母のリハビリカルテ 6 - 2011年 3~7月 -
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<環境が変わるとレベルダウンする理由>
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脳機能の容量と情報処理能力
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青木病院から青樹に転院したときの母のレベルダウンはすさまじく、4カ月前の半昏睡状態に逆戻りしたかのようだった。内心は焦りまくりながらも、あくまでも明るく、いつも通りに話しかけ、朦朧としている母を叩き起こしてリハビリをした。どうなることかと思ったけど、2週間で落ち着いてくれた。
その2週間後に認知症のフロアに移動になったときは、ケースワーカーの言った通り、ほとんど変化なしですぐに慣れてくれた。
「お年寄りは環境が変わると一気にレベルダウンする」のは定説なのだけど、その原因は脳機能の容量が低下しているからなのである。
環境が変わると、それまで把握していた状況が一変する。目が覚めると景色が違う。職員さんを呼んだら知らない人が来る。部屋の造りも、トイレの位置も、食事の場所も、生活のパターンも、あらゆることが別世界になる。
新しい情報が洪水のように流れてくるので、脳が処理しきれない。頭がパンクして、それまで普通にできていたことさえもできなくなってしまう。レベルダウンしたまま、復活できずに落ちていくお年寄りは少なくないのである。
母が2週間で元通りになれたのは、もしかしたら快挙かもしれない。「家族」という見知った人間をコアにして、環境への理解を再構築できたのだと思う。
脳障害から1カ月半で新潟から青木病院に転院したときは、それほどのレベルダウンを感じなかった。どっちにしろ脳が混とんとして半昏睡状態だったので、「環境」に注意を払う余裕がなかったのだろう。母の関心は「食べ物」だけだったので、「新しい環境」ということすら気づかなかったのだと思う。
ひどい認知症と思われていたお年寄りの中には、施設に入ったとたんに認知能力が向上する人たちがいる。
一人前の大人の生活には、料理、洗濯、掃除、買い物、ゴミ出し、人づきあいと、やるべきことが山のようにある。すべてをこなすには脳機能の容量が足りなくなってしまう。
でも施設に入ると自分の守備範囲が小さくなる。やるべきこと、覚えるべきことが激減すると、その中では普通の人のように暮らせるのである。
長年治療している患者さんが、ある日突然に会話が通じにくくなっていることに気づくことがある。65歳、73歳、77歳とか、このまま一気に認知症が進むのかな?と心配するんだけど、みなさん、自分の守備範囲を縮小してなんとか乗り切っていく。
大風呂敷を広げるといろんなことが抜けてしまう。大事なことが抜けないように、風呂敷を小さくする。必要最小限のやるべきことだけに的を絞ると、認知症(=老化)と上手にお付き合いができるのだ。
そうやって一定期間を過ごしたあと、また縮小期がやってきて、一段、一段、数年(人によっては数十年)かけて老化の階段を下っていくのである。
中には80歳を過ぎても頭が固くならない人もいる。ほんとうに人それぞれなので、お年寄りと話すときは相手をよ~く観察しなくちゃならない。
相手の守備範囲を理解することが大切で、通じない話はしないのがお互いのためである。「論点がズレてるよ」と指摘しても無駄なのである。
他人なら当たり前にできることが、自分の親となるとそうもいかないこともある。私自身がそうだった。親の老化を受け入れられず、「そんなはずはない」と思ってしまう。「なんで?」と苛立って、激しい親子ゲンカをくり返した。
愛情があるから感情が動くのだ。争いは避けられないことだったのかもしれない。 |
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老健はリハビリ目的の施設
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母が2月に転院した青樹は、医師が施設長の老人保健施設(老健)で、医療ではなく、リハビリを目的とした施設である。理学療法士が4人いて、週2回のリハビリをやってくれる。面会時間が朝9時から夜8時までと長いので、通いやすくなったし、外食に連れ出す機会も増えた。
老健は3カ月しか居られない決まりがある。3カ月ごとに入退所をくり返した人の家族が「老健に入ると元気になる。家庭にいるとまたダメになる」と嘆いていた。
