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 母のリハビリカルテ 4 - 2010年 11~12月 -
 <4カ月半たって現実に気づきはじめる>
金銭問題、解決への取り組み
母を東京に連れてくる決心をしたときには、どの銀行に口座があって、預貯金がいくらあるのかも知らなかった。弟夫婦が母の通帳も年金手帳も渡す気がないことを知って、自分で調べるしかなくなった。
母の大好きな長井のばあちゃんの旦那さんは、かつて山形銀行の支店長だった人である。酒田市で勤務していた時代に叔母夫婦の家に同居して、洋裁と和裁を習ったそうだ。父と結婚し、私が生まれたのも酒田市である。
母の従弟が山形銀行に勤めていたので、電話をしてきいてみたら、「退職して新潟に家を建てたときに、山形銀行の口座を解約して、預金はぜんぶ第四銀行にうつした」と教えてくれた。

リハカルテ・1に登場した「認知症だろ~」と言った高校時代の友人は第四銀行に勤めている。彼に電話をしたら、「調べることは可能だけど、そんなことをする必要はない。通帳を紛失しましたと言えばすぐに再発行してくれる。金の問題は簡単に解決できる。何の問題もない」と言うのである。
「金の問題じゃないだろ~。気持ちの問題だろう~」とくり返す。もちろん気持ちは最悪にブラックだったけど、お金の問題は最重要課題である。毎月の病院代の支払いがあるから、弟が送ってくるお金をあてにして待つ余裕はない。

第四銀行は東京に支店が2つしかないので実用的じゃない。再発行してもらうとしても、まず調布の銀行に口座を作るのが先である。母の年金の振込先をそこに変更すれば、自分でお金の管理ができる。
見舞いにも来ない、状況把握もできない、そういう人間が「金の管理」をしようとは!まったく非現実的な言い草で、「嘘も休み休み言え!」である。

彼は成年後見人制度のことも教えてくれた。でもうちの患者さんにその話をしたら、「いろいろと面倒なのよ。自由にお金が引き出せなくなるし。なんとか姉弟で話し合って、穏便に解決するほうがいいわよ」とアドバイスされた。
弟と話し合いをする気はないので、ひとり密かに事を進めようと決めた。
3カ月たってROM(関節可動域)訓練をはじめた
11月1日、ほとんどの時間は眠りこけている母だけど、この頃には私が声をかけるとすぐに目を覚ますようになった。調子がいいときは一気に覚醒し活気づくこともあって、そういう日は数十分だけ「ほとんど普通の人」のようになる。
「買ったおにぎりにはこんなに具が入っていない」と言いながら、私のおにぎりを手にもって美味しそうに食べた。
パーキンソン症状があるので、数日空くだけで身体がどんどん硬直していく。あん摩でほぐしてから、ホールの中を歩き回った。

3日、母の妹(ヒロコ)夫婦がお見舞いに来てくれた。車で調布駅に迎えに行き、「何かお土産を」と言うので、母の大好物のお団子を買って病院に行った。
他の兄妹はすでに他界しているので、たったひとり残っている妹なのである。母は大喜びして、一気に元気になった。顔面神経麻痺が残った人のように、まだ顔がゆがんでいたけど、この日はまるで普通の人だった。ひとりで喋りまくる妹の話をニコニコ笑ってききながら、おにぎりとお団子を美味しそうに食べた。
そのあとみんなで多摩川まで散歩に出かけた。用心に車椅子を押していったけど、必要なしだった。妹と腕を組んで楽しそうにおしゃべりしながら、片道15分ほどの道のりを、往復とも自力で歩けたのである。すごい!
病院の前にバス停がある。時刻表を見たら次のバスがすぐなので、そこで別れの挨拶をかわした。母は「また来てね~」と、名残惜しそうに見送った。

5日、焼きおにぎりを作って行った。「味噌にする?醤油にする?」ときいたら、「両方食べる」と言って、ふたつともパクパク食べた。
あん摩をしているときに、右肩の動きが悪いことに気がついた。拘縮のはじまりかもしれないと思って、あわててROM訓練をはじめた。平行棒の中を歩かせたあと、トイレに連れて行った。

ROM(range of motion=関節可動域)訓練とは、脳障害の患者さんの手足を他動的に動かして、関節の拘縮を予防するリハビリである。週に2回やることで拘縮が防げると言われている。
<→FAQ26「拘縮予防のROM(関節可動域)訓練」で、リカちゃんをモデルに、具体的なやり方を紹介してある>

