母のリハビリカルテ 19 -2017年 1~3月
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<痰が吐き出せなくなって、むくみがはじまる>
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母はミキサー食に、その後ゼリー食になった
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母が新潟で向精神薬で植物状態寸前になってから6年5カ月がたった。
半年前の8月初めに一気に激痩せ、2日か3日に1回しかご飯を食べられなくなった。10月4日にゼロゼロ音がはじまり、10月11日には微熱が出た。
11月3日に高熱を出して入院したときは誤嚥性肺炎と診断され、主治医に「胃漏をしないとホームに戻れませんよ」と言われた。延命治療を避けるために在宅で看取る決心をし、交渉の末、2週間後(17日)にちょうふの里に戻ることができた。
11月22日、中4日で再入院し、3人目の医師がマイコプラズマの検査をして、マイコプラズマ型肺炎と診断した。対マイコの抗生物質で1日でゼロゼロが取れて、母は一気に元気になったのである。
でも最初の主治医がマイコプラズマと認めたがらず、「誤嚥もあった」と主張したので、ホームの職員さんはビビってしまった。退院して以来、母の食事はミキサー食で、そして途中からゼリー食に格下げになった。
母は「食べないと、食事のレベルが上がらないから、我慢して」と言った私の言葉に従って、素直に食べてくれていた。
でもあんまり長い間つづいたら、生きることがイヤになってしまうかもしれない。食べる能力が落ちることも心配だ。でも、食べ物を持ち込んでも、タイミングが合わなくて、ほとんど食べることができなかった。
早めに自宅へ連れ帰ったほうがいい・・・と焦る気持ちはあったけど、家の模様替えがなかなか進んでくれない。
在宅介護まで食べる能力を維持できるのだろうか、危うい状況になった。 |
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お正月には普通の食事を大喜びで食べられた
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 1月2日、母をちょうふの里に迎えに行って、ファミリー大集合、7人でお正月を過ごした。12月9日に調布病院を退院したあとの3週間、母はホームでは糊のようなご飯とミキサー食を食べていた。在宅になったら、もっと美味しいものを食べさせてあげたいので、母の食べる能力がどのぐらいなのか、試してみたいと思った。
今年は運良く、母はいい状態だった。「お腹がすいた」と言って、私の手作り料理を喜んで食べてくれた。カニ、いくら、かまぼこ、伊達巻、黒豆、しめ鯖などをちょっとずつ味見をした。
今年ののっぺ汁は大成功だった。かつお節、昆布とホタテの出汁のきいたおつゆをスプーンで口に入れたら、「美味しい!」と感激していた。鮭、里芋、人参などの具はすりつぶして食べさせた。ごぼうとコンニャクはあきらめた。チャーハンも「美味しい!」と大喜びで食べた。
リスク管理を重視する施設では食べさせてもらえないものだけど、食事に関してはまだまだなんとかなりそうだった。
4日、あん摩とROM訓練。
9日、あん摩とROM訓練。
13日、地域包括支援センターに電話した。ちょうふの里の相談員のSさんが勧めてくれた女性職員Kさんに面談の予約をした。
14日、母は硬くなっていた。
15日、お風呂のあとだったせいか、ROMの間、母はずっと眠っていた。 |
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地域包括支援センターで在宅介護の相談 |
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16日、あんずと一緒に柴崎の地域包括支援センターに面談に行った。相談員のKさんは、事前におおよその話を聞いていて、あきらかに「無理」と思っているようだった。
「都営住宅の3階でしょ。外出のときも入退院のときも、3階までお母さんの上げ下ろしをしてくれる人も制度もありませんよ。デイサービスに通うこともできません。お母さんはいったん家に入ったら、もう家から出られなくなるんです」からはじまった。
私はいつものように母のこれまでの経緯を説明し、「胃漏も点滴もいやですし、延命治療は一切やりたくないんです。だから最後は自宅で看取るしかないんです」と決意を伝えた。
介護保険の説明を受けた。まず、訪問診療の医師を見つけることが先だそうだ。訪問看護師も必ずつけなければならない決まりだそうだ。
訪問介護は2種類あって、家の掃除や家事をやってくれる人は、病人には一切触れてはならない決まりだそうだ。オムツ交換もできず、具合が悪くなってもなにもできないのだそうだ。
