をはじめ(2015/3/28)、もう3年半以上になる。

もう、「入る入らない」で苦労する状況は終わりにしたい。
バイエルは初心者のための練習曲なのだから、完成形を目指す必要はないんじゃないか?と考えた。
目標を下げて、とりあえずバイエル卒業を目指そう。サーブの完成度を上げるためのピースは後回しにしよう。
サーブのバイエルは、「絶対に入るセカンドサーブ」が目的だったんだから、高望みはやめて、適当なところで折り合いをつけよう・・・

「左手の平を打つ方向に向けた」あとは、「スマッシュをサーブに取り入れる」ピースの糊付けに取り組んでいる。
前にスマッシュをサーブに取り入れた(2016/6/25)とき、サーブの欠点が逆流して、そのあと2年もスマッシュに苦労する羽目になった。
スマッシュを壊さないように、ひとつひとつ慎重に取り入れなくちゃね~

スマッシュと同じに、サーブも「バンザイ」からスタート。
ラケットを下から回してやってみたんだけど、崩れてくると、昔の悪いクセが次から次へと顔を出し、完全に迷い道にはまり込んでしまう。
新しい道から入るほうが、迷いにくいんじゃないだろうか?

壁での練習を見ていたおじさんに、「肘が下がっている」と指摘された。これも昔の悪いクセである。まだ残っていたのか!
思いっきり「バンザイ」をすれば、トスも高く上がるし、肘も下がらないだろう・・・

次のピースは「スタンス」である。
後ろ向きに構えるクローズドスタンスで打っていた(つもり)だけど、昔買った本によると、「スタンスは打つ方向に対して平行がいい」「クローズドスタンスでは、身体のひねりを使ってラケットを振ることになる。コントロールが難しくなるのでお勧めはしない」と書かれてある。

コントロール力がないのは、スタンスのせいだろうか?打つ方向に対して、足を平行にするスクエアスタンスに変えてみよう・・・

昨日の夜、プロのスタンスを見てみようと思いついた。
あれあれ?ジュースサイドからはクローズで、アドサイドからはスクエアで打っている。何人か見てみたけど、みんな同じである。

もう、試したくて、試したくて、うずうずになった。
今日は、昼頃から雨がパラパラ降ってきた。壁打ちをしたあと、みなさんがクラブハウスに避難した頃合いを見計らって、雨用のボロボールを持ってコートに出た。
ジュースサイドとアドサイドのフォームを統一するために、交互に打つことにしているので、2面とも空いているところを選んだ。

あれあれ、やっぱり自分も、アドサイドからはスクエアになっている?
もしかしたら、「スタンス」に関する自分の捉え方が間違っていたのではないだろうか?
「スタンス」とは、構えから始動するときの足の位置じゃなく、打つ瞬間の足の位置を意味しているのではないだろうか?

左足軸足に右足を寄せる瞬間を「スクエア」に。打つ方向に対して、しっかりと足を寄せてみたら・・・
あれあれ、軸が安定するみたい?フォームも安定していくみたい?

なので、バイエル98番は、「スタンス」がテーマである。
(今ネットで見たら、足を寄せるのを「ピンポイントスタンス」って呼ぶらしい)

不思議な現象があるんだよ~~
ゲームでは入らず、悪いクセが次から次へと顔を出し、まるでデジャブ、くり返し見る悪夢のようで、ついにはぐちゃぐちゃに崩れてしまう。
『一生打てそうにない』と落胆するんだけど、そのあとで練習すると、当たり前のように入るのである。

もうひとつ不思議なのは、女子会系の飲み仲間とのゲームでは、けっこうファーストが入ることである。下手な頃から受け入れてくれた人たちだから、心が安定するのかもしれない。

毎日違う人とゲームをして、いろんな人と仲良しなんだけど、「気心の知れ具合」と「サーブの確率」が、どうやら比例しているようなのだ。
サーブの出来具合で、相手に対する緊張感が計れるらしい。対人恐怖症の片鱗が、まだ残っているんだね。(笑)

元インカレのおじさんに、「大丈夫。練習していれば、そのうち絶対にできるようになりますよ!」と励ましてもらった。
「日本人はサーブ練習をしないんだよね。プロだってやらないんだから。外人はものすごく練習するんですよ~」とのことである。

考えてみれば、ゲームでサーブをやる頻度はものすごく低い。ダブルスでサーブを後に回してもらうと、6-0なら、1ゲームしかない。4球で終われば、1セットで4回しか打つチャンスがない。

