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2023/12/20(水) |
母のリハビリカルテ13を更新 |
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先週からテニスを再開。壁打ちだけではつまらないので、ゲームに入れてもらうことにした。ゲームをするにはサーブが必要である。
サーブ練習をしたら打てそうな気配もなかった。『何でだろう?』とフォームを分解したら、左足軸足を保持できないことが原因とわかった。左足背の傷が気になって踏ん張れないのだ。
カエルサーブは運動連鎖で打つサーブなので、1か所不具合があるだけで、すべてがバラバラになってしまう。
右足軸足でサーブを打ったら、カエルに戻せなくなってしまうかもしれない。足の傷は完治するのだろうか?という疑問はあるけど、完治する可能性がある間はフォームを崩すのはもったいない。
なのでしばらくはアンダーサーブでしのぐことにした。サーブ恐怖症のときにセカンドをアンダーで打っていたことがこの苦境で役に立った。本当に人生には無駄がないね~(笑)
スタートは上手な女性とやるのが安全と思った。優しい人たちに入れてもらって、4ゲーム先取のダブルスを2つやった。3カ月ぶりなので、自分の立ち位置も心もとなかった。
「いいボールもときどき来るし、当たりそこないもあるけど、まあまあじゃないの?」とみなさんが励ましてくれた。
2回目には普通に打つのは問題なしになった。かなり調子を取り戻したけど、欲を出して「いいボールを!」と思うと必ずミスになる。
ゆるゆるの靴下にゆるゆるのシューズなので、地面へのグリップが弱い。下半身の筋力も落ちているので、踏ん張りがきかないのである。
しばらくは「ゆるゆる」テニスしかできそうもないね~~
テニスを休んでいる間もストレッチは欠かさなかった。「可動域さえ維持しておけば、イメージ通りのテニスができるようになるはず」と信じてがんばったのである。肩も腰も膝もどこも悪いところがないし、思う存分走ることもできた。
今週は男の中に混じって普通にゲームができた。
でも「テニスって疲れるなあ」と実感。いろんなボールが飛んでくるので、コートの中で動き回らなくちゃならないのだもの。
体力をつけるためには「使う」しかない。「疲れる」ことをやりつづけないと、体力は戻らないのである。
この先の長い道のりを思うと気力が萎えそうになる。
テニスは週に2回がやっとだけど、仕事の合間に母のリハビリカルテのつづきを更新した。母がゾンビになってから4年目の記録である。
前半の「母のリハビリカルテ13」は、青樹(老健)に退所を勧告され、3カ月後にちょうふの里(特養)に入所できた半年間の話だ。
当時は忙しすぎて気にも留めなかったんだけど、今になって「あれ?」と驚くことが起こったことに気がついた。
酒田の土地売却のために遺産分割協議書を作成しなくてはならないのだけど、弟の印鑑証明書だけが何か月たっても届かなかった。
司法書士さんに言われて電話をしたら、「実はあの土地におれの権利はないんさ」と告白された。
初耳だった。弟夫婦の悪口を一切言わなかったのは、息子の行く末を心配して、これ以上姉弟の仲を悪くしないようにという母の「親心」だったのだ。父が亡くなったあと、母は密かに弟を相続人からはずす作戦を立てていたのだった。
あの頃、5人兄弟の末っ子という患者さんが来ていた。すぐ上のお兄さんが小児麻痺だったので、お母さんの愛情はそこでストップ。自分の世話はお姉さんたちがやってくれたそうだ。
なんとかしてお母さんに認められたいとがんばったんだけど、最後まで振り向いてもらえず、「私は一生母に片思いだったのよね」と嘆いていた女性がいたのである。
母のことをずっと「嫌い」と思い、自分中心のわがまま女だと思い込んでいた。でも「嫌い」は「愛」の裏返しだった。ありのままの私を愛してくれない母にずっと「片思い」をしていたのだった。
母の介護をやり遂げられてよかった。じゃなかったら今頃、後悔の念に苦しんでいたかもしれないもの。
「情けは人のためならず」は本当だね~~ |
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2023/12/10(日) |
インフルエンザに感染した |
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先週はインフルエンザになって、仕事を休んでしまった。このところ隔週の患者さんがみなさん同じ週に集まっていて、ちょうどそのハザマのヒマな週だったのがラッキーだった。