病人の世話をしてくれる人は、それ以外、家事などは一切やってはいけない決まりなのだそうだ。
つまり、寝たきりの母の面倒を見ながら、合間に家事をやってくれるヘルパーさんは、介護保険では存在しないのである。
在宅の介護サービスは上限が33万円ぐらいだそうだ。訪問診療と訪問看護をお願いし、週に2回の入浴をお願いしたら、ヘルパーの派遣は月に10時間程度になるとのこと。つまり、家族でやるしかないという現実があったのだ。
母に食べさせたり、オムツを換えたりして、合間の時間は仕事に行こうと思っていたのだけど、「それはダメです」と却下された。24時間、誰かは母を見守る人間がいないとダメなのだそうだ。あんずが週5で来てくれると言っていたけど、シフトを組むのは大変そうである。
Kさんに「現実を知って、在宅介護をあきらめる気になったでしょう?」と言われたけど、「私はまずどうするかを決める。決めたら、どうやったらそれができるかを考える人間なんです」と答えた。
母が管につながれて植物人間になっていくことはどうしても耐えられない。母を不幸にしたら、テニスをしたり遊んだりしても、心の底から楽しむことはできないのである。
病院でいろんな家族を見てきたけど、自分が楽を選んだ家族の表情にはどことなく罪悪感が影をさしていて、ちっとも幸せそうじゃなかった。髪を振り乱して必死で看病に明け暮れている家族は、みなさん背筋をはってすがすがしかった。
そのときに、自分がその立場になったらやるべきことをやって、心残りのない人生を送りたいと思ったのである。
Kさんは説得をあきらめて協力態勢に入ってくれた。
「とにかく、まず訪問診療の医師を見つけることが先です。在宅のタイミングで空きがないとだめなんですが、『いつになるかは未定ですが』とお話して、在宅になったら来てもらえそうか話してください」
「野村病院は、末期がんの緩和ケアに取り組んでいる病院なので、そちらの考えと合うと思いますよ」と一押ししてくれた。 |
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職員さんも「在宅は無理」と心配していた
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1月18日、母のROMをしたら、少し身体が柔らかくなっていた。相談員のSさんに呼ばれて話をした。
「どうですか、包括支援センターで相談して、在宅は無理と、あきらめがつきましたか?」と、ニコニコと笑いながらきかれた。
私は「たしかに、在宅はほんとうに大変ですね。でも私は、まずどうするかを決め、どうやったらそれができるかを考える主義なんです。もう決めたので、あとはやるしかありません」と答えた。
Sさんに「ご家族の考えるタイミングと、こちらで考えるタイミングとに、ずれがあるんじゃないかと思うんです。こちらとしては、お母さんにまだ余力のあるうちに退所させたいんです」と言われた。
「母の部屋を準備しなくちゃならないので、今、家の改装中です。もう1カ月ぐらいはかかると思うんです」とお願いした。
「今のところ、お母さんの状態は落ち着いていますから、まだまだ大丈夫と思いますが。退所が早すぎると、在宅が長引いて家族がつぶれてしまう。遅すぎるとホームで亡くなってしまう。タイミングが難しいんです。でも本当に大丈夫なんですか?お正月にチャーハンを食べさせたなんて、そんな無謀なことを! お母さんはミキサー食なんですよ!」とSさんは心配そうです。
「でも、ちゃんと食べられたんですよ」と私。「常時誰かがそばについていないといけないことは分かりました。あんずが週5で来てくれるそうですし、手当たり次第に声をかけて、お手伝いをお願いするつもりです。とにかく、何が一番怖いかって、『息してるかな?』『息してるかな?』と、死にかかった人間のそばにいるという、その精神的苦痛を思うと、それが一番怖いです」
話し合いは1時間以上もつづいた。介護の専門家たちがここまでそろって在宅介護を危惧していると、こちらも本当に不安になった。
でも母が新潟にいたとき、遠くで母のことを心配し、ジリジリ、イライラしていた苦痛を思い出すと、私の管理下においておくほうが精神的に楽なのである。母を手放して味わう精神的苦痛より、そばで世話をする苦痛のほうを選んだのである。
20日、あん摩とROM訓練。
23日、あんずと一緒にあん摩とROM訓練。
25日、夜、あん摩とROM訓練。
27日、夜、あん摩とROM訓練。
28日、薄く切った柿を食べさせようとしたけど、母は食べられなかった。
29日、あん摩とROM訓練。毎日やっていると身体が柔らかいので、時間が短縮できる。
31日、夜、あん摩とROM訓練。眠っていたくせに、「痛い!」と私の手を払おうとした。 |
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売れ残りの8カ月のチワワを飼ってしまった