青樹の当時の施設長は優しくて温情ある女性医師だった。前述のSさんも何年も青樹にいた。耳鼻科や眼科に通うタイミングで、書類上で退所してまた入所するというパターンだったそうだ。しばらく長女の家で暮らしていたのだけど、Sさんは施設のほうが居心地がいいとのこと。
「みんな仕事に行っているから昼間は私ひとり。淋しいし不安になっちゃうのよ。しかもみんな帰りが遅くて、生活時間帯が違うから大変なの。ここにいると楽しくって、とっても幸せよ」と言っていた。
母が新潟の老健(江風苑)に入所していたとき、精神科の松浜病院への受診は職員がつきそい、窓口でいったん施設が支払いをし、月々の利用料に追加されて母の口座から引き落としされた。
医療保険と介護保険の仕組みの詳細はわからないが、老健の利用料の多くは医療費控除の対象になり、母は年間100万円ぐらいを医療費として支払っていた。 |
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認知症フロアでの暮らし |
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「個室ならすぐに入れる」という話に飛びついて、母が最初に入ったのは2階のフロアだった。入所者のみなさんはトランプ遊びをしたり、お喋りをしたりと、ほとんど普通に見えるお年寄りだった。無表情で固まって眠りこけていた母は「異質」な存在で、お友達を作るどころではなかった。
みなさん自力で着替えができるので、夜はパジャマに着替えてベッドに入った。
特養で働くサクラさんは「うちでは必ずパジャマに着替えさせるのよ。昼と夜の違いを認識させるためにも、とても重要なことなの」と言っていた。
2月28日に移動した3階の認知症フロアでは洋服のままベッドに入る。人手が足りないのだろう。「パジャマは不要」と言われて、家に持ち帰った。
食事のときはビニールのエプロンを装着したけど、それ以外の時間は胸にタオルを当てていた。車椅子で上体が倒れて眠りこけていると、口の中に残った食べ物がよだれと一緒にダラダラと流れ出てくる。タオルでは受けきれずに、母の服はいつも汚れていた。
週に2回のお風呂のときに洋服を着替える以外、ほとんど着た切りだったので、汚れのひどいときには私が着替えさせた。
母は相変わらず、みんなでやる体操などには無関心で、ひとりぽつんと眠っていた。でも似たり寄ったりの入所者がたくさんいたので、あまり目立たず、そこでは母は「普通の人」に見えた。
マンツーマンで投げかけられたときだけ母は目を開ける。食事など、どうしても必要な時間には覚醒する。トイレに行くときには「手引き歩行」で、職員さんが後ろ向きになって、母の両手を引いて歩かせてくれた。
フロアにはリハビリベッドがあったので、ほとんど自由に使わせてもらった。あん摩とROM訓練はかなりハードに、「痛い」と嫌がる母を押さえつけてグイグイ、グリグリ、娘だからできる「無謀」なリハビリである。
歩行訓練はその日の母の状況に合わせて行った。立つのもやっとのときは車椅子を押させて歩かせた。用心に右手で母のズボンの後をつかみ、左手をハンドルにそえる。自力で歩けるときは、右手で母のズボンの後をつかみ、左手で母の左手をつかんで歩かせた。
青樹はお年寄りをベッドに寝かせておくことはしなかった。居室にいるのは就寝時間だけである。食事、おやつ、トイレ、遊びや体操の時間の合間には、みなさんホールで待っていた。坐ってひたすら待つのである。
私から見ると、施設の暮らしはあまりにも退屈に思える。
でもお年寄りは「待つ」ことが苦にならないのだろう。Sさんの娘さんが「みなさん、ずっと待っているのが好きなのよ」と言っていた。
サクラさんが言っていたように、お年寄りにとって施設の暮らしは活動的で、「放っておかれる」時間はないと思われるぐらい忙しいのだろう。
子ども時代から比べると「時」の流れるスピードは格段に速くなっている。年齢が進むにつれて活動はスローになり、時の流れは逆にスピードアップしていくらしい。 |
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3月、東北大震災は理解の外だった
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3月2日、母は車椅子の上で右に傾いてよだれを垂らして眠りこけていた。『やっぱりレベルダウンか?』と心配した。フロアが変わったのに1日空けてしまったせいかな・・・と落胆したけど、叩き起こしたら、なんとか歩くことができた。歩行訓練のあとであん摩とROM訓練をした。