インフルエンザ・ウィルスの動きを観察し、自分の身体に与えられたダメージを観察しながら、思う存分寝て治した。
何故「インフルエンザ」と分かったかというと、息子さんがインフルエンザに罹ってしまった患者さんの治療の翌日、夜中に発症して、症状がまったく同じだったからである。
彼女はワクチンを打っていたけど、私はワクチンは打たない主義である。自分だけじゃなく、子どもたちにも1回も受けさせたことはない。
その理由は、母里啓子さんが書いた「インフルエンザ・ワクチンは打たないで」(双葉社)という本にある。変異のスピードが速すぎて、効果のあるワクチンは作れないのだそうだ。
なのでもちろん、同じくRNA型であるコロナウィルスのワクチンも打っていない。今のところコロナには罹っていないけど、インフルエンザの猛襲を受けてしまった。
母里さんによれば、自然にインフルエンザに罹って、獲得免疫を得ると、抗体の寿命が5年持つのだそうだ。抗体を持っている状態でインフルエンザ・ウィルスが蔓延している環境に出ると、バースト(ブースター)現象が起こって、そこから更に5年と、抗体の寿命が伸びるのだそうだ。
久しぶりに罹ってみたら、インフルエンザ・ウィルスは昔よりはるかに強敵になっていた。相手は生き物だから、叩けば叩くほど強くなるのである。あまりの症状のすごさに『ワクチンを受けたがる人の気持ちが分かるなあ・・・』と思ったほどである。
でも病原菌は熱に弱い。高熱を出して、体内に棲むあらゆる病原菌を一掃できるチャンスである。昔読んだ本の中に、「よく風邪を引く人は癌にかからない」と書かれた本もあったし・・・、このチャンスを生かそうとがんばったのである。
治ってみたら「ヤッター!」である。これであと5年間、インフルエンザ・フリーの生活を送れる。これからはがんばって人混みに出かけて、抗体の寿命の更新を計らなくちゃね~~
「炎天下でテニスをするようになってから1回も風邪を引いていない」と言っている私だけど、厳密に言えば、母が生きている間は過労と睡眠不足でへとへとだったので、ときどき風邪を引いた。
引かなくなったのは母が死んでからなので、入れ替わりにティラが来てから7年間、風邪とは無縁だったのである。
でもこの3カ月、左足背の低温火傷のせいで、ぜんぜんテニスに行っていなかった。
日常生活でも靴下で傷口がこすれて血が滲む。寝ていてもシーツにこすれて血が滲む。どっちにしてもすぐには治らないんだから、テニスを再開しようと思った矢先のインフルエンザだった。
体力を消耗し、体重も1キロも減ってしまった。そして病み上がりなのに、『断ろうか?』と迷うほどの患者さんが来た。身体を動かしたほうが体力の回復が速いことを実感した。
明日からは(なんとか早起きして)テニスに出かけるぞ~~ |
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2023/11/25(土) |
母のリハビリカルテ10~12を更新 |
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低温火傷はほんとうに長引くね。経験者の患者さんにきいてみた。
「カサブタができたあとも、痒くてうっかり手をやってしまうと、またグチャグチャするのよね」と言う。「完全に治るまで半年ぐらいかかったのよ」とのことだった。
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低温火傷 |
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改造シューズ |
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改造スリッパ |
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外では改造シューズをはき、家の中では改造スリッパをはいている。
(ティラの部屋にのせた写真の一部だよ) |
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それでも長時間歩いていると傷に刺激が加わるらしい。靴下はゆるゆるなんだけど、それすらがかなりの「強刺激」になるのだ。
ムズムズとむず痒くなる。出来立ての表皮はムースみたいに脆くて、あちこちから血がにじんでしまう。