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2月1日、あん摩とROM訓練。
2日、あんずと一緒にROM訓練。在宅に備えて覚えたいと言うので、教えながらやった。このあと三鷹のホームセンターに行き、そして用もないのに狛江のユニディに行ってしまった。
在宅介護を決めたあと、あちこちのホームセンターに通った。自宅の模様替えをするために、収納用品やカーテンなど、いろんなものが必要だったのだ。
ヴェルが死んでから2年半、犬を見るのがつらくてずっと避けていたというのに、年末にユニディに行ったとき、ついペットショップをのぞいてしまった。
ゲージの中に売れ残りのチワワがいた。ヴェルと横顔がそっくりだった。5月生まれでもう7カ月。赤ちゃんじゃないから売れないんだろうな・・・、売れ残ったら殺処分されちゃうのかな?・・・と心配になった。
ユニディに行くたびにペットショップをのぞいていたら、あんずが「抱っこさせてください」とお願いして、そのあとも何度も抱っこすることになった。
これから在宅介護になるというのに、犬なんか無理である。
『誰かに飼ってもらえますように』と祈っていた私に、この日、突然、『次に来たときに売却済みになっていたら?』という危惧がやって来て、『自分のものにしたい』という強烈な思いが沸き起こってきた。
フワフワの毛に顔をうずめて、『あ~、癒される~』と思った。この先死にかかった人間がやって来る。『息してるかな?』と見守りながら、死にゆく母を見守らなければならない。とんでもないストレスである。。。
でもそこに可愛いチワワがいたら?犬と一緒に遊んだり、抱っこしたり、ちょこちょこお散歩に出かけて気晴らしもできる。。。
寝たきりの母と可愛いチワワの映像が私の頭の中を駆け巡った。
この日は私の開業24周年記念日だった。自分で自分にプレゼントをしようと、売れ残りなのに14万円もするチワワを買ってしまったのだ。(私のブログ→2017/2/8)
5日、ユニディにチワワを引き取りに行った。飼う方としては心の準備ができている。でも犬にとっては恐怖だったらしい。いきなり知らない人に知らない家に連れて来られたのだもの。縮こまって怯えていた。
前のヴェルはすでにうちらに慣れていた。7歳の落ち着きある中年犬で、トイレの躾けも完璧だった。仔犬を飼うのは初めてだったのである。こんなにも手のかかるものだったとは!てんやわんやの大騒動になった。(→ティラの部屋 #1)
夜治療に来てくれたサクラさんが、待合室のチワワを見つけて、「あれ~、ヴェルちゃん~!?」と叫び声をあげた。そのぐらい似ていたのである。
「母の在宅介護をしなくちゃならないのに、犬を飼っちゃったのよ。バカでしょ~」と言ったら、「そんなことはないわよ」ときっぱり。
彼女の友人も認知症になったお母さんの介護のときに犬を飼ったのだそうだ。
「保育士さんで、フルタイムで働いていたのに、朝早く起きて犬の散歩をしてるのよ。犬でストレスが癒されると言っていたわ。にこりともしなかったお母さんが犬を見て笑うようになって、家族も笑顔になれると言っていたわよ」と励ましてくれた。
サクラさんにそう言われて、罪悪感はちょっと薄らいだけど、現実は甘くなかった。分からんチンの仔犬の世話で大忙しになり、模様替えも中途でストップし、母のところにも行きにくくなってしまったのである。
6日、あん摩とROM訓練。 |
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痰を吐き出す力がなくなった
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2月10日、リハビリの間中、母はゴー、ゴーと音を出し、ずっと唸っていた。痰がからんでいるのが気になって、なんとかして吐き出そうとしていたのだ。
「かあちゃん、ゴー、ゴホン、カッ!と、がんばって痰を吐き出すんだよ!」と励ましたのだけど、唸り声が出るだけで、ゴホンと吐き出す音は聞こえなかった。
15日、あん摩とROM訓練。
18日、夜、母は目を開けていた。子犬を飼ったばかりなので、リハビリをしながらドタバタの顛末を話した。母は痰がからんでいるらしく、ゼロゼロ、ゴー、ゴーと音を出していた。今回もゴホンと吐き出す音は聞こえない。「ティラに会いたい?」ときいたら、「会いたい」と答えた。
20日、夜、あんずと一緒に、チワワをバッグに入れて部屋に行った。ROMの間はバッグを椅子の上にのせていたのだけど、ティラは声も出さず、身動きもしなかった。坐位のROMのあと、ベッドに腰かけた母の膝に子犬をのせてあげた。母は不自由な手でモニョモニョと撫でていた。
21日、リハビリのあとでカンファランス。介護、看護、調理、リハビリなど、各部門から1人ずつ出席して、話し合いをした。
食事に関しては、「リスクが高いので、もう粗刻みは無理ですよ」とはっきり言われてしまった。ミキサー食よりも下のレベル、ゼリー食になると言う。
