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 母のリハビリカルテ 16 - 2015年8月~2016年7月 -
 <パーキンソン症状が悪化して筋肉の硬直が進む>
ROM訓練がまるで筋トレのようになる
母が新潟で向精神薬で植物人間寸前になってから5年がたった。ちょうふの里に入所してから1年9カ月である。母のリハビリは週に1回がやっとになった。どうしてもそれ以上がんばろうというエネルギーが湧いてこないのだ。
罪悪感に駆られて、「母のところには週に1回ぐらいしか行けてないのよ」と、特養でリハビリの仕事をしているサクラさんに言った。
彼女は「週に1回行けば充分よ。毎日とか来られると、職員もプレッシャーがかかって大変なのよ。それぐらいがちょうどいい距離感だわ」と、お墨付きをくれた。

母の身体はパーキンソン症状が進み、枯れ木の彫刻のように硬くなった。
ROM訓練はだんだん「筋トレ」のようになっていった。ジムでバーベルを持ち上げるイメージである。筋肉の硬直が強いので、関節を動かすために、錆びついたバルブをこじ開けるような力が必要になったのである。
母の腕を1本持ち上げるだけでも、使うのは腕の筋肉だけじゃない。足で踏ん張らなくちゃならないので、足腰の筋肉を使う。もちろん上半身も使うので、全身の筋肉を酷使することになった。
仕事の前傾姿勢で腰に負担がかかる。テニスで(それまで使っていなかった)筋肉を酷使する。そのうえ母のROMでものすごい力がいるようになって、私の身体は壊れかかっていた。つねに腰痛に悩まされ、何度もギックリ腰を起こした。
身体がなんとか持ったのは、サクラさんが隔週で鍼灸治療に来てくれていたおかげである。

本当はそこまでがんばる必要はなかったのかもしれない。
調布病院の主任は、「50%でいいからね。これは本人ではなく介護する人のためにやるのだから。着替えや車椅子への移乗などに支障がない程度の可動域があれば充分だ。関節を壊さないように気をつけるほうが大事」と言っていた。
ある施設での話をサクラさんが教えてくれた。入所者の拘縮予防のために、ワーカーさんたちがROM訓練を覚え、全員で取り組むことにしたそうだ。結果、骨折者が続出し、断念することになったという。
それぐらいリスクの高い訓練なのである。

それでも100%の可動域を目標にしたのは鍼灸師としてのプライドである。拘縮がないときからやっているので、母の身体のことは熟知していた。自分の親だから無謀ともいえるリハビリができたのだ。
はじめは錆びついたバルブのように固く閉まっている。とくに肩関節が硬い。ゆっくりゆっくりと動かしていくと、10回目にはスイっと動かせるようになる。前回までの可動域までは持っていけるのである。
肩関節は拘縮がはじまってからROMを開始したので、70%ぐらいの可動域がやっとだった。でも他の関節はほぼ100%を維持していた。
元気なお婆さんだってそこまで可動域を維持している人はまれである。それが私の誇りで自慢だったのである。

母の身体は悪化の一途だったけど、脳のほうは認知能力が高まっていった。母の認知症が「思ったより進んでいない」と職員さんに言われたことは朗報だった。ちゃんとコミュニケーションが取れるというお墨付きをもらったのである。
母の認知症が進んでいないと聞かされた
2015年8月4日、ROM訓練。母はあれこれお喋りをしてたけど、つじつまが合っていなかった。

11日、ROM。母は口をきかなかった。職員さんに保険証を渡した。

15日、山形の親戚から電話があり、お母さん(長井のばあちゃん)が亡くなったという連絡があった。一番仲良しの母の叔母である。長井市のホームで亡くなって、長井で火葬を済ませ、山形市でお葬式をやったとのこと。