なので、この機会に「母のリハビリカルテ」を終わらせよう・・・できれば年内にと、ラストスパートをかけはじめた。
母のリハビリの最初と最後は怒涛の体験だったので、かなり記憶がはっきりしている。でも、青樹の1年間と、ちょうふの里の3年半は、とくに大きな変化がないので、いろんなエピソードが頭の中で交錯している。全期間を通して一気にまとめないといけないことに気がついた。
とりあえず、なんとか青木病院と青樹での1年半分を更新した。
「母のリハビリカルテ・10」は2012年3月~7月、青木病院の話のつづきである。
3月にバルーン(尿道カテーテル)が取れ、4月に褥瘡が治って、5月に精神科介護棟に移動した。新潟でゾンビになった母を、歩いたり、喋ったり、笑ったりできるようにしてくれた病棟だったけど・・・
でも当時の院長五味淵先生が3月に退職したあと、以前のような活気が失われていた。歩行訓練をするのは私だけだったので、入院中にどんどん足が弱って行った。
「母のリハビリカルテ・11」は2012年8月~12月まで。母がゾンビになってから3年目の記録である。
8月に老健(青樹)に転院した日は、運悪く、立つことすらできない日だった。車椅子で入所した人は車椅子での移動になる。理学療法士さんたちの週に2回のリハビリで、母はなんとか歩けるようにはなったけど、日常の歩行がゼロでは歩行能力の向上は難しいのが現実だ。
父の所有していた酒田の土地の問題もおこった。年末には特養の申し込みに行った。
「母のリハビリカルテ・12」は2013年1月~7月まで。母はパーキンソン症状に捕まりはじめ、マネキン人形状態になっていった。食事は全介助になり、無表情になって、めったに口もきかなくなった。
私が行っても笑顔を見せないので、すっかりやる気を失ってしまった。
この頃には私の疲労もマックスで、今にもプッツン切れそうだった。しばらく楽をして、この先の正念場にそなえての充電期間にすることにしたのである。
パソコン仕事に熱中しているおかげで、「マウス肩」になりそうである。
サーブ練習のときに右肩にちょっとした違和感があったんだけど、マウス操作で、中指あたりから肩へ、ツツツ~と硬直のスジがつながっていくのを感じる。鍼を打つ時間がないので、ストレッチの「キラキラ星」でしのいでいるんだよ。
血が滲むのは傷口との境目の健康な皮膚である。ここにある毛細血管が傷の表皮につながって「皮膚」になる可能性があるのだろうか?と、傷を観察している。半ば楽しみでもあり、ときどきは感染症の恐怖に怯えることもある。
歩くだけで刺激するんなら、テニスをしても同じかな・・・と、おとといは壁打ちに行ってきた。パソコン仕事でバリバリになった身体がほぐれてくれたし、とくに傷の悪化もなかった。
ゆるゆる靴下でゆるゆるテニス・・、半年もかかるんじゃ完全休止はまずいよね~~(笑) |
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2023/11/14(火) |
テニスをやってみた |
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先々週には左足足背の低温火傷の穴がふさがって、膿が出なくなった。改造した靴を履いて普通に歩けるようになったので、先週月曜日に2カ月ぶりにテニスに行ってみた。
壁打ちを10分ぐらいやったあと、ふたりで練習をする夫婦に入れてもらった。思うように打てなくて苦労はしたけど、動きには問題なし。
最後のボレストを1対2でやってみたら、思った以上に走れた。ガンガン走り回って気分爽快。身体のあちこちに溜まっていたモヤモヤが、スッキリきれいに流れて行ってくれた。
・・・でもなんだか、傷口がヒリヒリしはじめた。
水曜日にまたテニスに行った。壁打ちだけで帰ろうと思ったんだけど、40分ぐらいやったら、ゲームがやりたくなった。
ダブルスに入れてもらったら、傷口がこすれてヒリヒリする。相手の女性2人が上手だったし、テニスを忘れてしまった私。すごい上手な男性と組ませてもらったのに、4-6で負けて、すっかり意気消沈。。。
そのうえ常時、傷口のヒリヒリ感に悩まされるようになった。それまで傷の痛みはなかったんだよ、
穴がふさがったとはいえ、できたばかりの表皮が薄いので、刺激に対してか弱いらしい。まだまだ時間がかかりそうだね。。。
木曜日はテニスをあきらめ、八王子のバイク屋さんに点検に行くことにした。お天気がいいし、寒くなる前の最後のチャンスと思った。
いつも片道3キロ走行なのに、片道25キロも走れるだろうか・・・?