「じゃ、せめてご飯だけでもお粥にしてください」とお願いした。お粥よりも下のレベル、米粉を煮た「糊」のようなご飯になっていたのである。
「病院でもずっとご飯はお粥だったんですよ。舌切り雀じゃないんですから、『糊』なんて不味くて食べられません。ご飯だけでもお粥にしてください」とお願いしたのだけど、「お粥は喉に貼りついて誤嚥を起こしやすいんです。もう少し様子を見させてください」と、聞き入れてもらえなかった。
「糊のようなご飯は美味しいんですよ」と調理の人が言った。「味をつけてあるので、ご飯より美味しいとおっしゃる方がたくさんいるんですよ」とのことである。 現状を受け入れるしかなかった。
相談員のKさんが、「ときどき夜いらっしゃいますよね。できれば、その時間にリハビリをお願いしたいんですけど」と言った。
「食べることのほうが大事ですから。『あ、今日は目を開けているな。今日なら食べられるな』と期待していると、リハビリのあとは疲れるらしく、眠ってしまって食べられない、そういうことが多いんです」と、とても心配そうだった。
「私はこのあと産休になるんです。半年後に戻ってきたときに、また元気な水越さんに会えるのを楽しみにしていますので、よろしくお願いします」と頭を下げてくれた。
ホームの職員さんたちは、ゼリー食にして誤嚥を防ぐことで、あと半年、1年と、母の寿命がつづくと確信しているようだった。
その確信にすがりつきたい、という気持ちである。
22日、夜、あん摩とROM訓練。
23日、従妹のトモちゃんを駅に迎えに行き、一緒にホームに。母はトモちゃんの話を嬉しそうに聞いていた。車椅子にのせて食堂に行った。母ははじめは勢いがあったのだけど、すぐに失速して眠ってしまった。
つづきは職員さんにお願いして、2人で飲みに行った。彼女も母の介護のお手伝いに来てくれると言ってくれた。
24日、あん摩とROM訓練。
28日、あん摩とROM訓練。 |
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手足のむくみがはじまった
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3月2日、あんずと一緒に夜7時半ごろホームに行った。母の右手と両足がむくんでいるのを発見した。両足ともどよ~んとむくんでいて、とくに右手はまるで点滴が漏れたみたいにパンパンに膨れていた。
あんずは「点滴されたんじゃないの?」などとベッドを探っていたけど、ホームでは点滴はしていない。
むくみを取るために古方あん摩ををやった。末端に向かって遠心性に手技をおこなう。マッサージは静脈血を心臓に送る求心性の手技で、効果が一過性である。調布病院でリハビリをやっていたときに、遠心性に「気」を流すと、そのあとも水分の排泄が促されて数日持つことを発見したのだった。
でも、なかなかすんなりとむくみが取れていってくれない。小さくはなったけど、取り切れなかった。
父が食道癌が肺に転移して再入院になったとき、毎週末、全身に古方あん摩をした。えんえんとやっていると、むくみがきれいに取れるのである。
でも最後に父に会ったとき、手足のむくみがひどくて、まるで水風船のように膨れ上がっていた。取っても取っても、あとからあとからむくんできて、いつまでたってもブヨブヨなままだった。むくみを取り切れないまま東京に帰ったのだけど、父が亡くなったのはその翌週だった。
そのことを思い出して不吉な予感がした。手足の激しい「むくみ」は死の前兆なのである。
チワワのティラをバッグに入れて病室に持ち込んでいた。ROMの間は母の車椅子の上にのせておいたんだけど、相変わらず声も出さず、身動きもしなかった。
坐位のリハビリのときに母の膝の上にティラをのせたら、母はモニョモニョと手を動かして撫でていた。犬は好きじゃないんだけど、「かわいい」と言ってくれた。 |
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痰が詰まって野村病院に救急搬送された
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3月4日、夜中にホームの看護師さんから電話があった。痰がゼロゼロしていて、酸素飽和度が90を切ったので、救急車を呼んで入院させたいとのこと。今度は三鷹の野村病院だった。自宅からそう遠くない。私はお酒を飲んでいたので、寝ていたポプラを叩き起こして運転してもらった。
ストレッチャーの上で酸素マスクをされていた母はほんとうにヤバそうだった。看護師さんたちが母の鼻から管を入れ、「あ、ヒットした」と言った瞬間、ズルズルズルッと痰が引けた。
在宅介護になったら、家族が痰を引かなくてはならないと言われていた。「これを覚えなくちゃならないんだけど、怖いですよね~」と看護師さんに言ったら、「そんなことありませんよ。痰にヒットするときの感触が気持ちいいんですよ。やった~!という感じで、ズルズルッと引けるんですよ~」と笑いながら言った。