18日、母に「一緒に歌う?」ときいたら、「歌わない」と答えたので、ひとりで歌いながらROMをした。長井のばあちゃんは耳が遠いので、もう何年も電話をしていなかった。さんざん迷ったのだけど、叔母の訃報は母には伝えなかった。
どっちにしろ母には幻視があって、いろんな人が見えていたようだ。「長井のばあちゃんがいる」とよく口にしていたから、あえて言う必要もないという判断だった。

21日、山形の親戚に2人分の香典(ご霊前)を送った。

29日、帰ろうとしたときに相談員のKさんに呼び止められた。
「ここに入所してから1年半ぐらいたつんですけど、お母さんの認知症が思ったより進んでいないんですよね」と、不思議そうに言うのである。
「え?」と驚き、内心、小躍りして喜んだ。
「娘さんのリハビリのおかげなんじゃないかと思うんですけど」と言ってくれたけど、自分が貢献しているという自信はなかった。
長年介護に携わったプロフェッショナルとしては、母のような身体状況であれば、いくらホームの人ががんばっても、普通なら認知症が進むはず・・・、「違い」は私のリハビリ、という判断をしてくれたようだ。

週一のリハビリにそんな効果があるとは思えない。「いえいえ、みなさんの介護のおかげです。ありがとうございます」とお礼を言った。
母が使わなくなった背もたれを寄付したいと話した。背中にマジックででっかく名前が書いてあるので躊躇していたのだけど、「名前なんて問題ありません。ありがたいです」と、とても喜んでくれた。

酒田の土地が売れた話をしたとき、母は半年ぶりにまともな口をきいた。とっくにボケちゃったと思い込んでいた私は、母のしっかりした返答にびっくり仰天した。それ以来、相互理解に基づいた会話ができるようになっていたのであるが・・・
毎日介護をしてくれているプロが、客観的に見て「母の認知症が進んでいない」と判断してくれた。それが真実と信じることにした。大いに励まされて、会話に取り組むエネルギーが湧いたのである。
関節の拘縮の勢いが強まっていく
9月5日、山形の親戚がお米を送ってくれたので、お礼の電話をした。

9月9日、間があいてしまったので、母の関節や筋肉がだいぶ硬くなっていて、ROMのときに母はとても痛がっていた。

17~18日、新潟市。父の墓参りをしたあと、実家のご近所さんたちに挨拶に行き、お土産とお礼を渡した。

19日、母に新潟に行った話をしたら、ご近所さんのことをあれこれ話してくれた。

21日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。敬老の日なのでものすごく混んでいた。30分待ちのはずが1時間以上も待たされ、母は疲れてしまったようだ。「食べない」と言った。

27日、ROM訓練。

  

10月3日、プリンとお菓子を買って行き、職員さんに預けた。ROMをしながら「リンゴの唄」を歌ったら、母の目が踊った。

6日、ROMのあと、母の妹(川口のヒロコ叔母)に電話をかけた。母とお喋りさせたのだけど、叔母は耳が遠いうえにアルツハイマーである。通訳が大変だった。

11日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。母は調子が悪くて2皿ぐらいしか食べられなかった。相談員さんに背もたれを渡した。

21日、母がボーッとしていたので、歌いながらROMをした。

27日、インフルエンザの予防接種の申し込みをした。本来なら拒否をするところなのだけど、逆らえない。母はうつろな目をして、話しかけても返事をしなかった。ROMをしたけれど、拘縮の勢いが増していると感じた。
旧友と妹と、久しぶりの電話でみんなで泣いた
11月5日、母の酒田時代(結婚前)からの友人、エミちゃんから電話があって、母の様子を聞かれた。エミちゃんは母より3歳年上で86歳だ。目黒区の軽費老人ホームに入所しているけど、認知症はかけらもないのである。話が通じる80代はほんとうに貴重な存在である。

6日、母の誕生日、83歳になった。ROMをしながら、「昨日、エミちゃんから電話があったんだよね」と言ったら、母は目を開け、「それで?」と先を促した。あれあれ?まともな会話ができる?と驚き、そして大喜びした。こんなふうに毎回一喜一憂していたのである。