ストロークなら、1セットに何十球も、ときには100球ぐらい打つ。
なるほど、ゲームでの「サーブ精神力」が育たないのも無理はない。回数が圧倒的に少ないのだもの。

ストロークとかは「フォームがきれい」と言われるようになったんだから、サーブだってできるようになるだろう・・・と信じるしかない。
練習ではだいぶまとまってきて、腕の振りもだんだん振幅ハバが狭まってきている。あと「ちょっと」なんだけどなあ。

一気に完璧を目指したために、完成までの道のりがとつもなく長い。
サーブのフォームを分解して、細かいピースを貼り付けていくやり方が、吉と出るか凶と出るか・・・
それなりのサーブを打って、フォームが固まったあとで改造するより、早道だった・・・となって、「急がば回れ」だね、という結果になったらいいんだけど。

それが判明するのは、もう「ちょっと」先である。
2018/12/16(日) 「360度スピン」で、威力と回転量がアップ
シングルスで、自分が打たれて一番嫌なボールは、強烈なトップスピンである。
アウトしそうな高さで飛んできて、ベースラインでストンと落ちて、バーンと高く弾んで、遠くへ伸びていくボール。
スピンをスピンで返すのは基本的には楽なんだけど、すごい威力だとラケットが届かない。

1年半前(2017/5/21)、夜のシングルスに初めて出たときの初戦の相手は、お母さん付きの15歳の女の子だった。
お母さんがマイチェアを持ち込んで、フェンスの外でメモを取っていたのである。
スピードも威力もあって、きっちりコントロールしてくる。とくにバック側は、両手打ちだとラケットが届かないほどの高さで、手も足も出なかった。

日常生活では、「自分がやられて嫌なことは決して人にはやらない」のが信条であるが、テニスでは、「やられて嫌なことをやり返す」。それが上達の秘訣なので、ストレス解消には最高に役に立つ。(笑)

シングルスでいろんな人と対戦したけど、20代とかの若い人は、トップスピンを打つ人が多い。
スピンは「筋力」で打つわけじゃない。非力な子供でも打てるんだもの。
スピンに必要なのは「しなやかさ」なのである。若い人にしか打てないのは、筋肉や関節の柔軟性と関わっているからなのだと思う。

スピンボールには「ぐりぐり」というニックネームがついている。ラケットを厚く握って、思いっきり回転をかけるからだろうか?

この間、壁打ちをしていたら、フェンスの向こうから、Wさんに声をかけられた。ときどきサーブのアドバイスをしてくれる男性である。
「ぐりぐりに変えたの?」と聞かれてびっくり。「Cさんに教わって以来、何年もずっとスピン系なんですよ」と答えた。

打てるようになるまでは1年かかったけど、もう5年もスピンでやっている。筋力がないとスピードも回転量も上げられないので、進化はちょっとずつである。

今頃になってWさんに気づかれたことが不思議である。やっと、傍目にも気づかれる「ぐりぐり」ストローカーになった・・・ということなのかなあ?

テニスクラブでいろんな人のフォームを観察しているんだけど、京王は年齢層が高いので、女性でスピンを打っている人を見たことがない。

「すごい上手」と思われる女性を何人か観察したけど、フラット系で、しかもボールの後にラケットを出して、そのまま「押し」て、それで終わり。

なんだか、勿体無いなあ・・・と思った。

ボールの後から当てて、コンパクトにスイングすれば、たしかにコントロールはし易い。
ガ体が良ければ、力で飛ばせる。

私は細身で非力だから、腕力では負ける。
ぐるりと円を描けば、その分威力が出るんじゃないだろうか?円周の4分の1しか使わないのは、勿体無いと思ったのである。
ストレッチを360度でやっているから、ストロークも「360度」を意識してやってみようと思いついた。

360度でスピン
フォワード・スイング=横向きに入って、左後方から始動。体勢を低くして、面を下に、地面を這うように走らせてボールを迎えに行く
セ・サ・ミからインパクト=当たる瞬間に回転を。面の上でボールを転がしてワイパースイング
フォロースルー=抜いたあと、空高く、ラケットを放り上げる
自然にラケットが戻ってくるが、最後まで振り抜く。

「360度」を心がけて以来、だんだん威力と回転量がアップしてきた。それでWさんの目を引いたのかもしれない。
最近は、女子には返せないボールを打てることもあるんだよ。

いつもラケットを振り回しているので、難しいボールだと、ときどき当たり損なってしまう。回転がかかっているので、けっこうコートに入ってくれるんだけどね。

やっと追いついたボールは「スライス」で返せ、至近距離から打ち込まれたボレーは「当てて」返せ、みなさんにはそう言われるけど・・・
壁では練習しているけど、ゲームではまだまだ使えないことが多い。