当直の外科医がコンピューターの画像を見せてくれた。気管支にコロッとまあるい痰が見えた。
「気管にでっかい痰の塊が詰まっていました。肺はきれいですよ」と教えてくれた。とりあえず入院して、主治医が決まるのは翌々日の月曜日で、詳しい話はそれから、とのことだった。
去年調布病院に入院したときは、看護のレベルを上げてもらおうと思って、いろんな人に一生懸命に話をしたけど、なんだかもう気力が尽きていた。すでに病院には何も期待していない。このまま在宅になるのかもしれないな・・・と覚悟を決めた。
5日、夜8時半過ぎに病院に行った。酸素マスクは取れていたけど、母は眠ったままだった。点滴の腕以外のROM訓練をやった。手足のむくみは取れていた。点滴の量はごくわずか、とのことだったけど、そもそもホームでは点滴をしていない。とても不思議に思った。
6日、あんずと調布で待ち合わせ、のんきにお茶をして、いったん家に寄って、それから野村病院に行った。
受付の前で、『う、まずい!』と気がついた。もう5時を過ぎていたので、主治医には会えないだろうと思った。
案の定、「もう5時を過ぎたので、医師には連絡がつきません。後日、あらためて面談の予約を取ってください」と言われた。
『やっぱりな、老人の扱いなんてこんなもんだ』と、あらためて身に沁みながら病室に向かった。
母はひたすら眠っていて、話しかけても反応がなく、目も開けない。あんずと2人でリハビリをしていたら、看護師さんがやってきた。
ニコニコ笑顔で、母の人差し指を小さなクリップではさみ、酸素飽和度を測った。ポケベルぐらいの小さな画面にデジタル表示されるのである。
酸素飽和度は赤血球中のヘモグロビンが酸素と結合している割合で、90%以下になると、酸素が足りない危険な状態なのだそうだ。
看護師さんは「ゼロゼロしてますね」と、鼻から管を入れて痰を引いてくれた。93だった酸素飽和度がだんだん下がっていって86になった。
「痰を引くと苦しいのでいったん下がるけど、すぐもとに戻るんですよ」と教えてくれた。
私が「在宅になると、家族が覚えて痰を引かなくちゃならないらしいけど、とてもできそうにありません」と言うと、「大丈夫ですよ。すぐに覚えられますよ。慣れると『ヒットした』感覚が快感になるんですよ」と笑って言った。
「お年寄りは動きが少ないので、93もあれば充分です。91で落ち着いている方もいらっしゃいますから、大丈夫ですよ~」と、いろいろ教えてくれた。
素朴でほがらかで親切で、まさに「白衣の天使」のよう。救われた思いがした。
何の要求もしていなかったのに、昼食からちゃんと食事が出ていた。昼食はゼロだったそうだ。
運ばれてきたゼリー食は品数が多くて、とてもゴージャスだった。味見をしてみたらとても美味しい。バナナケーキにフルーツもあった。
母は目も開けずにスプーンに食らいついていた。ちょうふの里の1、5倍ぐらいの量だったけど、ご飯をちょっと残して完食した。久しぶりの食事なので、そうとうお腹がすいていたようだ。
食事の途中でニコニコ笑顔の男性がやってきて、名札を見せながら、「私が主治医の佐藤です」と言った。「お食事食べられているかな?と気になって、様子を見に来たんですよ」と言うのである!「あ、食べられてますね」と、とても喜んでくれた。
お医者さんも優しくてフレンドリーで温情があった。この病院は「天国」のようだと思った。母を「人間」として見てくれていた。
野村病院は訪問診療をやっているので、在宅介護にそなえて連絡をしなくちゃと、ずっと思っていた病院である。包括支援センターの職員が一押ししただけのことはある。入院をきっかけに、在宅になったときの道筋ができるかもと期待した。
でも主治医に聞いたら、訪問診療をやっている医師が3月で退職するので、再開の目途がたっていないそうである。
「最後は在宅で看取るつもりなんです」と主治医に言ったら、「そうですね~ この状態ですからね~」と、優しいまなざしで母を見つめた。
患者を「人」として見てくれ、人それぞれのニーズを理解しようとしてくれる。その人にとって何が一番かを考えてくれる、「想像力」を持った医療従事者に出会え、救われた思いがした。
「いつでも退院できますよ」とのことなので、ホッと安心した。
食事のあと、母を車椅子に坐らせて病院内を探索した。母はずっと目をつぶったままだった。廊下の片隅で、あんずが「ばあちゃん、かわいい孫娘の顔が見たくないの!」と言ったら、母はかっと目を見開いた。このチャンスに写真を撮った。
これが母の最後の写真になった。痩せこけてしわくちゃのおばあちゃんだったけど、私はこの姿が一番好きだった。苦しみに耐え抜いた母の姿は立派で、「崇高」ともいえるオーラをまとっていたのである。