3日、母はよだれも垂らしていなくて、足取りもしっかりしていた。
5日、母に車椅子を押させて、多摩川まで歩かせた。階段昇降もやったあと、オスカーまで歩いていって食事をした。
7日、フキノトウ味噌を作って持って行った。母の大好物なので「美味しい」と喜んでくれ、昼食はほとんど完食。自分で食べられた。
9日、夕食の時間に行って、ご飯にフキノトウ味噌をのせてあげた。
10日、歩行訓練のあとボール投げをした。
3月11日、東北に大地震と津波と原発事故が起こった。
12日、前日の地震であんずとヨーコとヨーコの妹がうちに避難してきたので、みんなで青樹に行った。眠りこけていた母を叩き起こして車椅子にのせ、多摩川に散歩に行って、オスカーで食事をした。
青樹のホールにはテレビが2台あって、一日中、東北大震災のニュースを流していた。地震の話をしたけど、母は無反応だった。東京もかなり揺れたのだけど、それにも気づかなかったようだ。
食事のあとは、車椅子を押して歩いて帰れるぐらい元気になった。
14日、その日もホールでは津波や原発事故のニュースを流していた。歩行訓練の途中で母が「外国ですごいことが起こっている」と言った。何度も訪れたことのある「仙台」という地名にも反応しなかった。
15日、ROMと歩行訓練。青樹も自宅も治療室も計画停電のエリア外だった。
17日、ROMと歩行訓練。
18日、車で母を迎えに行き、手を引いて歩かせて外出した。治療室で鍼灸治療をし、馬車道でパスタを食べさせた。自力で食べるのに苦労していた。
21日、ROMと歩行訓練。
23日、車椅子を押して歩きながら、母は「腰にウサギがいる」と言った。
24日、母が元気でしっかりしていたので、車に乗せてイトーヨーカドーに行った。障害者スペースに駐車して、店の入り口で車椅子を借り、ズボンなどを買い、フードコートでお団子、たこ焼き、お寿司を買った。イートインで食べながら、自分からすすんでまともなことをあれこれ話していた。
青樹に戻って、歯磨きをさせてから帰宅した。
26日、夕食の時間に持って行ったおにぎりとポテトサラダを食べさせ、母の食事は私が手伝って平らげた。
27日、ポプラと一緒に母を車で連れ出して、お昼は大漁寿司で外食。私は治療室に送ってもらい、ポプラが母を青樹に送り届けた。
30日、ROMと歩行訓練。 |
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4月、込み入った話で脳のブレーカーが落ちた
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4月2日、おにぎりを持って行き、母の昼食介助をした。表情もあって動作もスムーズだったが、「首が絞められる」と言った。2007年の秋に母が動けなくなりはじめたときの最大の愁訴である。当時は病名が分からなかったけど、レビー小体型認知症の症状のひとつ、パーキンソン症状の「固縮」のせいだ。
本人はつらいようだけど、つねに筋肉が緊張状態にあるので、寝たきりでいても筋力が落ちない。それは唯一の救いである。
調子が悪いときほど硬直するので、ボーッとしていても、ピーンと立って歩くことができる。方向転換のときなど、ちょっとなら母を壁に立てかけておくこともできた。
4日、ROMと歩行訓練。
5日、途中で焼きそばパン、カレーパン、クルミパンなどを買って行った。みなさんの食卓から遠く離れて、ホールの隅っこのテーブルに案内された。母にはパンを食べさせ、青樹の夕食はほとんど私が食べた。
8日、母が元気でしっかりしていたので、今がチャンスと通帳を見せた。あれこれ込み入った話をしているうちに、母の表情がうつろになっていった。一気にレベルダウン。朦朧となって固まってしまい、ご飯を一口も食べられなくなった。脳機能の容量をオーバーして、ブレーカーが落ちてしまったのだ。
母にはもう複雑なことを話すのは止めることにした。すべて私が考えて決断するしかない、そういう時代がとっくに来ていたことをまざまざと思い知った。
11日、リハビリの職員と話をした。とても協力的で親身になってくれている。
母が元気だったので、酒田に住む父の弟夫婦に電話をかけた。新潟の病院にもお見舞いに来てくれた夫婦である(リハカルテ・2 → 8/6)。母は元気よくまともにお喋りをしていた。
14日、それまで刻み食だったのだが、食事が1センチ角刻みに出世していた。形のある食べ物に母は大いに活気づき、美味しそうにひとりで全部食べられた。