鍼学校を卒業したあと調布病院に就職して、脳外科の患者さんのリハビリをやっていた。脳梗塞などで半身不随になると、不自由な半身が「自分にある」ということを認識できなくなる。それを「失認」という。自分でピクとも動かさなくなるので関節が固まってしまう。それを「拘縮」という。
鍼がやりたくてたまらなかったし、深く考察することもなく、言われるままにやっていただけだった。リハビリの経験はたったの10カ月だったので、すっかり忘れていたのである。はじめて、ROM訓練の重要性に気がついた。

3カ月前、母は向精神薬で脳障害を起こした。脳の隅々まで津波に襲われたようなものである。昏睡状態から脱したとはいえ、脳の修復には年月がかかる。
ほとんどの時間はベッドに寝かされていたし、車椅子の上でもよだれを垂らして眠りこけていた。看護師さんや私や、誰かに面と向かって話しかけられたときだけ、目覚めて動き出す。それ以外の時間は微動だにしなかったのである。
脳損傷がある母にはROM訓練が必要不可欠だったのだ。

レビー小体型認知症」の症状のひとつ、パーキンソン症状は筋肉の「固縮」を起こす。本人の意志とは関係なく、筋肉が常時緊張している状態になるので、硬直が進んでしまうのだ。
新潟の老健、江風苑にいた2年間、ずっと寝てばかりいたのに母の筋肉が落ちていないことが不思議でたまらなかったのだけど、その謎が解けた。
「筋固縮」をあん摩でほぐしてリセットするけれど、病気の進行には逆らえない。晩年には全身が固縮してマネキン人形のようになってしまった。

肩関節は拘縮がはじまってからROM訓練をスタートしたので、70%の維持がやっとだった。でも訓練をつづけたおかげで、全身の関節可動域はほぼ100%を維持できた。最後の方は固まったバルブをこじ開けるような、ものすごい力が必要だったけど、前回の可動域までは持っていけた。
調布病院のリハビリの主任には「50%の可動域で十分。これは着替えや車椅子への移乗など、介護する人間が、介護をしやすくするのが目的だ。壊さないように。それだけ気をつけろ」と教えてもらった。
それでも100%を目指したのは鍼灸師としてのプライドである。肩関節以外は拘縮が始まる前からの訓練だったし、娘だからできたことだ。職員だったらリスクを考えて、そこまでは出来ない。
おばあさんには「あなたが一番」が大切
11月6日は母の誕生日である。特養でリハビリをしているサクラさんがまた来てくれた。母の状態をみてもらい、いろいろアドバイスをしてもらった。サクラさんに手を引かれ、母は生き生きとして、おしゃべりをしながら多摩川を歩いた。この日は階段昇降の訓練もやった。
夜はあんずも来てくれて、4人でパルコのレストランに行き、母の誕生パーティをやった。サクラさんに魔法をかけられたみたいに母は華やいでいた。

サクラさんはお年寄りに親身になって寄り添い、「人」としての尊厳を持って接する。彼女の「魔法」は「古き良き時代」を蘇らせるのだと思う。
年を取って身体がきかなくなって、人の世話になるしかなくなった。家族のお荷物になってしまった・・・、そんな現実の自分に落ち込んでいる。
でも昔は、「お母さん」「お母さん」と、自分がいなければ夜も日も明けない時代があった。自分が家族の中心で、みんなの世話をして、みんなに愛され頼りにされていた時代があったのだ。
サクラさんに会うと、昔の自分に戻ったような誇らしい気持ちになれるのだと思う。

おばあさんの治療には「あなたが一番」が欠かせない。
調布病院でふたりのおばあさんと仲良しになった。甘えん坊でかわいらしくて、退院したあと、出張治療に行くようになった。そのうち家族の治療もするようになる。
ふたりとも独身の息子さんが世話をしていた。仕事をしながらの介護に疲れ果てている姿を見ると、だんだん介護する側の人間に同情するようになる。
「あなたが一番」じゃなくなると、おばあさんとの親密な関係が失われ、治療終了のときがやって来るのだ。

昔からの患者さんが、姑を引き取って介護するようになった。そばを通るたびに「痛い」と訴えられるのが最大のストレスだと悩んでいた。
鍼灸で少しでも楽にしてあげようということになったんだけど、家族に同情している私は適任じゃないと思った。
サクラさんにお願いしたら、予想以上の結果になった。お姑さんはすっかり彼女の大ファンになり、つらい晩年に「幸福」を感じることができたのだった。