7日、野村病院で「入院」の手続きをした。ROM訓練をしたとき、母の手足はむくんでいなかった。ちょうふの里に電話をして退院の日にちを決め、野村病院に伝えた。 |
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手足のむくみがひどくなって不吉な予感が・・・
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 3月9日、野村病院を退院し、ちょうふの里に戻った。あん摩とROM訓練。
10日、あん摩とROM訓練。
 14日、夜、食堂に母を迎えに行くと、車椅子に坐った母はしっかりしていて、目をパッチリ開けていた。会話もしっかり通じた。
ベッドに寝かせてROM訓練をした。両足と左手がむくんでいたので、むくみを取るために念入りに古方あん摩をした。母はずっとゴー、ゴーと音を発していた。痰がからんでいて、なんとか出そうとしたんだけど、吐き出す音は聞こえなかった。
15日、あん摩とROM訓練。母はしっかりしていたけど、左手と両足がむくんでいた。
17日、あん摩とROM訓練。今度は右手、そして両足がむくんでいた。「ご飯食べられた?」ときいたら、母は「食べられなかった」と大きな声をふりしぼって答えた。
(これが母から聞いた最後の言葉になった)
18日、あん摩とROM訓練。右手のむくみは取れていたけど、両足がむくんでいた。母は痰を出そうと、ずっとゴーゴーを発していた。「がんばって、ガーッと痰を出すんだよ」と何度も声をかけたのだけど、吐き出す音は聞こえなかった。
19日、あん摩とROM訓練。母の両足がむくんでいた。帰りに職員さんに母の手足のむくみのことを話した。職員さんは「えっ?」と驚き、そんなことは考えたこともない風だった。
私はリハビリなので、母の身体をスミからスミまで調べて、異常があったら治療をする。鍼灸師として、それが私の仕事である。
職員さんたちは、食事、水分摂取、排泄、清潔など、別の観点から母の介護をしている。職種が違うと、着眼点が違うらしい。
21日、夜7時ごろ、出かけようとしたとたん、ものすごい雨がザーザー降ってきた。バイクで行くとカッパの置き場所がない。何度も外を眺めたんだけど、ゲリラ豪雨が降りつづいた。『明日にしよう』と、出かけるのをやめた。1時間ほどで雨は止み、帰宅のときにはすっきり晴れていた。 |
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そして、母はホームで逝ってしまった |
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3月22日、ゲリラ豪雨であきらめて帰宅したあと、夜中にちょうふの里から電話があった。「1時に見回ったときは息をしていたんですが、2時に見回ったときは息をしていらっしゃらなくて」とのことだった。「救急車を呼んで、搬送先の病院を探しているところです」と言うので、「野村病院にしてください」とお願いした。相手がうっと言葉を失ったので、『もう死んでいるんだろうな・・・』と思った。
しばらくしたらまた電話があって、調布病院に搬送されたとのことだった。
ポプラを起こしたら、「明日は仕事だ!」と怒鳴られた。『もう必要ないんだろうな・・・』と思いながらも、一応入院グッズをバッグに詰めた。
調布病院は真っ暗だった。バッグを車に置いて外に出たら、入口のところで救急隊員が立っていて、私の到着を待ってくれていた。不吉な予感がした。
彼に伴われて診察室に入った。酸素マスクもなしにストレッチャーに寝かされていた母は、小さく縮んだ屍になっていた。「生ける屍」とはあきらかに違っていた。ついに逝ってしまったのだ。
待合室に戻ると警察官が来ていた。ホームで亡くなったので、警察で検視をするとのこと。私は「ちょうふの里の職員さんはほんとうに熱心に母の介護をしてくれたんですよ。でも手足のむくみもあったし、もう長くないと覚悟をしていました」と話した。
母の担当介護士のUさんがわざわざ来てくれ、「すみません」と頭を下げた。とても眠そうな目をしていたので気の毒になって、「一生懸命に母の介護をしてくださって、ほんとうに感謝してます」とお礼を言った。
手続きが済むまで待合室のベンチに座って、子どもたちに母が亡くなったことを報告した。弟にも電話をしたら、「まさか、こんなに早いとは!」と寝言を言った。
警察官に、「調布警察で午前中に検視をします。混んでいるので、終わる時間は未定です。連絡したらすぐに、お棺を持って遺体を引き取りに来てください」と言われた。いそいで葬儀の段取りをしなくちゃならない。
呆然と家に帰ったら、ティラが大喜びして、ピョンピョン跳ねてお出迎えをしてくれた。フワフワの仔犬を抱きしめて、耳の飾り毛に顔をうずめた。在宅介護の癒しになると思って飼った犬が、悲しみと喪失感を癒してくれたのである。
ポプラがいないので電話をしたら、なんと歩いて調布病院に向かっているとのこと。「遺体は警察署に運ばれたから、病院に行っても無駄だよ」と教えてあげた。ほんとうにおバカである。 |