15日、あんずとヨーコが来てくれたので、犬を連れて多摩川に散歩に行った。そのあとはオスカーで食事をした。途中で2人にあとを任せて、私は仕事場に戻った。
18日、ROMと歩行訓練。
21日、青樹でカンファランスがあった。リハビリ、介護、調理、ケースワーカーの方々との対談である。みなさんがとても協力的だった。
25日、中3日空けたせいか、母は不機嫌で、リハビリの間ずっと妄想的な話をしつづけ、たらたら文句を言いつづけた。
28日、ROMと歩行訓練。 |
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5月、昔の話と洋服選びは完璧
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5月2日、よだれを垂らして不機嫌だったけど、リハビリをしながら、しつこく話しかけた。母の実家のこと、両親のことなど、あれこれ話しているうちに、母はだんだん元気づいていった。母には兄が1人と妹が3人いた。
「お兄さんの名前は?」「妹の名前は?」「その下の妹は?」と次々に質問していったら、なんと、「その下は米子」と、私の知らない名前が出てきた。「え、誰?」とビックリ仰天した。
母は「一番末の妹。米子は歌と踊りがとっても上手で、とっても利発なかわいい子だったんよ。2歳のときにいろりでやかんのお湯を浴びて、大やけどをしちゃったの。そのあとはすっかり具合が悪くなって、しばらくして死んじゃったのよ」と、はじめて私に話してくれたのである。
本当の話なの?と疑って、母の妹(川口のヒロコ叔母)に電話で確認をしたら事実だった。
アルツハイマーになると、新しい記憶から抜け落ちて行くそうだ。なるほど母も同じで、古い記憶ほど生き生きと、リアルに蘇ってくるのかもしれない。
3日、ポプラと一緒に車で母を迎えに行き、華屋与兵衛に行った。自分でお寿司をつまんだのだけど、口に持っていけなかった。食べさせてあげたけど、半分ぐらいがやっとだった。母が残した分はすべてポプラが食べてくれた。
そのあとパルコに買い物に行った。「半袖は腕が冷えるからもう着ない。七分か長袖のTシャツが欲しい」と言う。
パルコで借りた車椅子に母をのせ、店内をぐるぐると回った。いろんな洋服を次々に見せて、母に選んでもらった。お洒落な母は値段を気にせず、好みの服を自分で選んだ。母が「帰りたい」と言ったので、青樹に送り届けた。
5日、長男一家がお見舞いに来てくれた。残念ながらこの日の母はボーッとして身体が固まっていて、ボール投げもほとんどできなかった。動けなくてお人形のような母を、ふたりのひ孫が「ばあちゃん、かわいい!」と言って、母をいじって遊んでいた。
6日、母は痴呆状態。自分の名前も分からなくなっていたけど、無理やり歩かせた。よだれと食べこぼしで汚れた服を着替えさせた。
8日、あんずが婚約者のトモ君を連れて来てくれた。トモ君は私にとっても初対面だった。大家族で育ったのでお年寄りに優しくてとても気が利いている。母の車椅子を押してくれ、一緒にオスカーで夕食を食べた。調子がいい日だったので、母はニコニコ笑顔で自力でたくさん食べてくれた。
9日、調子が悪い母を無理やり歩かせた。
12日、車椅子を押させて歩行訓練をしていたら、「そこに良子がいる」と言った。「へえ~、何歳ぐらいなの?」ときくと、「5歳ぐらいかな」と言う。「かわいい?」ときいたら、「かわいい」と答えた。
母に「母ちゃんは昼間でも夢を見ちゃう病気なんだよ」と教えてきたのだが、だんだんに幻覚を受け入れられるようになってきた。幻視で見えるものと現実を識別して、上手にコントロールできるようになってきた。
50代の娘に歩行訓練を受けながら、同時に5歳の娘を見ることができるというのは、幸せ2倍、ということかもしれない。
15日、ちょっと調子が悪かったけど、母を車椅子にのせて、犬を連れて多摩川に行った。着いてから歩かせた。
16日、ROMと歩行訓練。
19日、リハベッドの上で寝返りの練習もした。調子は悪かったけど、委任状にサインを書くことができた。
20日、夕食時にお団子、たこ焼き、手作り弁当を持って行った。母は調子が悪くて崩れそうだったけど、喜んで食べて、(めずらしく)帰りに「ありがとう」とお礼を言われた。
23日、青樹に訪問歯科が来て、母の下の前歯を3本も抜かれてしまった。家族に断りもなく歯を抜くなんて、とちょっと憤慨した。福祉関係の大学の教授に話したら、「勝手にどんどん抜かれちゃいますよ」と警告してくれた。
母の歯のお掃除をしてくれるのはありがたいけど、お掃除だけでは利益が薄いから、抜歯をしたがるのかもしれない?