14日、母がしっかりしていたので、「エミちゃんに電話する?」ときいたら、「する」と答えた。エミちゃんに、「母は大きな声が出せないから、適当にお喋りしてね」と言ってから、母に携帯を渡した。
「みっこちゃん、元気~?」とエミちゃん。母が小声で「大きな声が出せなくてごめんね」と言うと、「え~~?」とエミちゃん。エミちゃんは耳が遠いし、母は声が小さいので、音声をスピーカーにして、ときどき私が通訳をした。
エミちゃんの声を聞いているうちに、母がいきなり泣き出した。顔がグシャグシャになって、涙があとからあとからほとばしり出て、声も出せなくなった。
私が「ごめんね、母、泣いちゃって、声が出せないの」と言ったら、エミちゃんも「私も今泣いてるのよ~」と言い、電話越しに2人して泣いていた。
ひとしきり泣いたあと、やっと落ち着いた。エミちゃんが思い出話などを母にあれこれ話してくれ、母は一心に耳を澄ませていた。

ROMのつづきをやって、「そうだ、ヒロコおばちゃんにも電話する?」ときいたら、母は「する」と答えた。
叔母も耳が遠いので、携帯をスピーカーにして、私がときどき通訳をした。また母は顔をグシャグシャにして泣きはじめた。叔母に「母が泣いちゃって、声が出せないの」と言うと、「私もこっちで泣いてるのよ~」と言った。
しばらく泣いたあとで、やっと落ち着いた。アルツハイマーの叔母がペラペラお喋りして、母は黙って話を聞いていた。

母の調子が良くて、しかも私に時間があってと、そういうタイミングがなかなかないので、我ながらいい思いつきだった。
エミちゃんのことも妹のことも覚えているということは、当然、私のことも覚えているということだな・・・と思った。母が無言で無表情なので、ときどき気持ちが空回りしてしまう。リハビリに通うことが空しく感じられたりしたのだけど、またやる気が出た。

11月17日、ROM訓練。

20日、母がまともにしゃべっていたので、またエミちゃんとヒロコ叔母に電話で話をさせた。携帯をスピーカーにして、ときどき私が通訳をした。今回は誰も泣いたりせず、楽しそうに会話をしていた。電話のあと、歌いながらROMをした。

26日、ROM訓練。最後のメニューで肩を回すとき、母も途中まで一緒に数えてくれた。

  

12月4日、ROM訓練。

11日、ROM訓練。

22日、私を「良子」と呼んだけど、あとは無言。歌いながらROMをした。

25日、歌いながらROM。母は無言だったけど、目がキラキラして、私の歌を喜んでいるようだった。
お正月はほとんどマネキン人形
2016年1月1日、ポプラと一緒に母をホームに迎えに行った。職員さんが「大丈夫かな。今日はご飯を一口も食べられなかったんですよ」と、心配そうに声をかけてくれた。
車椅子は下に置いて、ポプラが母をお姫様抱っこして、3階までの階段を上ってくれた。あんずとトモ君も到着した。大人だけ5人でお正月を祝った。
母は本当に調子が悪くて、目も開けない、身動きもしない、返事もしない、ほとんどマネキン人形状態だった。好きな食べ物を口に入れてあげても、ときおりのろのろ噛むだけ。食べ物が口の中に残ったままで、「送り」がまったくできなかった。あきらめて母をおふとんに寝かせた。

しばらくしてまた母を食卓に坐らせたけど、やはりマネキン人形状態で、一口も食べられそうになかった。
「そうだ、イトーヨーカドーに買い物に行く?」と母にきいたら、「行かない」と小さな声が聞こえてきた。「買い物に行こうよ!」とまた言ったら、「行かない」との答え。その日はこの二言しかしゃべらなかった。