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後日談をちょっとだけ
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手足の激しいむくみはやはり「死」の前兆だった。痰のからみとむくみには相関関係があるらしい。
最後の2カ月、母には痰を吐き出す筋力がなくなっていた。ゴー、ゴーと唸る声が聞こえただけで、吐き出す音は1回も確認できなかった。
粗刻みの食事を食べるときには、しっかり噛まなければならない。それが筋力の維持につながる。ミキサー食やゼリー食だと噛まなくてもツルリと飲み込める。噛まないでいるうちに筋力が低下し、痰を吐き出す力がなくなった。
気道に痰が蓄積して、酸素の量が足りなくなる。末端まで酸素が行きわたらなくなって、細胞が機能低下に陥り、手足がむくんでしまう。「水毒」である。
野村病院に入院中は、しょっちゅう酸素飽和度を測定し、痰を引いてくれていた。呼吸が安定していたので、手足のむくみがなかったのだろう。
母を在宅で介護するときは、美味しい食べ物で幸せを感じてもらおうと思っていた。家族の介護だと、「親に美味しいものを食べさせたい」という思いが強くなるので、誤嚥や、食べ物を詰まらせるリスクが高くなるのだ。
施設ではそのリスクを回避して、形ある食事を食べさせない。そうなると、筋力の低下というリスクが生じる。痰を吐き出すことができなくなって、気道に痰が蓄積して、呼吸不全になるリスクが生じるのである。
3月23日、ちょうふの里に退所の手続きに行った。相談員のKさんにバッタリ会って、「まさか、こんなに早く亡くなるとは!あと1年ぐらいがんばってくださると思っていたのに」と涙ぐんでいた。
ホールで相談員のSさんが待っていた。「まさか、こんなに早くとは!だったら、お寿司とか好きなものをもっと食べさせてあげたかった。そんな後悔をしています」と、しょんぼりしながら優しいことを言ってくれた。
「でも仕方ないんですよ。職員さんは誤嚥のリスクを考えなくちゃなりません。2カ月ぐらい前から、母が痰を出そうとしても、ゴー、ゴーと音が出るだけになっていました。たぶん、噛まなくなったせいで喉のまわりの筋肉が落ちてしまい、痰を吐き出す筋力が低下したんだと思います。
「2週間前から母の手足のむくみがひどくなって、もう終わりが近いのかもしれないと恐れていました。たぶん、肺や気管にちょっとずつ、ちょっとずつ、痰が蓄積したんでしょう。気道が狭くなって、脳への酸素の流入量がちょっとずつ減っていって、眠るように亡くなったんだと思います。母は苦しまずに逝けたはずです」
言いながら涙があふれてきた。Sさんも涙ぐんで、黙って私の話を聞いてくれた。
「在宅で介護をすれば、私がいろんなものを食べさせようとしたでしょう。喉に食べ物を詰まらせて死んだかもしれません。どちらのリスクを選ぶかは立場によって違います。
「最後まで口から食べることができ、苦しまずに逝けたんです。職員さんたちのおかげと感謝しています。本当にお世話になりました」
頭を下げた私に、「そうおっしゃってくれると、とてもありがたいです」と、Sさんも頭を下げてくれた。
お互いに「神」ではない。何度も何度も話し合って、それしかできなかった、というギリギリの選択だった。母のためにとそれぞれが一生懸命にやった結果なのである。
テーブルの横には母の荷物の入ったダンボールが山と積まれていた。「これを寄付したいんですけど」と言ったら、「それはできない規則になっています」と断られた。
(平の職員さんだったらこっそり受け取ってくれたかもしれない)
後日、サクラさんに寄付の話をしたら、「嬉しいわ~、ご利用者さんの中には貧しくて着替えも足りない方がいっらっしゃるのよ。何よりも、車椅子用のエアクッション、どうしても欲しいわ~」と興奮して叫んだ。
でも荷物の中にエアクッションは入っていなかった。介護する人にとっては垂涎の宝物なのだろう。でも自分のためじゃない。お年寄りのことを考えてことなのである。
結局サクラさんのホームには送らずに、母の衣類やバスタオルの中で、きれいなものを選んで、母の友人のエミちゃんに貰ってもらった。でっかく名前が書いてあるので気が引けたんだけど、エミちゃんはとても喜んでくれた。
「お母さんの名前が書いてあるのが嬉しいのよ。まるでお母さんと一緒にいるみたいな気持ちになれて、『みっこちゃ~ん』と声をかけながら、抱いて寝てるのよ~
「お彼岸に亡くなる人は運がいい人、と昔から言われていたけど、お母さんはほんとうに運のいい人だと思うわ。良子ちゃんに一生懸命やってもらって、みっこちゃんは幸せだったと思うわよ」と言ってくれた。 |
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愛がすべて!