26日、母は文句たれモードだった。職員さんに「母にはかかりつけの歯科医がいますので、歯のお掃除はお願いしたいけど、抜歯など、大きなことはやらないでほしいと伝えてください」と断りを入れた。
30日、ROMと歩行訓練。
31日、母を車に乗せてパルコへ。回転寿司(三崎丸)のあと、ミスタードーナツへ行った。 |
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6月、私のほうがぎっくり腰になりそう
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6月2日、私の腰痛がひどくてぎっくり腰寸前になった。歩行訓練のときは母のズボンに手をかけて支えなくちゃならない。母を車に乗せるときにお尻を持ち上げなくちゃならない。車椅子やリハビリベッドの移乗もある。サクラさんに隔週で鍼灸治療をしてもらっているのだけど、腰への負担がかなりきついのである。
ここで壊すのはマズいので、訓練はお休みしてお喋りだけで帰った。
6日、ROMと歩行訓練。
9日、母の友人のエミちゃんと高島屋で待ち合わせをした。私が生まれる前、酒田で一緒に洋裁と和裁を習っていた頃からの仲良しである。
母がゾンビになったときに、母の脳を活性化するためにと、手当たり次第に連絡をとったうちの1人だ。母のことをとても心配していた。目黒区に住んでいたので、母に会いに来てくれるようにお願いしたのである。
エミちゃんはバスを何台も乗り継いで、青木病院に母を訊ねてくれたんだけど、母はずっと眠っていて一度も目を開けず、一言も喋らなかったそうなのだ。
他の親戚も同じことを言っていた。
やっぱり、私がいないとダメなのだ。私は母を目覚めさせるコツを知っている。
大家さんもそうだった。全身麻酔のあと1カ月以上も眠ったままだったけど、私がお見舞いに行って「おおやさ~ん」と呼びかけたら、「お、みづさんかい」と目を覚ました。亡くなってしまったのだけど、最後まで家族と会話ができたそうだ。
私の声は通るらしい?半昏睡状態の人の脳に入り込み、この世に引っぱりだすコツを知っているのだ。
なので、3人で会うことにしたのである。二子玉川の高島屋はちょうど中間に位置して、エミちゃんもバス1本で行けるとのことだった。母を車に乗せて多摩川沿いの道を走っていたら、途中で「ドライブは楽しいね」と、嬉しそうにつぶやいた。
でもあいにくその日は調子があまり良くなかった。車椅子からおりられず、無表情でボーッと固まっていた。デパートの中で普通の人に囲まれていると、まるで人間の化石のようである。
一緒にお寿司を食べながら、エミちゃんは、会えたことを喜ぶやら、母の姿を悲しむやらで、2人して泣きながら再会を喜んでいた。
きれいな花壇のあるバルコニーを見つけて、日陰のベンチに座らせた。エミちゃんは明るいので、化石人間の母に一生懸命話しかけていた。母も無表情ながら楽しそうなので、積もる話があるだろうと、2人を残してしばらく席をはずした。
12日、おにぎり、おいなり、わらび料理を作り、持って行って母に食べさせた。
15日、ROMと歩行訓練。
16日、母を車でイトーヨーカドーに連れて行き、Tシャツや介護シューズなどを買った。母は具合が悪くて不機嫌だったので、外食をしないで青樹に送った。
20日、あんずと一緒に母を回転寿司(三崎丸)に。母は愛想がなく、なんとなく仏頂面だった。
23日、ヨタヨタしている母を車椅子につかまらせて無理やり歩かせた。あん摩とROM訓練も無理やりやった。
25日、ポプラが来てくれ、母を連れて三崎丸に。調子がいい日だったので、自分でお箸を使って食べられた。「たこ焼きが食べたい」と母が言ったのだけど、お店がどこにあるのか思い出せず、お団子を買った。母を南口の公園まで歩かせて、3人でベンチに坐って食べた。
30日、母は便秘の座薬を注入中。車椅子から下りられないので、坐ったままの母に簡単なリハビリをした。 |
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7月、新潟から東京に「歩いて」来たと思い込んでた
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7月4日、母の妹(川口のヒロコ叔母)夫婦がお見舞いに来てくれた。西調布駅で2人を拾ってから青樹に母を迎えに行き、4人でオスカーでお茶をした。全員で車に乗って調布の三崎丸に移動してお寿司を食べた。