8日、一昨日の誕生パーティの疲れが残っていたらしく、母は調子が悪かった。

10日、母はまだ調子が悪く、お団子は食べたけれど、歩くときにヨタヨタしていた。

12日、犬を連れて歩いて病院に行った。母を車椅子にのせて多摩川に向かう途中、いきなり母が「なんでこんなにサービスをしてくれるの?」とつぶやいた。
「あら、逆の立場だったら同じことするでしょ?もしも私が交通事故かなんかで先に障害者になったら、今の私以上に、全力で看病してくれるでしょ?」と答えた。
母は黙っていたけど、おおいに納得してくれたようだった。河川敷で一緒におにぎりを食べたあと、ゆるやかな坂道を、車椅子を押して歩かせた。
母は自分の元気に自分で喜び、生き生きしていた。
家に帰りたい・・・母の本心を知る
11月13日、病院の近所に住む患者さんが教えてくれた。すぐそばにある東宝(テニスとゴルフのクラブ)にカフェがあって、誰でも入れるとのことだった。
ポプラと一緒に、母に車椅子を押させ、歩いてオスカーに出かけた。車椅子を入口に置いて、歩いてテーブルの席についた。母はホカホカのホットサンド手に持って「美味しい」と大喜びで食べた。
帰り道で、母が「ポプラがいるから、病院には帰らない」と言い出した。ポプラは優しくて力持ちだから、彼がいれば私の家で暮らすことができると思ったのだろう。
「ポプラは埼玉県で1人暮らしだから、うちにはいないんだよ」と母を説得したんだけど、『やっぱり家に帰りたいんだ・・・』と、母の本心を知って困ってしまった。

15日、この日の母は妄想が強かった。そういうときほど元気でニコニコしている。
実家が更地になっていて「売り地」の旗が立っている夢を見たそうで、「家は売られて、もうないんでしょ」と何度もくり返した。いくら言ってもダメなので、実家のお隣さんに電話をして「家はちゃんとある」と話してもらった。
帰るときに、「私も一緒に帰る」と言われ、胸がつまった。

17日、小雨が降って寒い日だった。母を銀行に連れて行こうと思ったのだけど、「調子が悪いし、寒いから行かない」と断られた。
母に「おにぎりは?」ときかれたけど、外食の予定だったので何も持っていなかった。ぐりぐりとあん摩をしたら、「痛い!」とブリブリ怒った。

18日、おにぎりとフランスパンは食べたけど、頭がショートしていた。

21日、ポプラと病院に。あん摩をしていたら、母の踵に直径4センチぐらいの水ぶくれのようなものができているのを見つけた。看護師さんに話したら、「これは褥痩のなりはじめです。早く発見できてよかった」と言われた。
リハビリのあと、母を車に乗せてパルコに行った。秋田在住の叔母(父の妹)が娘と一緒に来てくれたのである。レストランで食事をしたのだけど、娘(私の従妹)はとても優しくて涙もろい。別人のようになった母に驚いて、「どうしてこんなことに・・・」と、ずっと泣きながら母の手をさすっていた。
従妹は東京在住なので、「脳を活性化するために、ときどき会いに来てあげて」とお願いした。

22日、おにぎりを持って行き、リハビリをした。

23日、朝もち米を炊いて、母の大好物の納豆おはぎを作って持って行った。母は大喜びしたけど、あいにく調子が悪い日だった。あまりもノロノロと食べるので、見ている方が疲れてしまった。

25日、お団子を買って病院へ。母の大好きな『長井のばあちゃん』に似た人がいるので、一緒のテーブルに坐っておしゃべりをした。

27日、私の高校時代の友人が母のお見舞いに来てくれた。昔実家に泊まったこともあるので、母はちゃんと覚えていた。彼女はお茶目で面白い人なので、とても喜んでくれたんだけど、あいにく調子がイマイチの日だった。
おにぎりを食べさせたけど、口からボロボロこぼれ落ちてしまう。綺麗好きだし、おしゃれで見た目を気にする母なのに、洋服についたご飯粒も気にならない状態だった。
母の銀行口座をつくることに成功
11月29日、母が元気そうだったので「今だ!」と思った。脳が混とんとしている年寄りを連れていったら、悪人と思われるかもしれない。母の調子がいい日を見計らっていたので、何か月も待つことになったのだ。
車椅子を運ぶのは重いし面倒なので、歩かせることにして、母を車に乗せてみずほ銀行に行った。
はじめは元気だったのだけど、さんざん待たされているうちに、どんどん失速していった。やっと銀行員に呼ばれた頃には、かなりヤバイ状態になった。認知症の人間を騙してると疑われては困る・・・と、内心ハラハラ、ドキドキである。