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調布病院を退院してすぐ、母が食べる能力があったときに自宅に連れていけばよかったのかもしれない。どうせ寝たきりなのだから、汚い家に連れ帰って、介護をしながら模様替えをするという方法もあった。
でも母は潔癖症なほどのきれい好きで、うちに来ると、台所から家電から、あらゆるものをピカピカに磨き上げ、「お前、こんなに汚くして!」と小言を炸裂したのである。おまけにプライドが高いので、見舞客にみじめな家を見せたがらないことも分かっていた。
ティラを飼ってしまったのも失敗だった。私の潜在意識に在宅介護を回避したいという願いがあったのだろうか?とも悩んだ。 分からんチンの仔犬の世話で模様替えが中断し、母をホームで死なせることになってしまったのだもの。
犬を飼ったのは「失敗」だったかもしれないけど、てんやわんやが喪失感を紛らわせてくれた。弟夫婦に調停にかけられ、2500万円も請求された。『借金を背負わなくちゃならないのかな?』と悩んだ眠れぬ夜、怒りで眠れなかった夜も、何度もティラを抱き寄せて慰めてもらったのである。
そして今も、ティラはうちの家族や患者さんたちの癒しになってくれている。
母が死んだのがコロナ自粛の前でほんとうに良かった。自由にお見舞いに行けたから、母は植物人間にならずにすんだのである。
母をスシローに連れていかなければ、マイコプラズマに感染することはなかっただろう。外食にはリスクが伴う。感染症や交通事故、転んで怪我をするかもしれないし、食べ物を詰まらせて窒息するリスクもある。
でも、家族と一緒の外食という楽しみもないまま、施設の中でただ生き長らえたいと望むお年寄りはどれだけいるだろう?楽しんで生きて、そしてぽっくり死にたいというのが多くの人の願いなのだ。
ゾンビになる直前まで、母と私はケンカ状態だった。あのときに母に死なれていたら、「後悔」でその後の私の人生は真っ暗闇だっただろう。6年半に及ぶ介護はほんとうに大変だったけど、介護させてもらえてほんとうに良かった。
もっとちゃんとやれる人はたくさんいるだろうけど、 「充電期間」のページでも触れたように、私にはこれが精一杯だったのだ。
母の死に顔はとても安らかだった。
母にとっては「家族」と「子ども」が一番大切だった。息子にはゾンビにされたけど、娘が愛してくれた。会いたがり屋の父のために年に2カ月は実家に帰省した。母が世話をした孫たちも一生懸命、できるだけのことをしてくれた。
愛した人間が自分を愛してくれる・・・、これほどの幸せがあるだろうか?
母の死の直前に、出かけようとしたタイミングで降ったゲリラ豪雨。そのときに行っていれば、亡くなる直前の母に会えたのに・・・と何度も後悔した。
でも今になって思う。私が行って古方あん摩でむくみを流せば、もう数日は母の命がつづいたかもしれない。そうやって苦しみが長引いてしまう。
ゾンビになってからの6年半、苦しみに耐えてがんばってきた母は、生きることに疲れ果て、もう終わりにしたかったのかもしれない。もしかしたら母の想念が雨を降らせたのかもしれない?
「肉体」という牢獄から解放されて、母はやっと自由になれたのだ。胸に「愛」と「希望」を抱いて、天国に旅立っていったのである。 |
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補足:調停の話をちょっとだけ、ブログから |
① |
→ 1回目の調停で「泥棒」と訴えられた
実家の鍵を壊して金庫を盗んだ・・・私を悪人に仕立て上げようとした「嘘」で、自分たちが悪人とバレた |
2018/12/29 |
② |
→ 悪徳(?)イケメン弁護士と対面
私が提出した書類の目録。(前回送付済みの)帳簿について質問があるという弁護士と話した |
2019/4/20 |
③ |
→ 弟の弁護士の「意見書面」
母の健康と幸福は無視して、誹謗中傷と嘘だらけの「意見書面」に調停員さんたちも不快な表情 |
2019/5/26 |
④ |
→ 調停が・・・いきなり・・・終了!
資料をそろえ終わり、裁判にと意気込む私だったが、裁判官が最も私に有利な「半々」にしてくれた |
2018/7/1 |
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Updated: 2024/1/31 |
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