ちょうど食べ終わった頃に弟嫁から電話がきた。父の十三回忌のことでハガキを出したので、その返事だった。(この話は次ページで)
7日、青樹の窓から外を眺めていたら、母が遠くを指さして、「あの建物の向こうに私の家があるんよ」と言った。「東京と新潟って、案外近いんよ。歩いて来れるぐらいなんだから」と、ちょっと誇らしげに笑った。
青木病院から青樹に台車を押して歩いて転院したので、新潟から歩いて来たと思い込んでしまったらしい。青木病院での記憶がすっぽり抜け落ちていたのである。たぶん松浜病院のことはまったく覚えていないに違いない。
母の現実認識はまだまだあいまいだった。
11日、桃を持って行き、ROMと歩行訓練。
14日、ベッドで桃を食べさせたあと、ROMと歩行訓練。
16日、枝豆を食べさせたあと、ROMと歩行訓練。
19日、昼食の時に桃とサクランボを持って行ったら喜んで食べた。よだれと食べこぼしで洋服が汚れていたので、着替えさせてからリハビリをした。
25日、ROMと歩行訓練。
26日、明太おにぎりと手作りおかずを持って行き、青樹の昼食を2人で食べた。母は手にくっついたご飯粒を食べるのにすごい苦労をしていた。洋服にこぼれてくっついたご飯粒もすべて拾って食べた。母は農家の娘である。頭がはっきりしているときは、お米は一粒も無駄にできないのだ。
28日、ROMと歩行訓練。 |
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回転寿司を発見した
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青樹の面接のときに、ケースワーカーが「食事が美味しいと評判なんですよ」と言ったけど、本当にその通りだった。(ちなみに調理室は青木病院と同じである)
栄養価を考えた素材を普通に和風に料理してあって、味付けもしっかりしていた。主菜に副菜が何品かと、お新香とフルーツもついている。三食の食事の他におやつも出してくれる。
こんなバランスの取れた食事なんて、一般家庭でも毎食作るのは無理である。母のほうが私よりもよっぽどいい食事をしていた。
いくら美味しいといっても、三食それだと飽きてしまう。いろんな食べ物を持って行って母に食べさせ、青樹の料理は(味見を兼ねて)私が手伝って平らげた。
外食もいろんなところへ連れて行った。青樹では食べられないもの、麺類とかパンとかお寿司とかたこ焼きとかを前にして、母はとても活気づいてくれた。
でも外食に行くのはほとんどが私の都合。仕事の空き時間を見つけていくので、そのときの母の状態によっては食べられない日もあった。
ラーメン屋とかおそば屋とかお寿司屋とかでは、とりあえず2人前を注文する。たくさん食べられる日もあるんだけど、眠ったままでまったく食べられない日もあった。大量の料理を前に冷や汗を流す。残したら悪いと母の分まで食べて、胃腸を壊してしまうこともしばしばだった。
回転寿司なら、その日の母が食べられる分だけ注文できる。思いついたのは快挙だった。お寿司一貫は大きすぎるので、調理バサミを持参して、半分に切ってあげた。一口で食べられるサイズにすると誤嚥のリスクが最小限になる。
調子のいいときは自分でつまんで食べることもできたし、調子の悪いときは嚥下を確認しながら私が食べさせてあげた。
お寿司などの生ものは施設や病院では絶対に食べられない。母はお寿司が好きだった。しかも家族と一緒の外食は母にとって最高に楽しいイベントだったと思う。
「食べたい!」「美味しい!」「楽しい!」はおおいに脳を活性化するのだ。 |
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7ページ目へつづく |
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リハカルテ TOP |
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Updated: 2023/8/6 |
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