口座を作るにはサインをしなくちゃならないのに、テーブルの上の用紙を前にして母はボーゼンとしていた。この状況を理解しているかどうかも怪しい。客観的に見ると、母はあきらかにちょっとおかしいのである。無言で固まっている母の隣で、私がひとりで明るくしゃべって、まともなそうな雰囲気を演出した。
母に顔が似ていることがイヤでイヤでたまらなかったけど、このときはそれを神に感謝した。姓が違っても「親子」であることが一目瞭然なのは助かる。

突然、母が「メガネ貸してください」と言った。係りの女性は「これは、気づきませんで、申し訳ありません」と恐縮して、老眼鏡を出してくれた。
果たして書けるのだろうか・・・?
母はのろのろと書き始めたが「水」の文字が大きく枠を外れていた。真っ白な紙で練習させると書けるのだけど、こういう人は「枠」があると幻惑されてしまうのだそうだ。
かなりの時間が経過して、やっと「越」に取りかかったのだけど、ミミズがのったくったような字で、しかもあきらかに別の文字の切れ端だった。
係りの女性が、「ちょっと待ってください。上司に相談してきます」と奥に消えた。しばらくして戻ってきて、「娘さんの代筆で大丈夫だそうです」と言ってくれた。

無事に母の口座をつくることができて、第一段階クリアである。お金を送ってもらうためにいちいち弟に電話をするのがものすごいストレスだったけど、その苦痛ももうすぐ終わる。心底ほっとして、すばらしい解放感を味わった。
次はご褒美の外食である。「口座をつくったら外食だよ」と、出かける前に餌を投げておいたのだ。
また母を車に乗せて、馬車道でパスタを食べさせた。母は大仕事をこなしたあとなので疲れきっていた。はじめはなかなか食べられなかったけど、ゆっくりと時間をかけて、なんとか完食することができた。

30日、おにぎりとプリンを持っていった。前日の疲れが残っていてボーッとしていたので、食べさせるのにものすごい時間がかかった。
年金の振込先の変更をした
12月1日、母の年金の住所変更と振込先の変更をするため、府中の社会保険庁に行った。駐車場を探すのが面倒だったので、母を連れずにバイクで出かけた。
待合室でリュックの中を探ったら、私との親子関係を証明する書類とかを何も持って行かなかったことに気がついた。もちろん年金手帳もない。大丈夫だろうか・・・と、またもやハラハラ、ドキドキである。
職員さんに新潟での住所をきかれたんだけど、うろ覚えだった。「すみません。途中で住所表記が変更になったので、新しいのを覚えていないんです」と言ったら、「その前の住所を覚えていますか?」と訊かれた。
古い住所は暗記しているのでスラスラ答えたら、それでOKになった。あっけなく任務完了し、第二段階クリアである。

その日、都立松沢病院でクラーク(事務)をしている患者さんが現れた。母が青木病院に入院中という話をしたら、「じゃ、五味淵先生がいるでしょう」と言われた。
そこではじめて、五味淵先生が松沢病院で薬を使わない治療に取り組んだ有名な先生だということを知ったのである。
「とっても優しい先生で、誰に対しても気さくで親切で、ほんとうにいい先生なのよ。あなた、ものすごく運がいいわね~」と言われたのである。
たしかに母はものすごく運のいい人で、そして私もそうかもしれない。
歯の崩壊がはじまった
12月2日、母のレシピのポテトサラダを作って持って行った。リンゴを食べたとき母がいきなりフリーズ、手の平をジーッと見つめていた。そこには歯が1本のっかっていた。奥歯がポロリと抜けたのである。「歯医者に行こうね」と言いながら、内心はビックリ仰天だった。こんなに簡単に歯が抜けるなんて想像もしていなかった。
歯磨きと歯の健康には無視できない相関性があったのだ!
口の中に食べ物が残っていても気づかない。歯についた食べかすを舌できれいにすることもできない。自分では歯も磨けない。職員さんが毎食後磨いてくれてはいるのだけど、他人の歯を隅々まできれいにするのは不可能である。
母の歯がほぼ健在だったことが、認知症になったら逆に厄介になった。この先も次々に歯が抜けていくという、歯との格闘のはじまった。