でも無理やり母を連れ出すことにした。本人は動けないので「されるがまま」である。人形の母を抱き上げて、階段を下り、車に乗せた。イトーヨーカドーで車椅子を借りて、店内をうろうろしたけど、車椅子の上でもマネキン人形状態。
いろんな洋服を母のところに運んで、「買う?」といちいち聞いてみたけど、目も開けないし、口もきかない。みんなで母に似合いそうな洋服を選んだ。
おやつのケーキも買って帰った。

家に帰って、母をおふとんに寝かせて休ませた。30分ぐらいして、また食卓に坐らせた。今度は目が開いて、お正月料理を食べることができた。
母のレシピのお料理だし、すべて母の大好物である。買ってきたケーキも食べることができて、8時半過ぎにホームに送り届けた。

6日、ROM。母は口をきかなかったけど、目は開けた。

17日、ROM訓練。

26日、ROM。母は前日から微熱があるそうで、咳も出ていた。
食べる能力が低下していく
2月2日、ROMのとき、私が歌うのをやめると、「あー、あー」と声を出した。

9日、ROM訓練。

16日、ROMの前に「お名前は?」ときいたら、「スミ」とだけ答えた。

  

3月1日、歌いながらROM訓練。母はうつろな目をしていた。

8日、母に「歌う?」ときいたら、かすかに「はい」と返事をした。同室のおばあさんが、私の歌に合わせて手拍子をしたり、一緒に歌ったりしていた。かなり調子っぱずれだった。

14日、月曜日はちょうふの里の1階のホールで、となりの障害児施設で作ったパンを販売していた。アンパンとクリームパンを買って持って行った。
ROMのあと、「パン食べる?」ときいたら、「食べる」と答えた。「アンパンとクリームパンだけど、どっちにする?」ときいたら、「どっちも食べる」と言って、美味しそうに食べた。途中で職員さんに牛乳をもらいに行き、それも全部飲んだ。
こんなふうに普通の人のように食べる母を見たのは久しぶりだった。一生懸命に食べる母を見て、かわいい!と感動した。

22日、ROM訓練。

29日、ROM訓練。

  

4月12日、ROM訓練。

14日、ROMのあと、持って行ったアンパンを食べさせたけど、半分ぐらいしか食べられなかった。

22日、ROM訓練。

29日、ポプラが来てくれ母をスシローに。先に私がバイクでホームに行き、母のROM。ポプラは車でまず整理券をもらいに行き、戻ってきて母を車に乗せて連れて行った。ちょっとだけだったけど、なんとかお寿司を食べられた。

  

5月11日、ROM訓練。

15日、ROMのあと夕食介助。途中で母が口を開けなくなったので、つづきは職員さんにお願いした。

20日、ROMのあと、母に「また来てね、とかなんとか言わないの?」と言ったら、「またね」とかわいく答えた。相談員のKさんとケアプランの話をした。

22日、この間の「またね」がかわいかったので、やる気が出た。人間てこんなふうに大局的な理性で動くのではなく、感情が原動力になるのだ。

27日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。母は元気でたくさん食べられた。

30日、ROMのあと夕食介助。途中で口を開けなくなったので、つづきは職員さんにお願いした。

  

6月10日、ROM訓練。

17日、ROMの間中、ずっと母は眠っていた。坐位のROMをはしょって帰った。

24日、ROM訓練。
ミキサー食を了承したが、母は拒否
7月2日、ROM訓練。母は表情がなく、しかも前歯が抜けていた。「ご飯食べられた?」ときくと、「食べた」と返事。二言ぐらいしゃべった。

9日、リハビリの途中で職員さんが来て、母にあれこれ話しかけてくれた。目は開いていたけど、一言も返事をしなかった。

17日、ROM訓練。母は目は開いていたけど無言だった。職員さんに、「お母さんは暑がりだから、夏用の薄物の下着を用意したほうがいい」と言われた。必要なことはちゃんと伝えられているのだ。