でも、とりあえず、得意なショットを磨いてから・・・と思っているんだよ~~
2018/12/8(土) [映]ドリーム
映画「ドリーム」はマーゴット・シェンタリーが書いた実話(Hidden Figures)をもとにしている。脚本監督はセオドア・メルフィで、2016年に公開された。

アメリカ合衆国のNASAで、黒人女性たちが裏方として働き、大いなる貢献をしたことは、ほとんど知られていない。
数学に卓越した才能を持つ彼女たちは、非正規雇用で低賃金という差別的な職場環境にもめげず、和気藹々と計算業務をこなしていた。

1961年当時、ウェストバージニア州では、白人と有色人種の分離政策が行われていた時代。学校もバスもレストランもトイレも水飲み場も、図書館の本まで、「白人」用、「非白人」用と、徹底的に分けられていた。

その年の4月、ソ連は初の有人飛行に成功する。ガガーリン少佐の「地球は青かった」という有名な言葉が世界中を駆け巡った。
アメリカは失敗に次ぐ失敗で、宇宙開拓分野で遅れを取っていた。このままでは、もしも戦争になったら負けてしまう。
ケネディ大統領は焦りまくっていた。

宇宙飛行を成功させるためには、解析幾何学のできる「天才」が必要だ・・・、という指令のもと、キャサリン・ゴーブル・ジョンソン(タラジ・P・ハンソン)が抜擢され、西から東へ、スペース・タスク・グループに移動することになった。
そこはエリート白人男性の天下。主任のポール・スタフォード(ジム・パーソンズ)は、自分の計算が黒人女性に検算されることを侮辱と受け取った。

機密事項だからと、キャサリンに渡された資料は、あちこちが黒マジックで消され、「海苔弁」状態だった。
そんな中、様々な妨害に屈せず、キャサリンは着々と結果を出していった。
本部長のハリソン(ケビン・コスナー)は、そんな彼女を次第に認め、フォローをしてくれるようになった。

西計算グループのドロシー・ヴォーン(オクタヴィア・スペンサー)は、1年も責任者代理として業務をこなしていたが、臨時雇いのまま。昇進を願い出ても却下されつづけた。
あるとき、IBMのコンピューターが導入されたことを知る。このままだと、自分たちの仕事がなくなってしまう。自らプログラミングの勉強をし、グループの黒人女性たちをプログラマーとして教育した。
ドロシーの手によって、はじめてIBMは動きはじめたのである。

メアリー・ジャクソン(ジャネール・モネイ)は、遮熱板の不具合に意見をし、上司からエンジニアになることをすすめられた。でも、必要な学位を取るためには、バージニア大学かハンプトン高校での上級講座を受けなくてはならない。どちらも白人専用で、黒人女性は門前払いである。
メアリーは一大決心をして、裁判所に請願書を提出した。そのときの判事への彼女の申し立ては圧巻で、感動ものである。

NASAに宇宙飛行士たちがやってきた。職員が勢ぞろいをして出迎える。白人たちと握手をしたあと、建物に入るように促された。
でも、海兵隊員のジョン・グレン(グレン・パウエル)は、制止を振り切って、黒人女性たちと挨拶を交わす。さすがヒーロー、人間性がすばらしい。命がけで宇宙に出るのは、彼自身なのである。

ヴィヴィアン・ミッチェル(キルスティン・ダンスト)は、いつも暗い顔で、微妙な表情を浮かべている。
黒人女性たちの直接の上司なので、嫌なことを伝える役目であるが、彼女自身も男社会の中で、女性として差別を受けているんだろうな・・・、
しかも、たぶん独身で、仕事のために、プライベートライフを犠牲にしてやってきたんだろうな・・・と想像してしまう。

キャサリン、ドロシー、メアリーは仲良しで、それぞれ結婚して子供がいる。家族ぐるみ、地域ぐるみのつきあいで、みんな楽しそう。
非正規雇用され、差別されたおかげで、女としての人生を生きる余裕があったのかもしれない・・・と想像してしまう。

彼女たちは数学の天才として優秀であるだけでなく、決意に満ちて、前向きで、仕事に一生懸命である。しかも、自分のことだけでなく、周囲の黒人女性たちのことまで考え行動する、開拓者でもある。

1963年にはケネディ大統領が暗殺され、1965年にはマルコムXが暗殺され、1968年にはマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺された。
既得権を守りたい白人たちと、差別撤廃を願う黒人たちの戦いは、このあともえんえんと続くのだが・・・
こんなふうに、ひとりひとりはちっぽけでも、いろんな人間がいろんな分野で自分にできることを貫いて行った歴史を知ることは嬉しい。

楽しんで、感動して、前向きに生きる力を与えられる映画なのである。
みなさんもぜひ見てね~~
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