3日、靴下を買って持って行った。うちの患者さんが自慢のおはぎを作って、「お母さんにも」と差し入れしてくれた。母は大喜びで食べたんだけど、看護師さんに怒られた。もち米はリスクが高いらしい。

6日、母を迎えに行って、野原歯科に連れて行った。うちの患者さんで、昔、「入れ歯の細かい調整が好きなんだよね」と言っていたのを思い出したのである。 優しい奥さんが車まで迎えに来てくれて、母を支えて診察室まで歩かせてくれた。
自分の母親の介護を一生懸命にやった人なので、うちの母にもほんとうに親身になって接してくれた。

8日、たっぷり時間があったので、念入りに母のリハビリをやることができた。
老人保健施設に面接に行く
12月9日、青木病院から「そろそろ老健に移りましょう」と言われていた。老健(老人保健施設)はリハビリ目的の施設である。
同じ敷地に建っている青樹に申込書をもらいに行き、青木病院に診断書をお願いし、母のところに寄る時間がなくなった。

10日、母にお団子とおにぎりを食べさせて、リハビリをした。

12日、朝作った納豆おはぎを仕事の合間に持って行ったら、バイクの警官が病院まで追いかけてきた。一時停止の交差点で、違反するのを隠れて見張っていたのだそうだ。怒り心頭である。
「ほんとうに警察官なんてろくなもんじゃない!」「あんたたち、いったいどこまで邪魔すりゃ気が済むの!」と警官に怒鳴り散らした。
たった1時間しかないのである。警官に免許証を渡して、いそいで病室に駆け込んだ。時間がたってちょっと硬くなっていたし、母は調子がイマイチだったので、あまりにものろのろとしか食べられない。
警官の悪口を言いまくっていたら、「あの場所はいつもやっているのよね。私も通勤のときに捕まったことがあるのよ」と看護師さんがおおいに同情してくれた。
切符を切られて唯一のいいことはみなさんが共感してくれることである。看護師さんが残りを食べさせてくれることになったので、いそいで違反切符を受け取って、仕事場に戻った。

13日、調布市役所でおむつ代の助成金の申請をしたあと、お団子を買っていって母に食べさせた。

16日、母のリハビリのあとで診断書を受け取り、青樹に提出し、面接の日時を決めた。

18日、お天気が良かったので、犬を連れて歩いて病院に。母に車椅子を押させて歩かせ、近所のお蕎麦屋さんに入った。

20日、青樹で面接し、空きがあり次第に入所できることになった。「うちの食事は美味しいと評判なんですよ」とのことで、グルメの母にはもってこいである。リハビリをしてくれる施設に入れたら、私の負担が軽くなる。
4ヶ月半たって現実認識ができるようになりはじめた
12月22日、おにぎりを食べていたとき、母がこぼれ落ちたご飯粒に気がついた。洋服に落ちたご飯粒を手できれいに拾って食べ、手にくっついたご飯粒もぜんぶきれいに食べたのである。やっと身の回りのことに気がつくようになったのだ。
下着を買わなくちゃという話をしたら、「洋服ダンスの中に新品の下着が入っていたのに」と残念そうに言った。にっこり笑って、「新潟にいるものとばかり思っていたら、違うんだもんね」と言ったのである。
脳障害を起こした患者さんたちに聞くと、みなさん最初の数カ月のことは記憶になく、何も覚えていないそうだ。
この日は目力があって、表情もはっきりしていた。脳障害から4カ月半、母もやっと現実認識ができるようになったのだ。快挙である。

25日、青木病院の精神科の面会時間は1時半~4時半で、時間厳守だ。「どうしても間に合わないときは電話を入れてください。でも毎回は困りますよ」と厳しく言われていたので、電話を入れてから5時に病院に到着した。
おにぎりを食べながら、「前のほうが鮭が美味しかったね」と感想を言った。
歩行訓練をしていたら、母が「地面の下に小判が埋まっているのを見た」と言う。「うちの先祖が埋めたものだから、あとで掘りに行こう。これでお金の心配をしなくてもよくなる」と、とても嬉しそうだった。
「弟夫婦のせいでお金の心配をしなくてはならなくなっている」という現実認識と、「小判が埋まっている」という妄想と、両方が混在するのが母の病気の特徴なのである。