19日、夏物下着を買ってホームのタンスに入れた。ROMをしていたら職員さんが来て、母の食事を「粗刻み」からもっと細かい「刻み」に変えたいので、了解してほしい、と言われた。歯がどんどん抜けているし、食べられるときが少なくなっているので、このままでは栄養摂取が難しい、とのこと。
母に食べさせることがどんなに大変かじゅうじゅう分かっていたので、受け入れるしかなかった。

22日、ROMのあと食事介助。「刻み」の食事を味見してみた。「粗刻み」は普通の食事を刻んだものだけど、「刻み」はミキサーにかけたものである。白いドロドロ、黄色いドロドロ、緑色のドロドロ、赤いドロドロと、食べてみなければ何の料理か分からない。味も香りもないのである。
母はそれぞれを1さじずつ食べたあと、それっきり口を開けなくなった。口をすぼめて、思いっきり固くしめる。それが母のいつもの「拒否」のやり方で、スプーンを差し込むこともできなかった。「食べたくない」という意思表示かな?と思った。
職員さんに「4さじしか食べません」と言うと、「あとはお任せください」と自信たっぷりの様子だったけど、内心、母は『絶対に食べないだろう』と思った。
(あとで聞いたら、その通りだったそうだ)
「粗刻みに戻してもらった」で一気に活気づく
サクラさんに、母の食事のことを相談した。
彼女は「お母さんは美味しいものを知っているから、美味しいものしか食べないのよ。職員さんはそれに気づいてないのよ」と言った。「施設はご家族の要望を一番重視するから、お願いしたほうがいい」とアドバイスしてくれた。

アルツハイマーのおばあさんたちが、刻み食を美味しそうに食べているのを見ていた。口に入れてくれるものなら、何でも喜んで食べていた。
母は身体が硬直し、発語も難しく、自分からは身動きもできない状態だ。楽しみは食べることだけなのだ。「不味いものを食べて生き長らえるくらいなら、死んだ方がマシ」という考えなのだろうという結論に達した。

7月27日、職員さんに母の食事のことを話した。
脳がショートしているときは1口も食べられない。脳が目覚めているときには、食べることができるけど、だからこそ、不味いものは絶対食べたくないという気持ちになる。
食べられないときは、たとえミキサー食でも、どっちにしろ食べられない。食べられるときはお寿司だって食べられる。食べられるときだからこそ、美味しいものを食べて、生きる喜びを感じてほしいという考えである。
家族としては、胃漏にしてまで生きさせるつもりはないこと、食べられなくなったら死んでもらう、そういう覚悟をしている、と話した。
なので「食事を粗刻みに戻してほしい」とお願いした。職員さんは黙って聞いていたけど、心の中でおおいに共感してくれているのを感じた。複雑な思いはあっただろうけど、快く了承してくれた。

そのあと母のベッドに行った。「歌、歌う?」ときいたら、「歌わない」と答えたので、ROMをしながら、食事を粗刻みに戻してもらうことになった話をひとりでべらべらしゃべった。
母は黙って聞いていたのだけど、みるみる目が輝いて、どんどん活気づいていった。リハビリが終わったあと、「ヒロコの声が聞きたい」と言った。

ヒロコ叔母に電話をして、スピーカーにして私がときどき通訳してあげた。叔母はアルツハイマーがかなり進んでいて、同じ話を何度もくり返しながら、ひとりでべらべらしゃべっていた。母はとても楽しそうで、けっこうな長電話になった。

母は「刻み」の食事に辟易していたのだろう。でも、お世話になっている立場だから、自分からは何も要求できない。口をすぼめて拒否するしかなかったのだろう。
だから私の話を聞いて、ものすごく喜んで、心が活気づいたのだと思う。