びくびくしながら、バッグのティラをお供にゆっくり走った。
点検には1時間半ぐらいかかるとのこと。PTAのバドミントン時代の先輩が近所に住んでいるので電話をしてみた。
彼女が「手術して退院したばかりなので、家から出られないのよ。会いたいわ。顔が見たい!」と言ってくれたので、バイク屋さんに原チャリを借りた。10年ぶりの道だったけど、なんとかたどり着いた。
25年ぐらい前に、「骨の問題だから鍼では治せないのよ」と頸椎の手術を受けた。それ以来「半病人」暮らしになった。
今年7回目の手術をしたあと、しばらくしたら足がふらついて、今度は胸椎の手術をしたのだそうだ。杖をついてよたよたしていたけど、ひとり暮らしでがんばっていた。
明るくて面白い人なのだ。75歳になっても認知症のかけらもない。共通の話題もたくさんあるので、ゲラゲラ笑いながらお喋りを楽しんだ。
「頭のほうは、すっごい元気だね!」と言ったら、「そうなのよ。みんなにも言ってるけど、首から上は元気で、何の問題もないのよ~」と大笑いしていた。
久しぶりの再会を満喫できたけど・・・
心の中では、やっぱり鍼のほうが治せるんじゃないか・・・と思った。骨だけを治療し、チタン合金のボルトをあちこちにはめ込む。この数十年で8回もの手術を受けたのだ。
椎骨を支えている筋肉をほぐすのが鍼灸治療で、筋肉がゆるめば、頸椎の形状も変化していく。そっちのほうが結果的に早道なんじゃあないだろうか・・・と思いながら、暗い夜道をバイクで帰った。
傷口のヒリヒリ感が、数日たってムズムズ感に変わった。眺めてみると、薄い表皮が出来上がっていた。
昨日は用心に壁打ちを30分だけやってみた。こすれたあとはヒリヒリ感が起こったけど、今日はおさまっている。しばらくはたまの壁打ちを楽しむしかないみたい。
往復60キロ以上を完走して自信がついたので、バイクで遠出をして気晴らしするのもいいかもね~~ |
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2023/11/4(土) |
母のリハビリカルテ・9を更新 |
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左足の甲の低温火傷はあとちょっとである。だいぶ傷口が小さくなったので、そろそろ靴を履いて歩いてみようと思った。
うちには母指球のところだけがすり減ったテニスシューズがゴロゴロしている。テニスコートでは滑って転んで危険だけど、見た目もきれいで、街歩きにはなんの支障もないシューズたちである。
ベロがなければ傷に当たらずに歩けるかもしれない。シューズの紐をはずしてベロを上げたら、足がスポンと入った。
ベロを丸くループにして、足首のところで紐を結わえた。
もともと足先がきついシューズだった。長く歩くと傷口周辺を圧迫して痛くなってくる。思い切って改造することにした。ハサミで切ってつま先を広げることにしたのである。
■ 低温火傷 |
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両方の角に切り込み(■)を入れたら、足先が広がった。
痛みがぜんぜんなくなって、すいすい歩ける。 |
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■ 切り込み |
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さすがテニスシューズ。それでも足をしっかりと保持してくれる。
右足も爪先がきついので、そっちにも切り込みを入れた。紐をゆるゆるにしたら超歩きやすい。
ティラのお散歩で歩く速度も早くなったし、バイクも以前のようなスピードで走れるようになったんだよ。
(人間て、どこかに故障があると集中力が欠けてしまう。いつも単独トップ走行をしていた私が、車のうしろをゆっくり走っていたのである)
テニスができない空き時間に「母のリハビリカルテ・9」を更新した。
2012年、1月と2月、母がゾンビになってから1年半目の記録である。
年末に慈恵医大で褥瘡の手術をしたけど、看護師さんや同室の患者さんたちのおかげで、歩行能力が向上し、頭もしっかりした。母は倒れて以来、最高の状態だったのだ。
それなのに、転院先の青木病院の内科は地獄だった。歩いて入院した母を「寝たきり」にしたのだ。主治医の青木先生は、母にバルーンカテーテルを挿入し、車椅子に乗るのは食事の時間だけになった。
そのうえ、家族の同意もなくパーキンソンの薬を飲ませていた。薬を拒否したら、青木先生は激昂した。
母を歩かせてほしいと言ったら、「お母さんは認知症がひどいので、歩かせません」と言い、「寝たきりになるのはしょうがない」と言い放った。
思い余って手紙を書いた。看護師さんたちが協力してくれるようになったけど、母は頭がおかしくなって、脚力もどんどん落ちて行った。 その2カ月間の格闘の日々である。
救いは、うちの患者さんの「お話ボランティア」だった。その後1年半もの間、毎日病院に通ってくれたのだ。
お母さんを亡くした喪失感と心残りに苦しんでいた彼女と、話し相手が必要な母と、お互いに助けになったのである。 |
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日記 TOP |
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