27日、おにぎりとリハビリ。

28日、4時に行ったので、母のリハビリを30分だけ。

31日、お正月をうちで過ごすために、ポプラと一緒に青木病院に母を迎えに行った。この日のことは次ページでまとめた。
母の帳簿をつけはじめる
まわりの友人たちを見ると、まず親のお金を使い、使い果たしたら自分で出すというやり方をしていたので、私もそうするつもりだった。
自分のお金と母のお金がごちゃまぜになるのは困る。「金目当て」と疑われるのも心外だ。仕事で使っている会計ソフトで母のお金の管理も出来たので、帳簿をつけることにした。
弟はどんぶり勘定でずぼらな性格である。自分がいつ、いくら送ったのか覚えていないに違いないと思って、そのお金もすべて記帳してあげた。

数字が苦手なので帳簿付けはほんとうに苦痛だった。あまりの苦痛に手数料をもらうことにした。病院に通うためのガソリン代、おにぎりなどを作る材料代とか、目に見えないお金もかかる。月に3万円、計上した。
子どもたちは遠方に住んでいたので、手伝いに来てくれたときは交通費として2000円を計上した。実際には上げたわけじゃない。それを別口座に入れておいて、お金が足りなくなったときに使うつもりだった。
もしも使わずにすんだら自分のものにする。高みの見物をした人間と、苦労をした人間が、同じく半々で遺産を分けるなんて、理不尽なこと極まりない。

でもその思惑は途中で挫折した。母のリハビリを優先にして患者さんを断ったせいで、どんどん仕事がヒマになっていった。こっちの生活が厳しくなったので、結局は自分で使わざるをえなくなった。
母は気前のいい人間で、人に借りをつくるのが大嫌いな性格である。もしも母の目が「黒かった」ら、もっと多額のお金を私に渡したがっただろう。
私は余分なお金をもらうのが大嫌いな性格なので、それが順当な着地点だったのである。

仕事でやっているように、はじめの2年間はパン1個の領収書も保存していた。お菓子の缶に入れておいたのだけど、ついに缶が満杯になった。そこまですることはないだろうと思って、そこからは全部捨てることにした。
のちの調停のとき、相手の弁護士が「○月○日、スシローで3○○○円、これについては領収書があるんですか!」と、居丈高に私に脅しをかけてきた。
ムッとした私は「そんなものありませんよ。お菓子の缶がいっぱいになったので、ぜんぶ捨てました!」と答えた。
うちの弁護士が割って入って、「では、ある期間合っていれば、全期間通して合っていると認めてくれますか?」ときき、相手が承諾した。
2年分の詳細な領収書のコピーを見せられて、相手弁護士はさぞかし真っ青になっただろう・・・、と思うと、ちょっとだけ溜飲が下がる。
(ちなみに弟夫婦が使った120万円に関しては、領収書はおろか、明細すら提出してこなかった)

帰りがけに「親の介護をする人間は、領収書をすべて保管しなければならないという決まりがあるなんて、ちっとも知りませんでした!」と毒づいた。
調停員さんたちはふたりとも思いっきりうなづいて、共感の気持ちを示してくれた。
<この日のことは私のブログ(2019/4/20)で紹介してある>

遺産相続の調停で「使途不明金」と「不当受益返還要求」で、合計2500万円も請求されたけど、帳簿のおかげでほんとうに助かった。
ある患者さんが「個人事業主でよかったですね。サラリーマンならアウトだな」と言っていた。普通なら病院代がいくらとか洋服代がいくらとか、6年半もさかのぼって調べるのは不可能である。
うちの弁護士さんによれば、今の日本の法律では、介護した人間がお金を請求され、しなかった人間が利益を得るようになっているのだそうだ。
みなさんも用心、用心である。

母を東京に連れてきてから弟に手紙を書いた。老人介護や医療の現状について、これまで書いてきたようなことを懇切丁寧に説明した。あの頃は分かってもらおうと一生懸命になっていたのである。
長い手紙を、9月24日、10月13日、11月16日と3通も出した。相当な睡眠時間を削って書いたのに、返事は1回も来なかった。
ある患者さんに、「こちらがいかに誠実に対応してきたか、証拠として保存しておいたほうがいい」とアドバイスされた。うちの弁護士さんは、そこまでやるのは無駄と思っていたらしいけど、調停のときにコピーを提出した。
5ページ目へつづく
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Updated: 2023/6/26