31日、ポプラと一緒に母をスシローに連れて行った。職員さんに手間のかかる「粗刻み」をお願いしたからには、家族のがんばりを見せなくちゃならない。
運良く母の調子がいい日だったので、好きなお寿司をたくさん食べられた。
「来週あんずと新潟に行ってくるからね。実家の掃除をして、ご近所さんたちにお礼を言ってくる。しばらく来られないからね~」と母に言った。
施設にいるから生き延びられるという現実
母のリハビリの中心は「美味しい食べ物」だった。好きな食べ物を見ると、半昏睡状態からでも一気に蘇った。母の脳を活性化する一番手っ取り早い方法が「食べ物」だったのだ。
1年ぐらい前から母の「食べる」能力が低下していった。それでも母が「食べ物」にこだわったのは、それが一番の楽しみだったからなのだろう。
母のような人に「食べさせる」のは本当に大変なのだ。基本的に意欲がない。日内変動もあるので、脳がショートしているときは固まったまま眠りこけている。

元日に母を連れ帰ったとき、マネキン人形状態の母を見て、「母は施設にいるから生き延びられるのだ」という現実をつくづく思い知らされた。
自宅で介護をすれば、家事や雑事に追われながら母の世話をすることになる。
「また食べなかった」をくり返しているうちに、いつの間にか体力が落ちてしまう。もしくは無理やり食べさせて、食べ物をのどに詰まらせてしまう。。。

ちょうふの里の食事は美味しかった。食事の時間は総力結集で、声かけをして目を覚まさせて、食事介助をしていた。
母のテーブルには似たような人が3人坐って、1人の介助者が3人同時に食べさせていた。「粗刻み」だと噛まなくてはならない。母がモタモタと噛んでいる間に、他の人の口に食べ物を入れていた。
キャスター付きの椅子に坐っていて、ときには隣のテーブルに移動しながら複数のお年寄りに食べさせていた。各々が飲み込んだことを確認してから、次のスプーンを口に入れるという、全神経を研ぎ澄ませての仕事である。まるでいくつもの目と耳があるようだった。
ちょうふの里の職員さんたちの努力と熱意、そして難局を乗り越えるための工夫があっての大事業なのだ。

サクラさんはよく「今のお年寄りは『死ねない』のよ。死ねないことが最大の不幸なのよ」と言っていた。
施設は全館冷暖房完備で、どこに移動しても寒暖差がない。寒い部屋にいきなり入って脳や心臓に負荷をかける心配がない。外に出かけて交通事故に遭う心配もない。毎食ごとに「何割食べた」を記録し、水分摂取量や排尿排便についても記録して、体重や栄養状態をチェックしている。
プロが細心の注意を払って24時間介護をしてくれるからこそ、母のようなギリギリの状態でもなんとか生きられるのである。

相談員のKさんに「お母さんの認知症が思ったより進んでいない」と言われたのだけど、どうしてKさんがあんなに不思議そうだったのか、今になってその理由が分かった。
他の入所者はちょっとずつ認知症が進んでいって、ついに家族の手に負えなくなって施設に入った人たちである。当然そのまま衰えていく。それでKさんは「違い」の理由が私のリハビリではないか?と推測したのである。
青木病院への手紙にも書いたように、母はちょっとずつ認知症が進んでいって植物状態寸前になった訳ではない。向精神薬で一気に脳を損傷したあと、ちょっとずつ回復していった途上にあったのだ。

何年もかかったけれど、損傷した脳が修復されていった。
生存に関することはすべて施設が管理してくれる。浮世の心配事からも解放され、脳機能を最低限必要なことだけにフォーカスできたおかげだろう。
母の認知症が進まなかったのではなく、脳障害直前の状態に戻ったのだ。当時の母は自分の変化に苦しんでいたけど、まわりの人間たちも医師も異変に気づかなかった。「仮病?」と疑われた時期のレベルに戻り、それをなんとか維持していたのだと思う。
16ページ目へつづく
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Updated: 2023/12/30

































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